今週の読書は現代経済に対する方向性を示す『私たちはどこまで資本主義に従うのか』ほか計8冊!
今週の読書は、現代経済に対する方向性を示すミンツバーグ教授の『私たちはどこまで資本主義に従うのか』ほか、米国の大統領選挙の年に合わせて、というわけではないものの、リバタリアン大富豪に関するノンフィクション、あるいは、フィクションの小説も何冊か加えて計8冊、以下の通りです。先週と今週はかなり大量に読みましたので、少しペースダウンしたいという気がしないでもありません。
まず、ヘンリー・ミンツバーグ『私たちはどこまで資本主義に従うのか』(ダイヤモンド社) です。著者はカナダの経営学者であり、マネジメントを専門とする著名な大学教授です。原書の原題は上の表紙画像に見られる通り、Rebalancing Society であり、2011年に出版されています。原題からも明らかな通り、経済社会を構成する3者のバランスを取り戻すことに主眼を置いています。そして、その3者とは、政府セクター、経済=民間セクターと社会=多元セクターであるとしており、かつてのソ連型の共産主義では政府セクターが強力であり過ぎ、現在の米国などの先進国では経済=民間セクターが強すぎる、と主張しています。本書でもしつこく繰り返されている点は、決して第3の多元セクターを中心にした経済社会の運営を示唆しているわけではなく、3つのセクターの間で原題通りのリバランスを図り、バランスいい経済社会の運営を目指そうとしています。その典型的な姿が p.113 の図3に示されています。繰り返しになりますが、政府セクターが強いとかつてのソ連型の共産主義社会やナチスのような全体主義国家になりかねませんし、かといって、自然人と同じ基本的人権のようなものを法人に認めてしまった米国社会では経済=民間セクターが強くて、収奪的な資本主義社会となる可能性が高く、そして、社会=多元セクターが強いと排他的なポピュリズムに陥りかねないと本書の著者は警告しています。あくまで3つのセクターの間のバランスを重視し、どこか1つのセクターが突出することを避けるべきとの立場です。非常に共感できるし、判りやすい主張であり、邦訳書で200ページ足らずの手軽なパンフレットのボリュームに収めていますから、決して学術書のような難解な主張ではありませんが、ボリュームの観点からか、誠に残念ながら、制度設計というか、プラクティカルな実践の指針は本書にはありません。ただ、随所に、例えば、p.101 のサンアントニオの例のように、決して投票を通じた平和的な方法論に終止するだけでなく、アラブの春などに見られたように、実力行使的な方法論を排除しているわけではないんだろうと思わせる部分があります。また、私の従来の主張と同じで、間接民主主義の下で選挙で選ばれて議会を構成する代表が、ポピュリスティックな民衆の意見を代表するだけでなく、必要な場合は一般大衆の意見を選挙で選ばれた代表が「歪める」といった方法論も支持されるケースがあり得るんではないかと考えないでもありません。
次に、ダニエル・シュルマン『アメリカの真の支配者 コーク一族』(講談社) です。著者は左派系メディアをホームグラウンドにするジャーナリストです。ですから、本書が対象としているリバタリアンのコーク兄弟は目の敵にされているんではないかと予想して読み始めたんですが、かなり冷静な事実関係の分析に終始しています。コーク一族が依拠しているコーク・インダストリーズは本書でも指摘されている通り、穀物会社のカーギルに続いて全米第2位の非公開会社、いわゆる一族支配の下にある会社としては、売上11兆5000億円、従業員数10万人以上という規格外の規模を誇っています。また、この企業グループが取り扱う製品は石油や石油化学製品から始まって、M&Aで多角化が図られた結果として、ガソリン、ステーキ肉、窓ガラスから肥料にまで及ぶため、米国で生活していれば日々何かのコーク社製品を使用していることになる、といわれています。そのコーク一族は強烈なリバタリアンであるだけでなく、財力をテコとして強力な政治力を発揮しようとしています。すなわち、私が知る範囲でも、米国大統領選挙は選挙区が広大な全米でなあり、政党レベルの予備選挙から本選挙にかけて、地理的広さと時間の長さのため、総額で10億ドルを超えるともいわれている巨額の選挙資金が必要なわけですから、コーク一族のような大口の政治資金提供者は、ある意味で、それなりの影響力を持つことになりかねません。直接的な政治献金以外にも、政治・経済分野はいうに及ばず芸術や学術分野でも、本書でも取り上げているケイトー研究所などのシンクタンクも含め、ティー・パーティー的な右派政治勢力への支援姿勢を明らかにしつつ、米国世論の右傾化に大きな影響力を持っています。