先週の読書は経済書と小説、それもエンタメの小説ばかりで、東野圭吾『人魚の眠る家』や池井戸潤『下町ロケット2 ガウディ計画』など計9冊でした。昨日のブログに米国雇用統計が割り込んだため、読書日のベースで1日多かったのと経済書とエンタメ小説という得意分野(?)の本ばかりでしたので読書がはかどった気がします。感想文は以下の通りです。
まず、齊藤誠『震災復興の政治経済学』(日本評論社) です。著者は一橋大学教授であり、マクロ経済学や経済動学を専門としています。また、震災後に学術会議のチームに加わって震災の影響などについて政治学者とともに研究を続けているようです。ということで、本書のスコープは基本的に「政治経済学」がターゲットなんだとタイトルから推測していたんですが、ページ数でもっともボリュームの大きな第7章は原発事故であり、私の目から見て『政治経済学」ではなくて「原子力工学」になっています。例の朝日新聞の誤報なんかもこの第7章で取り上げられていますが、私は専門外であって感想文ではパスします。本書の主張は、原発事故は風評被害もあることから政府としてはできる限り小さめに見込むとともに、津波を含む震災被害については特にストックの損害はかなり過大に見積もられてしまった、という点にあリます。逆から考えて、原発への危機対応は不足であった一方で、公共投資による復興事業は過大であった、といえます。本書でも説得的かつ実証的な議論が展開されており、毀損ストックの過大推計と復旧事業の必要以上の拡大については私もまったく同意します。私だけでなく、多くのエコノミストも同じであろうと思いますが、一例として、このブログでも2012年7月18日付けで読書感想文を書き、本書の参考文献にも上げられている原田泰『震災復興欺瞞の構図』でも同様の主張がすでになされています。しかも、本書の著者の齊藤教授と日銀政策委員に就任した原田氏とは、これまた、このブログで2014年11月22日付けで感想文をアップした『徹底分析 アベノミクス』でアベノミクスに対して正反対の論陣を張っていたわけですから、震災により毀損したストックの推計が過大であり、それを基にした災害復旧予算も根拠の乏しい大盤振る舞いであった、という点については、少なくともエコノミストの間では、かなり広範な合意がありそうな気がします。さらに、阪神淡路大震災からの復興予算9.5兆円は、国が5.0兆円を負担する一方で、地方自治体が合わせて4.5兆円を負担していますが、東日本大震災ではすべて国の負担、というのも本書で疑問が呈されています。もっともだと私も受け止めています。さらに、p.121 の概念図で極めて分かりやすく説明されているように、停滞か成長かのトレンドといずれのリファレンス・ポイントを取るかの問題も本書の主張は正しいような気がします。経済的に私が疑問に受け止めたのはただ1点で、本書では震災が我が国のデフレを悪化させたという主張に対して反論していますが、この反論は第6章 p.164 以降を読む限り、日本はデフレに陥ったことがない、と日銀理論そのままに主著しているに等しいように私には感じられました。最後に、私も官庁エコノミストとしていくつかの政策の策定を見てきた中で、ケインズ的なハーヴェイ・ロードの前提なんてものはまったく成り立たないわけですし、それでも、財政政策をはじめとする経済政策は、政府から独立した中央銀行の専管事項である金融政策を含めて、主権者たる国民の総意に基づいて決定されるべきであると私は考えています。専門家たるエコノミストは、ある意味では、選択肢を示す役割に徹する必要がある場面すらあり得ます。その点で、本書の著者が専門家たるエコノミストが合理的な政策選択を行うべきであると考えているような雰囲気を感じないでもありませんでした。でも、長らく公務員として政府機関に勤務していて、専門家たるエコノミストの合理的な政策選択と国民の総意は長期的に一致すると私は期待しています。そうでなければ公務員はやってられません。もっとも、長期にはみんな死んでいるかもしれません。
