今週の読書感想文は以下の通り計8冊です。
まず、トマ・ピケティ『平等についての小さな歴史』(みすず書房)では、10年ほど前の『21世紀の資本』で世界を席巻したエコノミストが、人類の進歩における平等の役割を論じ、続いて、平等へと進む歴史を概観し、最後のに平等の達成に向けた政策や目標を取り上げています。妹尾麻美『就活の社会学』(晃洋書房)では、聞き手への忖度に基づいて、企業やメディアが求める学生像に合わせて「やりたいこと」をいかにも自発的に語らされる就活を社会学的に分析しています。ブライアン・クラース『なぜ悪人が上に立つのか』(東洋経済)では、権力と指導者について論じていて、サイコパスのような独裁者が権力を握るのを防止し、模範的な指導者が権力に就くようにするための方策が10点に渡って提案されています。スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』上下(文藝春秋)では、主人公のビリーが40代半ばにして引退を決意し、自叙伝ともいえる小説を書き始める一方で、とても報酬のいい最後の仕事を請け負うところから物語がスタートします。朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班『限界の国立大学』(朝日新書)では、取材班が2004年に導入されて20年を迎える国立大学法人化の首尾につき、アンケートやインタビューを駆使した取材結果に照らし合わせて結論を得ようと試みています。竹中亨『大学改革』(中公新書)では、法人化されて20年を経過した国立大学を主たる対象として日本とドイツの大学改革について基本となる理念や理論的背景を含めて解釈と解説を試みています。鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社新書)は、やっぱり、NHK大河ドラマのお勉強として読んでいまして、話題となっている蔦屋重三郎についての教養書です。特に、文化史の背景が詳しいです。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに16冊を読んでレビューし、本日の7冊も合わせて23冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、櫻田智也『蝉かえる』も読んだのですが、2020年出版で新刊書読書ではないと考えられますから今週のレビューには含めず、すでにFacebook、Twitter、mixi、mixi2で取り上げておきました。

まず、トマ・ピケティ『平等についての小さな歴史』(みすず書房)を読みました。著者は、10年ほど前の『21世紀の資本』で世界を席巻したフランス人エコノミストです。本書のフランス語の原題は Une Brève Histoire De L'Égalité であり、2021年の出版です。本書は10章から成っており、冒頭の2章で人類の進歩における平等の役割を論じ、その後、タイトル通りに平等へと進む歴史を概観し、最後に平等の達成に向けた政策や目標を取り上げています。まず、分析の視角として、平等に関する、というか、不平等を形成してきた歴史の中で果たした闘争とパワーバランスの重要性に着眼しつつ、闘争とパワーバランスだけに不平等の是正や平等の達成を委ねる両極端な見方を排しています。かつて土地持ちといわれた不動産所有を基盤とする不平等から、マルクス主義的な生産手段所有を基盤とする不平等、そして、最近では金融資産所有を基盤とする不平等までを視野に入れ、もちろん、その上で不平等をもたらす要因として、所得、そして、その所得の基礎となる学歴、年齢、職業、性別、出身地あるいは出身国、などなどの要素をあげています。個人ではなく、国レベルの不平等については、当然、産業革命が起源となります。ポメランツ『大分岐』などを引いています。そして、経済社会基盤としては個人間では奴隷制、国レベルでは植民地主義などが不平等をもたらす歴史を概観しています。もちろん、歴史的に一直線に不平等が拡大してきたわけではなく、米国のリンカーン大統領による奴隷解放、その前の歴史的イベントとしてのフランス革命による身分制の廃止などがあります。