今週の読書感想文は以下の通り、新書と文庫をたくさん読んで計9冊です。
まず、メリッサ S. カーニー『なぜ子どもの将来に両親が重要なのか』(慶應義塾大学出版会)は、2人親世帯は1人親世帯よりも金銭的・非金銭的なリソースを子どもに提供できる能力が高い、という点を統計的に解明するとともに、結婚や10代の妊娠についても論じています。鹿島茂『古本屋の誕生』(草思社)では、江戸期の書店の発生から明治期以降の主として東京における古本屋の地理的・商業的・文化的な発展を、「知と文化の集積地」と本書で呼ぶところの古書街について、歴史的に後づけようと試みています。和田哲郎『バブルの後始末』(ちくま新書)は、1990年代に日銀職員として不良債権の処理やひいては金融機関の破綻処理の実務で携わった著者が、バブル崩壊後の金融機関の後始末について実名を明らかにしつつ歴史的に後づけています。海老原嗣生『静かな退職という働き方』(PHP新書)は、それほど出世を望まず、むしろ、期待される最低限の仕事をこなしておくだけの働き方について、行動指針のアドバイスや収入などのライフプランの情報、また、管理職に向けた対処の方法などについて取りまとめています。勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)では、卒業校の偏差値によるランク付けのようなものは、学歴のバックグラウンドに努力の蓄積があるとの想定の下、能力が高く、お給料をたくさん渡すに適した人材を評価するために会社の方で必要としている、と指摘しています。岩波明『高学歴発達障害』(文春新書)では、中高生、大学生、社会人などの人生のライフステージ別に高学歴や高IQのエリートが発達障害になるケースを実例に基づいて紹介し、再生へのポイントなどを示していますが、私はやや高学歴のエリートに対する偏見やバイアスを感じてしまいました。藤崎翔『お梅は次こそ呪いたい』(祥伝社文庫)は、戦国時代から蘇った呪いの人形であるお梅が前作からパワーアップして、お受験に挑戦する家庭、障害者のいる母子家庭、二世代住宅に暮らす家族、ファミレスのウェイトレスに片思いする男性、などを呪おうとしますが、前作と同じように真逆の結果を招きます。松下龍之介『一次元の挿し木』(宝島社文庫)は、ヒマラヤ山中の湖から発掘された200年前の人骨をDNA鑑定したところ、4年前に失踪して行方不明になった主人公の妹と完全一致したところからストーリーが始まり、巨大宗教団体や製薬会社などが関係する大きな陰謀の謎を解き明かそうと奮闘します。貴戸湊太『図書館に火をつけたら』(宝島社文庫)では、市立図書館の地下書庫が火事になり、焼死体が発見されるところからストーリーが始まり、小学生のころに図書館に居場所を見出していた幼馴染の3人が、殺人と放火の謎解きに挑戦します。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月に入って先週までの13冊と合わせて112冊、さらに今週の9冊を加えて121冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。なお、本日の9冊のほかに、アガサ・クリスティ『検察側の証人』(創元推理文庫)も読んでいます。いくつかのSNSにてブックレビューをポストする予定ですが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

まず、メリッサ S. カーニー『なぜ子どもの将来に両親が重要なのか』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、米国メリーランド大学のニール・モスコウィッツ経済学教授を務めています。本書の英語の原題は The Two-Parent Privilege であり、2023年の出版です。ありふれた日本人からすれば、本書の主張はあまりにも明らかかもしれません。すなわち、両親がそろっている2人親世帯は、1人親世帯よりも金銭的・非金銭的リソースを子どもに提供できる能力が高い、という点を論じています。重要なのは、2人親世帯であるという点であって、1人親世帯であっても2人親世帯よりも所得が高い世帯はいっぱいありますが、所得だけに要因が還元されるのではなく、時間的な余裕の有無やロールモデルの提供も含めて、2人親世帯である点が重要という主張です。