次に、宮本みち子[編]『すべての若者が生きられる未来を』(岩波書店) です。編者は千葉大学名誉教授の社会学者であり、編者以外の著者もアカデミックな世界で活躍する人が多いんですが、NPO活動や行政に携わっている人も含まれています。何を取り上げている本かといえば、学校教育期から勤労期へ移行する世代の若者のうち、学校や職場、あるいは広く社会からは除されてしまった若者について、社会的な包摂を試みる論考です。一般的に、ニートとか引きこもりと呼ばれている若者、あるいは、学校教育からドロップアウトしてしまった若者、などなど、についていかにして社会的な包摂を達成するかという論点です。経済書というよりも教養書とか経済学以外の専門書なのかもしれませんが、後述の理由で経済書に含めておきます。著者がまちまちですので、第6庄や第7章のようにかなり立派な学術論文に仕上がっている章もあれば、行政やNPO法人の活動紹介に終始している章もあり、精粗まちまちといえますが、考えさせられる部分も少なくありません。このブログでも一貫して主張している通り、シルバー・デモクラシーによる圧力の下で、我が国の社会保障制度では圧倒的に恒例の引退世代に手厚い保障がなされていて、若年層や家族に対する保障が極めて手薄なんですが、その手薄な若年層に目を向けた貴重な論考です。少し前の9月19日付けの読書感想文のブログで、『老後破産』と『下流老人』を取り上げた際にも書きましたが、高齢の引退世代については生活保護へのアクセスが何よりも重要なんですが、人生80年時代の前半にいる30代までの若者については、年齢にもよるものの、直接的な所得補償や生活支援ではなく、学校教育とは異なるオルタナティブな教育あるいは職業訓練、また、「絆」という言葉の通り社会的に連帯して、あるいは、個人バラバラでなく集団で解決するスキルやセンスを身につけ、最終的な出口は就労ということになります。ですから、本書は社会学系の研究者が参加していますが、著名なところでは東大の玄田教授など、エコノミストの知見が活用できる問題も少なくありません。勝手ながら、私のこのブログでは本書も経済書の扱いにした由縁です。なお、関連するトピックとして、先週の報道で日本財団と三菱UFJリサーチ&コンサルティングの研究「『子どもの貧困』に関する経済的影響を推計」によれば子供の貧困を放置すれば、現在の15歳世代だけで日本社会の経済損失が約2.9兆円に及び、国の財政負担は約1.1兆円増えるため、合計で4兆円の社会的損失を生じる可能性がある、との結果が示されており、広く報じられているところです。リポートの全文は2015年12月半ばをめどに日本財団の公式ウェブサイトで公開よていとのことであり、私はまだリポートを入手していませんが、順不同でメディアの報道へのリンクを以下の通り示しておきます。ご参考まで。
次に、アラン・グリーンスパン『リスク、人間の本性、経済予測の未来』(日本経済新聞出版社) です。上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は The Map and the Territory 2.0 であり、私にはよく意味が分かりません。副題を日本語タイトルとしており、副々題が UPDATED and EXPANDED となっていて、2013年出版で2014年に改訂版が出版されたような印象です。詳細は私も知りません。著者はいわずと知れた米国連邦準備制度理事会(FED)の議長を長らく務め、「マエストロ」とまで称されたエコノミストです。2007年出版の『波乱の時代』も私は読んでいるんですが、とても新刊書とはいえない数年遅れのタイミングで読みましたので、このブログの読書感想文では取り上げませんでした。なお、私は1989年2月から4月まで役所からの長期出張でFEDのリサーチ・アシスタントとして数量分析課に席を置いていたんですが、何度かFEDの職員食堂で当時のグリースパン議長を見かけたことがあります。もちろん、会話を交わす光栄に浴したことはありません。かなりの年齢だと感じたんですが、本書を見ると1926年生まれの来年90歳ですから、私が実物を見かけた折りですでに60歳を越えてたようです。ということで、前置きが長くなりましたが、前著の『波乱の時代』でも回顧録的なクロノロジカルな部分が半分で、残りの半分は金融政策のみならず経済に関する理論的な解明を試みていたんですが、本書では後半の経済解説の部分を長くしている気がします。