今週の読書感想文は以下の通り、経済書のほかいろいろ読んで計6冊です。
まず、小田切宏之『競争政策論[第3版]』(日本評論社)は、大学の教科書としての活用を念頭に置きつつ、競争政策の経済学的な理論面だけではなく、公正取引委員会の審判や裁判の判例などを加えて、実例も豊富に収録されていて、一般のビジネスパーソンなどにも理解がはかどる内容となっています。森永卓郎・神山典士『さらば! グローバル資本主義』(東洋経済)では、共著の形ながら著者の1人であるアナリスト森永卓郎さんの絶筆ともいえ、一極集中で限界に達しつつある東京を離れたトカイナカの生活を語り、また、1985年JAL123便墜落をターニングポイントに、日本はことごとく米国の要求に従わざるを得なくなった、と主張しています。ジョディ・ローゼン『自転車』(左右社)では、200年前に発明された自転車についての自転車誌として世界各地の自転車に関する歴史と情報を、自転車を愛するジャーナリストが取りまとめています。馴染み深いアジアの情報もたくさん盛り込まれています。古藤日子『ぼっちのアリは死ぬ』(ちくま新書)では、実験で群れから引き離されて、孤立させられたアリはすみっこにいるようになり、果ては死んでしまう、という実験結果につき、その原因、というか、経緯を分子生物学で明らかにしようと試みています。ただ、アリは社会性あるとはいえ、人間に応用するにはムリがあるように感じました。石田祥『猫を処方いたします。 4』(PHP文芸文庫)は、京都市中京区麩屋町通上ル六角通西入ル富小路通下ル蛸薬師通東入ルにあり、なかなかたどり着かない「中京こころのびょういん」のニケ先生と看護師の千歳さんが、訪れる患者に薬ではなく猫を処方するシリーズ第4弾です。貴戸湊太『その塾講師、正体不明』(角川春樹事務所)では、中高生への個別指導を提供する学習塾の一番星学院桜台校に勤めている正体不明のアルバイト講師の不破が、中学生塾生の一番星(バンボシ)探偵団とともに、塾周辺で起きている連続通り魔事件の犯人解明に挑みます。
今年の新刊書読書は1~5月に137冊を読んでレビューし、6月に入って先週と先々週で15冊、そして、今週の6冊を加えて計158冊となります。半年足らずで150冊超ですので、今年も年間で300冊に達する可能性があると受け止めています。なお、最近のコメ問題の勉強、というか、授業準備として、小川真如『日本のコメ問題』(中公新書)も読んでいます。2022年6月と3年ほど前の出版であり、新刊書ではないと思いますので、本日のレビューには含めていません。『日本のコメ問題』も含めて、これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。
![小田切宏之『競争政策論[第3版]』(日本評論社) photo](http://pokemon.cocolog-nifty.com/dummy.gif)
まず、小田切宏之『競争政策論[第3版]』(日本評論社)を読みました。著者は、一橋大学名誉教授であり、ご専門は産業組織論などとなっています。本書の初版は2008年、第2版は2017年に、それぞれ出版されており、昨年2024年に第3版が出ています。出版社からして学術書と考えるべきですが、出版社のサイトでは初級のテキストと位置づけられているようで、15回の大学の半期の授業を考慮して13章構成となっていますし、それほど難易度が高いわけではありません。一般のビジネスパーソンでも無理なく読みこなせることと思います。加えて、経済学的な理論面だけではなく、公正取引委員会の審判や裁判の判例などを加えてあり、実例も豊富に収録されていて、さらにいっそうビジネスパーソンの理解を進めてくれることと想像しています。私の専門はマクロ経済学であり、本書のようなマイクロな経済学はそれほど詳しくありませんが、読んでみて十分理解できると感じました。競争政策に関しては、まず、いわゆる厚生経済学の基本定理として、市場が競争的であればパレート最適な資源配分が達成される、というのがあります。要するに、競争市場は効率的なわけであり、逆に、競争制限的、典型的には独占やカルテルの存在は経済的な厚生を損なう、というわけです。他方で、資本主義的な経済では契約や営業の自由があります。厚生経済学の効率性というのは、そういった自由を制限するための公共の利益や公共の福祉があるわけです。その理論的な基礎と実例を本書では扱っています。特に、本書が版を重ねているのは、グローバル化の進展により競争政策の地平が広がり、さらに、最近のデジタル化によって、GAFAやプラットフォーム企業などの新たなビジネスモデルが現れたからといえます。総論としてはそういうことになり、詳細は読んでいただくしかありません。