先週の読書はバーナンキ回顧録『危機と決断』ほか計7冊!
先週の読書はかなり多彩な本を読みました。バーナンキ回顧録『危機と決断』上下のほか、直木賞を授賞された『つまをめとらば』や新書も含めて、以下の通り計7冊です。
まず、ベン・バーナンキ『危機と決断』上下(角川書店) です。著者の紹介は不要と思います。リーマン・ブラザーズ証券の破綻にかかわった米国政府高官の回顧録については、このブログでは取り上げなかった『ポールソン回顧録』と昨年2015年11月21日付けの読書感想文で取り上げた『ガイトナー回顧録』がありますが、いよいよFED議長だったバーナンキ教授の回顧録です。ある意味で当然ながら、とてもていねいに金融経済学的な検知からさまざまな金融上のイベントを解説してあり、財務長官として危機対応に当たった『ポールソン回顧録』、NY連銀総裁だった『ガイトナー回顧録』とはビミョーに違っています。おもしろかったのは、サブプライム・バブル崩壊を「当てた」と称するエコノミストはいるかもしれないが、「危機が迫っている」と主張するエコノミストは、例えばジャkソン・ホール・コンファレンスなどでも少なくなく、インフレ高進とか、米国の貿易赤字からドル暴落などの「危機到来説」を主張するエコノミストは常にいるものですので、サブプライム・バブル崩壊やリーマン・ショックを「当てた」と称するエコノミストもいたのであろう、というか、ホントに「当てた」かどうかは疑わしい、という含みなんだろうと受け止めました。また、バブルに対する見識は相当なもので、バブルに対して金融政策で抑え込もうとするのは正しくないと強く主張しています。また、リーマン証券破綻前のベア・スターンズ証券の処理の際には、ジャンク債で破綻した1990年のドレクセル・バーナム・ランバート証券の前例、破綻させずに業界内で救済させた1998年のLTCMの例を参考にしたと明らかにしています。ただし、2008年9月のリーマン証券の破綻とAIGの救済については、前者の場合は救済する手法がなかったと主張し、『ポールソン回顧録』や『ガイトナー回顧録』と基本的に同じラインといえます。ただし、議会筋などから受けた風圧の違いか、救済したAIGのボーナス問題については、『ポールソン回顧録』よりもサラッとした記述にとどまっています。食生活上ではグルテンを摂取しないようにした、と書いてありますので、今年2016年1月16日付けの読書感想文で取り上げた『「いつものパン」があなたを殺す』を参考にしているのかもしれません。議会の公聴会などで政治家に金融機関救済を強く非難された後、「あれは有権者向けのポーズだった」などと電話で言い訳されるなどの政治家のジキルとハイド的な面を明らかにしていますが、私からすれば、間接民主主義でポピュリズムに陥らないための議員の見識ではないかという気もします。最後に、翻訳については、とてもていねいで好感が持てるんですが、日本語に訳し過ぎの部分も散見されました。「露出」とはたぶんエクスポージャーなんだろうなと思ったり、「変動」はボラティリティか、また、ツイスト・オペレーションで操作の対象となる「利回り曲線」はイールド・カーブだろう、とか英語の原書が想像されてしまいました。金融の本ですのでカタカナ英語そのままでもよさそうな気もします。また、私は1989年の冬にワシントンDCに長期出張し、米国連邦準備制度理事会で数量分析局のリサーチ・アシスタントを2か月ほど経験したんですが、その折には、本書のような "FRB" という省略形は内部では使わないと知りました。おそらく、冠詞なしの "Fed" か "FED" が勤務する職員の間で使われている省略形だと思います。リサーチ・アシスタント仲間で飲み会に行く時なんかは、"Leave Fed at 5:30!" みたいなメモが回って来た記憶があります。25年以上も昔ですからメールはありませんでしたし、パソコンはなくメインフレームでモデルをシミュレーションしてグリーン・ブックを作っていました。ファイル名は8文字までしか許されず、グリーン・ブック作業ファイルは "grnbook" か "greenbk" の7文字で表していました。最後の最後に、著者がクルーグマン教授のコラムに抗議しているのは以下のリンクの通りです。風刺画は見ておく値打ちがあるような気がします。