しかしながら、現在の民主主義も、元はといえば、納税額などにより不平等を容認した選挙制度から始まっています。女性まで参政権を拡大したのはそう昔のことではありません。そして、本書では、第1次世界大戦が始まった1914年から欧米で新自由主義政権が相次いで樹立される1980年までを「大再分配」と名付けて第6章で分析しています。その主要な政策手段は、課税前所得の格差を縮小させる累進課税と社会国家を上げています。私はやや不案内なのですが、本書でいう「社会国家」というのは、福祉国家に近い概念と受け止めました。もっとも、それほど自信があるわけではありません。加えて、歴史的な事実として、累進課税が普及してもイノベーションや生産性向上が阻害されることはなかった、との分析結果を示しています。ただ、1980年ころから格差が拡大し始めます。基本的には、明記していませんが、新自由主義的な方向への政策転換が大きいと私は受け止めています。米国では、激しい反労働組合政策と最低賃金の下落を本書では上げています。加えて、教育の機会均等が事実上失われていて、高所得者の子弟が大学進学で極めて有利になっている事実を指摘しています。そして、それに対する対抗軸として、ベーシックインカムとグリーン・ニューディールに基盤を置く雇用政策を上げています。最後に、1点だけ指摘しておきたいと思います。すなわち、日本以外の欧米先進国では1980年以降に高所得者がさらに所得を増やす形で不平等化が進みました。他方、日本では低所得者がさらに所得を減らす形で不平等化が進んでいます。この点は忘れるべきではありません。ですから、日本ではピケティ教授が考える以上に、というか、欧米諸国以上にベーシックインカムとグリーン・ニューディールのための雇用政策が、特に低所得者層に有効である可能性が高い、と私は考えています。

次に、妹尾麻美『就活の社会学』(晃洋書房)を読みました。著者は、追手門学院大学社会学部准教授です。タイトル通りに、社会学的な分析がなされており、統計的な、というか、数量分析よりも、インタビューによるケーススタディが中心です。本書では、自由応募による就職活動を対象にしています。ですから、教授が就職先を割り振るような形の就職活動は含まれていません。学生サイドの就職活動としては、ネット上でエントリーシートを提出し、面接に進む、という形が多いのだろうと想像しています。そして、いわゆる「ガクチカ」といわれる学生時代に力を入れた活動とともに、サブタイトルにあるように、就職してから「やりたいこと」も学生は語る必要があります。というか、学生は聞き手への忖度に基づいて、企業やメディアが求める学生像に合わせて「やりたいこと」をいかにも自発的に語らされる就活を社会学的に分析しています。ただ、日本では広くメンバーシップ型の就職であり、本書でも、学生の就職とは企業を選ぶことであって、企業の中で何の仕事をするかは学生ではなく企業が決める、というのも一面の真理があるのではないかと思います。別の見方で、その昔にいわれたことで、「やりたいこと」を永遠に探すのがフリーターである、という考え方も成り立つ余地があります。「やりたいこと」を語らされた上に、実際にやらされることは企業の方で決める、というのは大きな矛盾かもしれません。そういった中で、大学のキャリア教育についても目を向けられており、インタビューの対象にもなっています。ただし、キャリア教育政策が労働市場におけるキャリアの曖昧さを過度に想定している、という批判も明らかにしています。はい、私もそう思います。私自身は、キャリア教育を担当しているわけではありませんが、キャリア教育にどこまで意味があるのかは不明ながら、大学では必須とされている不思議を感じます。そして、本書では、最初から最後まで底流を流れているのは、ライフコースという見方です。かつては、大学を卒業するところにもかかわらず、ほとんど「白紙状態」で就職し、終身雇用とさえ呼ばれた長期雇用システムの下で、男性基幹社員は定年まで無限定に長時間働き、それには、家事や育児に加えて介護まで家庭を仕切ってくれる専業主婦の存在が不可欠でした。逆に、女性は限界的な役割を担う労働者として結婚や出産までの短期間だけ働き、結婚・出産後は夫を家庭から支える役割を期待されていました。そして、子育てや介護から開放されればパートタイムに出るわけです。しかし、グローバル化が進んで世界的な競争が激化し、日本企業の体力が低下している中で、こういった役割分担的な家庭は少数派となり、共働き世帯が専業主婦世帯の3倍に上るという現実もあります。加えて、そういった就業や家庭が変化し、就職活動が変容するのであれば、教育と就労の接点である大学教育も何らかの変化が避けられません。その意味で、とても参考になった読書でした。