ということで、マイクロな経済学にそれほど専門性ない私の目から見て、独占市場に対する参入障壁が低い場合にコンテスタブル市場となって競争条件が整備される、また、プラットフォーム企業の競争をマルチサイド、というか、主として2サイドで見る、なんて点については知っていましたが、今回の読書でいくつか深まった点は以下の通りです。第1に、カルテルや談合における課徴金減免制度=リニエンシー制度、すなわち、内部告発のような形で、カルテルや談合の参加企業が自ら公正取引委員会に情報提供すると課徴金減免を受けられる制度なのですが、これは、いわゆる情報の非対称性を理論的根拠とすると教えられているようです。シロートながら、なるほどと感じた次第です。第2に、異なる財の間で代替性を測る需要の交差弾力性により競争関係は理解できるというのも新たな発見だったかもしれません。これも、シロート丸出しです。第3に、企業の合併や原価割れ販売にさまざまなケース、場合によっては十分に経済合理的で厚生を高める可能性あるケースがあることも勉強になりました。また、ネット接続などにおける不可欠設備の概念もよく整理されていました。最後に、研究開発やイノベーションについては、それなりの規模で市場支配力を有する企業の方が活発である、というシュンペーター仮説は、やっぱり、正しいと私は思います。

次に、森永卓郎・神山典士『さらば! グローバル資本主義』(東洋経済)を読みました。著者は、今年2025年1月に亡くなった経済アナリストとノンフィクション作家です。森永本については、もう打止めと思っていたのですが、東洋経済から本書が共著の形ながら出版されましたので読んでみました。もちろん、基本的な主張は従来と変わりありません。トカイナカでつましく暮らし、一極集中で限界に達した東京からの脱出を語っています。私自身は2020年に東京を脱出しましたが、その後の5年余りで東京に限らず、日本に限らずのインフレが起こり、東京での生計費そのたは暴力的な上昇を続けています。特に本書の前半2章では、この一極集中とトカイナカへの脱出に焦点を当てています。東京では、教育と住宅がとてつもなく負担感を強め、さらに、国有地の払下げでメディアを東京に集中させ、情報まで一極集中してしまった現状を分析しています。ただ、私も子どもを東京に残して東京を脱出して故郷の関西に戻りましたが、脱出できる人とできない人がいる点は忘れるべきではありません。加えて、本書でもトカイナカはユートピアではないと明確に記している点も忘れるべきではありません。私のような半分引退した人間だけができるぜいたくかもしれません。とはいえ、私が大きく目からウロコを落としたのは第3章の1985年に起きたJAL123便墜落の見方です。従来から、1985年の日航機事故はボーイング社の整備の不手際によるものではなく、自衛隊機のミサイル誤射が原因という主張は見かけましたが、その発展形については私の理解が及んでいませんでした。この自衛隊による墜落の事実を米国に握られ、それをターニングポイントに日本はことごとく米国の要求に従わざるを得なくなった、という発展形を初めて理解しました。たとえば、1985年のプラザ合意による猛烈な円高の進行、そして、製造業の衰退、さらに、21世紀に入ってからの構造改革や新自由主義的な経済政策による格差拡大があり、それらの米国からの要求に加えて、財務省による緊縮財政が日本経済の現在の苦境をもたらした、という見方です。私自身は日航機事故の真実に関して何ら情報を持ち合わせませんので、本書が指摘するように、米国との関係について日航機事故が大きなターニングポイントになったかどうかについては不明です。ただ、戦後一貫して日本は米国に従属を強めており、目下の同盟者として米国の意に沿った政策運営を続けていますので、今さら、日航機事故がどうであれ関係ないような気もします。最後に、本書では政策レベルで対応すべき点に対して、個人レベルの対応で済ませよう、済ませるべき、としている点がいくつかあり、私は少し疑問を持っています。財務省の緊縮財政に対する反対はそれはそれでその通りなのですが、東京一極集中に関してはトカイナカなどを持ち出して、個人レベルでの対応を推奨してるかのごとき印象を受けます。これには私は同意できません。東京一極集中に対する政策対応を考えるべきです。この点は、現在のコメ問題にも通ずるものを感じます。コメ不足に対して家計レベルでの対応は限界があります。その昔の「欲しがりません、勝つまでは」を思い起こさせるような個人レベルでの対応の必要を論じるケースには、大いに眉につばして対応すべきであると私は考えています。

