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2015年9月12日 (土)

今週の読書はかなり大量ながらハズレもちらほら!!

今週はかなりたくさん読みました。ただ、少しピントの外れた本もありました。

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まず、野口悠紀雄『戦後経済史』(東洋経済) です。一応、このタイトルに不満はないんですが、いきなり米軍の爆撃を避けた防空壕から生き延びた経験から本書は始まっており、政治経済を跡付けただけの経済史ではなく、かなりパーソナルに自分史を語っている部分が少なくありません。その点は留意されるべきかという気がします。ということで、著者の主張は戦時総動員態勢を敷いた1940年体制がそのまま戦後に持ち越され、市場における価格による調整ではなく、政府による数量の調整が色濃く残った点を重視しています。占領軍のいわば「経済オンチ」によって経済官庁がほぼ戦前のままに残され、ドッジ・プランもシャウプ税制も当時の大蔵省が振り付けた結果、と著者は解釈しています。1970年代の石油危機から量ではなく価格による調整の時代に入ったと著者は考えているようです。いずれにせよ、1940年体制の政府による統制色が強くて価格による調整の不完全な日本経済が閉塞感を募らせている、という解釈のようです。また、著者の個人的なパーソナル・ヒストリーが多すぎる気がして、私はあまりオススメできません。

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次に、西野武彦『ケインズと株式投資』(日本経済新聞出版社) です。著者は経済ジャーナリストです。ほぼ、タイトルそのままの内容なんですが、もちろん、投資家あるいは投機家としてのケインズに焦点を当てていますので、株式投資だけでなく債券投資や為替投資も取り上げています。特に根拠ない私の感触では、ケンズは株式投資よりも為替投機で大きな収益を上げたような印象を持っていたりします。ケインズの株式投資は英国株式だけでなく、米国株式にも及び、しかも、英国株式はリターン・リバーサルで逆張りが有効なのに対して、米国株式はモメンタムで順張りが有効ということまで理解していたとは大きな驚きです。現在でも、日本株式は順張りが有効で米国株式は順張り、というのは計量経済分析からすると明白な事実なんですが、それを数十年も前に理解していたのはさすがというか、さすがにケインズくらいのエコノミストになれば、当時の株式市場を手玉にとって収益を上げるのは、さほど難しいとは考えられなかったんではないかという気がします。

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次に、那須正彦『ケインズ研究遍歴 増補第2版』(中央公論事業出版) です。著者は銀行エコノミストから学界に転身したケインズ研究者です。この本は自費出版されていますが、我が家の近くの図書館で所蔵していました。自費出版らしく、3部構成のうち第3部は「自分史」と題していて、誠に申し訳ないながら、私は読み飛ばしました。第2部でケインズのゴルフの腕前について取り上げているエッセイがあり、ケインズの平均スコアは110前後でハンディは27だったそうです。ほぼ30代のころの私の腕前に匹敵します。私がもっともゴルフをプレーしていたのは1990年代前半の在チリ大使館勤務のころであり、もっともよかった時のハンディは26でした。
なお、本書とその前の本を合わせた感想ですが、ケインズは経済学の博士号を取得するわけでも、大学教授になったこともなく、しかも、エコノミストとして以外にも投資家や国際金融会議における政府代表などとしても有能な実績を上げており、問題なく20世紀最大の経済学者だったと私は思っています。しかしながら、ケインズが支持する自由党があそこまで凋落して労働党に取って代られていなければ、ひょっとしたらひょっとして、国会議員というか政治家になっていた可能性もあり、選挙に出馬しなかったのがエコノミストとして大成したひとつの要因かもしれないと私は考えなくもありません。

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次に、井上寿一『終戦後史 1945-1955』(講談社選書メチエ) です。著者は歴史研究者であり、前の学習院大学学長です。タイトルとおりに終戦後10年間の歴史を振り返った本であり、終戦を境とした日本人の価値観の大きな転換を背景に、当時の米ソの冷戦下で我が国の対米従属が進んだんですが、本書ではもう一つの道、すなわち、政権交代をともなう二大政党制の下で、日本が国連・アメリカ・アジアの三者間の均衡において自立的な外交を展開する可能性があった、と主張しています。逆にいえば、いわゆる吉田ドクトリン、すなわち、安全保障で米国の核の傘に入って軍事支出を少なくし、持てるリソースを経済復興につぎ込む、という歴史的事実の否定であり、ひょっとしたら、政治的に中立かつ自主外交を推進できたかもしれませんが、経済的には「奇跡の復興」が出来なかった可能性にも考慮すべきかという気がします。どちらがよかったかは、現時点から振り返れば何ともいえません。

