今週の読書から
今週の新刊書の読書結果です。
まず、岩井克人ほか『経済学は何をすべきか』(日本経済新聞出版社) です。最初の章の岩井教授による「経済学に罪あり」はかなり読みごたえがあります。新古典派的な経済学に疑問を呈し、ケインジアンな不均衡動学に基づく経済学理論を展開しています。何分、2008-09年の金融危機により従来型の経済学への信認が大きく揺らいでいますし、岩井教授のような視点でマルクス主義的な経済学も視野に収めつつ、バランスのいい議論は必要かと私も思います。特に、岩井教授は新古典派的な効率の追求は安定を損ないかねないと主張し、効率と安定は必ずしもトレードオフとは私は考えないものの、この観点は重要と受け止めています。ただし、岩井教授は「貨幣を使う経済であることによって、効率性を高めれば不安定になり安定性を求めると効率性が損なわれる二律背反」と主張していますので、私と違って何らかの効率と安定のトレードオフを前提にしているのかもしれません。その場合、本書に明記されていないものの、政府の介入が何らない純粋な市場をひとつの効率性の一方の極に置き、他方、政府がすべてを決める社会主義的な市場、というか、それはもはや市場とは呼べないような気もしますが、取りあえず、これを安定の極に置いた議論が想定されているのかもしれません。もちろん、実際には、各国の市場はこの間のどこかに位置するわけで、より効率を重視するか、より安定を重視するか、といった選択の問題になる可能性はうかがえます。また、岩井教授は貨幣に関する投機性を主張し、貨幣を受け取ること自体が、その後の貨幣の利用を前提とした投機的な行為だと指摘するんですが、「じゃあ、どうすればいいのか」という疑問も残ります。不安定性を内包するケインズ的な投機と安定性の向上に寄与するフリードマン的な投機の見方については、ケース・バイ・ケースなんだろうと私は考えています。第2章と第3章はどうしてこの本に収録されたか、私にはよく分からないんですが、第4章の「経済学にイノベーションを」で大橋教授が展開する経済学の政策貢献の役割についての議論はそれなりに面白いと感じました。経済学は有限で希少な資源を効率的に配分するために役立つと考えられているんですが、経済全体として供給能力が潜在需要を上回っていて飽和状態であったり、デジタル・コンテンツのようにほぼ限界費用ゼロでコピー可能で資源の希少性が欠如しているなど、古典的な経済学の有用性に当てはまらないケースの指摘も、私にはもっともと考えられます。やや本としては各章のカップリングが悪いと感じられるかもしれませんが、個別のチャプターは独立した論文としても参考になるように感じます。
次に、クリスティア・フリーランド『グローバル・スーパーリッチ』(早川書房) です。著者は長らく Financial Times の記者を務めたジャーナリストですが、昨年年央にカナダ自由党から政界に進出することを表明したそうです。ともあれ、ジャーナリストの書いたノンフィクション本ですが、ある程度はスーパー・リッチに関する学術的な興味も満たせるように配慮されています。例えば、グローバル・スーパーリッチであるプルトクラート出現の背景として、テクノロジー革命とグローバル化を上げ、スーパースターとして富を蓄積する際には、クライアントが豊かなマーシャル効果、クライアントが増加するローゼン効果、クライアントとの取引条件が改善するマーティン効果、さらに富が富を蓄積するマタイ効果などと分析をしていたり、また、公立高校からハーヴァード大学やスタンフォード大学などの一流校に進んだことから、現体制の欠陥を外側から見出しやすく、かつ、現体制への帰属意識に乏しい人々がプルトクラートの無視できない部分を形成している、などの指摘も興味深いところです。しかし、現在のスーパー・リッチは18-19世紀英国的な土地所有とその相続に基づく階級ではなく、労働による報酬を基礎とする階級である、という部分はいいんですが、経営者≒CEOと創業者の違いを無視しているような気もします。私は違いがありそうな気がしなくもないんですが、ア・プリオリに無視されている気がします。