オペラのトゥーランドットについてのメモ
いろいろと考えた末に、新しいカテゴリーを立てることにしました。その名も「トリビアな日記」です。日常生活や社会で何の役にも立たないが、それなりに心豊かになる雑学を、私の知る限りでご紹介します。もちろん、私がオリジナルで調べ上げたものではありませんので、他の先学が取りまとめられたのをご紹介します。著作権は尊重しておりますが、先学と似たような表現があるのはお許し下さい。
最初のトリビアな日記はトゥーランドットです。
実は、恥ずかしながら、ミラノの冬季オリンピックで荒川選手がフィギュアスケート女子で金メダルを取ったフリーの曲がトゥーランドットだったとは、私は知りませんでした。多くの人と同じように、イナバウアーの方ばかりに目が行っていました。
トゥーランドットはジャコモ・プッチーニ(1858-1924年)の最後の作品です。プッチーニのオペラといえば、日本では長崎を舞台とした蝶々夫人が有名ですが、中国を舞台にしたこのトゥーランドットも東洋趣味のものです。トゥーランドットについては、正確には未完のままプッチーニが他界してしまったので、残りの部分はプッチーニのスケッチなどを参考にしてフランコ・アルファーノが完成させました。アルファーノに依頼したのは音楽出版社として有名なリコルディ出版社とプッチーニの息子の意向だったそうです。当時、手堅い作曲と旋律美に定評があり人望も厚かったことから、アルファーノに白羽の矢が立ったらしいです。もちろん、アルファーノはプッチーニの友人であり、弟子でもありました。
アルファーノは残された草稿などをもとに一所懸命に取り組んだんですが、トゥーランドットは未完のままであるべきだとの主張も一部にありましたし、また、プッチーニの友人で指揮者としても有名なアルトゥーロ・トスカニーニがなかなか首を縦に振らず、アルファーノはかなりの労力を費やしてしまったようです。一説には、3度の改訂を経てようやくトスカニーニのOKが出たともいわれています。そのためアルファーノはかなり感情を害してしまい、自分が完成させたにもかかわらず、死ぬまでトゥーランドットの舞台を見に行かなかったらしいです。
トゥーランドットは1926年4月25日にミラノ・スカラ座でトスカニーニの指揮で初演されました。初演の初日にトスカニーニはプッチーニ自身が書いた第3幕の「リューの自殺」の場面まで演奏し、「先生はここまで作曲されて亡くなられました」と言って指揮を止めてしまったため、残りの全曲演奏は翌日の公演になってしまったそうです。もっとも、第3幕でいったん終わるのはプッチーニの遺言だったという説もあります。
トゥーランドットは蝶々夫人と同じように、ある意味で東洋趣味の作品で、架空の時代の中国の王朝、その首都の北京を舞台にしています。トゥーランドットはこの王朝の姫の名前で、アルファベットではTurandot、中国式の漢字では杜蘭朶と書きます。もともとは、ペティ・ド・ラ・クロワが1710-12年に出版した『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」に出ているようで、さらに、その物語を基にヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴッツィが1762年に戯曲として著しています。プッチーニのオペラはこのゴッツィの戯曲を原作としています。
ストーリーを簡単に紹介すると、氷のように冷たい心を持つトゥーランドット姫が求婚者に3つの謎を解くことを求め、解けない者の首をはねてしまうんですが、最後にダッタンの王子カラフがみごとに謎を解き、トゥーランドット姫の心を開くというものです。
なお、私はオペラそのものを見たことはないのですが、CDのジャケットなんかで見る限り、中国や東洋・アジアについて、とても誤解したコスチュームやお化粧になっている気がします。
今夜はこれまでとし、ゴッツィの原作、特にトゥーランドットの3つの謎については、明日のブログで詳しくご紹介します。
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