次に、ブライアン・クラース『なぜ悪人が上に立つのか』(東洋経済)を読みました。著者は、米国生まれで英国オックスフォード大学で博士号を取得し、現在はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの国際政治学の准教授です。冒頭に難破船から助かって無人島にたどり着いた人々の同じようなグループに着目して、独裁的なリーダーが出現しておぞましい結果を招いた例と、階層なくフラットな関係で友好的な関係を維持して救助された例の2つを示し、実は、難破船から無人島にたどり着くグループではなく、実際の現実的な社会においては前者のケースが少なくない点が強調されます。その上で、3つの問と1グループの解答を示そうと試みています。問は、サイコパスのような人物が権力を握るのか、そうではなく、権力に就くとサイコパスのような独裁者になるのか、はたまた、市民がサイコパスのような人物を指導者に選んでしまうのか、という3点であり、当然ながら、サイコパスのような独裁者が権力を握るのを防止し、模範的な指導者が権力に就くようにするための方策が10点に渡って提案されています。はい。極めて示唆に富む多数の事例が引かれています。アフリカや中南米の独裁者、あるいは、米国の住宅管理組合=Home Owners Associationの管理者、そして、明示はされませんが、企業のCEOや管理職の中にも決して少なくなく存在すると示唆しています。私は私立大学の教員ですので、同業者の中には私立大学の理事長を上げる人がいそうな気がします。広く報じられたところでは、日大の理事長がそうでしたし、東京女子医大の理事長経験者も最近逮捕されたことはニュースになっていたりしました。そして、本書で上げられている防止策については、読んでみてのお楽しみなのですが、1点だけ私の考えを明らかにすれば、くじ引きに基づく民主主義がひとつの選択肢になる可能性があるのではないかと考えています。かつて西洋の古典古代でも実践されていたことがありますし、現在の投票による民主主義が、先の兵庫県知事選挙なんかを念頭に置いて、ホントに、本書の観点からして、好ましい結果をもたらしているかどうかは小さからぬ疑問があります。もちろん、SNSの悪影響もあ否定できません。でも、そうでなくても、日本の国会議員や総理大臣に世襲が極めて多いのは、国民の多くが感じているところではないでしょうか。民主的な投票で選ばれているから世襲もOK、という点は強調されて然るべきですが、どこまでホントに自由な投票かは疑問です。単に投票で選ばれているという形式的な点だけに着目すれば、中国だって、北朝鮮だって投票で選ばれているのではないか、という気がします。ですので、私自身は投票に100%の信頼を置いたり、投票以外の指導者選出方法を否定するのはひょっとしたら危険なのではないか、と考え始めています。マルクス主義的な暴力革命はまったく可能性がない上に、百害あって一利なし、といわざるを得ませんが、くじ引きにより指導者を選出する、あるいは、チェノウェス教授の『市民的抵抗』で示唆されているような直接的な行動、などなどを指導者選出のひとつの方策とする可能性も決して無条件に排除することができない、と考え始めています。ただ、本書の指摘通り、基本はチェック・アンド・バランスによる市民による指導者の監視がもっとも重要です。それだけに、監視される側の指導者とともに、監視する側の市民の教養やバランス感覚、常識的な判断能力などのリテラシーが問われるところではないか、と考えます。こういった基礎的なリテラシーの涵養のためにも大学が果たすべき役割は決して小さくないと思います。


