今週の読書は経済書と教養書を中心に小説も含めて、以下の通り、芥川賞受賞の又吉直樹『火花』ほか全8冊です。よく読んだものだと思いますが、200ページ足らずのボリューム的に薄い本が多かったためかもしれません。なお、注目の『火花』の読書感想文は最初に置いているわけではなく、いつもの順番で、経済経営書、教養書・ノンフィクション、小説、新書の順で並べてあります。女性雑誌ではないんですが、経済経営書が赤文字、教養書やノンフィクションが青文字、小説が緑文字、新書がピンク文字で区別しているつもりですが、時々間違えています。

最初に、中室牧子『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は慶応大学に在籍する経済学の研究者です。実は、この著者の研究成果、特に、学習院大学の乾友彦教授らとの共同研究については、私も役所のエコノミストですから、内閣府の経済社会総合研究所のサイトにアップしてある学術論文などを読んだりする機会もあって、やや推計結果の導出が強引で部分的にせよ怪しい結果を堂々と引き出している場合がなくはない(特に、ESRI Discussion Paper No.315)と思わないでもなかったんですが、少なくとも、本書に関しては、著者ご自身の研究成果だけでなく、かなり幅広い学術論文をサーベイした結果ですので、さすがに強引な結論の導出はないように読みました。ということで、前置きが長くなりましたが、本書のいくつかの結論のうち、いわゆる世間一般と少し異なる結果が経済学の方法を使って定量的に示されています。典型的には、ご褒美で子供を釣るのはかまわない、ほめ育てはそれほど効果はない、ゲームをしても暴力的な性向が身についてしまうわけではない、少人数学級はそれなりに効果があるが費用対効果は大きくない、などが実証的な既存研究をサーベイした結果として説得力を持って示されています。ただし、タイトルにも「学力」とカギカッコ付きで示されている通り、根本的に「学力」の測定に対する疑問を私は持ちます。一例として、経済学では伝統的に効用は逓減し、のどが渇いている時のビールは1杯目が一番美味しく、2杯目は1杯目より低い効用しかもたらさない、以下同様、と考えられている一方で、貨幣についてだけは効用は線形と考えられています。すなわち、1万円は5千円の2倍の効用をもたらし、2万円の半分しかない、というわけです。しばしば教育経済学の研究者は学力とテスト結果の間に貨幣のような線形の関係を前提しているような気がしてなりません。そして、テストの点数で計測される学力は、教育の成果のあくまでひとつであり、教育の成果はテストの点数だけでは計測されない可能性にも配慮すべきと私は考えていますし、多くの教育経済学の研究者や一般の教育に興味ある市民の賛同も得られることと考えています。最後に、このブログでも3年ほど前の2012年7月13日付けのエントリーでバナジー/デュフロの『貧乏人の経済学』(みすず書房)を紹介しましたが、私の専門分野である開発経済学においても、本書が対象とする教育経済学でも、バナジー/デュフロが活用しているランダム化比較実験による実証的な政策評価はとても重要です。野球にさえ『マネー・ボール』のような定量的な評価の試みが導入されつつあるんですから、国民の貴重な税金を使う教育や経済開発の政策に対する定量的な評価がもっと取り入れられることを望むのは私も著者と同じです。

次に、知足章宏『中国環境汚染の政治経済学』(昭和堂) です。著者は若手の環境経済学や中国の環境問題の研究者です。本の中身はタイトルそのままなんですが、北京オリンピック対応として河北省に汚染企業が追いやられた政治経済学や、重金属公害に廃棄物問題と中国の環境問題をリストアップして論じていくとともに、地球規模の気候変動問題までを視野に入れています。ただし、私が不満に思うのが2点あり、第1に環境クズネッツ曲線的な観点が欠けています。すなわち、産業構造もしくはマクロの観点から中国の環境問題を捉えているわけではなく、各個撃破的に個別バラバラに論じている気がします。ですから、中国から先進国への輸出だけを捉えて、製品の輸出と逆方向の環境汚染の先進国から中国への輸出、といった発想に陥りがちです。中国企業が先進国企業と同様な環境保護の措置を取って製品コストが上昇すれば先進国への製品輸出が減少することから、ダブルで中国の環境汚染が防止できるという観点は全く欠けています。第2に日本人として中国の環境問題を研究する利点を活かせていません。すなわち、例えば、米国との国境沿いに展開するメキシコのマキナドーラ企業の汚染物質が国境を超えて米国に入ることが問題となっているのとまったく同じように、中国起源のPM2.5が西日本に到達したりするわけですから、視点を中国に固定せずに、国境を超えた環境被害にあっている日本国内の視点もあわせ持てば、さらに研究に広がりを加えることが出来そうな気がします。現状では本書は、単に、日本に十分に普及していない中国環境問題の情報をコンパクトに取りまとめて紹介しているだけ、という気がします。

