今週の読書は当たりとハズレとまちまちの4冊!
今週の読書は標準偏差が大きく、大当たりとハズレの差のある読書でした。量的には4冊と少ない気もしますが、買って読むにはお給料が足りませんので、文句はいえないと思います。ただただ図書館制度に感謝しています。
まず、ジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会』(NHK出版) です。著者は文明評論家というか、私が読んだのはその昔の『エントロピーの法則』くらいなんですが、その当時はいわゆる著者近影の写真にとてもガラの悪い人物が写っていた記憶があったりします。ということは別にして、本書はとても興味深い未来像を提供しています。タイトル通り、限界費用がゼロとなる、ということは、同じことを別の表現をすれば、希少性がなくなる、ということを意味します。財・サービスが極めて豊富に社会に供給されるわけで、おそらく、マルクスであれば共産主義社会が実現された、と表現することと私は想像しています。そして、本書で著者はホテリングの限界費用価格付け理論を基に、財・サービスが限界費用に従って無料で提供されるわけですから、一般的な私企業は存続し得なくなると指摘し、コモンズの復活、というか、新しい時代に応じた「協働型コモンズ」という空間で経済社会活動が展開されると予想しています。私が想像するに、著者は限界生産性に応じた賃金決定と限界コストに応じた価格決定をもって「資本主義」と定義しているらしく、その意味で、コモンズに基づく経済社会は資本主義ではなくなる、と主張しています。もっとも、マルクス主義的な共産主義だと主張しているわけではありませんので、念のため。そして、限界費用をゼロにまで押し下げる原動力はモノのイナターネット、すなわち、IoTであると想定しています。また、エアビーアンドビーやカーシェアリングなどは、シェア経済と捉えるのではなく、経済活動の基本が近代的な所有の原理からアクセスに移行したのだと指摘しています。ただ、著者も認識している通り、所有からアクセスに移行しようと、限界費用がゼロになろうとも固定費用は残るわけですし、総コストがゼロになるわけではありません。巨大なインフラを必要とするわけです。それを「協働型コモンズ」だけで解決できるかどうかは、現時点では不明というしかありません。可能かもしれませんし、不可能かもしれません。もっとも、著者が指摘する通り、30年前に現時点でのインターネット社会を予想していたと仮定すれば、同じように受け止められていた可能性が高く、その意味で、本書のような「協働型コモンズ」型の経済社会の実現は十分あり得ると考えるべきですし、逆に、実現しない可能性もあり得るわけなんでしょう。将来の経済社会のひとつの可能性を示す内容ですから、1月10日付けでベスト経済書認定をした酒井泰弘『ケインズ対フランク・ナイト』には及びませんが、かなり示唆に富む書物といえそうです。
次に、徳勝礼子『マイナス金利』(東洋経済) です。著者は外資系投資銀行のいくつかなどで勤務経験のある人物らしいですが、私はよく知りません。タイトルのマイナス金利は、直接に貨幣にかかるクーポン金利ではなく、外国為替、典型的には米ドルのアベイラビリティに対するコストも含めてマイナス金利という意味です。短期の循環と中長期の構造をゴッチャに論じていたりして、かなり雑な論理構成ながら、おそらく新たな日銀理論を振り回して、極めて緩和的な金融状況の中で低金利を批判する、ないしは、低金利や量的な金融緩和による景気の回復や成長の加速を否定する、という議論ではなかろうかと受け止めています。背景にあるモデルがよく判らないんですが、いわゆる物価水準の財政理論(FTPL)かと思っていたら違うようですし、成長に関しては新古典派的なラムゼイ型の成長論を基本にしているようでもあり、そうでもなく、また、成長率と金利をほぼ同一視している部分も散見されます。必ずしも明示的ではありませんが、金利が高ければ債務者から債権者に所得が流れ、逆は逆、というのも視野に入っていないように感じられます。今や旧来の日銀理論を1人で背負って立っている感のある翁教授の『日本銀行』に大きく依存した記述があったり、藻谷浩介『里山資本主義』を持ち上げたりと、私とは違う方向性を持っているようだとは理解しました。白川総裁までの日銀が20年に渡って日本経済と国民生活に甚大なる損害を与えてきたことを無視しつつ、結局は、本書の冒頭に著者が提示した通り、日銀の金融緩和が進めば円供給が増加して市場に円があふれかえり、円の運用に支障を来すのは投資銀行として困る、というのが著者のポジションなのではないかと勘ぐりたくなってしまいます。もっとも、そのように勘ぐる私の心根が卑しいのかもしれません。いずれにせよ、本書を読み切るのにそれほど時間はかかりませんでしたが、それでもやや時間の使い方に失敗した気がしてなりませんでした。