次に、スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』上下(文藝春秋)を読みました。著者は、ホラー小説の帝王とも呼ばれる小説家です。本書は、作家デビュー50周年記念の一環としての出版です。ホラーではなくて犯罪小説=クライム・ノベルと呼ぶべき作品で、近代物理学に反する現象や存在は出現しません。本書のタイトルは主人公の名前であり、ビリーは米軍の海兵隊を除隊してから殺し屋家業をしています。ただし、誰でも暗殺するというわけではなく、悪人しか標的にはしないというのがポリシーです。基本的に、ゴルゴ13と同じスナイパーと考えてよさそうです。そのビリーが40代半ばにして引退を決意し、自叙伝ともいえる小説を書き始める一方で、とても報酬のいい最後の仕事を請け負うところから物語がスタートします。そのため、小さな町に作家のフリをしながら潜伏して殺しの準備を進めることになりますが、この仕事にはなにかウラがあるような胡散臭さを嗅ぎつけて、ビリーは作家のフリに加えて、独自の逃走ルートのために、もうひとつの隠れ家的な潜伏先を設けて三重生活を送ることにします。すなわち、作家のフリをして原稿執筆するのは標的が護送されてくる裁判所の近くの依頼主が借りたオフィス、そして、ビリーの生活のために依頼主が借りた住宅、そして、依頼主から逃れる可能性も考えてビリーが別名で借りた別の住宅、ということになります。上巻の舞台はイリノイ州南部と示唆されます。すなわち、ミシシッピ川の東に位置して、北部と南部の分岐であるメイスン・ディクスン境界線のすぐ南にある小さな町で、標的となる人物が警察によって裁判所へ護送されてくる機会を待ちます。この際、ビリーはホントは極めて聡明であるにもかかわらず、「おバカなおいら」を演じます。依頼主が借りた住宅では、絵に書いたような米国的なご近所との交流がなされます。そして、依頼主のミッションを終えて、警察などの当局と依頼主の両方から逃亡を始めようとするビリーは、レイプされて死にそうな20歳そこそこのアリスを拾ってしまいます。そして、ビリーとアリスの2人組の逃亡劇が始まるわけです。この下巻の逃亡劇は怒涛のように展開します。そのあたりは読んでみてのお楽しみ、ということになります。ただ、出版社のうたい文句にあるように「キング史上最も美しいラストに涙せよ」というのは、出版社自身が宣伝文句にしているわけですので、ネタバレでも何でもないと思います。いや、さすがに圧巻の小説でした。上巻の緻密な構成と展開、下巻の一気に驀進するストーリー、上下巻とも300ページを超え、合わせて600ページ強あり、しかも、2段組でびっちり文字が各ページに埋め尽くされています。もともと、長くて詳細な記述の小説が得意な作者のキングではありますが、ボリュームに負けずに読み通すことは、この作品の場合は決して難しいことではないと思います。一気に読めます。

次に、朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班『限界の国立大学』(朝日新書)を読みました。著者は、朝日新聞紙上とデジタル版でこの問題に関する特集記事を展開した取材班です。テーマは、いうまでもなく、2004年に導入されて20年を迎える国立大学法人化の首尾です。アンケートやインタビューを駆使した取材結果に照らし合わせた判定は明らかに失敗だった、という結論かと思いますが、その失敗の原因についてはもう少し掘り下げて欲しい気がして、私には物足りない部分が残りました。ただ、日本の場合は大学のクオリティは圧倒的に国立大学に分があって、私立大学は国立大学トップには叶わないわけですので、教育についても、研究についても国立大学を対象に検証や分析を試みるのは意味があると考えるべきです。ということで、一応、私は国立大学と私立大学の教員をどちらも経験しています。キャリアの国家公務員からの現役出向として長崎大学に2年間単身赴任しましたし、国家公務員を定年退職した後に現在の立命館大学でほぼ5年間のongoingの教員経験があります。長崎大学での経験はもう15年も前のことで、国立大学法人化がなされた数年後であり、毎年1%ずつ削減される運営費交付金の削減額もまだそれほど深刻な影響を及ぼしていなかった気がします。