また、労働に基づく報酬でなく、ソ連の社会主義崩壊に伴う国営企業の民営化で不正に近い行為を行ったロシアのオリガルヒとか、メキシコのスリムもこれに近い気がしますが、米国的な労働に基づくスーパー・リッチと思考や行動のパターンを同列に論じています。やや整合性の欠如を感じないわけでもありません。最後に、そもそも論ですが、経済学的に生産性に応じて報酬を受け取っているとすれば、あくまでそう仮定すればということですが、私なんぞの平均的な労働者と軽く105くらい違う報酬を受け取っているスーパー・リッチは、生産性でホントにそれだけの差があるのか、という疑問が残ります。生産性にそれくらいの差がありそうな気もしますが、そこまでの差はないんじゃないかという自負も残っていたりします。
次に、坂井豊貴『社会的選択理論への招待』(日本評論社) です。タイトルの通り、社会的選択論の入門書です。著者の業績を見る限り、ハーヴィッツ教授らが2007年にノーベル経済学賞を授賞された折のメカニズムデザインの理論を専門にしているようにも見えます。もっとも、私はこの分野に詳しくありませんので詳細は不明です。それはともかく、18世紀フランスのボルダとコンドルセから説き起こして、第5章と第6章のアローの不可能性定理まで、社会的な選択論を歴史的かつ理論的にコンパクトに解説しています。特に、次の原田さんの『若者を見殺しにする日本経済』のバックグラウンドにもなっていますが、年齢層の高い引退世代の投票パワーに基づくシルバー・デモクラシーを勘案すれば、何らかのウェイト付きの選択が可能になるようなシステムを考える必要があるにもかかわらず、我が国に限らず民主主義国ではまだまだ単純多数決が用いられていることが多い現状がもっと改善される必要があり、そのためには、単純多数決に代わるシステム構築のために、こういった社会的な選択理論の議論が重要になります。また、第4章 政治と選択 の 4.6 64パーセント多数決と改憲 では、3案ある場合の推移律をシャットアウトするためには64パーセントの多数が必要との既存研究を紹介し、我が国の改憲プロセスにおける 2/3 の多数による改憲発議の正当性を論じています。とても興味深い議論です。
ここから2冊はめずらしく新書の読書感想文です。まず、原田泰『若者を見殺しにする日本経済』(ちくま新書) です。私が長らくこのブログなどで主張し続けて来た世代間格差、すなわち、我が国では高齢者が破格の優遇を受けている一方で、若年層が劣悪な状態に置かれている、というのはかなり有識者の間でもコンセンサスが出来つつあるような気がします。2月2日付けのエントリーで取り上げた山田昌弘『なぜ日本は若者に冷酷なのか』(東洋経済) も少なくともタイトルはそうですし、本書も同じ視点を共有しています。特に、本書ではp.52で、「現在の社会保障とは、特定の世代の人が得をして、そうでない人が大損をする制度である。」と喝破し、まったく私も同感だったりします。しかし、その背景にあるシルバー・デモクラシーにまで目が届いていないのは少し残念です。詳しくは記しませんが、作者の専門分野である第5章から第6章の金融政策や成長戦略に関する論考もズバリと本質を突いており、幅広く私と意見が共通していると感じられました。ただし、第7章の教育に関しては異なる意見をもつ人も少なくないと感じてしまいました。終章がとてもよい取りまとめになっています。
次に、古賀良彦『睡眠と脳の科学』(祥伝社新書) です。私はその昔から8時間睡眠の信奉者だったんですが、最近の報道でそんなに寝なくてもいいような指針を厚生労働省で作成中という記事を見て、この新書を借りました。本書では古賀教授は7時間睡眠を推奨し、p.27 で死亡率のグラフなどを持ち出して説得的だったりします。また、哲学的あるいは医学的な睡眠の考え方も随所に散りばめられている一方で、実践的な睡眠の取り方にも配慮されています。第4章 ケース別の睡眠術 がそうです。時差ボケの解消方法などは常識的ですし、寝酒が睡眠の質を低下させるのは直感的に理解できるとしても、昼寝が推奨されないのは私には少し不思議でした。「眠い時に寝る」というのは決して悪くないように思うんですが、本書では「まとまって7時間寝る」というのを重視しているのだと感じました。ただし、p.139 の「かくれ不眠」チェックシートはやや厳しいと受け止めています。私はとても寝付きよく、ほぼ7時間、トイレにも行かずに一気に熟睡しますが、そんな私でもこのチェックシートで2つにマルが付きます。もちろん、睡眠原理主義的な本ですから、このあたりは割り引いて考える必要があるのかもしれません。