ただ、コーク一族はいわゆるリバタリアンですから、同性婚を許容している旨の本書の記述に見られる通り、宗教的な傾向をはじめとして、一方的に国民の自由を制約するような方向性は持たないという点には注意すべきです。ただ、本書はかなり歴史的・分析的にコーク一族を解明しようと試みていますが、私が注目しているのはコーク社の経営に携わっている次男チャールズと三男デイビッドの兄弟だけであり、彼らの政治的な動向です。世間一般として、長兄フレデリックと末弟ウィリアムについては関心がどこまであるか疑問があり、ここまで詳細に文字通りコーク一族をほぼ平等に取り上げたり、その遺産相続に端を発する裁判沙汰を含む内紛を明らかにする必要がどこまであるか、にはやや否定的です。とても時間をかけて読み切っただけに、そのあたりの記述を省略してしまってもいいんではないか、という気がしないでもありませんでした。
次に、ポール・ジョンソン『ソクラテス われらが時代の人』(日経BP社) です。著者は英国のジャーナリストなんですが、歴史家・評論家としてノンフィクションというか、エッセイも数多く、私は文庫版の『インテレクチュアルズ』を読んだことがあり、副題は『知の巨人の実像に迫る』とされていて、私が読んだ講談社学術文庫ではルソー、マルクス、イプセン、サルトルなどを取り上げていましたが、おそらく単行本の半分くらいまで絞り込んでいたんではないかと思います。ですから、私は『インテレクチュアルズ』と同じで本書でもソクラテスのネガな面を強調する仕上がりではないかと想像していたんですが、決してそうではありませんでした。ということで、西洋文明の中で巨大な足跡を残し、哲学の祖として知られるソクラテスの生涯を追った評伝であり、素直な伝記に仕上がっています。ソクラテスが生きた古代ギリシャの時代背景を丹念に描きながら、アテナイとスパルタとのポリス間でのペロポネソス戦争をはじめ、ギリシアとペルシャの戦争も含めて、その当時の時代精神を明らかにしつつ、ソクラテスの哲学、思想のみならず生きざまにまで迫っています。でも、本書でも指摘されている通り、現在まで伝わるソクラテスの学問や人物像は、実は、これまた著名な哲学者にして、ソクラテスの弟子であるプラトンの著作を通じてもたらされており、それなりのバイアスは免れない可能性があります。また、ソクラテスは本書でも述べられている通り、おそらくアテナイの全盛期から下り坂に向かういわば爛熟期に活躍していますので、それも何らかのソクラテスの哲学に影響を及ぼした可能性を否定できません。という意味で、訳者あとがきでは「おそらくそうであっただろうソクラテス像を描きだすことに成功している」との評価が下されているのももっともだという気がします。加えて、副題にもあるように、ソクラテスの思想が現代において有している意味についても、それなりに説得力のある議論を展開しています。冗談のような『インテレクチュアルズ』と違って、真っ当なソクラテスの伝記です。
次に、海堂尊『スカラムーシュ・ムーン』(新潮社) です。著者は『チーム・バチスタの栄光』でデビューした医療ミステリ作家であり、ご本人もお医者さんではなかったかと記憶しています。私はこの著者の作品は大好きで、『チーム・バチスタの栄光』から始まって『アリアドネの弾丸』で終るシリーズとか、その派生作ともいえる桜宮サーガのシリーズはほとんど読んでいます。また、本作は桜宮サーガにも登場する彦根医師が重要な役割を果たし、『ナニワ・モンスター』の続編となっています。ですから、2009年に世界でパンデミックになったブタ・インフルエンザではなく、ラクダに由来するインフルエンザである「キャメル」を巡る医療ミステリです。前作『ナニワ・モンスター』では、彦根医師を策士としつつ、浪速府知事を頂点に厚生省検疫所の技官や関西方面の医師会医師などが、キャメルが弱毒性であることを国民の間に明らかにして、浪速府に対する霞が関官僚からの経済戦争を勝ち抜く、というストーリーだったんですが、本作ではそれに続いて、厚生労働省がしかけたワクチン戦争に対して、加賀県の養鶏農家から良質の有精卵を大量に調達して、ワクチン不足解消に取り組むというストーリーです。いろんな読み方のできる小説ですが、私の好きな青春小説としてもいいセン行っています。すなわち、ワクチン製造のための有精卵の調達において、加賀県での養鶏農家や有精卵の輸送において、幼なじみの大学院生が起業して対応し、成功裏に導くというストーリーです。もちろん、小説ですから現実離れした設定は随所に見られますが、そういった点を割り引いても、いつも私の趣向によくマッチしたこの作者の作品ですから、本作もなかなかの出来に仕上がっているんではないかと思います。どうでもいいんですが、この作品か前の『ナニワ・モンスター』か忘れましたが、インフルエンザ予防にうがいはホントに効果ないんでしょうか?
