今週の読書はウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金』ほか
今週の読書は、表題の通り、ウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金』ほか数冊でした。最近、よく似た歴史書を読んで来たので、『神と黄金』はやや期待が高かった分、失望した気がします。
まず、ウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金』上下 (青灯社) です。著者は米国ハーバード大学の外交講座の教授であり、本書は近代における米英の外交上の覇権について論じています。『神と黄金』の後者の黄金の方の連想で経済が論じられているんではないかと思って読み始めたんですが、そうではなかったです。米英というか、アングロ・サクソンが近現代の覇権を握った鍵は1にも2にも海洋国家として通商を活用したからであると論じられています。製造業は無視されているような印象があります。そして、アングロ・サクソン史観では歴史は終了に向かっています。すなわち、歴史とは単なる時間の経過ではなく、何らかの課題の達成であり、邪悪な要素の浄化の過程として描かれています。外交論としては興味深いんですが、私が専門外だからという理由もあるものの、読み進みにくい本です。もともとの原書がそうだからという上に、邦訳が私のレベルに合っていないような気がします。ルビを振って原書の雰囲気を伝えようとするのはいいんですが、あまりに煩雑ですし、訳注が多過ぎます。この分野の語学力のある読者でしたら、原書を読んだ方が早そうな気がしないでもありません。
次に、鈴木洋仁『「平成」論』(青弓社ライブラリー) です。これは面白かったです。著者は東大の大学院生ですが、京都大学を卒業後に社会人の経験もあったりします。ほぼ四半世紀を経過した平成の時代を経済、歴史、文学、批評、などの観点から社会学的に位置づけようとする試みです。でも、結論として、「平成はない」ということになります。明治や昭和は時代を画する元号として成り立つんですが、平成は時代として大きな特徴を有するわけではない、というのが結論となるわけです。それはそれで興味深い指摘だと私は受け止めています。ただし、本書では論駁しているつもりのようですが、「平成はない」理由のひとつとして現在進行形だから、というのはあるような気がします。また、文学を論じた第3章で、言葉が文学に代表されなくなったのが平成である、というのは秀逸な指摘だと考えます。ブログや何やの普及に伴う拡散もひとつの特徴です。特に、説得力ある議論を提示しているわけではなく、平成論に関する結論が得られるわけではありませんが、我々が生きているコンテンポラリーな平成というひとつの時代を考える上で何らかの参考になりそうな気がします。今日の記事で取り上げる中で一番のオススメです。
次に、五味文彦『『枕草子』の歴史学』(朝日新聞出版) です。著者はすでに退職しましたが、東京大学の中世史の名誉教授ですから、まさに歴史の専門家ということになります。私は少し前に冲方丁の『はなとゆめ』を読んで、少し『枕草子』の世界に触れましたので、教養書として読んでみましたが、これまた少し期待外れでした。『枕草子』の書物としての成立ちや背景、また、書かれている内容に関する歴史的な解説を期待したんですが、どうも私の予想と違っていました。すなわち、『枕草子』の各段をバラバラに分解して組み立て直し、古文の原文と現代訳を示すのがほとんどの紙幅を占めていて、中世史の専門家としての解説はボリュームとして期待したほどにはなされていない印象があります。まあ、『枕草子』をテーマにしたカルチャー・スクールのテキストみたいな印象でした。もっとも、それでもいいという読者も多いことと想像します。
最後だけフィクションの小説で、薬丸岳『刑事の約束』(講談社) です。分かる人にしかわからないと思いますが、夏目シリーズの連作短編集です。前作『刑事のまなざし』に続く2冊めで、当然ながら、私は前作も読んでいます。すでに文庫化されているんではないかと思います。前作では「オムライス」がショッキングで、最後の短編で夏目の娘が被害にあった犯人が明らかにされるんですが、本作ではやっぱり最後の短編で夏目の娘の意識が戻ります。私はこの作者の作品はかなり好きで、思いつくままに何冊か読んでいます。この作品も基本的に犯罪小説であって、私のような平凡なサラリーマンの日常生活からは想像もできないような世界を描いているんですが、それなりに、心に残るものがあります。短編でスラスラと読めますから、よくない表現かもしれませんが、暇つぶしにはとてもいい作品です。
この夏休みは長い休みが取れそうですが、受験生を抱える身で出かけるのもままならず、読書三昧で過ごしそうな気がします。今のところ目をつけているのは、国書刊行会から出版されているウッドハウスのジーヴス・シリーズです。近くの図書館で全巻そろっているのを最近発見しました。
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