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次に、スヴァンテ・ペーボ『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(文藝春秋) です。著者はスウェーデン人ながらドイツのマックス・プランク進化人類学研究所の研究者で、本書のタイトルに示唆されている通り、DNAシークエンスの解明により人類の進化をさかのぼって明らかにする研究に携わっています。実は、本書は数週間前の朝日新聞か読売新聞の日曜日の書評欄で小説家の三浦しをんが評していて、まあ、彼女に理解できて書評が書けるくらいなら私にも分かるんではないかと思って借りて読んだんですが、なかなか難しい本です。しかも、学術面ばかりでなく、著者がノーベル賞受賞者の婚外子でゲイだとか、あるいは、対立する説を支持する研究者に対する態度なども、決して模範的なものではなく、さらに、著名な科学誌である『サイエンス』や『ネイチャー』についても学術的な価値よりもメディアで取り上げられる商業的な注目度を重視しているきらいがあると示唆したりして、科学者らしからず人間臭い面も読み取れたりします。でも、それまでネアンデルタール人から現代人へのDNA上の影響を否定していた著者が、本書のタイトルの方向にコロリと宗旨替えした経緯については、実にアッサリとしか記述されておらず、まあ気恥ずかしく、カッコ悪く感じかねないのは分からないでもないんですが、やや物足りない気がします。

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次に、薬丸岳『誓約』(幻冬舎) です。この著者らしく、犯罪と人生の関係について深く考えさせられる小説です。私のような何の変哲もなく犯罪に関係なく生活している一般市民には想像も出来ませんが、何らかの事情により犯罪の加害者、あるいは、被害者になり、そのために自分自身はもちろん家族や周囲の人々まで、大きくその後の人生が影響を受けるというのは分からなくもありません。ミステリとしては私にも謎解きが出来るくらいの簡単な犯人探しではありますが、とても私なんかには考えつかないプロットで、警察に届けることも、家族に打ち明けることも出来ない主人公の悲しみが胸に迫ります。ただ、裁判人裁判制度の導入があって、犯罪の厳罰化が徐々に進行しているのも事実であり、犯罪が多くの人の人生を狂わせること自体が犯罪の抑止力になるかどうか、日本の社会が試されているような気がします。

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次に、上田早夕里『薫香のカナピウム』(文藝春秋) です。私はこの著者のSF小説は大好きで、日本SF大賞を受賞した『華竜の宮』や続編の『深紅の碑文』などのオーシャンクロニクルのシリーズも読んでいて、この9月に新刊として『セント・イージス号の武勲』を出版すると聞いたところ、今年の2月にすでに本書『薫香のカナピウム』が出ていたらしいと聞き及び、近くの図書館で大至急借りた次第です。舞台は遠い未来の赤道直下のジャングルで、カナピウムと呼ばれる地上40メートル級の林冠部で生活する樹上生活車となった人類と月や宇宙に住む<巨人>との関係、あるいは地上人類間の関係などがあぶり出されます。地上人類と<巨人>との関係はものすごいネタバレですし、本書第4章で詳細に明らかにされます。ただ、私は貴志祐介の『新世界より』におけるPKの使える人類とバケネズミの関係を思い出してしまいました。最後は主人公の少女たちは黒潮に乗って北に旅立ちます。すでに9月9日に出版された『セント・イージス号の武勲』は違いますが、日本近辺を舞台にした本作品の続編があるものと期待しています。

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次に、宮内悠介『エクソダス症候群』(東京創元社) です。これもSF小説で、火星唯一の精神病院であるゾネンシュタイン病院を舞台にしています。私はこの著者も好きで、作品は単行本で出版されている『盤上の夜』と『ヨハネスブルグの天使たち』は読んでいます。本書『エクソダス症候群』のテーマはおぞましい部分も含んだ精神医療の歴史であり、別の面から見れば主人公カズキの亡くなった父親の探求、ということになるかもしれません。突発性希死念慮(ISI)と本書のタイトルにもなっている脱出願望のエクソダス症候群の関係が解き明かされ、主人公のなくなった父親の目論見が再び追求されます。ひとつ前に取り上げた上田早夕里女史のSF作品が、例えば、魚舟と獣舟のように現人類との肉体的な面に焦点を当てるのに対して、宮内作品は本作や囲碁を取り上げた『盤上の夜』も含めて、精神的な面に焦点を当てる作品が多いような印象があります。

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最後に、若宮みどり『カール・ポランニーの経済学入門』(平凡社新書) です。著者は経済学の研究者です。私は大学生のころにポランニーの『大転換』を読んだ記憶があるんですが、すっかり忘れました。大学生のころから経済学に関する能力が落ちているとは決してい自覚していないんですが、この新書は『大転換』よりも難しかったような印象があります。もちろん、本書には著者の意向により『大転換』以外のさまざまなポランニーの主張を取り入れているためであるという面はありますが、私は古典を重視する読書・勉強を大学時代には実践してきており、経済官庁に就職する際の面接でも、学生時代にはスミス『国富論』、リカード『経済学及び課税の原理』、マルクス『資本論』、ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』などを読んだと自慢したくらいですので、ホントにポランニーを読んだといいたければ、本書よりも『大転換』を読んだ方がいいんではないかという気がしています。ポランニーの主張は、私の理解にも似通っており、民主主義がかなり厳密な1人1票に基づく自然人間の平等主義であるのに対して、経済の市場においては自然人だけでなく法人も含めた各人の持っている購買力に応じた株主総会的な格差を是認しているため、市場経済の効率性を追求するあまり民主主義が犠牲になることは好ましくない、むしろその逆である、という1点に尽きます。本書はポランニーのエッセンスを無視しているとまではいいませんが、無駄な部分が多すぎる気がしないでもありません。

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