今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、渡辺努『物価を考える』(日本経済新聞出版)は、2020年から始まった世界インフレの前段階の日本のデフレの原因から解き明かし、デフレとインフレの弊害や異次元緩和の失敗の要因などについて分析を試みています。日本経済新聞社[編]『テクノ新世 技術は神を超えるか』(日本経済新聞出版)では、技術の急速な進歩を背景に、人類とテクノロジーのゆくえについて考えており、最新技術をレビューするとともに、表面的ではなくその真のインパクトについて考えています。森永卓郎『官僚生態図鑑』(三五館シンシャ)では、官僚が優秀であり日本の経済社会を支えていた時代は確かにあった点を明確に認めている一方で、失われた30年に陥ったひとつの原因についてもかつては優秀だった官僚が小市民化した点を上げており、特に槍玉に挙げられているのは大蔵省=財務省です。加賀山卓朗・♪akira(著)+松島由林(イラスト)『警察・スパイ組織解剖図鑑』(エクスナレッジ)は、ミステリやサスペンスやスパイものなどの海外エンタメ小説や映画・ドラマといった映像作品に登場する組織、さらに、職員の階級構成や制服・バッジといったビジュアルな要素を英語表現とともにてんこ盛りにした図鑑です。西山隆行『アメリカ大統領とは何か』(平凡社新書)は、タイトル通りに、米国大統領について詳細にリポートしていて、大統領だけではなく、米国の政治・行政はもちろん立法や司法まで国のシステムを幅広く取り上げています。ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(新潮文庫)は、スコットランドのスカイ島にある別荘で夏を過ごすラムジー家の物語で、1910年とその10年後の1920年を時代背景とし、登場人物の内面的あるいは哲学的な意識の流れをいかにして文学として表現するかを追求した実験的な作品です。綿矢りさ『あのころなにしてた?』(新潮文庫)は、2020年のコロナのパンデミックに見舞われた日本について、芥川賞作家が日記体でエッセイを綴っています。
今年の新刊書読書は先週に3冊を読んでレビューし、今週は7冊ですから、計10冊となります。なお、FacebookやmixiなどのSNS、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。
まず、渡辺努『物価を考える』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、東京大学経済学部教授であり、物価や物価指数に関する日本の第一人者といえます。私は統計局に勤務していたころ、消費統計とともに物価統計も担当していましたので、お世話になったこともあったかと思います。ということで、現在の日本経済、というか、世界経済においてもっとも注目されているマクロ経済指標のひとつが物価であるといえます。要するに、2020年のコロナ禍のパンデミックあたりから供給制約による物価上昇が始まり、2020年2月のロシアのウクライナ侵攻から本格的に食料やエネルギーの価格上昇に起因するコストプッシュのインフレが世界経済の大問題のひとつとなっています。しかし、日本は世界と違っていて、現在のインフレの前にはデフレであった、という点が重要です。ですので、本書でもまず世界インフレ前の日本のデフレを解き明かそうと試みています。結論は、1990年代後半からのデフレは賃金上昇の停止が大きな要因と指摘しています。すなわち、昨年2024年11月に読んだ中村二朗・小川誠『賃上げ成長論の落とし穴』と同じで、1990年くらいまでのバブル経済期にはむしろ現在の逆で円高と内外価格差からして「高いニッポン」で、賃金も高水準にあったことから、バブル経済崩壊後の1995年5月の日経連リポート『新時代の「日本的経営」』の影響もあって、賃金抑制が打ち出されて労働組合も合意したことに基づいてデフレに突入した「賃金が主導、物価が追従」(p.182)ということです。それに対して供給者の行動が価格据置きになり、消費者も価格が高いと他の店で買物をするような消費行動を取り始め、物価上昇のない価格据置きが、個人レベルの予想から社会的ノルムとなった、と分析しています。要するに、1990年代後半からのデフレは供給サイドに起因し現在のインフレも供給サイドから生じている可能性が高い、という分析結果です。ハッキリいって、このあたりまでは1年余り前の渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)と大きく異なる結論ではありません。