次に、山本智之『海洋大異変』(朝日新聞出版) です。著者は朝日新聞の科学分野のジャーナリストです。タイトルは分かりにくいんですが、副題があって、「日本の魚食文化に迫る危機」となっていて、かなりの程度に本書の内容が想像できるかと思います。第1章でハマグリなどの貝類を、第2章でメディアでも騒がれたウナギを、第3章でさまざまな外来種を、第4章でサンゴを、等々と続き、最終の第7章で深海魚に見る海洋の汚染を、それぞれ取り上げています。本書のタイトルになっている海洋の大異変は、基本的に、人類が引き起こしているわけで、乱獲、汚染、気候変動などの影響で海洋生物に大きな影響が及んでいるというのが専門外の私にもよく判ります。ただ、私に判らないのは、というか、誰にも判らないと思うんですが、現在の海洋をはじめとする生物種の生態系の変化の方向です。私自身は、まあ、「秋刀魚」と漢字で書くサンマの漁期が冬にズレて、身も小ぶりになるのは許容範囲ではないかという気がしないでもないんですが、現在の生態系変化の方向が、何らかの均衡に向かって収束しつつあるのか、それとも発散しかねない破滅的な方向にあるのか、あるいは、収束も発散もしないカオス的な循環を生じているのか、おそらく神ならざる地球上の人類には誰にも予測できない方向に乗っているような気がします。それだけに、時計を逆回しにしてその昔の生態系に戻すような方向が正しいのかどうかも私には判断がつきかねます。もちろん、どこまで戻すのかはもっと判りません。たぶん、人類が地球上に現れる以前に戻すのがいいような気もしますが、それでは人類の幸福というか、存在意義を否定する本末転倒な議論だと感じる人も少なくないような気がします。より単純な気温だけを管理する気候条件とか、経済学的な見方も含めたエネルギーの消費と埋蔵量とか、こういった単純な系をモデル化してシミュレーションするのは出来そうな気もしますが、生物種の生態系という複雑極まりない系をモデル化してシミュレーションするのはまだ現時点では不可能なのかもしれませんが、我々人類はどこに向かって進んでいるのか、社会経済的な方向性と生物学的な方向性、あるいは他についても、私はとても知りたいと思います。その基礎的な知識体系として本書のような現状把握の努力も必要ですが、こういった知識の体系を基に時計の針を逆戻しするんではなく、将来の方向を評価できるような議論が必要ではないかと考えています。
最後に、川上未映子『あこがれ』(新潮社) です。第1章が小学4年生、第2章はその2年後の6年生の最終学年、という設定で、男の子の麦くんと女の子のヘガティーの幼い恋物語、というか、異性の友人をめぐるロマンティックな物語です。ともに小さい3-4歳のころに、麦くんは父親を亡くし、ヘガティーは母親を失っています。ドゥワップやリッスンやチグリス、そして、チグリスのお姉さんのユーフラテスなどの友人や仲間がいますし、親も登場しますが、学校の先生はほとんど出て来ません。第1章は麦くんの1人称で語られ、スーパーのサンドイッチ売り場にいるミス・アイスサンドイッチをめぐる人間関係の物語で、第2章はヘガティーの1人称で語られ、麦くんのお母さんの再婚話が進む一方で、ヘガティーのお父さんの過去の結婚歴とその結婚時の子供、すなわち、ヘガティーから見ると異母姉の存在に関する物語です。映画評論家として著名なヘガティーの父親に関して、ネットで検索して発見されるところが現代的です。当然、会いに行ったりもします。とても繊細な小説で、主人公が4年生の時の第1章と6年生になった第2章では、当然のように子供達の感じ方や行動パターンが変化するだけでなく、小説としての表現形式も変化させてあります。私のような未熟な読者にも理解できるのは、第2章では第1章でひらがなだった表現のいくつかが漢字に置き換えられています。句読点のパンクチュエーションも微妙に変化させてあります。ストーリーの進行に合わせて、しっとりと表現させたり、スピード感を強調させたり、純文学らしいビミョーな表現にこだわった作者らしい、というか、この作者にしかできないような表現や文体が用いられている気がします。残念ながら、海外で出版される場合に翻訳で失われる可能性がありますが、この作者の小説を母国語で読める特権を、私は大いに生かしたいと思います。最後に、作者がこの小説を「あこがれ」というタイトルを付した意味を考えれば、この小説がもっと楽しめる気がします。常々、私がこの作者をして日本人作家で村上春樹に次いでノーベル文学賞に近い可能性があると激賞している才能の片鱗がこの作品から読み取れます。
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