前著がサブプライム・バブルが弾ける直前の2007年の刊行でしたから、当然ながら、本書ではバブル崩壊から後の回顧と理論的整理が中心になります。相変わらず、アイン・ランドへの尊敬の念は書き漏らしがなく、市場重視の右派的な経済観を余すところなく披露しています。ただし、原理主義とまでいわなくても、市場重視という見方は政府の官庁エコノミストよりも中央銀行のセントラル・バンカーの方により色濃く現れる哲学であると私は考えています。どうしてかというと、政府は経済活動に関してかなりの強権を有しており、財政政策や税制により、無理やりに市民のポケットに補助金を突っ込んだり、逆に、市民の家庭から税金を徴収したりする政策が実行でき、これらの政策は市場とも合理的な経済活動とも関係ないんですが、中央銀行の金融政策は市場参加者が市場において合理的な経済活動を行うという前提で策定されます。ですから、市場が出来る限り自由で合理的な方が中央銀行には望ましいわけです。というわけで、私はそれなりに本書のスタンスに対しても理解を示しておきたいと思います。最後に、付章でアニマル・スピリットの計測について、株価から長期的かつ合理的な変動を取り除けば計測可能としている見方は、現実に把握できるかどうかは別にして、とても興味深いものがありました。
次に、ガブリエル・ズックマン『失われた国家の富』(NTT出版) です。著者はフランス出身で、『21世紀の資本』で有名になったピケティ教授の下で学位を取得し、現在はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の准教授を務めているエコノミストです。本書の原題は、La richesse cachés desnations となっています。日本語タイトルはそのまま訳されたようですが、英語にすれば、The missing wealth of nations であり、"missing" を抜けば著名なアダム・スミスの著書のタイトルになります。なお、最後に一橋大学渡辺教授の解説が十分なボリュームで収録されています。ということで、タイトルからだけでは分かりにくいのかもしれませんが、タックス・ヘイブンを利用した脱税もどきの方法により、先進各国は納税が不十分になっていて、主としてフランスに眼目があるわけですが、納税によって得られるべき国家の富が失われている、という趣旨のようです。オフショア金融の実態を明らかにするとともに、その課税逃れの金融資産が著者の試算では5.8兆ユーロに上り、世界の家計資産の8%を占め、これらの課税逃れがなければフランスの公的債務は約5000億ユーロ少ない可能性があることから、課税逃れ資産は外部不経済をなしていると主張します。こういった課税逃れを防止するために、著者は第1に世界規模で金融資産を網羅した台帳、すなわち、データベースを整備し、第2にタックスヘイブンに対して威嚇と制裁をもって規制に当たり、第3に国際機関による世界規模での資本所得に対する累進課税と法人税制の整備を提案しています。なお、最後の国際機関は国際通貨基金(IMF)を想定しています。決済という観点からは国際決済銀行(BIS)も1枚かませておくべきかもしれません。本書の政策的な実現可能性はともかく、先週11月28日付けの読書感想文のブログで私自身の論を展開したように、スミス的な初期資本主義の「見えざる手」が経済社会全体の調和をもたらした時代とは異なり、本書でも論じられているような外部経済や公共財供給や独占の発生など、古典的な資本主義からは離れた現代的な問題が発生している現段階の市場には政府による民主的な関与が必要だと私は考えており、その実現可能性をタックス・ヘイブンを利用した課税逃れという点から議論した本書にも大いに同意する部分があります。なお、本書の著者は同じ英文タイトルの学術論文を刊行しています。ピア・レビューによる査読を通って、かなり高度な学術雑誌に収録された論文ですが、以下にリンク先だけ示しておきます。ご参考まで。