最後は小説が2冊で、いずれも私の好きな作家の作品です。まず、吉田修一『愛に乱暴』(新潮社) です。この作者の最新作『怒り』(中央公論新社) 上下巻はすでに3月9日付けのエントリーで取り上げていて、その直前作ということになります。とある中年夫婦の夫の不倫をめぐる物語です。不倫をしている夫が真守、その妻が桃子という名ですが、実は桃子は真守の後妻で、前妻の律子がいた時から桃子は真守と不倫し、桃子が妊娠して子を成さない律子を追い出す形で真守と結婚したんですが、結局、流産して子を成さなかった、という前提です。とてもユニークな構成を取っていて、全20章がすべて (1) 不倫をしている時の桃子の日記、(2) 本文=不倫をしている真守とその妻である桃子の初瀬家の日常、(3) 現在の桃子の日記、という構成になっています。最初のうちは(1)の部分が現在進行形の真守の不倫相手である奈央の日記ではないかと読み手に誤認させるような書き方を、おそらく故意にしています。ある意味で、綾辻行人や我孫子武丸の一部のミステリ作品のような書き方だと感じてしまいました。そして、真守の不倫の進行に対して、なぜか、桃子はチェーンソーを買い込んだりします。不倫に関して倫理的な読み方をすれば意見は分かれると思います。圧倒的に、不倫をしている真守が一方的に悪いという意見が常識的であって、喧嘩両成敗的に真守と桃子の両者の非を認めるのは、むしろ、真守に有利な見方だと私は考えますが、この真守と桃子の夫婦の倫理面についてはいろんな見方が出来ると思います。さすがに我が国有数の売れっ子作家の小説ですから、軽快に面白く読めます。
最後に、森博嗣『キウイγは時計仕掛け』(講談社ノベルズ) です。この作者のGシリーズの最新刊です。しかし、Gシリーズの主要人物である探偵の赤柳初朗は登場しません。Gシリーズの9作目ですから、S&MシリーズやVシリーズに準じれば、次の10冊目で打止めということになるのかもしれません。登場人物については同窓会みたいです。すなわち、建築学会の総会における事件発生ということで、どちらかというと、GシリーズとともにS&Mシリーズの登場人物もいっぱいです。犀川創平、西之園萌絵などです。なお、この作家のGシリーズの人物相関図が出版社のサイトにあります。何らご参考まで。建築学会の総会開催中の伊豆の大学で殺人事件が発生し、相変わらず、殺人の動機はやや希薄なまま論理的に実行可能な犯人が特定されます。謎解きはシャープに論理的ですが、どうしてキウイなのか、さらに、キウイにγが書いてあったり、プルトップが付けてあったりするのか、私には理解できませんでした。キウイに関するこれらの点がどこまで解明されたのか不明です。
大多数の善良なる日本人にはどうでもいいことのような気がしますが、昨年のゴールデンウィークには、私はジャレド・ダイヤモンド教授の本、すなわち、『銃・病原菌・鉄』と『文明崩壊』と『昨日までの世界』を熱心に読んだんですが、今年のゴールデンウィークはアイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(ビジネス社) を読んでみようかと考えています。リバタリアンの教科書ともなっている本で、私のようなリベラルなエコノミストと正反対を向いている気がしますが、それはそれで、リバタリアンの考え方を理解するのも参考になりそうな気がします。大判の本で2段組み1200ページあります。持運びだけで苦労しそうです。
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