もちろん、2人親の性別がヘテロである必要はありません。すなわち、同性婚であっても2人親世帯である、という点が重要という結論です。そして、この結果、親の世代の家族の衰退が子どもの世代の経済格差を拡大させている、と指摘しています。加えて、さまざまなほかの論点を議論しています。すなわち、まず、学校にできることは限られているという事実です。家庭の重要性を強調しているわけです。ただ、家庭を持てる、すなわち、結婚できるかどうかは、これは日本でも同じように見受けられますが、所得も含めて男性の要因が大きく作用します。したがって、家庭を持てる男性である必要があります。大きな要因のひとつが所得であることはいうまでもありません。加えて、本書ではシングルマザーから貧困に陥って子どもへのリソースが十分でなくなる可能性を減じるために、10代での妊娠出産について分析しています。当時のオバマ大統領夫妻らによるキャンペーンもありましたが、テレビ番組の影響についても論じています。さらに、出生率低下については、米国でも子育てがあまりにたいへんである点を強調しています。日本も同じ、というか、もっと子育て環境が厳しい気もします。最後に、本書では米国のデータを中心に議論が進められていることから、日本における男性の家事や子育てに関する関与の小ささについて私は懸念しています。2人親家庭であっても、かつての高度成長期のように男性が企業で長時間労働を強いられ、女性に一方的に家事育児が押し付けられて、男性の家事や育児への関与がきわめて小さい経済社会であれば、2人親世帯である利点がいくぶんなりとも減じるおそれを私は感じます。もちろん、人類をはじめとして生物は単なる遺伝子の伝達役だけではなく、自分自身の人生について考えるべきであり、子どもがすべてというわけではない、という反論はあり得ると私も思います。逆に、親として子どもの幸福を願うというのはきわめて自然な感情であるこも当然です。一方で、個人としてそれほど子どもを考慮せず、子どもではなく自分の人生のためにリソースを使う、他方で、自分の人生を犠牲にしてでも子どもにリソースを提供する、という両極端の間のどこかに最適解があるのはいうまでもありませんし、それは個々人で異なるのだろうと私は受け止めています。

次に、鹿島茂『古本屋の誕生』(草思社)を読みました。著者は、明治大学文学部名誉教授であり、フランス文学者、作家でもあります。本書では、まず、江戸期の書店の発生、ちょうどNHK大河ドラマでやっている蔦重の物語のように、書店がどのように成立したのかを概観した後、明治期以降の書店、というよりも古本屋の歴史を後づけようと試みています。まず、本については、出版、取次=流通、新刊書販売と古本販売の4業態を区別しています。ただ、私自身は、確かに日本では見かけないものの、外国では新刊書と古本を同じ店で同時に売っている例はいっぱい見かけています。ニューヨークのストランド書店なんかは完全にそうです。というか、それが世界の本屋さんの標準であって、日本のように新刊書と古本が明らかに別の業態で販売されているのが異例なのかもしれません。例えば、人口に膾炙したお話として、東京で本の街といえば神田神保町になります。でも、新刊書販売をしている書店と古本屋は、確かに別の業態として成立しているように見えます。まあ、それはともかく、明治期に入って徳川宗家の移動にしたがって旗本が大量に江戸から駿河に移ることになり、これまた大量の蔵書が処分され、それらが書籍をもっとも必要とする僧侶がいっぱい住んでいる増上寺周辺で古本街が成立した、と本書では指摘しています。したがって、当時は、芝神明町・日蔭町が東京随一の古本街だったようです。その後、大学の設立に伴って古本街も北に移動した、という見立てです。すなわち、当時は夜学中心でオフィス街の近くに大学が立地する必要があり、大学が集積していた神田・一橋地区に学生相手の古本屋が移動するとともに、新たに出版社が設立された、ということです。現在まで残っている主要な出版社として、有斐閣と三省堂を上げています。その後、大正期の関東大震災で古本需要が高まった、と分析しています。すなわち、新刊書の場合は出版=印刷、取次=流通、そして書店の三者がそろわないと消費者の手に渡らないわけですが、古本の場合は豊富な在庫をそのまま店頭に並べればOKなわけで、関東大震災で新刊書販売のいずれかの段階でダメージを受けたとしても、古本はすぐに消費者の手に届けることができた、とその利点を強調しています。