新庄選手の引退を惜しむ
阪神タイガースに入団し、米国の大リーグに渡った後、現在は日本ハムでプレーしている新庄剛志外野手が先日4月18日のオリックス戦の後に、今シーズン限りで引退することを試合後のヒーローインタビューで明らかにしました。満塁ホームランを含む2ホーマーを放ってお立ち台に上がった新庄選手は自らマイクを手に「ファンに報告したいことがあります」と切り出し、「今シーズン限りでユニホームを脱ぐことを決めました」と異例の引退表明を行ったそうです。球団フロントはもちろんのこと、監督や同僚選手にも相談せず、試合後のヒーローインタビューでいきなりいい出したそうです。
その後も、昨夜、オリックス戦で初回に左中間へ4号3ランを放ち、2試合連続のホームランでチームの4連勝、2位浮上に貢献したりしています。もちろん、ファンからの「やめないで」メッセージもたくさん届いているようです。FAしたとはいえ、阪神タイガースにも11年在籍した選手だけに、私も少し残念な気がします。
私は1991-94年までチリに駐在していて、このころのタイガースはヤクルトと最終戦でリーグ優勝を争ったりしていたんですが、新庄選手のデビューがちょうどこの期間と重なっていますので、私はデビュー直後の新庄選手はよく知りません。でも、この時期の新庄選手で記憶に残っているのは、チリからの帰国後の1995年のことなんですが、この年はタイガースが余りに不振で、夏に当時の中村監督が休養に入り、藤田平監督代行に交代したりして、この年のオフに新庄選手が弱冠23歳にして、「野球のセンスがないから辞める」といって引退宣言をしたことです。
当時の藤田平監督代行は選手時代から地味な選手だったのですが、派手な新庄選手とソリがあわないといわれ、新庄選手の成績もヒドかったと記憶しています。新庄選手は野球を引退して、日本初のプロ野球出身のJリーガーを目指そうとしていた、というウワサもありました。その真偽は定かではありませんが、新庄選手なら充分に本気で考えていそうな話だと思いました。でも、結局、周囲に説得されて2-3日後に引退は撤回し、その翌年はそこそこの成績を残したことを覚えています。しかし、このころはタイガースはどん底で、最下位が指定席だったような気がします。
もうひとつの新庄選手にまつわる思い出は敬遠のくそボールを打ってサヨナラヒットを放ったことです。何年かはハッキリしなくて、野村監督だったことだけは覚えています。調べてみると、野村監督は1999年に阪神タイガースの監督になり、翌年2000年のオフに新庄選手はFAで大リーグに渡っていますので、1999年か2000年かのどちらかの年で、割合とシーズンの早い時期だったと思います。2000年であれば9月にジャカルタに赴任していましたから、おそらく、6-7月くらいまでのことだと思います。多分、甲子園での巨人戦で延長になり、何回かの裏の阪神の攻撃で、ワンアウト1・3塁で巨人の槙原投手が新庄選手を敬遠しようとしたんですが、この敬遠のくそボールをひっぱたいてレフト前のヒットを放ち、阪神がサヨナラ勝ちをしたことを夜のニュースで見た記憶があります。これも、ホントかウソか知りませんが、新庄選手が事前に野村監督に敬遠ボールを打っていいかと聞くと、野村監督は「勝手にせい」といったらしいとの話を聞きました。これは、翌日のスポーツ新聞で記事を見た記憶がありますので、少し誇張があるのかもしれませんが、多分、このやり取りは事実ではないかと思います。
大リーグから日本ハムに移った後の新庄選手はよく知りませんが、唯一、記憶にあるのは、一昨年のオールスターでホームスチールをしたことです。前半の若い回だったと思うんですが、キャッチャーがピッチャーに返球したスキに3塁からホームにスチールしました。この時のキャッチャーが阪神の矢野選手だったことを記憶しています。
阪神タイガースのころから、足が速くて肩が強くて、外野手としての守備は天下一品でした。打撃でもチマチマした打撃ではなく、三振も多かったですが、ホームランもかっ飛ばす意外性のある打者でした。その意味で華のある選手だったと思います。多分、監督には向いていないと思いますが、もしも、監督向きなのであれば、将来は阪神タイガースで監督をして欲しいです。
今日のブログは無理やり阪神タイガースの日記にしておきます。
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