今週の読書感想文は以下の通り、何と、私の専門分野である経済書なしで計7冊です。
まず、藤川直也『誤解を招いたとしたら申し訳ない』(講談社選書メチエ)では、タイトルのような条件付きで謝罪するかのごとき「謝罪もどき」を批判し、言語を介した人間間でのコミュニケーションについて、表の意味と裏の含意を区別し、学術的に解き明かそうと試みています。トミヤマユキコ『バディ入門』(大和書房)では、少女漫画などのサブカルの分野にも詳しい著者が、小説や映画などのフィクション、また、実在の人物を問わず2人組のバディ、友人とか恋愛よりも上位概念であるバディをを分析しようと試みています。高嶋哲夫『チェーン・ディザスターズ』(集英社)では、南海トラフ地震、首都圏直下型地震、超大型台風による水害、そして、富士山噴火による火山灰といった災害に対して、当選わずか2回にして30代の若き環境大臣である主人公の早乙女美来がどのように対応するかを描き出しています。村山由佳『PRIZE』(文藝春秋)では、ベストセラーを連発する女性小説家の主人公が直木賞受賞を強く願う承認欲求をモチーフに、デビューのきっかけとなったラノベ新人賞主催出版社の女性編集者と協力して、直木賞を獲りに行くストーリーであり、驚愕のラストが待っています。黒田明伸『歴史の中の貨幣』(岩波新書)では、室町時代を中心とする中世の東アジアにおいて、私鋳銭も含めて銅銭が中国と日本、さらに朝鮮やベトナムなどで使われていた歴史をひも解こうとしています。白井俊『世界の教育はどこへ向かうか』(中公新書)では、国連、経済開発協力機構(OECD)、ユネスコなどの国際機関での議論を基に、教育の目指すべきもの、「主体性」とは何か、身につけるべき「能力」とは何か、「探求」の検討、何をどこまで学ぶべきか、について議論しています。岸俊光『内調』(ちくま新書)では、3人のキーパーソン、初代内閣情報部長の横溝光暉、内閣官房調査室元職員からの内部資料を記事にした吉原公一郎、内閣官房情報室の主幹を務めた志垣民郎の3人の残した資料や証言などから、インテリジェンス機関である内調の通史を明らかにしようと試みています。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月には38冊で計137冊、6月最初の本日の7冊を加えて計144冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。

まず、藤川直也『誤解を招いたとしたら申し訳ない』(講談社選書メチエ)を読みました。著者は、東京大学大学院総合文化研究科准教授であり、ご専門は言語哲学だそうです。私ごときが申し上げるまでもなく、最近に至るまで、政治家の失言や放言はいっぱいありますし、それらに対するいいわけもさまざまです。最近ではSNS上で炎上するような表現も見かけます。本書では、タイトルにあるような条件付きで謝罪するかのごとき「謝罪もどき(pseudo-apology)」を批判し、言語を介した人間間でのコミュニケーションについて学術的に解き明かそうと試みています。まず、表の意味と裏の含意を区別し、言行一致の責任ある振舞いの必要について論じています。例えば、本書では言及ありませんが、表と裏という意味では、「お子さん、ピアノの練習ご熱心ね」というのは、やかましいとか、うるさいという抗議や非難の含意があるのは広く知られている通りです。しかも、暗黙のうちに、幅広い聞き手に向けられた表向きのメッセージとは別の含意を判った人だけに伝えようとする犬笛とか、一定の前置きを付して言質を与えるのを回避するイチジクの葉とかについても、その不誠実な表現を批判しています。また、私なんかは「常識で判断」ということで済ませようとする傾向があるのですが、その常識が時と場合で異なる点も指摘しています。まあ、そうなんでしょう。ただ、2点だけ私の方から本書を読んだ上で疑問があります。第1は、言葉によるコミュニケーションを取ろうというのは、ベストではないかもしれませんが、それなりに人間らしい優れたコミュニケーションだと私は考えています。関西に来てからびっくりするのは、扉が閉まりかけたエレベーターに無言で突進する人が多い点です。それほど急がなくても、一言「エレベーター待って」といえば済むような気がしますが、東京に比べて関西では無言の突進が多いように感じます。第2に、たとえ、間違っていても発言が繰り返されると真実であるかのように受け止められる可能性があります。「うそも100回繰り返せば真実になる」というゲッベルスの言葉は人口に膾炙していると思います。現在の兵庫県知事がそうだと私は受け止めています。