ただし、私がいずれも経済学部の教員でしたので理工学系の大規模な実験設備に資金が必要というわけではなく、ソフトウェアと書籍や何やを買うくらいで、研究費がとんでもなく不足したという記憶はありません。とんでもなく不足しているわけではありませんが、常に研究費の不足には悩まされていました。長崎大学のころにはテレビ局からお呼びがかかったにもかかわらず、旅費が捻出できずにテレビ出演がボツになった経験もあります。ただ、研究を離れて教育に目を向ければ、国立大学と私立大学で圧倒的に違うのはST比です。私立大学は学生がいっぱいいて、多くの授業のコマ数を担当せねばなりません。長崎大学在籍当時は運営費交付金の削減が進んでいなかったこともあって、非常勤教員や任期付教員はそれほどいませんでしたが、現在、こういったいわば大学教員の非正規雇用が進んでいるのは、運営費交付金が削減されたためであると同時に、国立大学の評価のひとつの項目に常勤教員1人当たりの研究成果があるのも関係している可能性があります。分母の常勤教員を減らしておけば、この評価項目は高くなったりするわけです。ただ、何といっても、国立大学の研究力がここまで落ちたのは、政府の「選択と集中」による研究費の分配であることは明らかです。基礎研究はかえりみられることなく、製品化に近い研究ばかりが重視され、大学の研究が企業に下請けになっている感があります。政府の文教・研究政策だけでなく、ひとつには、本書で掘り下げられていない企業の能力低下が上げられます。これほど利益剰余金を積み上げながら、研究開発の能力が中国や欧米先進国に比べて相対的に低下した企業が多数に上るのは、多くのビジネスマンが実感しているところではないでしょうか。そして、その企業の能力低下のツケを交付金削減の憂き目にあっている国立大学にツケ回ししているように見えます。他方で、政府、というか、「財務省が押し切る」という表現もあるものの、その責任の重大性が見逃されている気もします。この点ももっと掘り下げて欲しく、大学教員として物足りませんでした。もちろん、私大についてはまったく無視されています。本書p.37でも指摘しているように、国立大学86校には1兆円余の運営費交付金が配布されている一方で、学生数で3.6倍に上る620校ほどの私大には3000億円しか助成金が割り当てられていません。この現状も何とかして欲しいと考えている私大教員は私だけではないと思います。

次に、竹中亨『大学改革』(中公新書)を読みました。著者は、大学改革支援・学位授与機構教授です。本書は、法人化されて20年を経過した国立大学を主たる対象として日本とドイツの大学改革について基本となる理念や理論的背景を含めて解釈と解説を試みています。本書の記載順を離れて、私なりに本書を解釈すると、まず、大学改革が1990年代、特に1990年代後半に国際的に盛り上がった背景には、いわゆるニュー・パブリック・マネジメント(NPM)の影響があると本書では指摘しています。さらに、その背景には大学のオープン化/パブリック化があります。すなわち、長らくエリート層の特権っぽく見えていた大学進学が一般市民、という表現もヘンなのですが、大学が広く中等教育終了者に開放されて、学齢期市民の約半分ほどが大学に進学することになります。高校については、その前から日本では実質的に進学率が100%近くに達していたのは広く知られている通りです。学齢期の半分が大学に進学するだけでなく、同時に、学齢期以外の市民にも広く開放されることになります。たとえな、学び直し=リカレント教育で社会人が、会社に勤務しながら、あるいは、会社の休みである週末や夜間を使って大学院に通う、ということも広がり始めたからで、したがって、国立大学の法人化や運営費交付金の削減をヤメにして、昔の形に戻っても問題は解決しない、と本書では指摘しています。ですので、クラークの三角形と呼ばれる国家規制/市場メカニズム/教授自治の3要素でコントロールする、あるいは、クラークの三角形を拡張した5累計からなるイコライザーでコントロールする必要があると論じます。このあたりは、エスピン-アンデルセンによる福祉レジーム論と通ずるものがあると私は感じました。