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2009年9月 2日 (水)

阿刀田高『コーランを知っていますか』(新潮文庫)を読む

阿刀田高『コーランを知っていますか』(新潮文庫)阿刀田高さんの『コーランを知っていますか』を読みました。図書館で借りました。明らかに買って読む本ではなく、借りて読む本だと私の本能が告げたからです。なお、どうしてこの文庫本を読んだのかというと、先日、大統領選挙の投票が終わったアフガニスタンの世銀事務所に勤務する知り合いのエコノミストがブログで取り上げていたからです。要するにマネしたわけです。でも、正しくは inspire されたと表現すべきかもしれません。宗教について言えば、私は2回の海外勤務を経験していますが、1回目はカトリック教国の南米のチリ、2回目はイスラム教国のインドネシアでした。そして、日本は一応仏教国と見なされるような気がします。世界の3大宗教すべてを目の当たりにしたといえるかもしれません。もっとも、このブログでも何度か表明している通り、私は仏教徒であり、浄土真宗=一向宗の門徒です。でも、ある意味で、一向宗の門徒はユダヤ教、キリスト教、イスラム教などと同じで、阿弥陀仏に対する一神教に近いと私は考えています。死んだ私の父などは、浄土真宗は一神教であって神に祈る必要はないし、初詣に行く必要もなく、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えればそれでいいんだと言い切っていたりしました。
本題に戻ると、私のような専門外の人が知らないだろうと思うのは、ユダヤ教やキリスト教の一神教の集大成としてイスラム教が存在するという位置づけではないでしょうか。旧約聖書と新約聖書の間柄からうかがわれるように、ユダヤ教とキリスト教の連続性のようなものは、日本人でもほのかに理解していると思うんですが、さらにその先にイスラム教が位置しているとは、少なくとも私は不勉強にしてまったく知りませんでした。ジャカルタにいたころ、牛肉を食べるに際して、イスラム教徒でなければ、ユダヤ教徒かキリスト教徒が処分した牛でなければならないと聞いたように記憶していますが、このあたりの謎が解明されたように思います。
でも、私にとって解明されないのは、いわゆる最後の審判です。これはイスラム教に特有のものではなく、むしろ、ユダヤ教やキリスト教から継承した考えであると私は受け止めていますが、いずれにせよ、一向門徒である私の中では、人は死ねば仏になるだけで、世界の最後の審判がさらにその先に控えていて、もう一度裁きを受ける機会があるという考え方はなじめません。最後の審判があるという考え方は、ある意味では、一神教の神の立場を強化するとも考えられますし、逆も成り立つような気がします。もうひとつ疑問、というより、やっぱりなじめないのは、神様が厳しいことです。我が一向宗の阿弥陀仏はひたすら念仏者を助けてくれるだけで、それも、死んだ際に輪廻転生から開放して極楽浄土に導いてくれるだけのシンプルな教えですから、お坊さんは別にしても在家の信者には念仏を勧めるだけで、実質的に戒律はないと私は勝手に解釈しているんですが、イスラム教はラマダンに代表されるように、ユダヤ教やキリスト教と比較しても戒律がとっても厳しいように感じています。この私の受止め方が正しいのか、間違っているのか、この本を読んだだけでは十分に解明されなかったような気がしないでもありません。

少し難点ばかりを上げてしまいましたが、最後の解説にあるように、非イスラム教徒が多い日本人にとってイスラム教を理解するのに優れた入門書といえます。私の勝手な想像では、キリスト教と仏教が宗教世界と現実世界をある程度は別のものと考えているの対して、ユダヤ教とイスラム教はあくまで合致させているように感じられて、違和感があったんですが、この本を読んで少しは役に立つところがあった気がします。

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