次に、トミヤマユキコ『バディ入門』(大和書房)を読みました。著者は、東北芸術工科大学芸術学部准教授であり、ご専門は日本近現代文学史だそうです。また、少女漫画などのサブカルの分野にも詳しいようです。本書では小説や映画などのフィクション、また、実在の人物を問わず、2人組のバディを分析しようと試みています。本書冒頭ではTBSドラマ「逃げ恥」の2人から始まります。ですから、バディを組む2人の性別にはこだわりがありません。男男、あるいは、女女の同性の2人でも、男女の組合せでも構わないというスタンスです。そして、友人とか、「逃げ恥」のように関係が進んで結婚までの関係もありです。友人とか恋愛よりもバディは上位概念であると本書では考えられています。フィクションでは「逃げ恥」のほかにも、日曜のアニメでは「サザエさん」の磯野カツオと中島弘、「ちびまる子ちゃん」のまる子とたまちゃん、ほかのアニメでも、「ドラゴンボール」の悟空とベジータ、「ぐりとぐら」の野ねずみ、などが取り上げられています。洋画などで私の知らないバディもいっぱい取り上げられていますが、バディではない上下関係のある2人は含まれていません。ですから、推理小説の古典的名作に登場するホームズとワトソンはバディではない、という判断です。対等平等の2人組で、お互いを高め合っていく過程にあるのがバディ、ということのようです。フィクション以外の実在の人物でも『胃が合うふたり』の千早茜と新井見枝香とか、ホントは血縁関係のない阿佐ヶ谷姉妹などにも言及されています。あるいは、9章では、人と道具、例えば、スポーツ選手とその道具などにも焦点を当てています。11章のライバルのバディも「なるほど、そうか」、と思わせるものがありました。でも、私が特に感激したのは、12章のアイドルグループにおける「シンメ」と「ケミ」です。「シンメ」と「ケミ」が何かは読んでみてのお楽しみですが、そういうふうに、アイドルグループを見ている人がいるとはまったく知りませんでした。AKBやNMB、あるいは、坂道系のアイドルグループを見る機会があれば、私も注目しようと思います。

次に、高嶋哲夫『チェーン・ディザスターズ』(集英社)を読みました。著者は、エンタメ小説家なのですが、パニック小説を何冊か出版していて、私が読んだ『東京大洪水』、『首都感染』、『富士山噴火』などの作品があります。この作品はそういったパニック小説の延長線上に位置していると私は受け止めています。なお、出版社でも力を入れているようで本書の特設サイトが開設されています。タイトル通り、災害=ディザスターズがチェーンしてやって来るわけですが、出版社のサイトにもあるように、その災害そのものはネタバレではないと思います。災害は順に、南海トラフ巨大地震とそれに伴う津波、首都圏直下型地震、超大型台風による水害、そして、富士山噴火に伴う火山灰となります。その昔の『日本沈没』クラスの大災害なわけで、最後の富士山噴火に伴う火山灰により首都東京は放棄されます。客観的な災害はこういったものですが、こういった災害を乗り越えようとするのは、主観として超々トップの上から目線で捉えられています。主人公は早乙女美来です。代議士だった父親が倒れてニューヨークから帰国し、当選わずか2回にして30代の若き環境大臣に就任しています。そして、最初の南海トラフ地震が発生した直後に名古屋での現地対応に当たります。その名古屋では地元IT企業「ネクスト・アース」がAI技術を駆使して開発したアプリにより、災害対応が画期的に進んでいました。その後、南海トラフ地震で地盤が緩んでいたところに首都圏直下型地震が発生し、さらに、超大型台風により水害が迫り、富士山噴火により東京をはじめとする首都圏が火山灰によって人の住めない状態になってしまいます。主人公の早乙女美来は環境大臣から防災大臣、そして、総理大臣に上り詰め、こういった災害からの避難や災害復興に当たろうとするわけです。まあ、何と申しましょうかで、総理目線での連続災害ですので、一般市民はほぼほぼ登場しません。したがって、小説としては深みに欠ける部分があります。アマゾンのレビューで「ジュブナイルホラー」と表現しているのがありましたが、私もそんな気がします。