終戦直後もご同様だったかもしれません。ただ、本書でも決して無視しているわけではなく、ある程度の考察を割いてはいますが、街中の書店が大きく減少してネット販売が無視できない割合を占め、加えて、古本に関しても、メルカリやBOOKOFFの果たす役割が大きくなっている点は事実として認めざるを得ません。最後に、本書には豊富に古本街の略図が収録されていて、ある程度の土地勘あれば、そういった地図を眺めているだけでも結構な情報を得られ、また、時間も潰せる気がします。

次に、和田哲郎『バブルの後始末』(ちくま新書)を読みました。著者は、日銀のご出身であり、日銀退職後は野村総研などにお勤めだったようです。私よりも数歳年上で大雑把に70歳くらいです。1990年代は日銀においてバブル経済崩壊後の金融機関の破綻処理に明け暮れていた、などというご様子です。1990年代の不良債権の処理について、世界的にもほとんど経験のなかった未知の実務を手探りで進めていった経緯がよく理解できます。というよりも、ここまで人名にせよ、企業名にせよ、実名を明らかにしても大丈夫なのだろうか、と心配になるくらいに赤裸々に不良債権処理や金融機関の破綻処理などを歴史的に後づけています。そのあたりは読んでいただくしかありません。そして、最終的に、国民の間で人気の高かった、したがって、政治家の間でも受けのよかった懲罰的な金融機関の破綻処理によるハードランディングから、Too Big To Fail の原則に基づいて、公的資金注入というソフトランディングに方針変更される経緯を実例に基づいて把握することが出来ます。本書についても、全体を通してというよりも部分的ながら、日銀実務担当者として破綻処理というハードランディング処理に向かいながら、結局、当時の大蔵省の不見識によって破綻処理を誤った、と読める部分が少なからずあります。ただ、日本の金融当局の方針として、モラルハザードの防止の重視から国民経済や雇用の観点に立脚する Too Big To Fail の金融機関の救済に転じたことは事実であり、そのあたりが印象的でした。逆に、日銀の実務家による記録ですので、理論的にあるいは実証的に、どのように考えるべきかについてはほとんど分析がありません。カテゴリー分けして分類的な分析はあるとはいえ、エコノミストにはその意味で物足りない可能性もありますが、ここまで歴史的な実例を豊富に持ち出して事実関係を明らかにしていますので、一般的なビジネスパーソンには十分な読みごたえがあるものと推測します。最後に、私は大学院には進学せずに役所に就職して定年まで勤務し、アカデミックなコースを歩んだわけではないので、大学では「実務家教員」と呼ばれて、場面によってはディスられることも少なくありませんが、それでも、ここまで詳細な実務に携わったことはありません。せいぜいが、1980年代末のバブル経済期の金のペーパー商法で摘発された豊田商事事件を見知っているだけです。

次に、海老原嗣生『静かな退職という働き方』(PHP新書)を読みました。著者は、リクルート系列の企業勤務を中心に、人材コンサルではないかと思います。日本では、その昔の高度成長期にいわゆる「エコノミックアニマル」とか、「モーレツ社員」というのがありましたし、バブル経済期にも「24時間戦えますか」なんて歌が流行ったりもしましたが、最近では、米国の "Quiet Quitting" を和訳した本書のタイトルのような働き方が出始めている、という内容です。すなわち、出世を目指して意欲的に働くのではなく、会議などでも発言を控えたりして、最低限やるべき業務をやるだけ、という働き方です。そして、本書では過剰な会社への奉仕を止めれば、逆に生産性が高まる、と指摘しています。もちろん、そういった背景には最近の「ワーク・ライフ・バランス」の重視や「働き方改革」などが大いに関係しているわけで、そういった経済社会の構造変化の分析もしています。その上で、「静かな退職」の実践についてのアドバイス、すなわち、行動指針や収入などのライフプランの情報に限らず、そういった職員や部下のいる管理職、あるいは、企業に向けた対処の方法などについても言及しています。日本の場合は特に職場での仕事に限らず、いろんなものに対して料金や見返り以上のオーバースペックを期待する場合が少なくありません。