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2007年6月14日 (木)

公的年金の政治経済学

今日は朝からが広がり、夕方から雨が降り出しました。気温は上がりませんでしたが、湿度が高くて蒸し暑かったです。今日、近畿から関東甲信まで梅雨入りしたと見られるそうです。

ここ1-2週間ほど年金や社会保険庁の問題が話題にならない日はありません。少し前のエントリーでも書いたように、現在の問題は社会保険庁の事務処理がズサンだったことに起因しているんではないかと思いますから、エコノミストとしては特段の意見を持たないんですが、いろいろと年金について勉強すると、現在の日本の年金制度については経済学的には望ましい制度かどうか、疑わしい部分も見えてきます。純粋に経済学的な観点よりも政治経済学的な妥協の産物の制度だという気がしないでもありません。
まず、エコノミストの間では現在の賦課方式よりも積立方式の年金の方が資本蓄積には望ましいとされています。フェルドスタインの論文 (M. Feldstein, "Social Security, Induced Retirement, and Aggregate Capital Accumulation," Journal of Political Economy 82(5), 1974, pp.303-26) で証明されているんですから、もう30年以上も前の話です。さらに、積立方式であれば民営化も可能です。積立方式は運用とインフレの観点からリスクがあるとされ、さらに、世代間の所得移転が出来ませんから、賦課方式に移行したということになっていますが、政府が好ましい世代間の所得移転が出来るというアプリオリな理由は見出せません。それ以外に賦課方式が望ましいとする理由はありません。これは根本的な疑問です。
しかしながら、賦課方式が採用されているのは一種の民主主義のバイアスだと私は考えています。すなわち、代議制民主主義である以上は選挙における投票が国民の意志をもっとも明らかに示すことになるんですが、選挙権を有していない若年層は意志を反映させることが出来ません。まだ生まれていない将来世代についてはなおさらです。加えて、一般に高齢者ほど投票率が高く、結果として、現行の年金は圧倒的に年長者ほど有利な所得移転制度になってしまっている気がします。社会保険庁のズサンな事務処理は言語道断ですが、年金制度の所得移転機能を抜本的に見直すべき時期に来ているのかもしれません。年金の支払い確認に長蛇の列を作っている高齢者を冷ややかな目で見ている大学生なんかがいるような気がしないでもありません。
ですから、昔からある妥協案として、ナショナル・ミニマムの観点から、いわゆる1階部分の基礎年金は賦課方式または税方式により世代間の所得移転を実施するとしても、報酬比例の2階部分は積立方式に移行して民営化するというのが、エコノミストの間で一定のコンセンサスを得ているような気がします。しかし、現在の日本の制度を基本に考えると、2階部分まで公的年金でカバーするというのは、決して社会保険庁の天下り先確保のためだけではなく、国家の強制徴収力を背景として、かなり国民にもおトクになっている面を見逃すわけにはいきません。すなわち、現在の日本の公的年金制度では厚生年金の2階部分は労使の折半負担となっていますから、これを民営化したり、自由化したりする場合、企業側が企業負担の部分を賃金に上乗せして支給してくれるかどうかが、はなはだ怪しいと私は考えています。ここで国家の強制徴収力を利用して、企業から半分の負担を得られるのであれば、民間保険会社の年金保険よりもずいぶんとおトクになると言えます。
さらに、より専門的に見れば、逆選択の問題もあります。公的年金の大きな特徴は終身年金だということです。民間の年金保険では5年とか10年とかの期間が決まっているものが多く、終身年金は余り例を見ないと思います。どうしてかというと、逆選択の問題が生ずる恐れが大きいからです。すなわち、自由加入だと余命の長そうな人ばかりが加入して、その分だけ保険料が割高になってしまう恐れがあります。国家の強制力に基づく全員加入の皆年金を構築すれば逆選択の問題は防止できます。どうでもいいんですが、この文脈では、世代間の所得移転を実施する主体としての政府だけではなく、司法も含めた強制力を有する国家という概念を援用しています。
いずれにせよ、強制力を有する国家が何らかの国民の価値判断に基づいて国民皆年金を実施し保険料を徴収するのは、一定の理由があることだと私は考えています。少なくとも、社会保険庁の存在を無条件に否定して、年金の民営化が唯一の解決策だとは思いません。まあ、不二家に廃業しろと言った思慮の足りない人もいるくらいですから、事務処理の圧倒的なズサンさを考慮すれば、テレビのワイドショーなんかで社会保険庁のことをヒステリックに非難するのは理解できないでもないですが、冷静に考えれば、同じワイドショーで銀行や保険会社なんかの民間金融機関の不祥事を取り上げたこともあるんではないでしょうか。私の直感では、民営化した方が年金制度はそれ自体としては効率化する可能性が高いと思いますが、国家の強制力がないわけですから、企業負担部分を強制徴収したり、逆選択を回避して全員から保険料を徴収したりするのが不可能になる分、現在のようなおトクな制度にはならない可能性が十分あると考えられます。2階部分の年金の民営化を検討する場合、社会保険庁のズサンな事務手続きでロスする部分と、国家の強制力により徴収することにより負担と給付の比率が国民に有利になる部分と、全体としてどちらが国民におトクになるかを比較考量する必要がありそうに思います。私の直感的な結論はいうまでもなく、社会保険庁のロスなしに国家の強制力をフルに発揮する方式だと思います。

今夜のエントリーでは、世間の社会保険庁バッシングの風潮に棹差して、ちょっとひねくれた見方をしてみました。感情的なものも含めて、反論も多いだろうと思いますが、国家の強制力を考慮すれば、私のような考え方もある意味では合理性があるんではないかと思います。しかし、結局のところ、社会保険庁のロスをミニマイズすることを重視すれば、世間一般の結論と同じだという気がしないでもありません。

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