次に、ダニエル・コーエン『経済は、人類を幸せにできるのか?』(作品社) です。著者はフランスのマルクス主義経済学者であり、『21世紀の資本』で一躍有名になったピケティ教授の師匠筋に当たるエコノミストです。現在のフランスはオランド大統領の社会党政権ですから、本書の著者も政権に近い存在となっているのであろうと私は想像しています。なお、前著で世界的なベストセラーになった『経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える』も同じ作品社から出版されており、私のこのブログでは2013年7月27日付けのエントリーで取り上げています。また、本書の原題は、Homo economicus: Prophète (égaré) des temps nouveaux となっています。ということで、私の目から見て前著と「同工異曲」といった印象を拭えません。基本的に現在のアングロ・サクソン的な市場を重視した右派的資本主義経済が人類の幸福に寄与するかどうかを疑問視しているわけですが、それはそれとして正しい認識なんだと思う一方で、例えば、本書冒頭ではアリストテレス的なエウダイモニアを持ち出しており、翻訳者さんも「あんまりだ」と感じたのか、非常に上手にエウダイモニアを明示せずに訳出しています。そして、本書のテーマは、誤解を恐れずに極めて単純化していえば、ホモ・エコノミクスは物質的な富の追求を主眼としており、エウダイモニア的な幸福と整合性がない、ということなんだろうと思います。そして、これまた、それはその通りなんでしょう。ただし、21世紀のポスト近代社会的な幸福観の提示に成功しているとは私は考えていません。準備不足で書き上げたのか、物足りない気がします。
次に、東野圭吾『人魚の眠る家』(幻冬舎) です。著者の作家デビュー30周年記念作品だそうですが、今年2015年5月30日付けの読書感想分で取り上げた前作の『ラプラスの魔女』もそのように銘打って売り出されていたような気もしますし、情報によっては、作家デビュー30周年記念作第2弾と称している向きもあったりします。よくわかりません。また、同じ作者の作品で、このブログでも8月23日付けのエントリーで取り上げましたが、9月に映画公開された『天空の蜂』も話題になりました。ということで、本作品はミステリでもSFやファンタジーでもなく、脳死や臓器移植を正面から取り扱っています。人間の肉体に対する魂というものにほとんどこだわることなく、また、宗教的な観点はまったく含まず、ガリレオ・シリーズの作者らしく、あくまで科学的というか医学的に人間の死を捉え、しかも、この作者らしくキチンとした倫理観に支えられた小説です。ある意味で、愛する我が子の死を受け入れられない母親の狂気とも見えますが、それなりに理性的な対応でもあります。最後は大向こうをうならせるエンディングともいえます。私のように経済学や社会科学が専門でも唯物論者はそうでしょうし、この作者のような理系の科学者やエンジニアもそうなんでしょうが、自然の摂理の中で人間が生きて行く限り、何らかの死を受け入れる必要はあるわけで、それが脳死なのか、心臓停止なのかは、我が国ではまだ議論が未成熟とはいうものの、何らかの生と死の境は存在すると考えるべきです。私の生死観は、この作品の主人公夫婦の夫の方の父親、先代社長に近いと考えています。すなわち、主人公夫婦の母親の方のやり方は、電気刺激だか磁気刺激だかで死体を操っている、に近い印象です。さらに、こんなことを言い出すのは私だけかもしれませんが、この作品の大きな問題は、大金持ちが金にあかせて我が子の生死を自由に操っているような印象を持たれかねない点です。そう簡単ではないかもしれませんが、何とかプロットの上で解決できなかったものかと懸念しています。
次に、池井戸潤『下町ロケット2 ガウディ計画』(小学館) です。同じ作者の『下町ロケット』は2011年8月25日付けの読書感想文で取り上げています。ということで、すでに前書は直木賞を受賞していますし、本作品とともにドラマ化もされており、著者も売れっ子作家ですから、私なんぞからは何も前置きの紹介は必要ないと思います。本作品も大田区にある佃製作所なる中小企業を舞台にし、前と同じ大企業の帝国重工に加えて、NASA出身の社長が率いるライバル中小企業のサヤマ製作所や前作の最後に去り行く元従業員がチラリと漏らした医療機器分野の大企業である日本や福井の中小ベンチャーであるサクラダが、また、医療機器開発ですのでアジア医大とかが登場します。日本テックはアジア医大と連携して人工心臓を開発し、帝国重工はロケット開発です。