次に、清水功哉『デフレ最終戦争』(日本経済新聞出版社) です。著者は日経新聞をホームグラウンドとするジャーナリストです。基本的に、黒田総裁が就任して異次元緩和を開始してからの日銀金融政策、特に、タイトルの通り、デフレ脱却に向けた金融政策に関するノンフィクションです。最初に著者自身が明記しているように、日銀旧来派にも現在のリフレ派にもくみせず、ジャーナリストとして中立の検知から淡々と事実を説き起こしています。ただし、どうしようもないタイミングの問題で、いわゆる「マイナス金利」まで踏み込んだ追加緩和は本書では取り扱われていません。昨年2015年暮れくらいまでに知り得た最新情報に基づくリポートとなっています。総裁と副総裁の執行部の交代により、ここまで日銀金融政策が大きく変更されるのはどうしてか、という点に関して、同時に中央銀行の独立性とその暴走の可能性まで含めて、第2章で詳しく論じています。国民生活に密接に関わる物価を政策のターゲットとする中央銀行は何らかの民主的なコントロールに服すべきである、という視点は私もまったく賛成です。では、政策決定に当たる審議委員についてはどうなのかというと、退任した審議委員経験者へのインタビューから、白河押す際の時の包括緩和ではデフレ脱却という結果が出なかったので、黒田総裁に交代した後の異次元緩和に賛成した、というもっともな態度が明らかにされています。また、旧来の日銀理論ではデフレは人口減少とか、中国の安価な輸入品とか、金融政策でコントロール出来ない要因によりもたらされているので金融政策での対応はムリ、という主張がまかり通り、逆に、私のようなリフレ派のエコノミストからはインフレやデフレは貨幣現象なのだから金融政策で対応すべし、との両者に平行線で交わることなく、やや不毛な議論があったんですが、黒田総裁の観点として、デフレの原因が何であれ、物価を政策目標とする金融政策として何でもやれることはやる、という真っ当な政策対応だと本書では主張されており、なるほどと思わせるものがありました。ただ、黒田総裁はバブル容認論である、というのはやや筆が滑った印象があります。
次に、若林宣『帝国日本の交通網』(青弓社) です。著者は歴史・乗り物ライターということで、タイトル通り、明治期から終戦までの我が国の交通網、特に、国内だけでなく植民地経営を行ったサハリン、台湾、また、その昔の満州国や朝鮮だけでなく、戦時下で一時的に占領しただけの東南アジアや南洋諸島も含めています。その意味で、平時の交通網に関するノンフィクションではなく、むしろ、戦時や戦争遂行のための交通網の維持・建設という側面を色濃くにじませています。すなわち、第1章では朝鮮・台湾・樺太・満洲の交通網形成として、主として鉄道が取り上げられていて、ゲージが国内の狭軌と合わない標準軌だったり広軌だったりして、そもそも、まったく接続が無理だった可能性を議論しています。また、第2章と第3章では主として航空機の交通網を展開していますが、米国などと同じように航空郵便事業の展開の中で航空輸送が発達して行ったようすがよく理解できます。その後の第4章以下では、戦時下での南洋諸島、内モンゴル、中国や東南アジアの占領地域での交通網の展開を論じています。ただ、主として鉄道と飛行機に集約されており、船舶の交通網についてはほとんど触れられていません。さらに、交通網というよりも、例えば、その昔の満州国における満鉄などは、鉄道会社というよりも本書でも植民地経営全般に携わった国策会社としての面を強調していますし、本書における交通とは平時の旅行や製品輸送のロジスティックではなく、戦争遂行のための兵站としての面を強く打ち出しているという気がします。