それはともかく、日本があたかもお手本にしているかのような米国の大学は、東海岸のアイビーリーグをはじめとして、市場メカニズムにより私立大学をコントロールするわけですので、同じく私立のオックス-ブリッジが飛び抜けた存在となっている英国とともに、日本の国立大学に適用するのは難がありそうだというのはよく理解できると思います。ですので、ここで州立大学が少なくないドイツが登場するわけです。ただ、この先で、ドイツの大学と日本の大学のそれぞれの改革についての本書の議論は、私にはよく理解できませんでした。要するに、結果として、ドイツはうまくいっていて、日本は失敗である、というのは明らかなのですが、その原因が何であるのかは本書では十分に分析しきれていないきらいがあります。少なくとも、ドイツの大学評価は日本と比べて大雑把でゆるやか、というのは理解しましたが、それがなぜ日本とドイツを分けているのか、そのあたりの分析は十分でないと私は受け止めました。誰が見ても日本のトップ校である東京大学とに対して、本書でしばしば登場する鹿屋体育大学を同じ土俵で同じ尺度で評価するのは、明らかに間違っているのは理解します。本書が指摘するように、法人としての大学をいっしょくたにして同じ基準で評価するのは、義務教育と高等教育を同列に見てい謬見に基づくものであり、確かに批判に耐えないことと思いますが、逆に、ドイツはどうしてうまくいっているのか、単に評価が緩やかなだけなら、本書で否定しているような「昔に戻す」で十分ではないか、と私は受け止めてしまいました。たぶん、私の読み方が不足している可能性が高いとは思いますが、少し物足りない読書でした。

次に、鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社新書)を読みました。著者は、中央大学文学部教授であり、ご専門は近世文学や書籍文化史だそうです。本書は、やっぱり、NHK大河ドラマのお勉強として読んでいまして、話題となっている蔦屋重三郎についての教養書です。特に、文化史の背景が詳しいです。すなわち、蔦屋重三郎が活躍した18世紀後半の江戸には、喜多川歌麿、東洲斎写楽、山東京伝、大田南畝といった江戸文化を彩る浮世絵や文学の花形スターが相次いで登場し、一大旋風を巻き起こしました。これらのスターたちの作品を巧みに売り出し、ご本人のホームグラウンドでもある吉原とともに江戸文化の最先端を演出したのが、版元の「蔦重」こと蔦屋重三郎です。それまでのお江戸の文化といえば、17世紀末から18世紀初頭の元禄文化があったとはいえ、まだまだ、京や大坂といった上方文化には太刀打ちできず、上方からの「下りもの」を有り難がっていたりしました。ですから、江戸の中や近在で取れた産物は「下らない」ものだったわけです。しかし、蔦重が活躍した18世紀末になると江戸の地場の文化が花開きます。江戸っ子の文化が成立したともいえます。本書ではその中心として蔦重を、現代的な表現をすれば、仕掛け人=プロデューザーとして取り上げています。本書では、特に、絵画としての浮世絵とは別に、文学としての狂歌に注目していて、狂歌はそれまで読み捨てられていたものであるにもかかわらず、蔦重が編集して書籍として出版した成果に着目しています。読み捨てで終わらず出版したからこそ、現在まで残されているのはその通りです。ですから、「世の中に蚊ほどうるさきものは無しぶんぶといふて夜も寝られず」といった寛政の改革を皮肉った狂歌が現在の社会科の教科書に掲載されていたりするわけです。本書では、この寛政の改革に先立つ田沼時代に対して一定の評価をしており、学校教育における「悪者」という位置づけに対して批判的な見方を示しています。また、寛政の改革についても、田沼時代の反動としての緊縮財政だけでなく、教育改革、すなわち、学問レベルの向上を目指すもの、という面も強調しています。ですから、これも皮肉なのですが、寛政の改革による学問振興により、無学な武士が質素・倹約・齟齬といった漢字を覚えて喜んでいる、といった事実も指摘しています。NHK大河ドラマはさておいても、私は独身のころに吉原にほど近い東京の下町に住んでいましたので、なかなか、勉強になる読書でした。
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