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2015年9月 6日 (日)

先週の読書は『大分岐』をはじめ7冊ほど!

先週の読書は楽しみにしていたポメランツ教授の『大分岐』をはじめ、経済書と専門書・教養書と小説まで含めて以下の7冊です。

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まず、何といっても、K. ポメランツ『大分岐』(名古屋大学出版会) です。著者は経済史の研究者であり、現在はシカゴ大学に在籍していますが、本書が執筆・出版された時点ではカリフォルニア大学アーバイン校に所属しており、いわゆるカリフォルニア学派と見なされています。ということで、本書は2000年に出版されており、いわゆるグローバル・ヒストリーを代表する経済史の学術書と私は受け止めています。ですから、邦訳に15年を要したのが不思議なんですが、私でも本書の概要について何となく情報を得ており、産業革命期を1750-1830年と考え、この前の時期からすでにヨーロッパはアジア、特に中国に対して経済的、というか、生産性や生産力で上位にあった、という既成史観を否定しつつ、新たな観点から産業革命の起源について分析しています。もちろん、私がこのブログで以前から表明している通り、欧州あるいは欧米とアジアをはじめとする他の地域の違いは産業革命に起源しており、これを本書のタイトルである「大分岐」と言うか言わないかは別にして、その産業革命が18世紀のイングランドにおいて始まった理由は、少なくとも多くの歴史家が一致する見方は現時点で存在しない、というものです。そして、本書では産業革命がイングランドで開始された要因についても、中国とイングランドの平均余命から生活水準を推計したり、土地取引の活発さなどを比較して、従来の「自由と専制」説や高賃金説などを否定し、石炭のロケーションと北米からの食糧や原材料供給によるイングランドの土地制約の緩和という偶然性の強い事実に求めています。この産業革命の起源に関する見解はかなり凡庸と考えるべきで、むしろ産業革命以前の中国とイングランドの比較、市場の広がりに基礎を置いあた分業の進化に成長の源泉を求めるスミス的な成長経路が重視されていると考えるべきです。最後に、本書は経済史の学術書であり、一般向けの教養書ではありません。ボリュームも難易度もそれなりのレベルに達していますので、読み進む場合には覚悟が必要です。

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次に、トーマス・セドラチェク『善と悪の経済学』(東洋経済) です。著者は金融界で活躍する気鋭のチェコ人エコノミストだそうで、本書は2012年にドイツのベスト経済書賞を受賞したベストセラーと聞き及んでいます。タイトルの通りに経済学を対象にした考察を加えていますが、経済学が社会科学であることは当然としても、本書では規範性、すなわち、善悪を排した自然科学的な科学ではありえない点を強調しています。ひとつには、経済予測がほとんど当たらないのは、人間行動の複雑性やその背後にある動機の多様性のためであり、残念ながら経済モデルは、これらすべてを記述し尽くすことに成功していないと主張しています。ですから、私の方からの反論としては、マイクロな経済学において、いわゆるビッグ・データが活用可能になり、さらにハードウェアが発達して情報処理能力が向上することにより、多くのパラメータを有する複雑なモデルが構築できれば、マイクロな経済学のレベルでは著者の主張は将来的に反論可能となるような気がします。でも、問題はマクロ経済学のレベルの成長や景気循環であり、経済成長が十分でない発展途上国の問題や先進国でも景気後退時の失業問題など、マクロの問題はビッグ・データの活用もできず、本書のような主張が当てはまりそうな気もします。本書では、かなり明示的に経済学と倫理学の結合から、資源配分に偏った現在の経済学から人間の登場する舞台で所得の分配も視野に入れた経済学への転換を示唆しています。私には共感する部分も少なくありませんでした。でも、ここまで風呂敷を広げなくても論証は可能なハズで、もっと平易で深い議論が求められそうな気もします。