まあ、要するに最後はそういった兵站がまったく出来上がらないというか、出来た後もメンテナンスがなされずにブチブチに切れてしまい、非常にいい加減な戦争遂行計画であった可能性を示唆していると私は受け止めました。本書の副題の「つながらなかった大東亜共栄圏」もそれを表していると思います。また、交通網については観光などの旅客輸送ではなく、戦争遂行の兵站ながら、製品輸送という生産面からの捉え方に近い気がして、それなりの評価はできると私は感じました。すなわち、20年ほど前のインターネットの黎明期には、国民生活の利便性向上における活用が議論されていましたが、私はインターネットにせよロジスティックにせよ、生産活動における役割が重要と考えて来ました。また、現在の日本におけるコンビニの成功はロジスティックに負うところが大きく、輸送産業の果たす役割をもう一度見直す意味でも、本書はいい点を議論している気がします。最後に、本書の写真がほとんど著者所蔵の貴重品であるのは少しびっくりしましたが、出来れば、もっと地図を盛り込んで欲しかった気がします。位置関係が私には不明な部分が少なからず存在しました。
次に、青山文平『つまをめとらば』(文藝春秋) です。紹介するまでもなく直木賞受賞作です。短編集となっていて、表題作が最後の短編として配置されているほか、「ひともうらやむ」、「つゆかせぎ」、「乳付」、「ひと夏」、「逢対」の6編の短編時代小説が収録されています。同じ趣旨の繰り返しになりますが、最後に置かれた短編を本のタイトルにしていて、男女の結婚にまつわるお話が中心なんですが、結婚まで至らない男女の関係も大いに含まれています。時代小説の王道として、時代は天下泰平の江戸時代、主人公は侍の男性です。ただ、『たそがれ清兵衛』のように、政治向きのお家騒動などはほとんどなく、ひたすら男女関係に焦点を当てています。高校なんぞの日本史で習うように、江戸時代の天下泰平の世の中で武断政治から文治政治に切り替わり、『たそがれ清兵衛』のように武士の表芸としての剣術を生業とする番方もまだ残っているものの、読み書き算盤のような役方の役人としての武士の生き方も決してめずらしくもなくなった時代に、一方で、政治に明け暮れて世襲で安泰なお家の藩主を差し置いて、家老以下がお家騒動に明け暮れる時代小説もあれば、本書のような色恋沙汰に重点を置いた時代小説もあります。ただ、私も決して嫌いではないんですが、髙田郁「みをつくし料理帖」シリーズのように、女性の料理人を主人公にした町場の時代小説はまだ少数かもしれません。6編のうちでは、やっぱり、というか、何というか、最初に置かれた「ひともうらやむ」と最後の「つまをめとらば」が印象的でした。「ひともうらやむ」は、本家の克巳と分家の庄平という縁戚関係にある同年代の侍の親友関係を中心に、男から見た妻という捉え難くミステリアスな存在を描こうとしています。いろいろな面を持ち、ある意味で強かな妻の一面は、とても怖いと感じてしまいました。また、「つまをめとらば」でも、幼なじみの省吾と貞次郎がほぼ隠居の年齢に達した50代後半からの生きざまを捉え、その昔の使用人の女性との関わりから、3人の妻と次々と結婚した省吾に対して、独身を貫いて養子に家督を譲った貞次郎が隠居してから結婚するという人生観のありようを描き出しています。他の短編もいい出来だと思いますが、取りあえず、印象に残ったのはこの2篇でした。