ホントは100の必要しかないのに、150や200のスペックを求めるのはムダとしかいいようがないのですが、そういったムダによりコストが高くなっている面もあり、低生産性につながっているとも考えられます。他方で、最近の新入社員の意識調査などによれば、出世を強く望んでいるふうでもなく、そういった仕事面だけでなく人生観や処世術の総体的な呼び方として「草食系」という表現があるのは広く知られている通りです。草食系までいかないとしても、コスパやタイパの重視はそういった方向と一致している動きだと考えるべきです。他方で、肉食系・モーレツ系の管理職なんかが、そういった草食系を扱いかねているのも事実かもしれません。最後に、私自身はキャリアの国家公務員として、役所で平均的なレベルに満たない出世しかできかったのですが、決して出世を望んでいなかったわけではなく、平均的には出世したいものだと常々考えていました。でも、ダメだったわけです。

次に、勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)を読みました。著者は、組織開発専門家だそうです。はい、私にはよく理解できない種類の活動をされているような気がします。本書での問いは、学歴不要論などが何度か定期的に繰り返し浮上する一方で、学歴社会は一向になくなりそうもありませんし、誰のために、どういった組織のために学歴社会があるのかも不明ですから、そういった学歴を何らかの指標にするのはどういった必要からか、を問いとして考えています。ただ、いつも日本にある言葉の問題で、本書も高卒と大卒といった学歴による区別や差別、あるいは、順位付けを問題にしているのではなく、卒業校の偏差値によるそういったランク付けのようなものを問題にしているわけです。結論は本書で早々に示してあり、能力が高く、お給料をたくさん渡すに適した人材を評価するため、ということになります。そして、そういった学歴のバックグラウンドに努力の蓄積があると考えているわけです。がんばって努力したので、いい大学に入れたのではないか、という推測を成り立たせているわけです。私も大学教員ですので、学生諸君の就活には大いに利害関係があり、さまざまな情報に接していますが、かなり前に日本の超一流メーカー、国際的にも名の知れたメーカーで就活のエントリーシートに大学名を書くセルのないものを用意して、大学名によらない選考をしたところがありました。結果としては、私が確認したわけではなく、世間のウワサ程度の信憑性ながら、みごとに偏差値順による評価と同じだった、と聞き及んだことがあります。ですから、何がいいたいのかというと、就活の選考の結果として、企業の採用部門で評価するのは大学入学の際の偏差値ときわめて強い相関がある、ということです。これはある意味で当然の結果であり、卒業して就職する際に高く評価される大学がいい学生が集まって競争が激しく、偏差値が高い、という因果関係になるわけですから、就活から逆算された偏差値が出るのは不自然ではありません。ただ、規模の大きな企業で働くとすれば、何人かのグループで、あるいは、他の組織と協力して業務を進める必要があるわけで、そういった意味で、コミュ力というのも重要です。本書では、最後の方で学歴社会の弊害防止のために、現在のメンバーシップ型ではなく、業務を職務記述書などで明記するジョブ型の採用を今後の方向として推奨しているようです。私はこれは疑問です。単に採用方法を変えればいいというものではありません。本書のような小手先のお話ではなく、日本の雇用を根底から変更する可能性も視野に入れた本格的な議論が必要です。

次に、岩波明『高学歴発達障害』(文春新書)を読みました。著者は、昭和大学医学部精神医学講座主任教授です。本書以外にも、発達障害についての著書があり、私も読んだ記憶があります。本書では、中高生、大学生、社会人、さらに、起業家やフリーランスといったライフステージ別に、おそらく、実際の医療行為を施した患者の実例を基にして、症状の例や治療・投薬の実際を紹介しています。終わりの方で、継続的に症状が改善しない例や治療困難な例を示しています。ただ、実例そのものではないにしても、実例に即した治療や投薬ですので、一般化された発達障害の議論ではなく、やや応用性に乏しい気がしました。