次に、村山由佳『PRIZE』(文藝春秋)を読みました。著者は、小説家であり、本書のテーマのひとつとなっている直木賞は2003年の上半期に『星々の舟』で受賞しています。私は2003年は9月に帰国するまで外国暮らしでしたので、リアルタイムでの受賞のニュースは見ていないような気がします。ということで、主人公は女性小説家の天羽カインです。「無冠の女王」と呼ばれ、ラノベ新人賞でデビューして以来12年間ベストセラーを出し続け、本屋大賞など、いくつかの文学賞は受賞したものの、もっとも権威ある直木賞には届かず、その受賞を渇望しています。そして、なぜか、本書の出版社である文藝春秋は社名や雑誌名はそのまま登場させています。まあ、直木賞がそのままなものですから、そうなんでしょう。そして、天羽カインのデビューのきっかけとなったラノベ新人賞を主催していた南十字書房の女性編集者と協力して、直木賞を獲りに行くストーリーです。といえばそれだけなのですが、もちろん、出版業界のあれやこれやも詰め込まれていますし、作家と編集者のビミョーな関係も盛り沢山です。そして、いつもながらに小説家の想像力の豊かさに驚くのですが、驚くべきラストが用意されています。なるほど、こう来たか、という感じです。そのあたりは読んでみてのお楽しみとしておきます。最後に、本書の心理学的なテーマのひとつになっている承認欲求については、有名なマズローの欲求5段階説のひとつとして知られていることと思います。5段階とは、すなわち、(1) 生理的欲求、(2) 安全欲求、(3) 社会的欲求、(4) 承認欲求、(5) 自己実現欲求、となります。そして、これらについては単に心理学的な面だけではなく、経営学、教育学、あるいは、私の専門分野である経済学などにも応用されています。もう20年近く前に役所勤務から長崎大学に現役出向した際に、修士論文の中間報告会でマズローの欲求5段階説を応用した経営学の修士論文についての報告を聞いた記憶があります。脱線したので元に戻すと、本書での「直木賞がほしい」というのは、5段階のうちの4段階目の承認欲求に当たります。ただし、この承認欲求を飛び越えて自己実現欲求に至るケースもありそうな気がします。他方で、本書のように強く承認欲求が現れるケースも少なくないものと思います。単なる自己満足で終わるのではなく、外形的に明らかなシンボルが欲しい、そして、そういったシンボルがあれば一般的なステータスが高まる、というのも理解できると思います。例えば、単に英語がよくできる、というだけでなく、英検1級を持っている、といった資格に直木賞は相当するんではないかと思います。

次に、黒田明伸『歴史の中の貨幣』(岩波新書)を読みました。著者は、私と同じ生まれ年なのですが、東京大学の名誉教授であり、現在は台湾師範大学講座教授を務めています。専門は歴史学なのだろうと想像しています。表紙画像に見える通り、副題は「銅銭がつないだ東アジア」となっており、地域的には東アジア、そして、タイトルにある「貨幣」とは、紙幣や高額の金貨などではなく銭=ゼニということになります。銅銭は金貨とともに、いうまでもなく、経済学的にいえば商品貨幣であり、重量により評価されます。金貨であれば、金を何グラム含んでいるか、という観点です。ですから、銅銭は貫単位でやり取りされる場合があります。他方で、銅銭は枚数による評価も存在します。仏教だけかもしれませんが三途の川を渡る料金は銅銭6枚の6文であり、その六文銭を家紋にしていたのが真田幸村だったりするわけです。本書では、その銅銭が中国と日本、さらに朝鮮やベトナムなどで使われていた歴史をひも解いています。おおよそ、10世紀から18世紀くらいを対象にしていますが、中心は日本でいう室町時代になります。例えば、モンゴル民族による元では、紙幣を好んで銅銭流通が衰えたりします。特に、11世紀になって酸化銅よりも埋蔵量の大きな硫化銅の精錬方法が確立して、銅銭が広く流通するようになります。銅を溶解して仏像にしたり、あるいは、銅銭は劣化しますのでびた銭が流通したりするのは私も知っていましたが、私も知らなかったような歴史的な事実がいっぱいありました。例えば、中国の銅銭のうちのいくつかは私鋳されていたものが少なくないとか、なのですが、経済学的に重要なのは2点読み取りました。第1に、古典派経済学の貨幣ヴェール説は誤りであったことが中世史からも明らかである点です。すなわち、著者はそれほど意識的な記述をしていませんが、貨幣が不足すると明らかに経済が停滞するという現実が読み取れます。第2に、租税を賦課する権力の存在なしに貨幣は自生しうるという歴史があります。この点は著者も気づいていて p.212 に明記しています。少し前に話題になった異端の経済学である現代貨幣理論(MMT)では、貨幣発生ではないとしても、貨幣流通の基礎として租税を賦課する権力の存在を置いていますので、歴史的に興味深い事実かもしれません。