次に、宮内悠介『アメリカ最後の実験』(新潮社) です。作者は『盤上の夜』、『ヨハネスブルグの天使たち』、『エクソダス症候群』と私が読み進んで来た新進気鋭のSF作家です。この作品は米国西海岸のグレッグ音楽院を舞台に、主人公のピアニスト櫻井脩が失踪した父親を捜し、その父親の残したシンセサイザ「パンドラ」と出会ったり、グレッグ音楽院の受験ではリロイと競ったり、ほかにマフィアの御曹司のザカーリという少年ピアニストなどが登場します。脩はジャズをホームグラウンドとするのピアニストなんですが、音楽とはゲームだと感じ、心の動きは無視するタイプのピアニストであり、その昔のテキスト・クリティークとの相似性を感じさせます。ということで、本書は著者本来のいわゆるSF小説ではなく、時代背景も現在もしくはせいぜい近未来くらいなんですが、「最初の実験」と称してグレッグ音楽院で殺人事件が起こり、次々とナンバー殺人が「実験」と称して連鎖します。他方、脩やザカーリの参加するグレッグ音楽院の入学試験は延々と2次試験から最終試験まで進みます。唯一SF小説的な要素があるとすれば、櫻井脩の父親である俊一が残した「パンドラ」と称するシンセサイザですが、ブルーノート、すなわち、ブルーズで半音落とす3度と5度と7度の落とし方を大きくすることが出来たり、純正律を奏でることが出来るという意味で、独特の音楽をもたらすというマシンとして描かれています。だからといって、何だという気もしますし、日本の友人のエンジニアにコピーを作らせたりするんですが、最後まで父親である俊一の役割が私には理解できませんでした。同じ道を進む父親と息子、しかも父親が行方不明という点では『エクソダス症候群』と同じ構成なんですが、医療と音楽というかなり異なる分野を舞台にしています。SF小説から離れて、作者の新しい境地を開いたことになる作品なのか、あるいは、単なる鬼っ子の作品なのか、現時点では評価が分かれると思います。
最後に、島崎敢『心配学』(光文社新書) です。著者はなかなか興味深い経歴ながら、現在は交通事故や災害などに関する心理学の研究者です。タイトルはそのままなんですが、要するに、客観的な確率と主観的な確率のズレについて論じています。ただ、主観的な確率については、過大推計する場合と過小推計の場合があり、特に、得体の知れないリスクについてのバイアスについても詳しく解説しています。心理学的なリスクですから、経済学的なリスクとは異なります。すなわち、経済学ではシカゴ大学のフランク・ナイト教授の功績により、確率分布が事前に判っている場合はリスクと呼び、そうでない場合は不確実性と称する習わしになっていますが、本書ではすべてを「リスク」と称しているようです。その上で、何らかの不都合な事象が生ずる可能性をリスクと定義し、メディアで報じられるリスク事象については、間接的な情報取得であって、仲介者により情報が歪められている可能性を考慮する必要があると指摘しています。また、集団の中では極性化が生じて、いわゆる極論が形成されやすい事実を主張し、正体の知れないモノのリスクを過大推計する可能性があるとしています。第4章から第5章にかけてが読ませどころだと思うんですが、特に第5章の実際の確率の計算が実生活上の参考になるんではないかと思います。さらに、行き過ぎたリスク回避の危険も指摘し、危険な遊具をすべて公園から撤去すれば、逆に、危険回避行動の学習に支障を来す可能性を指摘することも忘れていません。原発についてもコスト・ベネフィットの勘案からバランスの取れたリスク回避の重要性を指摘し、闇雲にリスクを回避することが重要と考えるべきではないという立場を明らかにしています。とても感心したのは、どうでもいいことながら、第5章 p.167 から BSE に関する確率計算の部分で、牛丼の「吉野家」の最初の漢字をちゃんと「土+口」で表現していることです。通常のパソコンではフォントがなくて「士+口」になるハズで、吉野家のホームページでも画像はともかくテキスト部分は止むなくそうなっています。逆に、感心しない点として上げるべきは、ピンポイントの確率については詳しく論じていますが、確率分布については p.34 図1で簡単に触れているだけで、もう少し詳しく論ずるべきではないか、という気もしました。でも、全体として、とても興味深く読めました。
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