特に、医者のいうことを聞かない、とか、思い込みが治療を阻害するとか、治療に当たる医者として、治療が長引いたり、難しくなったりする原因としては、ある意味で当然なのかもしれませんが、高学歴エリートだから医者のいうことを聞かない、とか、思い込みが激しい、といったニュアンスを感じさせるのは、私は少しバイアスを感じないでもなかったです。副題が「エリートたちの転落と再生」となっていて、各実例の最後に「再生のポイント」というのがあり、「転落」とか「再生」という言葉遣いがややどぎつい気もしました。加えて、「覗き見趣味」とまではいいませんが、タイトルからしても、ややキワモノっぽくしてありますし、高学歴のエリートであることが治療を難しくしているという明確な記述はそれほどありませんが、タイトルや副題からして誤解を生じさせる可能性が排除できません。その上、明確に断っているとはいえ、高学歴のエリートではないと考えられる例を基にした部分もあり、少し違和感を覚えました。小説であれば、発達障害の中でもADSとかサヴァンのポジな面を強調して、話を盛ることもひとつの手段であるのに対して、医者が症例を基にした新書ですので、話を盛るような逆バイアス的な記述を避けようというい意図は理解しますが、繰り返しになるものの、高学歴、あるいは、エリートだから発達障害が治療しにくい、治りにくい、といった暗示的な記述は避けるべきであり、私の気にかかった部分もあった点は指摘しておきたいと思います。本が売れりゃあいいってものではありません。

次に、藤崎翔『お梅は次こそ呪いたい』(祥伝社文庫)を読みました。著者は、お笑い芸人から小説家に転身しています。本書は『お梅は呪いたい』の続編であり、戦国時代に作られた呪いの人形であるお梅なのですが、前作ではブランクが長くかったため、人間を呪うどころか、逆に幸福をもたらしてしまった、というコメディでした。続編である本書では、冒頭に解体された家屋にあった次郎丸という同じ呪いの人形から、新しく空中浮遊と胴体分離の能力を教示されます。従来からの瘴気も少しパワーアップされ、ネガな気分を増幅させる能力も駆使して、新たな標的に呪いをかけます。まず、第1に、有名私立小学校のお受験に挑む家族なのですが、両親は離婚寸前までいっていて、崩壊しかねない一家の「間者童を呪いたい」、そして、第2に、その一家のお受験の少女と仲のいい女の子、この少女は障害を持っているのですが、その少女と兄を抱える母子家庭の「母子家庭を呪いたい」と、それぞれの一家を呪うのですが、ことごとく失敗して逆に幸福をもたらしてしまうのは前作と同じ趣向です。そして次の第3に、二世帯住宅に居住する一家なのですが、母親が父と娘から邪険にされ、おばあさんのいる方に入り浸っている一家、となります。この「二世帯住宅で呪いたい」が、単にコミカルなだけではなく、実に劇的な真相解明がなされます。要するに、ミステリ仕立てになっているわけです。第4話の「恋患いで呪いたい」では、ランチによく行くファミレスのウェイトレスの女性に恋する男性の危機を救ってしまいます。これもミステリ仕立てになっています。詳細に、お梅ではなく作者が謎解きを展開します。最後の「しんがあそん某を呪いたい」では、一発だけヒットを飛ばしたシンガーソングライターの男性を呪おうとしますが、結局、というか、やっぱり、成功に導いてしまうわけです。明らかに前作よりも、お梅ではなく作者がパワーアップしています。ミステリ仕立ての謎解きがあったり、各話のリンケージがよくなって、前の短編の一部が次の短編の伏線になっていて回収されたり、あるいは、各話にチラホラ登場するテレビのワイドショーの司会者の沖原が重要な役割を果たしたり、もちろん、前作も十分に面白かったのですが、小説としてのクオリティが爆上がりだと思います。

