今週の読書は経済書がなく小説中心に7冊ほど!
今週の読書は、図書館の予約の巡り合せのため、とうとう経済書がナシになってしまいました。歴史認識に関する教養書・新書や海外ミステリをはじめとする小説など、以下の通りの7冊です。
まず、細谷雄一『歴史認識とは何か』(新潮選書) です。タイトルでは歴史観のようなものの解説ではないのかという見方もできますが、日露戦争から第2次世界大戦の終了くらいまでの外交した政治史を取りまとめた著作であり、政治や外交などの歴史の見方ではなく歴史そのものの記述の方が多いような気がしないでもありません。もっとも著者は慶応大学教授なんですが、外交史の専門家として第2次安倍内閣の安保法制懇メンバーであり、安保法案推進派であるという事実を頭の片隅にでも置きつつ読み進むべきであることはいうまでもありません。ただし、もちろんのこと、ゴリゴリに右派の論理を展開しているわけではなく、一例としては、p.190 あたりでアジア太平洋戦争がアジア諸国にとって帝国主義列強からの独立を早めた可能性を指摘する既存論文を引用するなど、随所に垣間見える、といった程度のものです。著者としては、私が嫌うようないわゆる「歴史修正主義」のような史観を展開するわけではなく、むしろ、序章 p.29 では歴史認識というパンドラの箱を開けるべきかどうかを疑問視する、あるいは、議論の埒外に置くことも選択肢となり得るような姿勢も見せています。第1次世界大戦後にアジアを代表する列強の一国として、人種差別撤廃が国際社会社会に受け入れられず、幕末の攘夷にも通じかねない欧米諸国に対する嫌悪感と、その裏返しにも見える韓国や中国に対する蔑視などが相まって、さらに、著者の主張に沿えばかなり偶然の要素もあって、無謀なアジア太平洋戦争に突き進んだということになるんですが、私の目から見て余りに偶然の要素に支えられた歴史観ではないかという気がします。戦後に米軍を中心とする占領軍が将来における日本初の戦争回避のために、戦前からの我が国のシステムを大きく変更・修正することに努力した理由について、何ら思考や考慮の対象に入れない著者の見方には私は大きな疑問を感じます。何らかの偶然により戦争が生じるのか、あるいは、死にもの狂いとまではいわないまでも、平和を維持するためには何らかの犠牲と努力が必要なのか、前者に立場に立とうとするように読める本書にはどこまで信頼感を置いていいのか、私のような後者の立場で歴史を見る人間も少なくないことを忘れるべきではありません。
次に、関幸彦『恋する武士 闘う貴族』(山川出版社) です。驚くべきことに、出版社の本書のサイトを見ると売切れだそうです。それはともかく、著者は日大教授を務める歴史学者であり、専門は日本中世史だそうです。タイトルが2つあって第1部が恋する武士に、第2部で闘う貴族に、それぞれスポットが当てられています。第1部も第2部も各々3章から成り、平安後期、鎌倉期、南北朝から室町期の時代構成となっています。一般に、武士・貴族ともに行政官というか、ある意味で官僚であるとともに、武士は職能として戦に従事するのに対して、貴族は職能ではないものの、和歌のやり取りなどの文化的な行為とともに恋愛事情は武士よりも詳しい、と考えられがちな通念を本書ではひっくり返そうとする知的なお遊びといえるかも知れません。しかしながら、私のような専門外のエコノミストにも容易に想像されるんですが、武士が恋するケースと貴族が闘うケースでは、前者の方が圧倒的に頻度が高そうな気がしますし、本書でもそういった印象を受けました。女性に恋して和歌を送った武士はいっぱいいるでしょうし、鎌倉初期の静御前、巴御前などは人口に膾炙しています。しかし、闘う貴族といっても、私が聞いたことがあるのは本書で取り上げられている範囲で、鎌倉初期の大江広元、南北朝期の北畠顕家くらいのものです。その意味で、本書の試み、というか、知的なお遊びがどこまで成功しているかは読者の判断ですが、お遊びにしても私はやや無理があったような気がしています。
次に、ジェフリー・ディーヴァー『ゴースト・スナイパー』と『スキン・コレクター』(文藝春秋)です。いずれも、ニュー・ヨークを舞台とするリンカーン・ライムのシリーズなんですが、最近、『スキン・コレクター』が出版されたとの新聞広告を見て図書館に未所蔵書のリクエストをかけたところ、『スキン・コレクター』はシリーズ第11作なので、数が合わないと考えて確認すると、昨年のうちに前作のシリーズ第10作『ゴースト・スナイパー』が刊行されていたと知って、大急ぎで2冊とも読んだ次第です。世間からかなり遅れていることは自覚しつつも、ややカッコ悪いと思わないでもなかったところです。といういことで、シリーズ第10作『ゴースト・スナイパー』は原題が Kill Room となっていて、NIOS = National Intelligence and Operation Office なる架空の米国諜報機関のオペレーションを殺人罪で起訴しようとするNY州検事局の捜査にライムが協力する、というストーリーで、シリーズ第11作『スキン・コレクター』は原題も同じ Skin Collector で、シリーズ第1作の『ボーン・コレクター』になぞらえた連続殺人犯をライムが追う、というストーリーです。でも、『ボーン・コレクター』よりも以前の作品という意味では『ウォッチメイカー』との関連の方が重要です。もちろん、ディーヴァーのライム・シリーズですから、というか、キャサリン・ダンスのシリーズでも同じなんですが、一筋縄ではストーリーは進まず、最後に大きなどんでん返し = twist があります。ただ、ジェフリー・ディーヴァーの「どんでん返し」もシリーズ第10作を超えるとややワンパターン化してしまった気がしないでもありません。このあたりで、どんでん返しなしでストレートで終わるミステリを書いたりすれば、とても新鮮味あふれる作品になるかもしれません。そんなストレートなディーヴァーの作品も私は読んでみたい気がします。
