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2005年11月 8日 (火)

フジモリ元ペルー大統領@サンティアゴからチル・ペルー関係を考える

一つ前のブログの最後に書いたように、昨夜の9時過ぎにサンティアゴ在住の友人からメールをもらって知りましたが、ペルー元大統領のフジモリ氏がサンティアゴで身柄を拘束され、警察学校で事情聴取を受けているそうです。
メールで知らせてくれたのは、私が1991-94年に在チリ日本大使館で経済アタッシェをしていた時に、毎晩のように夕食に行っていた日本食レストランの板前さんです。
警察学校はサンティアゴ市内の東部にあり、少しアンデス山脈の方に上っていったところにあるアレだろうと思います。サンティアゴ駐在時に近くのディスコに行った記憶があります。ほとんど照明のない真っ暗なディスコでした。もっとも、違っているかもしれません。

私がいたころのサンティアゴには日本の新聞記者が駐在しておらず、日経新聞のリオデジャネイロ支局の記者が時折サンティアゴに来ては、私に対するインタビューも含めて取材をしていました。私がいた1990年代前半に、日経新聞は支局をリオデジャネイロからサンパウロに引越ししたように記憶しています。今回は読売新聞の記事を参照していますが、読売新聞はブエノスアイレスに支局を置いているようで、そこの記者さんが取材して記事を書いているようです。

それにしても、フジモリ氏はどのような意図でチリに入ったのでしょうか。事情聴取が進められている現段階では憶測でしかありませんが、やっぱり、チリはペルーと仲が悪いので、やや油断していたのではないでしょうか。これが私の推測です。

現時点でも、チリとペルーは太平洋上の国境線でもめているようですし、歴史的にも、チリはペルー・ボリビア連合軍と太平洋戦争を戦って勝ち、北部の赤道近くのアタカマ砂漠を両国からぶん取っています。「太平洋戦争」といっても日本が前世紀にやった「大東亜戦争」ではなく、19世紀の末、1879年から83年までチリとペルー・ボリビアの間に戦われた、別名「硝石戦争」のことです。詳細は後述します。この太平洋戦争の結果、ボリビアは海への出口を失って、いまだにチリを目の敵にしていたりします。

歴史的に見れば、15世紀終わりのアメリカ大陸発見とその後のスペインによる植民地支配の中で、ペルーはチリよりは言わば「格上の国」でした。銀が出ていた時代にはスペイン国王の弟が副王としてペルーに駐在していたり、銀が出なくなってからも海岸部のグアノの輸出で大きな富を蓄えたりしていました。グアノとは、海鳥のフンが化石化したもので、19世紀半ばに発見されました。窒素肥料として大量に輸出され、「グアノ・ブーム」と呼ばれる好景気を呼び、この輸出により約5億米ドルの外貨を獲得したと言われています。

しかしながら、太平洋戦争でチリに負けたあたりから、ペルーの転落が始まります。太平洋戦争は当時の3国の国境地帯のアタカマ砂漠に産出する硝石をめぐる戦いで、ペルー・ボリビア領内で早くから操業していたチリ企業が有償ながらもペルーに国有化されたり、ボリビアから不当な高課税をされたりした結果、戦争になってしまったものです。いかにも19世紀的な帝国主義戦争です。結果はチリのボロ勝ちで、ペルーは2年間にわたって首都のリマをチリ軍に占領されたりしました。

この影響だと思うのですが、私がチリに駐在して肌で感じたところによると、ペルー人は少なくとも軍事的にはチリをとても脅威に感じています。もっと言えば、チリに対して劣等感を感じているとすら言えます。

だから、フジモリ氏はチリに入国し、チリでうまくやって行ければ、ペルー政府はチリ政府に強くは出られないだろうと高をくくっていたのではないかと思います。しかしながら、フジモリ氏はチリでうまくやって行けず、チリはフジモリ氏を政治的な邪魔者としてしか見ていなかったフシがあります。フジモリ氏が自分自身を過大評価してしまったとしか私には思えません。

これが、今回の「フジモリ騒動」に関する私の見方ですが、今後、チリでの事情聴取が進めば真相は明らかになるでしょう。

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