次に、松下龍之介『一次元の挿し木』(宝島社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家なのですが、まだ専業作家ではないようで、第23回「このミステリがすごい!」大賞・文庫グランプリを受賞してデビューしています。当然、私は初読の作家さんでした。ということで、800人ほどの遺体が眠るヒマラヤ山中の標高5000メートルにあるループクンド湖で石見埼明彦が採掘した200年前の人骨のDNAが、4年前に失踪して行方不明になっている七瀬悠の妹である七瀬紫陽のDNAが一致したところからストーリーが始まります。古今東西トップテン入りするであろうSF名作『星を継ぐもの』を思わせる出だしです。主人公の七瀬悠は大学院で研究しており、石見埼明彦は指導教授です。遺伝子をキーワードにした科学SFっぽいミステリなので、瀬名秀明の『パラサイト・イブ』も思わせますし、さらに、巨大なカルト宗教教団も登場します。その教団の意を呈して動く怪物、あるいは、死神のような大男も登場します。もちろん、ミステリですから殺人事件が起きます。DNA鑑定結果に不審を持った七瀬悠が指導教授の石見埼明彦を訪ねると、石見崎教授は殺害されています。さらに、ループクンド湖での人骨の発掘に関わった調査員も次々と襲われ、研究室からは問題の人骨が盗まれてしまいます。七瀬悠は、行方不明の妹の生死の謎とDNAが一致する真相を突き止めるため、石見崎教授の姪を名乗る唯とともに調査を開始することになります。しかし、その調査の過程で巨大な宗教団体「樹木の会」や製薬会社が関わる陰謀、想像を絶するような大きな闇に巻き込まれていくことになります。謎解きは鮮やかですが、DNAが完全に一致するのですから、科学的・論理的に一卵性双生児でなければ、その理由はひとつだけですから、DNAの一致に関する謎がこの作品のもっとも重要な謎というわけではありません。ですから、石見崎教授をはじめとする、というか、石見崎教授以外にも死ぬ人が出てくるわけですが、そういった殺人事件の謎の解明が主たる謎解きとなります。でも、それらの背景にある極めて大きな謎については、まあ、読んでみてのお楽しみ、ということになります。繰り返しになりますが、出だしが『星を継ぐもの』みたいな雰囲気を出していますし、『パラサイト・イブ』っぽい部分もあります。加えて、最近の作品の中では、遺伝子関連という意味で『禁忌の子』を連想させる部分もあったりします。ただ、宗教団体の行動原理については、合理性を欠く可能性がありますので、注意が必要です。いい出来のミステリです。大いにオススメです。

次に、貴戸湊太『図書館に火をつけたら』(宝島社文庫)を読みました。著者はミステリ作家なのですが、第18回「このミステリーがすごい!」大賞U-NEXT・カンテレ賞を受賞し、『そして、ユリコは一人になった』で2020年にデビューしています。宝島社文庫から出ている「認知心理検察官の捜査ファイル」シリーズも人気だそうです。ただ、不勉強にして私には初読の作家さんでした。ということで、千葉県にある七川市立図書館の地下書庫で大規模な火災が発生し、焼け跡から死体が発見されるところからストーリーが始まります。焼死と思われたその死体の頭部には何者かに殴られた痕があり、火災の前に殺人事件が起きていたことが発覚しますが、発見場所である七川市立図書館の地下書庫は事件当時、密室状態にあったことが明らかになります。主人公の瀬沼刑事が真相を探ることになります。実は、冒頭の挿話では小学校に馴染めずに図書館を居場所にしていた3人の小学生のお話が置かれています。小学6年生だった瀬沼貴博は刑事になり、5年生だった島津穂乃果は図書館司書として市立図書館で働いています。4年生だった畠山麟太郎は小説家を志望して調べ物でしょっちゅう図書館に来ます。この3人が協力して事件解決、謎解きに当たるわけです。そして、真相解明の前に「読者への挑戦状」が置かれています。真相解明は、ホームズ的な消去法にしたがってなされます。殺されたのが誰かは真相解明のずっと前に明らかになるものの、地下書庫はいかにして密室状態となったのか、誰が殺人犯なのか、などなど典型的なミステリといえます。図書館を舞台にしたミステリですので、馴染みやすい読者も少なくないだろうと思います。そして、その図書館の人間関係がていねいに記述されている上に、いかにも実際にありそうで親しみが持てます。人間関係の詳細は読んでみてのお楽しみです。ただ、謎解きに関しては、瀬沼刑事が示した犯人に対して、島津司書が異議を唱えたりしますので、少なくとも作中人物は混乱をきたしているように見えたりしなくもなく、読者ももたついた印象を持つかもしれません。ただ、死ぬのはたった1人ですし、しかも、密室殺人です。「読者への挑戦状」もあって、ミステリとしてではなく、別の面で小説としての完成度は高くてオススメです。
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