いずれも佃製作所とサヤマ製作所をバルブ製造の下請けとしています。本作は前作よりもさらに白黒がはっきりと分かれ、同じ著者の半沢直樹シリーズよりももっと真っ黒で、警察に逮捕される人物まで登場します。本書の最初に組織と人物の相関図が示されています。出版物やドラマなどの web サイトではよく見かけるものですが、とても分かりやすいです。前作のあらすじなんかもあれば、もっといいかもしれません。なお、例えが突飛に感じられるかもしれませんが、私の直感からすれば、昭和30年代のプロレスを支えた力道山の美学に近い文学作品です。すなわち、タッグマッチの3本勝負で、外国人選レスラーの卑劣な凶器攻撃や反則技に苦しみながら1本目を取られた力道山チームなんですが、キチンとレフェリーが判定することにより力の差に応じた結果が出て、力道山の空手チョップ炸裂により、2-3本目を日本人チームが取って勝つ、という結果です。外国人レスラーはアジア医大の教授だったり、サヤマ製作所の開発者だったりする一方で、レフェリーは帝国重工の重役であったり、医療機器認証のPMDAだったりすます。もちろん、力道山は社長をはじめとする佃製作所の面々です。ジャーナリストの登場も見逃せません。こういった昭和の力道山美学をどこまで現代の読者が、あるいは、ドラマ視聴者が理解するか、私は興味を持って見ていたりします。
最後に、湊かなえ『リバース』(講談社)と『ユートピア』(集英社) です。私はこの作者の小説はすべて読んでいるつもりなんですが、少し前までこの作者の代表作はいまだにデビュー作である『告白』かもしれないと考えていたりしたものの、2冊読んだうちの最初の『リバース』は面白かったです。ひょっとしたら、この作者の作品の中ではマイ・ベストかもしれません。大学4年生の同じゼミの友人5人が最終学年の夏休みに山の別荘に旅行した際に自動車事故で1人が死亡したところ、3年ほどを経て残された4人が20代半ばになってすでに社会人として働き始めていたタイミングで、この4人を名指しで「xxは人殺しだ」という手紙を親しい人とか会社の総務部などに送り付けられて、主人公がその解明に乗り出す、というミステリ仕立ての小説です。この手紙の送り主の解明はそれほど難しい謎ではないんですが、最後の最後の数パラで大どんでん返し、というか、とても意外な事実の解明があります。最後の最後で読者が「エッ」となるのは、乾くるみの『イニシエーション・ラブ』みたいなカンジです。主人公をはじめとして、主要な登場人物が大学生の20歳過ぎから社会人3年目くらいまでの20代半ばですから、私の好きな青春小説の要素もあります。『ユートピア』はこの作者本来のややドロドロした人間関係の要素が色濃くなりますが、以前の作品ほどではありません。太平洋に突き出た岬や灯台のある鼻崎町というのどかな港町を舞台に、その名もユートピア商店街などの地元民、大企業の本社から工場に転勤して来たエリート社員、その工場に現地採用されている社員、そして、かなり異質なのが最近移住して来た芸術家集団、といった異なるバックグラウンドを持った人々からなるコミュニティの中で、車椅子の小学生の女の子とその友人で上級生、さらにその親を巻き込んで、5年前の殺人事件と同時期に商店街の仏具店から失踪した女性、などなど、それだけでも非日常性をたっぷりと備えた複雑怪奇なミステリに仕上がっています。「善意は悪意より恐ろしい」というテーマに基づく小説らしいんですが、私はやっぱり悪意の方が恐ろしいと感じざるを得ませんでした。p.295 以降の最後の謎解きは少し中途半端で物足りなく感じられ、新本格派のミステリのように論理的にすべてが解明されることを期待すべきではないのかもしれません。同じ作者の作品を2本並べて、私個人としては『リバース』の方をより高く評価しますが、もともとのこの作者のファンであれば『ユートピア』の方にこの作者らしい雰囲気をより濃厚に感じるかもしれません。
今日の読書感想文のブログは取り上げた数も多くて、それぞれの感想文も長くなり、とてもボリュームがかさんでしまいました。ということは、タイプミスも多いわけですから、今後は気を付けたいと思います。
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