次に、ジョディ・ローゼン『自転車』(左右社)を読みました。著者は、米国のジャーナリストであり、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』などに音楽批評を寄港しているそうです。本書は、索引や注を含めると500ページ超の大作です。自転車を愛するジャーナリストによる自転車誌、自転車史となっています。まず、現在から約200年前に発明された自転車の歴史を簡単に概観しています。馬車のじゃまになるという観点から自転車を禁止した歴史から、200年後のコロナ禍での自転車によるデモ行進まで、とても興味深く、私なんぞの知らなかった歴史がひも解かれています。中国が1980年代の自転車大国から一転して自動車大国に至る転機に、天安門事件における自転車の果たした役割が重要であった点は刮目させられるものがありました。しかも、歴史の上での自転車に関するホラ話にも言及しています。レオナルド・ダ・ヴィンチが自転車の原型をなすスケッチをしたためていた、などです。また、自転車を実用性の面からだけではなく、見栄えの面からも評価しています。ただ、性的対象というのはやや行き過ぎの感を否めませんでした。第5章では、19世紀終わりの自転車狂の時代を象徴するメディア記事を大量に収録しています。その上で、というか、それらに交えて、世界各地の自転車について語っています。バングラデシュの過酷なリクシャの生活実態と仕事の実態、ブターン国王の自転車好き、などなど、我々日本人の身近なアジアのエピソードも豊富に収録しています。凍てつく零下30度の地での自転車については、とてもびっくりしました。タイタニック号にエクササイズ向けの自転車マシンがあったというのも初めて知りました。米国の200年紀=バイセンテニアルに因んで、バイクセンテニアルという行事があったのは、どこかで聞いた気がしましたが、詳細に語られていて印象的でした。そして、本書では決して自転車のいい面だけに着目しているわけではありません。最後の方では、自転車の墓場として廃棄が取り上げられます。パリのサンマルタン運河で水を抜いた際だけに知ることができる自転車の投棄の実態などなどです。さらに、植民地における自転車の負の役割についてもスポットが当てられています。単に自転車を賛美するだけでなく、こういった疑問も忘れずに取り上げています。ということで、日本でも自転車に乗る人はいっぱいいます。本書では、自転車は天気に勝てないと指摘していますが、私の知る限り、東京では短距離なら原則移動は自転車、雨が降ったらカッパを着てでも自転車、という人が決して少なくありませんでした。私の印象としては主婦の割合が高かったように記憶しています。私は雨の日はダメですが、自転車には乗ります。クロスバイクとロードバイクの2台を持っています。今週は梅雨の中休みでいいお天気が続きましたので、大学への出勤は自転車が多かったです。というか、月曜日以外は自転車で出勤していました。ただ、自転車、特にスポーツバイクに関しては1点だけ疑問があり、タイヤが細くて集合住宅などの自転車置き場のレールにうまく収まらないので、自宅内に持って入る人を見かけます。理解しなくもありませんが、やや過剰な取扱いと感じなくもなく、「王より飛車を可愛がり」という将棋の格言を思い出してしまいます。

次に、古藤日子『ぼっちのアリは死ぬ』(ちくま新書)を読みました。著者は、東京大学大学院の薬学研究科を卒業した後、現在は国立研究開発法人産業技術総合研究所主任研究員としてアリの社会性研究を行っています。はい、これまた、私の専門分野である経済学からは遠く離れているような気がしますが、ハチと同じように社会性を持つ昆虫ですし、大学の図書館で誰か先生が推薦していたので借りて読んでみました。はい。結論はすごくシンプルであり、本書のタイトル通りです。実験で群れから引き離されて、ひとりぼっちにされたアリは死んでしまう、ということです。しかも、その孤立させられたアリはすみっこにいるようになり、果てに死んでしまう、ということで、その原因、というか、経緯を分子生物学で明らかにしようと試みています。学術的な中身については私は十分に理解した自信はありません。ただ、いくつかの点で自然科学だけでなく社会科学の観点から疑問に思うところがあります。まず第1に、、少なくとも、社会性、それも、真社会性があるとはいえ、アリの研究をそのまま人間社会に当てはめるのはムリだということです。当たり前です。人間は、ロビンソン・クルーソー的な状態に置かれてもそうそう早くすぐに死ぬことはありません。まあ、ロビンソン・クルーソーもフライデーという仲間が後にできるわけですが、1人になってもたくましく生き延びようと努力します。フィクションの小説とはいえ、生き延びようとする努力は真実に近いといえます。第2に、ぼっちのアリが死ぬクリティカルマスについては言及ないのが不思議です。1匹なら死ぬというのは実験で確かめられたとはいえ、2匹ならどうなのか、3匹ならどうなのか、といった形で、アリが死なないクリティカルマスについても知りたい、というのが私の疑問です。第3に、死因について私は理解がはかどりませんでした。活性酸素と酸化ストレスなのだそうですが、それを人間になぞらえることができるかどうか、私はキチンと読み取れた自信がありません。また、すみっこに行くという事実と死因が何らかの関係あるのか、ないのか、この点についても私が読み逃しているのかもしれませんが、特段の言及なかった気がします。いずれにせよ、本書冒頭で主張されているように、社会的な孤立が健康に悪影響を及ぼす、というのがたとえ事実であるとしても、本書の論証ははなはだ不足しているといわざるを得ません。加えて、アリにはないであろう心因性の死因が、直接の原因ではないとしても、人間にはありそうな気がします。この点も考慮する必要があるように思います。