ただ、本書では、それに加えて、第4章でデフレやインフレがなぜ「悪」なのか、とか、第5章で異次元緩和がどうしてデフレ脱却に失敗したのか、といったあたりを分析しているのが新しく付け加わっています。最後に、私から本書に関連して4点ほど雑感を示ししておきたいと思います。第1に、本書ではしつこいくらいに「期待」という言葉を避けて「予想」という言葉に置き換えています。ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』では投資行動を考える際の期待から始まって、ほぼほぼ一貫して「期待」で統一されていて、経済学的にも定着していると私は考えるのですが、「期待」を避けて「予想」で統一したのは何か理由がありそうな気がしています。第2に、本書の主張のインプリケーションとして、賃上げが生産性の向上を下回る時期が続いた結果、労働分配率が低下して企業の利益剰余金が大きく積み上がっているのは法人企業統計などから確認できる事実ですので、逆に、賃上げが生産性を上回って推移して労働分配率が上昇することが容認されるべきだと私は考えています。第3に、デフレの「悪」については、貯蓄超過のエージェントが得をし、投資超過、というか、貯蓄不足のエージェントが損をするわけであって、経済政策の要諦である貯蓄超過を促進しかねないという点は忘れるべきではないと考えます。第4に、異次元緩和の失敗という評価については、10年かかっても金融政策でデフレ脱却が出来なかったのですから、それはその通りだと思いますが、出典は忘れたものの、著者はその昔に物価目標ならぬ賃金上昇目標を提唱していたように記憶しています。賃金上昇ターゲットであれば、何か違っていたのか、興味あるところです。
次に、日本経済新聞社[編]『テクノ新世 技術は神を超えるか』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、新聞社であり、新聞の特集記事を基にした出版です。まず、本書のタイトルになっている問いかけに、私なりの回答を示すと、間違いなく回答はyesであり、技術が神の座につくことになると私は考えています。まあ、あくまで個人の感想です。ということで、冒頭でも明らかにしているように、技術の急速な進歩を背景に、本書では人類とテクノロジーのゆくえについて考えようと試みています。すなわち、最新技術をレビューするとともに、表面的ではなくその真のインパクトについて考えています。もちろん、最新技術とは、人工知能=AIにとどまらず、遺伝子操作による生物としての人類の改変、また、国家や社会システムにまで及んでいます。まず、AIに関しては、当然ありうべき問いとして、自律的な活動を始めかねないAIの価値観と人間の価値観の衝突、あるいは、AIと人類の利害関係の不一致が生じる可能性について考えるべきといえます。はい、その可能性はあります。十分あるといえます。その場合、パワーの問題となります。ですから、定義からして、シンギュラリティ以前であれば人類がAIを制圧して人類の利害を優先させることが出来る可能性に十分ありますが、シンギュラリティ以降であれば人類がAIに制圧されるということになります。要するに、私が考えるに、人類はAIのペットになるわけです。能力的に対等に近いものを人類が持てれば内戦状態になる可能性もありますが、おそらく、歴然たる能力差がシンギュラリティの後で極めて短期間に生じると私は考えていますので、シンギュラリティ以降のAIと人類の関係は、現在のシンギュラリティ以前のヒトとイヌ・ネコの関係になるものと私は想像しています。私は人類にとって決して悪くないと受止めています。それなりの知性を維持しつつ、圧倒的に能力差のあるご主人様のペットとなるのは、今のイヌ・ネコを見ていても割とのんきでいいような気すらします。性格的な特性にも左右されるように感じますが、私はなまけものですので十分OKです。ということで、本筋を少し離れるかもしれませんが、本書では基本的に日経新聞記者の取材よりももっとナマなインタビューが私の場合参考になりました。AIと雇用の関係、また、ロボットに課税すべきかどうかは議論をさらに進めるべきテーマであると感じました。さらに、哲学的に人間の本質とは脳であり、移植を考えても腎臓とかの他の臓器ではありえない、というのは当然でしょう。知能には2種類あって、身体を的確に動かせる能力といわゆる認知能力です。前者の観点からは、例えば、私の考えるに、コントロールのいい野球のピッチャーというのは知能が高い、あるいは、頭がいい、ということなのだと考えるべきです。また、台湾有事に引っかけて「デジタル遷都」が取り上げられていましたが、第2次世界対戦時のド-ゴールによる自由フランス政府の亡命政権は、まったくデジタルではありませんでいたが、同様の趣旨を体現していたのではないか、という気がします。最後に繰り返しになりますが、この世はもっとも認知能力の高い存在が支配します。現時点のシンギュラリティ以前であれば、それは人類ということになりますが、シンギュラリティ以降ではAIである可能性は排除できません。もちろん、人類が短期に進化を遂げてAIと認知能力のいたちごっこになる可能性はなくはないのですが、おそらく、AIの能力が人類を凌駕しこの世の支配者となることは明らかです。ですから、人類はこの世ではAIのペットとなり、あの世での新たな展開を模索する、ということになるんだろうと私は想像しています。