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次に、柳田辰雄『貨幣ゲームの政治経済学』(東信堂) です。実は、柳田教授とはジャカルタに赴任していたころの知り合いで、柳田教授が財務省に、私が国家開発企画庁に、それぞれJICA専門家として国際協力に当たっていた記憶があり、私の論文のプレゼンにご出席いただいたり、日本から短期専門家を招聘した際に会議でごいっしょしたりと、何度かお会いした記憶があります。ということで、近くの図書館で借りて読んでみたんですが、ややタイトルから受ける印象とは異なる本でした。すなわち、タイトルにある「貨幣ゲーム」はそのまま直訳すると「マネー・ゲーム」なんですが、本書はマクロ経済学の正統的なモデルの解説に終始しており、この時期に発行されるこのタイトルの本であれば、サブプライム・ローン問題に関する「マネー・ゲーム」を扱っているやに想像される中身とはかなり違います。ただ、欧州におけるユーロの共通通貨導入に関しては、標準的なモデルに基づきつつ、それなりの論理展開をしています。p.195 で「域内貿易が過半数を超える東アジアは、国際貿易に伴う不果実制の縮減のために東アジア共通通貨をめざさなくてはならない」と明示的にアジアにおける共通通貨圏を評価しており、ある意味で、欧州通貨統合という「貨幣ゲーム」を分析しつつ、将来のアジアへのインプリケーションを探る意図があるのかもしれません。

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次に、エドワード・フレンケル『数学の大統一に挑む』(文藝春秋) です。著者はロシア生まれで米国のカリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の数学研究者です。タイトルは極めて大きいんですが、ほぼこれはラングランズ・プログラムのことを指しているようです。著者ご自身の半生を自伝的に跡付けるとともに、その重要な要素としてラングランズ・プログラムを指して「数学の大統一」と見なしているようです。人によっては反論あるかもしれませんが、私はラングランズ・プログラムを数学の大統一と見なす見解に大きな反対はないんではないかと受け止めています。ただ、著者の自伝部分で旧ソ連のユダヤ人差別などについては、自慢話に終始していますので、「数学の大統一」をもしも本論とするのであれば、その本論から外れているように感じる読者もいそうな気がします。冒頭に一般読者を対象とする本であると著者は考えている旨が記されていますが、それでも、第5章でブレードが出てくるあたりからそれなりの数学的な知識は必要とされます。第13章では当然のように微分方程式が出て来ます。少なくとも、私のような専門外のエコノミストには、ラングランズ・プログラムは数論と解析学の対応関係として理解している限りであり、幾何学まで含めようとし、さらに、量子力学まで拡張する部分はまったくついて行けません。それでも、ユークリッド的幾何学あるいはニュートン・ライプニッツ的解析学などの古典数学がニュートン物理学に対応しているとすれば、経済学はまだこの段階ですが、アインシュタイン物理学は本書にも登場するリーマン幾何学・解析学に基づいているような気がします。経済学がこの段階に達するのはいつになるんでしょうか?

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次に、鵜飼秀徳『寺院消滅』(日経BP社) です。著者は日経BP社の雑誌記者であるとともに、僧籍を有する副住職だったりします。読ませどころは第1部のルポルタージュです。日本では、私のような京都出身者でなくても、お寺や神社は宗教法人として何らかの優遇を受けているような印象があり、例えば「坊主丸儲け」という言葉があったりします。すでに私が京都を離れた後ですが、京都では1980年代後半に古都税論争がありました。ざっくりいえば、お寺や神社の拝観料に京都市が課税するかどうかで議論されたと記憶しています。これも寺院や神社の何らかの恵まれた立場に目を付けたものだという気もします。幼稚園を併設して、かなり金回りのいいお寺があることも事実ですが、本書では全国約7万7000か寺のうちの2万か寺が、住職のいない無住寺院であり、さらに宗教活動を停止している不活動寺院が2000か寺以上に上るとの事実を明らかにしつつ、インタビューや取材により寺や墓の維持が難しくなっている地方寺院の実情を明らかにしようとしています。さらに、第2章では寺の僧侶へのインタビューがあり、第3章では明治初期の廃仏毀釈により仏教寺院が大きなダメージを受けた事実、また、第2次大戦終戦直後の農地解放により小作料収入を絶たれた事実などを上げて、お寺の存続の難しさを強調しています。ただし、著者が理解しているのは、寺、というか、宗教というのはいわゆる「上部構造」であって、下部構造の経済社会の影響をモロに受ける一方で、お寺や神社が町おこしや観光に寄与できる力は極めて限定的である、というポイントです。ということは、人口減少が続いて過疎化が進む地方では、オテラやお墓の維持が今後もいっそう困難を増すということなのかもしれません。