次に、W. シヴェルブシュ『三つの新体制』(名古屋大学出版会) です。実は、同じ名古屋大学出版会から出ているポメランツの『大分岐』を探していて、検索でヒットして、図書館で借りられたので借りました。著者が何者かはハッキリしません。ベルリン生まれで1970年代からニュー・ヨーク在住で、多彩な著作活動を展開し、法政大学出版局から数冊の著書が出ています。研究者なのか、著作業の方なのか? 本書の副題は「ファシズム、ナチズム、ニューディール」となっていて、この3つの体制は「私益に対する公益の優先」(p.18)から、非常によく似通っている、ということを論証しようと試みているんだろうと思います。特徴的な建造物やイベントとして、ファシスト・イタリアのアグロ・ポンティーノ、ナチズム・ドイツのアウトバーン、ニューディール米国のテネシー川流域開発を上げたり、ヒトラーの大衆集会とローズヴェルトの炉辺談話の近似性などを論じていますが、その試みは失敗しているとしか言いようがありません。終章で、米国に社会主義もファシズムもないのは、米国に階級がないためである、と結論し、欧州のように階級がある社会のファシズムやナチズムと階級のない新大陸の米国のニューディールを同一視しようとしていますが、とんでもないことです。民主主義下で私益と公益の関係は、全体主義下で公益が圧倒的に優先するほど自明のことではありませんが、民主主義は民主主義の決定方式がありますし、国民大衆にサポートされた民主主義と国民大衆を抑圧したファシズムでは、これらを同一視する方がどうかしているという気もします。

次に、早川誠『代表制という思想』(風行社) です。昨年年央の出版ですが、最近の2015年7月11日号のダイヤモンド誌で取り上げていたので、私の興味ある分野でもあり、近くの図書館で借りて読みました。本書は、民主制下における代表制と直接制についての考察ですが、もちろん、それにとどまらず、民主制と独裁制、さらに抽選制、あるいは、自由主義や経済的な市場経済、などなどについても議論を広げています。最後の最後の結論は、代表制と直接制はいずれも民主主義が必要とする同等な2つの制度である(p.196)となっていて、コストがかかるから本来望ましい直接制ではなく代表制が取られている、という俗説を否定しています。私は半分賛成で半分反対です。すなわち、第1に反対の点として、やはり直接制が代表制よりも望ましく、生産性が大きく向上して、いわゆる時短が大幅に進んだ将来の世界では、通信コストの低減もあいまって、直接制の方をドミナントにすべきではないか、と私は考えています。代表制はそれまでの暫定的な制度の可能性があります。しかし、現実の人類の歴史において、生産性が向上すると生産物が増加するだけで、生産物の増加と時短の間に適当な分割がなされてきたためしがありません。なお、古代ギリシアのアテネなど直接民主制が取られていたのは、奴隷に生産や流通を委ね、市民の生産性がゼロに近かったことが背景にあると私は考えています。第2に賛成の点として、代表制は何らかの民意を反映する上で、決してダイレクトに反映してはならないカッコ付きの「民意」を代表の間の熟議により、少し「歪める」必要があるケースでは直接制よりも代表制の方が、いわゆる「ごまかしがきく」ような気もします。ただし、国民に共通するような「民意」や「公益」、さらに「国益」のようなものが存在するとは私には到底考えられず、多様な意見をプロセスするというのか、主権者たる国民の間で調和を取るように取り計らうのが民主主義、特に熟議の民主主義なんだろうと受け止めています。また、本書でも指摘していますが、議会の代表を選挙するのと、執行機関たる政府の代表、すなわち、大統領や首相などを直接選挙するのは、かなり意味合いが異なる可能性があるのは認識すべきです。最後に、本書の論点ではありませんが、私は従来から民主主義と市場経済は親和性があるとはいうものの、決して車の両輪とかコインの表裏のような関係、存在ではないと考えています。すなわち、民主主義は自然人当たりの単位で決定がなされる一方で、市場経済は購買力というか、利用可能な貨幣の残高により決定がなされます。大きな違いが背景にあると考えるべきです。