次に、樋口毅宏『ドルフィン・ソングを救え!』(マガジンハウス) です。著者については私は知りません。雑誌「BRUTUS」連載の小説が単行本化されています。小説の舞台は近未来の2019年に始まって、45歳結婚経験なし子どもなしのフリーターのトリコが、人生に絶望して睡眠薬をまるごとひと瓶飲んで自殺を図ったところ、30年前の1989年バブル期まっただ中の渋谷にタイムスリップし、10代半ばの青春時代に好きだったバンドドルフィン・ソングの解散を阻止すべく、さまざまな努力を積み重ねる、というもので、著者も十分に意識していて、p.67 に出て来るようにスティーヴン・キング『11/22/63』と同じテーマです。また、バブル期に戻るという点では、広末涼子主演の映画「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」と同じ趣向です。p.104 に「伊武雅刀によく似た金融局長」という表現で、これも著者に意識されていることが明らかです。主人公のトリコは未来の情報を持っていますから、ある意味でオールマイティであり、ミリ・ヴァニリの口パクを世界でもっとも早く明らかにして音楽関係の雑誌メディアに注目され、対象となるドルフィン・ソングに対するインタビューで該博な音楽関係の知識を披露して、一気にドルフィン・ソングの2人に接近します。しかし、長らく付き合って来ていた元同棲相手の男性と、タイム・スリップ先でも同棲するうちに、主人公本人が1年間の長きにわたって意識を失って入院したりして、最後の方は私の印象ではかなりグチャグチャになって、きちんとした結末らしきエンディングが明確ではないんですが、主人公が逃避して何となく終わります。音楽、特に、J-POPに関する薀蓄を傾けた作品であり、それ以外には何といって小説らしくもなく、青文字系の女性や青文字系の女性に好感を寄せる男性などに評価されそうな気もしますが、私にはよく判りません。ミリ・ヴァニリなどのように実名の歴史的事実として現れる音楽史に関する知識も盛り込まれていますが、もちろん、タイトルのドルフィン・ソングとか、現実の音楽史に基づかない架空のフィクションも少なくなく、私のようなモダン・ジャズのファンでPOPミュージックに強くない人間には、この実在と架空の境界が判然としない恨みもあります。また、途中から登場する黒木羊音なる女性が、小説の中では何の役割も果たしません。この点もよく判りません。評価の難しい小説です。
次に、城山真一『ブラック・ヴィーナス 投資の女神』(宝島社) です。著者は金沢をホームグラウンドとするミステリ作家であり、本書は宝島社などが主催する『このミステリーがすごい!大賞』の2016年第14回大賞受賞作です。なお、大賞はもう1作あり、一色さやか『神の値段』なんですが、まだ図書館の予約が回って来ません。ということで、まず、本書を取り上げると、主人公は本当に資金を必要とする人に冷たいメガバンクのあり方に失望して退職した後、石川県庁で金融関係の苦情相談を受ける公務員となった若者で、義兄の金策の過程で「黒女神」との異名を持つ二礼茜と出会い、公務員をしつつ彼女の助手として活動します。黒女神は株取引に超人的な能力を有し、彼女が提示する報酬や要求に誠実に応じれば、希望した金額を手にすることができる、とされ、過大投資となった社屋建設費用の借金に苦しむ老舗和菓子屋社長、あるいは、人気歌手で死亡した娘の真の死因が薬物中毒であることを隠そうとする父親、などの依頼を着実にこなした上で、国政進出をもくろむ元高級官僚の裏切りにあいます。そこから、ストーリーが一挙にパワーアップするというか、個人レベルの小さな物語から国政レベルの大きな物語に転化し、紆余曲折を経て、いろんな意味で、というのは金融的な意味も含めて、でも決して完全ではないながら、私のような一般国民でも支持されうるという意味で、それなりの「正義」が実現される、というストーリーです。ほぼデビュー作に近い段階の作品としてはよく仕上がっていて、もちろん、黒女神の現実離れした株式運用テクニックの習得方法など、昨年2015年10月31日付けの読書感想文で取り上げた榎本憲男『エアー 2.0』と比較しても貧弱で、とても現実離れして説明不能な部分も少なくないんですが、今後の活躍を期待させるに十分で、「このミス大賞」にふさわしい作品であろうと思っています。