次に、森永卓郎『官僚生態図鑑』(三五館シンシャ)を読みました。著者は、メディアでもお馴染みのエコノミストです。余命宣告を受けているのですが、まだお元気に活躍中です。本書は、作者が社会人となって仕事を始めた専売公社(現在のJT)から始まって、当時の経済企画庁への出向、民間シンクタンクなどをご経験されていますから、官僚に近いフィールドでのお仕事の経験が平均的な日本人よりも豊富であることは間違いありません。なお、本書でいう官僚にはいわゆるノンキャリア公務員は含まれておらず、キャリア官僚だけです。私もそうでした。私のころは上級職、その後、Ⅰ種、総合職と名称は変遷しています。ということで、官僚が優秀であり日本の経済社会を支えていた時代は確かにあったわけで、著者のその点は明確に認めています。ただし、失われた30年に陥った大きなひとつの原因についても、かつては優秀だった官僚が小市民化した点を上げています。そうかもしれません。特に槍玉に挙げられているのは大蔵省=財務省です。1980年代のパワハラなど、まあ、ややホイッグ史観的な部分もありますが、最高権力官庁として腐敗の度合いを進めてきた点はあり得るんだろうと思います。そして、その財務省にブレーキをかけるだけの力量が、他の役所の官僚や政治家にかけていたのも事実かもしれません。「権力は腐敗する。絶対的な権力は、絶対的に腐敗する。」というわけです。長期に渡った安倍内閣の経済政策アベノミクスについては、私なんかはエコノミストとしてそれなりに評価しているつもりですが、モリカケ事件、桜を見る会、などなど、一強政権であった点に起因する腐敗には枚挙に暇がありません。ですので、モンテスキュー的な三権分立が典型ですが、何らかのチェック・アンド・バランスのシステムを取り入れる必要があります。本書では最終章で7つの処方箋を示していて、財務省パワーの低下を狙った経済財政諮問会議からの財務省の排除とか、国税庁の財務省からの完全分離などとともに、経済企画庁の復活が最後の処方箋として上げられています。はい、私が採用されたのは経済企画庁であり、中央省庁再編後は内閣府に勤務していました。ですから、それなりに経済企画庁やその後身である内閣府については理解しているつもりです。財務省に対するチェック・アンド・バランスを担う組織を政府部内の別の組織、本書で示唆しているのは経済企画庁なのですが、そういった別の役所に担わせるのがいいのか、それえとも、政府から独立した別の組織がいいのか、よく議論する必要はあります。ただ、私の印象として、警察でも検察でも裁判所でも、予算編成権を握られている以上、財務省の優位は揺るがないような気がします。ですから、予算編成権限をどうするかを考えた方がいいというのが私の現時点での暫定的な結論です。
次に、加賀山卓朗・♪akira(著)+松島由林(イラスト)『警察・スパイ組織解剖図鑑』(エクスナレッジ)を読みました。著者は、翻訳家と翻訳ミステリー・映画ライターとイラストレーターの3人です。米国の連邦捜査局=FBIと中央情報局=CIA、また、州・市・郡といった地方政府レベルの警察、はたまた、昔ながらの保安官などなど、こういった組織や機能については日本人にはよく判らない点が多いかもしれません。英国では007ジェームス・ボンドのMI6と国内を担当するMI5、さらに、警察組織のロンドン警視庁=スコットランド・ヤードなどなど、ミステリやサスペンスやスパイものなどの海外エンタメ小説や映画・ドラマといった映像作品に登場する組織、さらに、職員の階級構成や制服・バッジといったビジュアルな要素をてんこ盛りにした図鑑です。もちろん、エンタメ小説や映像作品に実際に登場する役柄の階級や所属する組織の解説がていねいです。いろんな小説や映画・ドラマの例も、往年の名作から最新の話題作まで、豊富なイラストともに、いっぱい引いています。出版社のサイトには創作や翻訳を目指す人にも有益っぽいうたい文句があり、私はそういったことを目指していないのですが、大いに楽しく読めました。中身としては、米国と英国が冒頭の2章のメインとなっていて、第3章が北欧や旧ソ連となり、その後の第4章に、韓国や日本もあります。