次に、又吉直樹『火花』(文藝春秋) です。文句なしの今年一番の話題の書であり、第153回芥川賞受賞作品です。お笑いコンビ漫才師のスパークスのメンバーである主人公の徳永が、熱海の花火大会で同じ漫才師で4歳年上の神谷と出会い、師匠と崇めた交際が始まるのが発端で、2人のインタラクティブな関係が吉祥寺というか、上石神井も含めて、また、後には、池尻大橋から三宿あたりも含めて、そのあたりの住宅街を舞台にストーリーが展開されます。漫才師である前に常識的な社会人で下ネタに対する嫌悪感もある徳永に対し、はっちゃけたような、あるいは、その昔の破滅型芸人のような神谷との関係はそれなりの緊張感をはらみ、同時に、漫才という、やや通俗的な芸ながら、売れる芸術と質的に高い芸術が必ずしも一致しない現実に20代の2人が格闘したりします。最後の会話部分の表現力や、ラストのプロットのまとめ方がとてもサイドビジネスでやっている芸人作家とは思えないほどセンスがいいです。これだけを見ると、100万部を大きく突破した実力は知名度込みかもしれないものの、それなりの実力を示しているのかもしれません。最近の芥川賞は私もそれほどフォローしていないんですが、十分にそのレベルをクリアしていると思います。芥川賞受賞時の青山七恵のレベルを少し下回るくらいではないかと思います。繰返しになりますが、大いに話題の書です。読んでおいて損はありません。

次に、佐伯泰英『意次ノ妄』(二葉文庫) です。居眠り磐音の江戸双紙シリーズも49巻に達し、本書の冒頭で田沼意次が死去します。意次の遺命を受けた柳生新陰流の剣士が、新たな寛政の改革の中心人物となった老中首座の松平定信の暗殺に向かうのを阻止すべく、その矛先を尚武館坂崎道場に向けさせます。その対決の場が坂崎磐音の嫡男である空也の初陣となります。最後に作者あとがきで、50巻で打止めと広言していた作者が修正を加え、来年正月に50巻と51巻を同時に発売し、それにて完結という運びになりそうです。第1巻の『陽炎ノ辻』が出たのが2002年で、そのころ我が家はジャカルタにいたため、2003年に帰国してから、NHKの時代劇ドラマも見つつ、それでも延々と10年超に渡って読み続けてきました。2008-10年に長崎大学に出向していたころは、東京ほど図書館事情がよくなくて、このシリーズばっかり何度も読んでいた記憶があります。後、半年ほどで終わりかと思うと感慨深いものを覚えます。
次に、鴻上尚史『クール・ジャパン!?』(講談社現代新書) です。著者は劇団第3舞台を主宰する著名な劇作家であり、本書との関係では、NHK/BSで放送されていた番組 cool japan の司会者を10年余り務めています。ということで、本書はこの番組の経験を取りまとめた結果となっています。ですから、最近注目のインバウンド観光客の消費動向とかは、ほとんど関係ありません。番組における出演外国人の反応を取りまとめていて、最初は番組出演の外国人が考える日本のクールのベスト20から始まって、定番のおもてなしや日本食、あるいは、世界に誇れるメイド・イン・ジャパンの製品群やマンガやコスプレなどのポップ・カルチャー、最後は文化的な側面から、日本と外国、ある時はアジアと欧米の違いだったり、ある時は日本とその他すべての外国との違いだったり、といろいろですが、日本の特徴を浮き彫りにしようと試みています。それはそれなりに興味深いテーマですし、本書も勘違いして手に取る人を含めて人気の書なんですが、バイアスのかかった相手から得られた情報、あるいは、かなり表面をなぞっただけの情報に満ちている可能性があることを覚悟して読み進むことを強くオススメします。

最後に、小林雅一『AIの衝撃』(講談社現代新書) です。「AI」はもちろん人工知能のことです。著者はKDDI総研の研究者であり、本書は遠い将来ながら、AIが人類を凌駕して人間を絶滅させる可能性まで見据えています。今年の5月30日付けのブログで『テクノロジーが雇用の75%を奪う』の読書感想文を紹介しましたが、やや傾向として似通っていなくもなく、本書はややSF的な可能性も含めつつ、AIの来る歴史と将来の可能性を探っています。AIがビッグデータを解析し、ロボットの頭脳となって、はるかに人類の能力を超えるパフォーマンスを持つ可能性は否定できませんし、単なる力仕事や単純労働だけでなく、高度な判断を下し、状況に応じて臨機応変に方針を変え、さらに、作曲や文学作品までものにするAIが出現しようとしている現状を把握しておくには適切な1冊だという気がします。チェスや将棋のような固定したルールのゲームではすでに人類はAIに太刀打ち出来なくなりつつありますし、グーグルなどが自動車の自動運転に関する技術開発を行っているのも周知の事実です。私のような専門外の人間にはピンとこないテーマなんですが、興味深い将来像なのかもしれません。
最近のコメント