次に、白井俊『世界の教育はどこへ向かうか』(中公新書)を読みました。著者は、現在は内閣府に出向しているようですが、元をただせば文部科学省でキャリアを始めた現役国家公務員です。グローバル化の進展はともかく、デジタル化によって教育が大きく変化しようとしています。そういった流れに従って、先進各国でも教育改革が進められています。私も教員の端くれですので、今後の教育の方向性などについて情報を得るべく、本書を読んでみました。本書では、序章で日本に限定されない世界における教員不足について概観した後、国連、経済開発協力機構(OECD)、あるいは、ユネスコなどの国際機関での議論を基に、1章から5章に渡って、教育の目指すべきもの、「主体性」とは何か、子供達が身につけるべき「能力」は何か、総合的な教育で目標とされる「探求」の検討、そして、金融教育やプログラミングなどの必要性が指摘される中で何をどこまで学ぶことが必要か、について、それぞれ議論しています。日本では、スキルとか能力、特に、学力の向上が教育に関してクローズアップされ、本来の人間としての目標であるウェルビーイングが教育に関しては等閑視されがちになります。すなわち、「若いころの苦労」のひとつとして教育を受ける苦痛を耐え忍ぶ重要性が強調されたりしますが、どういった過ごし方をするのであれ、教育過程がガマンして耐え忍ぶものであっていいはずはありません。ただ、楽しい教育というのも少し違う気がします。私は大学の教員ですので、義務教育とは違って、必要最低限のリテラシーを身につけるのではなく、必要最低限よりもずっと高い目標を置くべき立場にあると考えています。それには、主体性を持ってさまざまな対象を探求し、結果として、高い職業能力を身につけることができるような教育が理想といえます。はい、そうです。教育は教育そのものとして独立しているわけではありません、人生すべてが学習であるというのはいいとしても、私が勤務する大学をはじめとして、学校における教育は然るべき時期に終了し、学校を終えれば何らかの生産的な活動に従事することを、私は学生諸君と接していて想定しています。経済学的にいえば、何らかの付加価値生産に携わることを私は考えており、単にウェルビーイングを重視するだけならば、何の学びもせずにドーパミンやセロトニンやオキシトシンが出るような教育がいいのかもしれませんが、教育はそれだけではないのだろうと考えています。もちろん、繰り返しになりますが、教育過程がガマンして耐え忍ぶものであっていいはずはありませんが、「楽しく学ぶ」の主たる要素は「学ぶ」ことにあり、「楽しむ」ことが教育の目的ではありません。教育は将来に向けた準備の過程なのです。

次に、岸俊光『内調』(ちくま新書)を読みました。著者は、毎日新聞ご出身のジャーナリストです。日本のインテリジェンス機構の中核である内調こと、内閣情報調査室の実態を解明し通史を明らかにしようと試みています。この内調の創設以来のキーパーソンとして、初代内閣情報部長の横溝光暉、週刊誌のデスクをしていた際に内閣官房調査室元職員から内部資料を受け取って記事にした吉原公一郎、内閣官房情報室の主幹を務めた志垣民郎の3人の残した資料や証言などから、1936年の内閣情報委員会の創設に始まって、大雑把に1970年安保の終焉や当時の米国ニクソン大統領によるドルの交換停止や中国の承認と国連加盟などに至る1970年代半ばまでを射程に収めています。逆に、最近50年間は本書ではまだ追いきれていません。戦前の情報操作、すなわち、国民世論を戦争へと導く工作から始まって、戦後は冷戦下で情報を収集・分析し国家の行動指針まで練り上げるというインテリジェンス機関としての内調を分析しようと試みていますが、何としても読者に物足りない点が2つあります。まず第1に、公開情報に基づく内調の実態解明ですので、公開されていない部分で内調が何かとんでもないことをやっているんではないか、という疑念は残ります。第2に、第1の点に由来して、内調が情報の収集と分析だけに従事しているのか、それとも、何らかの作戦行動=オペレーションも手がけているのか、という点が不明です。例えば、もう30年以上も前のことながら、私は1990年代前半に在チリ大使館の経済アタッシェをしていましたが、1973年当時のアジェンデ大統領に対するピノチェト将軍のクー・デタには米国のインテリジェンス機関である中央情報局(CIA)が深く関わっていたと多くのチリ人は受け止めていました。最近では、テレビドラマながら「VIVANT」なんて、日本の情報機関がオペレーションを実行するかのごときストーリーも見られました。そのあたりに深く関わると、たぶん、何もいいことがないような気がしますが、だからこそ知りたいというのも理解してほしいところです。最後に、新書としては破格の分厚さです。
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