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次に、岡本正明『暴力と適応の政治学』(京都大学学術出版会) です。本書の著者は京都大学東南アジア研究所准教授であり、なぜか偶然なんですが、先ほどの柳田教授と同じで、私のジャカルタ滞在中にインドネシアでごいっしょしました。私が帰国の半年余り前に、ジャカルタから岡本さんの赴任先であるスラウェシに出張した際に、いろいろとお世話になった記憶があります。というか、実は、現地職員のヘンキーさんだか、ヘルキーさんだかの方に主として世話になったんですが、その上司が岡本さんだったわけです。本書の中には何枚か写真が収録されており、著者の風体も明らかですので、まったく専門外ながら、私の知っている研究者だと確信しています。ということで、本書の副題は「インドネシア民主化と地方政治の安定」となっており、インドネシアの首都ジャカルタから西方に位置するバンテン州における暴力集団「ジャワラ」を取り上げています。私はジャカルタに3年も暮らしていながら知らなかったんですが、ハッキリいうと「ジャワラ」とは日本の暴力団のような存在らしいのですが、民主化前のインドネシアを牛耳っていたゴルカルと組んだりして、地方政治に進出したり、開発に伴うインフラ整備に食い込んだり、といった活動をしているそうです。ある意味で、インドネシアの民主主義の未成熟な面を取り上げているんですが、IMFの最近のプレスリリースによれば、2018年のIMF世銀総会はインドネシアのバリ島で開催される予定となっており、東南アジアの大国としてASEAN本部も置かれているインドネシアのさらなる経済的な発展とともに、民主主義の定着に向けた活動も重要と私は考えています。なお、学術書なんでしょうが、なぜか、著者の個人的な体験が多く語られており、やや異例な気がします。それにしても、単なる感想なんですが、日本の暴力団は少なくとも明示的には政治の世界に進出していませんが、インドネシアでは地方政界とはいえ政界に暴力集団が進出しているわけですから、著者の専門である政治学からすれば、繰返しになるものの、インドネシアの民主主義が未熟ということになるのかもしれませんが、私の専門である経済学からすれば、相対的ながら、インドネシアの政治は日本よりも収益性の高いビジネスなのかもしれません。また、最後に、インドネシアにおいて隠然たる影響力を持つ華人社会との関係についても不明な点が残ります。

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最後に、黒川博行『後妻業』(文藝春秋) です。『破門』で『直木賞を受けた作者の受賞後第1作です。ですから、出版から1年余りを経て、ようやく図書館で借りることが出来ました。本作品を原作として映画化が進んであり、来年2016年の公開が計画されているようです。詳しくは映画「後妻業」のサイトに情報があろうかと思います。ということで、タイトルから明らかな通り、相続を受けることを目的として裕福な男性独身老人の後妻に入る女性に焦点を当てた作品です。その女性だけでなく、ウラで操る結婚紹介所についても含まれています。ただ、この作者の作品は「疫病神」シリーズもそうなんですが、ウラ社会における人間間の動向を中心にしており、ウラ社会とオモテ社会のインタラクティブな関係には焦点が当てられていません。ですから、裕福な高齢単身男性に後妻業の女性がどのように接近するか、などの記述が皆無となっています。さらに、この作品でポイントを下げているのは結末です。最初から最後に向けて、暴力シーンが徐々に増えていくとともに、それなりに「雰囲気」の盛上りも見せるんですが、この結末は読者をバカにしているような気がします。もうちょっとマシな結末の付け方のプロットは思いつかなかったんでしょうか。もともと、ウラ社会に対するのぞき趣味的な作風であるため、本格推理とは違って論理的な結末なく、何となくのなし崩し的な結末の多い作品のような気もしますが、作家としての力量が問われます。例えば、再婚しては再婚相手を手にかけるという意味で、よく似ていながら後妻業とは少し違った作品ながら、このブログの3月21日付けのエントリーで取り上げた葉真中顕『絶叫』のラストの負の連鎖の断ち切り方のプロットの見事さには及びもつきません。

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