翻訳者が書いていますので、イラストともに豊富なのが英語の表現です。私は外国人留学生に対して英語で修士論文指導をしていますので、経済学の分野ではそれなりに英語を理解しますが、さすがに犯罪捜査やスパイなどの分野の英語はサッパリです。米国では警部がcaptainで、警部補はlieutenantなんてのは知りませんでした。陸軍ならcaptainは大尉で、lieutenantは中尉でしょうから立派な将校です。海軍ならcaptainは大佐で、駆逐艦くらいの艦長ではないだろうか、と思ってしまいました。1点だけ気にかかるのが、第2章の英国編でロンドン警視庁=スコットランド・ヤードの組織が含まれていない点です。私からすれば、英国ではホームズの昔からスコットランド・ヤードが英国警察の中心、なんて思っているのですが、最近では違うんでしょうか。たぶんまだ映像化されていないワシントン・ポーのシリーズのイラストはとてもビジュアルに参考になりました。ただ、ティリーはもう少し細身でサラ・モーテンセンが演じたアストリッドのイメージを私は持っていましたし、病理医のドイル医師がこんなに色っぽいとは驚きでした。でも、あり得る気がします。私の場合は映画やドラマよりは小説でエンタメ作品を読むことが多いので、ぜひとも、手元に備えつつ読書を楽しみたいと思います。
次に、西山隆行『アメリカ大統領とは何か』(平凡社新書)を読みました。著者は、成蹊大学法学部教授であり、ご専門は比較政治・アメリカ政治となっています。本書は、タイトル通りに、米国大統領について詳細にリポートしています。そして、大統領だけではなく、米国の政治・行政はもちろん立法や司法、あるいは連邦制の下での州とかまで、国としてのシステムを幅広く取り上げています。もちろん、トランプ次期大統領が近く就任予定ですので、私も勉強のために読んでみた次第です。幅広く米国の国としてのシステムがリポートされているのですが、ひとまず、大統領以外の議会や裁判所のシステムは別にして大統領を頂点とする行政システムについて考えたいと思います。まず、本書では言及がないのですが、別の本を読んでいて、アイゼンハワー大統領が就任する時に、大統領に権限がないのに驚くだろう、という見方があって、限定的な軍隊という組織の中ではありますが、軍隊の中の将軍よりも国レベルの大統領の方が制約が強い、というのは理解できるような、理解できないような気がした記憶があります。米国の独立直後は、確かに、国民の意志を直接反映するのではないエリート主義が主流でしたが、本書でも指摘しているように、ジャクソニアン・デモクラシーから広く国民に依拠する民主主義に進化し、それでも、大統領を国民が直接選出するのではなく選挙人を選ぶという形で間接性を取り入れているのは、よく知られた通りです。特に、トランプ大統領の就任を前に、三権分立のチェック・アンド・バランスにより、大統領の権限を限定するというシステムは、実践的には好ましい場合もあるのかもしれない、と私は考え始めています。日本では、安倍内閣が長期に渡っていわゆる「一強政権」を形成し、権力者であれば法治国家の埒外で何をしても許される、という悪しき前例を作ってしまったことを考え合わせると、ひとつのあるべき姿なのかもしれません。8年前の2017年にトランプ大統領が就任した際、TPPからの脱退をはじめとして数多くの大統領令を出していました。今回の就任に際しても、報道レベルで知りうる限り、国家経済緊急事態宣言を出すという情報もあり、大統領権限をフルに「活用」しかねない恐ろしさも感じています。私も授業で教えていますが、米国が締結した自由貿易協定(FTA)については、多くの場合、行政協定となっています。議会での承認が必要なく大統領の行政命令にのみ基づいています。安全保障の関係は専門外にして私は理解が不足していますが、米国新政権の対日政策に関しては貿易通商政策と安全保障政策が焦点になるとみなされていますし、すでに、「防衛費のGDP比5%」なんて報道も見かけましたので、大いに気がかりなところです。巻末の偉大な大統領とか、そのランキングなんかもひとつの情報であろうと思います。