次に、降田天『女王はかえらない』(宝島社) です。著者はエラリー・クイーンみたいに2人で作品を書くミステリ作家であり、本書は宝島社などが主催する『このミステリーがすごい!大賞』の2015年第13回大賞受賞作です。ここ数年は「このミス大賞」受賞作品はほとんど読んでいるんですが、直近の受賞作である上の『ブラック・ヴィーナス 投資の女神』を図書館に予約した際に、ひとつ前の受賞作であるこの『女王はかえらない』を読み忘れていたことに気づいて、大慌てで借りて読みました。このあたりがムリに読書量が増えている原因のひとつかもしれません。ということで、ストーリーは北関東の田舎町の小学校を舞台に進みます。第1部では「クラスの女王」の座を占めていた地元の女の子が東京からの転校生により追い落とされ、夏祭りで悲惨な事故が起こるまでを、第2部では20年後の同じ小学校を舞台に少女が失踪したりする事件を中心に、それぞれ進み、最後の第3部で真相が明らかにされます。と書けば淡々としたカンジなんですが、最近映画化された乾くるみの『イニシエーション・ラブ』とか、古くは我孫子武丸『殺戮にいたる病』と同じく、いわゆる叙述トリックで構成されています。すなわち、故意に読者をミスリードし混乱させて、真実に到達するのを作者自らが妨げているわけです。私はシラッとネタバレで書いてしまいましたが、第1部と第2部は、素直な読者が読めば20年の間隔が空いた物語ではなく、連続した同じ小学校を舞台にしている、と読めるように工夫されています。というか、多くの読者はそう読むんだようと思います。作品発表から1年余りを経過して、有名な賞を授賞された作品ですので、私もそれなりの予備知識があって、作者にミスリードされない読み方をしましたが、それでも、第3部で明らかにされる第1部の事件というか、事故の最後の最後に語られる真相には驚かされました。ですから、第1部と第2部の間に20年の間隔があるというネタバレくらい明らかにされても、それでもこの作品を読む価値はあるんだろうという気がします。昨年2015年12月12日付けの読書感想文で取り上げた堀裕嗣『スクールカーストの正体』の実体が出ているような気もする一方で、「女性は小さいころから底意地が悪い」と性差別を助長しかねない危うさは感じました。
最後に、金子勝・児玉龍彦『日本病』(岩波新書) です。この著者2人は2004年に同じ岩波新書から『逆システム学』という共著を出版しているそうです。公共経済学分野を専門とする経済学の研究者と医学の研究者の2人による日本経済に関する分析であり、コテンパンに現在の日本経済を批判しています。抗生物質に対する耐性の概念から、金融政策の量的緩和の効果が薄れるというのは、それなりに理解しやすい気がしないでもありませんが、財政における国債残高の累増については私ですら理解できませんでした。p.199 にある通り、最終的に被害者となるのが若者であるという点には私も賛成ですが、残念ながら、著者の既得権者に対する姿勢が理解できませんでした。何度かTPPに対する反対論が表明されており、現在までの米国大統領選挙においても、民主党のサンダース候補やクリントン候補をはじめとして、リベラルな姿勢を示そうと努力している向きには、どうもTPPに批判的な態度をとるのがファッショナブルに見えているようで、TPPについては関税を引き下げた上で必要な補償を実施するというのがメインストリーム経済学の考えであり、TPPに反対するのは既得権者擁護としか見えないんですが、既得権のない若者に対する理解と既得権を手放そうとしない農業者に対する態度の間に整合性が見られず、既得権の有無にかかわらず、すなわち、既得権を持っている人も持っていない人も、誰に対しても手厚く保護して、すべてがうまくいくと言い出しかねない姿勢はどうも理解に苦しみます。現政権やその前の1980年代からの中曽根政権、あるいは、今世紀初頭の小泉政権などを批判するのは、私も大いに同意する部分が少なくなく、特に格差に関する本書の批判は鋭いものがありますが、単なる批判に終わらずに建設的な経済政策のあり方についての議論があれば、なおよかったような気がします。
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