次に、石田祥『猫を処方いたします。 4』(PHP文芸文庫)を読みました。著者は、京都ご出身の小説家です。本書もすでにシリーズ第4巻となりました。京都市中京区麩屋町通上ル六角通西入ル富小路通下ル蛸薬師通東入ルにあり、なかなかたどり着かない「中京こころのびょういん」のニケ先生と看護師の千歳さん、さらに、京都市内の外れにある『保護猫センター都の家』の副センター長の梶原友弥などがレギュラーの登場人物であり、この第4巻は4話の短編を収録しています。第1話は、スマホ中毒、スマホ依存症のような11歳の小学生、稲田海斗が患者として、母親に連れられてやってきます。「先生に診てもらって治ったそうです」と母親が紹介者について話すと、「あはは。そんなアホな」とニケ先生が応じたりして軽妙な会話が交わされます。あんずという名のメス12歳、アメリカンショートヘアの老猫が処方されます。第2話では、自分のことを可愛くないと考えるルッキズムに陥った女子大生の荒川凪沙がやってきて、ナゴムという名の6歳のオス、エキゾチックショートヘアを処方されます。第3話では、建築現場で働く夫の陣内宗隆を持つ陣内サツキが主人公です。陣内サツキは50代後半でもう孫もいる年齢なのですが、数年前に死んだ愛猫のチャトが忘れられず、『保護猫センター都の家』に来ても、保護猫を引き取れません。夫の陣内宗隆が「中京こころのびょういん」に行って、ニニイという名の推定2歳の雑種メスを陣内サツキ向けに処方されます。第4話では、鳥井緑26歳と青21歳の姉弟が主人公です。青井緑が名称未定ながら、処方された後にシロと呼ぶようになった3か月のカオマニーの子猫を処方されますが、5日の処方期間だけでは返却されません。この最終話ではブリーダーがネコの大量死を招いた中京ニーニーズの事件について、情報が開示されます。最後の最後で、「中京こころのびょういん」が入居しているビルの取壊しの話が出てきます。さて、第5巻ではどうなりますことやら。

次に、貴戸湊太『その塾講師、正体不明』(角川春樹事務所)を読みました。著者は、ミステリ作家なんですが、学園ミステリ『ユリコは一人だけになった』で第18回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞し、2020年に改稿作品『そして、ユリコは一人になった』にて小説家デビューしています。最新刊は『図書館に火をつけたら』であり、それについては最近読んでレビューしたので、その前作の本書を読んでみました。舞台となるのは個別指導塾の一番星学院桜台校です。中高生を対象にしていて、室長の他に正社員講師が2名、そして、本書の主人公である不破勇吾はアルバイト講師28歳ですが、もちろん、不破勇吾の他にもアルバイト講師がいます。アルバイト講師は多くが大学生でタメ語で話して親しみやすいのですが、主人公の不破勇吾は前職不明の社会人で、しかも、タメ語では話さずに冷たく恐ろしい雰囲気を持っています。ただし、この不破勇吾の正体を明らかにすることが謎ではありません。不破勇吾の正体は第1話で早々に明らかにされます。ですから、謎解きの対象は一番星学院桜台校の周辺で起きている連続通り魔事件であり、最後は殺人事件まで起こってしまいます。本書はその謎解きに中学生の塾生たちの一番星(バンボシ)探偵団が挑み、最終的には塾生の探偵団と主人公の不破勇吾で謎を解き明かすことになります。3話から成る連作の短編集ないし中編集なのですが、単なる連続通り魔の犯人探しというミステリの要素だけでなく、学校ではないとはいえ学習塾を舞台にしていますので、大学受験や高校受験あるいは生徒の進路、親による教育虐待、学校と学習塾のいじめなどなど、学校と教育と生徒を取り巻くさまざまな社会的問題にも注意が払われています。ただ、一番星学院桜台校の関係者、すなわち、不破をはじめとする塾講師や室長、生徒とその親が主要な登場人物ですので、ミステリとしては限られた人間での犯人探しですから、犯人の動機の点などでやや底が浅い気はします。その分、でもないのでしょうが、教育問題をいっぱい盛り込んだ社会派の力作ミステリといえます。
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