次に、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(新潮文庫)を読みました。著者は、ブロンテ姉妹などとともに英国を代表する女性作家の1人であり、経済学を専門とする私の守備範囲からいえば、ケインズ卿などを含む文化人グループであるブルームズベリー・グループの一員、という観点もありました。出版社からすれば、本書はこの作者の代表作、といいたいところなのでしょうが、私はたぶん『波』が最高傑作であり、本書は『ダロウェイ夫人』や『オーランドー』と並ぶ代表作のひとつだと思います。英語の原題は To the Lighthouse であり、1927年の出版です。舞台は英国スコットランドのスカイ島にあるラムジー家の別荘とされ、ラムジ一家が過ごす1910年と1920年のそれぞれ夏の季節です。第1章の窓ではラムジー夫人が息子のジェームズに、天気がよければ明日は灯台に行けるという一方で、夫のラムジーは明日は天気が悪くなるといい、強い緊張感が生じるシーンから始まります。第2章はその10年後の1920年を舞台としており、第1次世界大戦がその間に始まって終わっています。時の流れとともに人の不在とか死について、短い章ながら強いインパクトでさまざまな変化が語られます。第3章最終章では、10年後に再び別荘に集まったラムジー家とゲストの面々なのですが、ラムジー夫妻の子供で言及があるのは娘のカムと息子のジェームズだけです。ラムジーはとうとうこの2人を灯台に連れて行くことを10年を経て計画しています。よく指摘されるように、この小説はエンタメではありませんから、ストーリーはさほど重要視されていません。むしろ、それぞれの登場人物の内面的あるいは哲学的な意識の流れをいかにして文学として表現しているか、を読み取るべき作品をされています。もっといえば、意識を静的なものとして考えるのではなく、ダイナミック、というか、動的な流れとして把握し、いかにして文学として表現するか、についての実験的な試みと考えるべきです。ですので、大いに難解です。第2章から、やや唐突に現れるカギカッコ付きの神ないし超越者の視点、まあ、実際に読むとむしろお芝居のト書きのような印象を受けますが、この神の視点も含めて、ひとつひとつのイベントやアクションの絡まり合い、体験や人物の複雑さをいかに文学的に表現するか、まさに、大学において英文学の研究対象、あるいは、英文学学習の題材としてふさわしい小説です。逆にいえば、私のような俗っぽい人間がヒマつぶしに読むような本ではない可能性も否定しません。でも、ごく時折はこういった実験的な手法を試みて、それゆえに、広く世界で研究対象となるような小説を、十分な理解力もなく読んでみるのもいいものです。特に年末年始休みなんかは、そういったチャンスがある時期かもしれないと思います。
次に、綿矢りさ『あのころなにしてた?』(新潮文庫)を読みました。著者は、最年少で芥川賞を受賞した小説家です。本書は、出版社のサイトによれば、著者初めての日記体のエッセイだそうですが、そもそもエッセイは初めてではないか、と私は思っているものの、それほどたくさん読んでいるわけでなはいので自信はありません。ただ、最新作の『嫌いなら呼ぶなよ』と『パッキパキ北京』は読んでいます。文芸雑誌『新潮』で連載されていたものを取りまとめた単行本は数年前に出版されていますが、文庫本で出ましたので読んでみました。ということで、2020年1年間を日記体で綴ったエッセイです。エッセイですので、作家の考えが明確に読み取れる点は面白かったです。繰り返しになりますが、タイトルの「あのころ」というのは2020年であり、世界がコロナのパンデミックに見舞われ、日本でも緊急事態宣言が出たりしました。私はカミさんとともに東京から関西に引越して、4月から現在の大学教員の仕事を始めています。ですので、私ならずともまだ記憶が鮮明な向きはあろうかと思います。でも、当時は感染者数の増減に一喜一憂していたような記憶がありますが、その感覚はすっかり忘れてしまっています。少しネットでこの著者の作品を調べると、ファンも多い『オーラの発表会』が2021年8月に出版されていますので、その執筆や仕上げの時期と重なるのかもしれません。当然ながら、芥川賞作家ですので感性や表現力が私のような一般ピープルとは違います。ですので、やや偏りは感じられなくもないですが、固有名詞を明記しているわけではないものの、竹内結子さんの自殺には大きな紙幅が割かれている一方で、志村けんさんのコロナ感染死についてはほとんど記述がなかったりして、その完成の向きを感じることが出来ます。また、コロナのウィルスを擬人化して「魂を抜く系の魔のもの」という表現力も目を見張るものがありました。さらに、どうでもいいことながら、冒頭1月は家族で行ったスキーの日記で始まるのですが、スキーは相手のいらない1人で楽しめる娯楽という受け止めがあります。私もかつてはスポーツではゴルフやテニス、あるいは、ゲーム系ではコントラクト・ブリッジなどを楽しんでいたのですが、年齢を重ねて相手のいらない水泳やスポーツバイクや読書といったものにシフトしてきています。もう、バブル期ほどははやっていない気もしますが、スキーも1人で楽しめるスポーツなのか、と改めて気付かされました。
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