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2006年10月18日 (水)

教育に求められるのは平等か?

今日、教育再生会議の第1回会合が開催されました。
ということで、今日の午後は、ある大学に行って研究会に参加していたんですが、終わってから雑談で教育再生会議の話になり、昨夜のエントリーで私が書いたような教育バウチャーを導入するのは、エリート向けの教育にはいいかもしれないが、全国民一律の最低限の教育水準を確保する観点からは、必ずしも効果的ではないとの意見が出ました。大学の教授なんかも教育をしているわけですから、教育改革に関する意識は高いようでした。もっとも、教員の雇用と賃金を確保する方向で意識が高いのかもしれません。
さて、このバウチャー制は格差を広げるとの意見はもっともです。その通りで、正しいと思います。少なくとも学校間の格差は広がります。いい学校だと目されて多くの生徒や児童が集まると、それだけ多くの予算が獲得できることになります。逆に、行きたくない学校だと評判が立てば、集まってくる児童や生徒が少なく、従って、児童や生徒の数に従って配分される予算も少なくなります。児童・生徒や保護者はいろんな情報を収集して、いい学校に行こうと考える可能性がとても高いです。要するに、学校間に競争を導入するとは、そういうことなのですから。
もちろん、一部の学校に児童や生徒の入学希望が集中する可能性があり、このため、短期には摩擦を生じることが十分考えられますが、児童や生徒がコンスタントにたくさん集まる学校は校舎を建て増して、先生を新たに雇い入れればいいわけですから、長い目で見れば何とかなる可能性が大きいです。団塊の世代やその10年後くらいの私なんかの世代では、小学校のプレハブ校舎は当たり前の風景でしたし、校舎や教員が足りないなんて、何とかなるもんだと思えてしまいます。実際に、昭和30年代の日本は乗り切って来たんではないでしょうか。
それから、そもそも論として、教育に競争を持ち込むのがいいことなのか、という意見もあり得ます。競争を導入すれば格差が生まれるからです。しかし、教育に求められるのは平等ではないと私は考えています。個性を伸ばすという表現がありますが、これがよくて、格差といい換えると悪いことになってしまう面があって、やや、言葉遊びみたいなんで、どこまで真剣に議論すべきか、よく分かりません。そもそも論の神学論争に逃げ込むよりも、もっと実践的な結論を得るべきだと思います。ここ数年続いたゆとり教育が多くの国民から批判されているわけですから、この事実を直視するべきだと思います。

教育は国の形に直結するとともに、極めて広い層の国民が関与して、それだけに、既得権益はとても厚くなっています。現在のシステムが居心地がいいと感じるマイノリティを排して、ゆとり教育が間違いだったとする国民マジョリティの意見を反映させることが重要です。
私は、アノ悪名高い護送船団方式の金融政策においてさえ金融社会主義から資本主義に成長しつつあるんですから、教育も市場原理を少し取り入れて資本主義に脱皮するいいチャンスだと思うんですが………

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