次に、ピエール・ルメートル『悲しみのイレーヌ』(文春文庫) です。昨年刊行されて、このブログで今年2015年1月11日付けの読書感想文で取り上げた『その女アレックス』がパリ警視庁のカミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの第2作と紹介しましたが、そのシリーズ第1作です。日本での出版順に読んだ私としては、まだ第3作を読んでいないながら、オリジナルの出版順に読みたかった気がします。出版社で順序を入れ替えた意図を知りたいところです。表題に登場するイレーヌはヴェルーヴェン警部の夫人で、「悲しみの」で形容されているので理解できる通り、『アメリカン・サイコ』などの過去のミステリの見立て殺人を実行しているかに見える本書の連続殺人犯に殺害されます。『その女アレックス』と同様に、日本のミステリでは少し想像しがたいような凄惨な殺人方法には驚愕します。それから、先週10月17日の読書感想文のブログで岩城けいの『Masato』を取り上げた際に、前作のデビュー作である『さようなら、オレンジ』のメタ構造について少しだけ論じましたが、本書はもっとものすごいメタ構造になっています。以下、 でお願いしますが、実は、本書の冒頭から過半を占める第1部は殺人犯が書き下ろした小説をヴェルーヴェン警部ほかのパリ警視庁などの関係者が読んでいるという設定であり、必ずしも事実関係を客観的に記述しているわけではありません。このメタ構造は私の目から見て大成功なんですが、別の評価を下す評論家や読書子もいるかもしれません。
次に、大島真寿美『空に牡丹』(小学館) です。表題や上の画像に見える表紙のデザインなどから明らかな通り、空に浮かぶ牡丹の花とは花火を指しています。この小説も少しメタ構造っぽくなっていて、幕末から明治期を生きた花火好きの静助という名の男性の主人公の子孫が、この静助の人生や歴史的背景などを調べて書いたような体裁を取っています。舞台は江戸=東京からさほど遠くないながら、それなりの田舎町の丹賀宇多村、という設定です。主人公の静助は村の大地主である庄屋の子ながら妾腹の生まれであり、頭もよくて性格も温厚な嫡男が東京で上級学校に通って、その後も家の商売の関係で東京暮らしの方が地元に戻るよりも割合が高く、実質的な地元の庄屋的な取りまとめなどは静助の役割になっている、という設定です。しかし、地道に村役的な仕事はこなしつつも、静助は何人かの花火職人を取り込んで花火作りにも精を出し、先祖伝来の田んぼや地所を次々に手放して行く、というストーリー展開です。いかにも明治維新から明治時代の時代の大きな変わり目に没落していく大家族の物語という風なんですが、それが実は、時代の変わり目に洋物屋の商売で大儲けしながら、その後に商売が傾き事業の清算を迫られながらも、結局、花火だけは捨てられなかった、しかも、明治期の人柄のよさそうなおじいさんを主人公とする、「里山資本主義」的な時計の針を逆回しにするようなストーリーですから、お侍は出てこないながら時代小説的なほのぼの系の小説です。世知辛い現代生活から読書で一時の清涼感が得られるんではないでしょうか。
最後に、大沼保昭『「歴史認識」とは何か』(中公新書) です。著者は東京大学名誉教授であり、市民運動との関わりも深く、1995年の戦後50年の村山談話の構想者の1人でもあります。なお、ジャーナリストの江川紹子さんを聞き手とするインタビューを取りまとめたものです。最初の細谷教授の歴史観とやや対象的な歴史観であり、私としてはコチラに親近感を覚えますが、本書の最後に江川さんが書いているように、本書などでいう歴史認識とか歴史観とは自分たちがどういう人間でありたいか、あるいは、日本をどういう国にしたいかという主体的なあり方論のようなものを基本にした、周辺諸国等とのお付き合いのあり方ではないかという気がします。エコノミストである私の歴史観とは違います。そして、本書などで展開される歴史観という場合、必ず戦争が関係します。ですから、私が考えるの難しい点が3点あり、第1に、振り返っている現時点と歴史的な当時の社会的・国際的な通念や常識というものがかなり違います。第2に、平時と戦時の常識が大きく異なります。平時に拳銃で人を殺せば殺人罪ですが、戦時には敵国の兵隊を殺せば勲章をもらえるかもしれなかったりします。第3に、現時点から振り返っている人々、あるいは、国の民主主義の成熟度が我が国と周辺諸国では必ずしも同じではありません。ですから、歴史認識や歴史観というのはとても難しいんですが、同じ客観的な出来事を観察していても、私のような左派からは右派の歴史認識は歴史修正主義と見えたり、はなはだしい場合は皇国史観と見えたりしますし、逆に右派から左派を見れば東京裁判史観だったり、自虐史観だったりするのかもしれません。そして、おそらく、あくまでおそらくなんですが、漸近的に真実、正義、あるいは、場合によっては快適とか美的なども含めて、より望ましい価値観に近づくべき方向が正しい歴史観なんだろうと私はプラクティカルに考えています。そして、そういった主体的な自己のあり方を確立しつつ、極めて京都的ではありますが、カギカッコ付きながら、「穏便な大人の対応」とか、本音と建前の使い分けとか、いろいろな工夫でお互いの不快感を増幅しないような付き合いを模索する、ということなんだろうと思います。自分でも、よく分かったような分からないような結論だという気はします。
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