何となく今週はゴールデン・ウィーク前で落ち着かず、仕事もそれほど忙しくないというか、ゴールデン・ウィークを区切りに一段落させてしまったので、大量に読書しました。仕事に密接に関係する本も含めているので、より大量に読んだ気がします。でも、学術論文を書く時の参考文献なんて、最低でも20-30冊は並べますし、50冊を超えることもめずらしくありません。もちろん、図書だけでなく20ページほどの論文も込みの数字ですが、これくらいは読みこなさないと論文も書けません。
まず、仕事の関係もあって、我が国の高度成長期の貿易や為替の自由化との関係で、上川孝夫『国際金融史』と浅井良夫『IMF8条国移行』(日本経済評論社) を読みました。昨年12月と8月の出版です。いずれも国際金融関係の研究者が著者となっています。いずれも学術書でしょうが、税抜きベースながら2冊合計で軽く12000円を越えます。公務員の薄給では買い求めるのもはばかられましたので、私は図書館で借りました。『国際金融史』の方は金本位制の前から国際金融の歴史を解き明かし、1930年代の世界大恐慌から戦後のブレトン・ウッズ体制下の固定為替相場、その後のニクソン・ショックからの変動相場制の導入とグローバル化の進展、最後はリーマン証券の破綻による金融危機や欧州のソブリン危機で終わっています。ていねいに国際金融の歴史を追いかけ、決して過去のイベントを最近の金融危機に投影することなく、歴史の流れをキチンと把握できるように工夫されている気がします。ただ、専門外の場合、歴史が平板的に羅列されている印象を受けるかもしれませんが、私はそれなりに興味深く読めた気がします。『IMF8条国移行』の方は、時期も国も大きく絞り込んで、ほぼ我が国の高度成長期に焦点を当てています。しかも、私は今まで見たこともなかったんですが、IMFコンサルテーションによる日本の政策当局と国際機関であるIMFの交渉過程から日本の貿易や為替の自由化の歴史をひも解いています。主たる焦点は圧倒的に我が国に置きつつも、国際機関における米英の主導権争いなどにも目配りがなされています。特に、『国際金融史』の方でケインズの引用文献がかなり膨大なのに驚き、今さらながら、単なる理論家ではなく国際金融の交渉の場におけるケインズの存在の大きさを認識しました。

次に、田中直毅『中国大停滞』(日本経済新聞出版社) です。著者は著名なエコノミストであり、タイトルから内容や結論は明らかでしょう。昨年半ばころから新興国の中でもブラジルと中国が経済に変調を来しています。ブラジルの場合は大統領の弾劾ですから制度的な問題もあって、なかなかエコノミストには解釈の難しいところもあるんですが、近隣国の中国は経済的な影響も大きく、エコノミストとしてはより気にかかるところです。中国経済の停滞を考える際に、本書では明示的に指摘していませんが、短期の循環的な停滞なのか、それとも、長期の構造的な要因によるものなのかを識別することは極めて重要です。先週の読書感想文のブログで取り上げたノース教授流に考えると、エルゴード的なのか、非エルゴード的なのか、ということになります。そして、本書の著者の回答は非エルゴード的であり、制度的な要因も含めて詳細に本書でその理由を解説しています。統計が信頼性にかける点から本書が始まって、要するに、集権国家としてバブルの発生も崩壊も、その影響の緩和も、すべてに失敗し沈み行く中国を描き出しています。私は実はここまでとは思いませんが、ある程度は本書と近い印象を持っています。ただ、本書の後半で明治期以降の我が国を手本として中国のさらなる民主化を推奨する気にはなりません。また、本書の著者はステイト・キャピタリズムや集権国家としての中国を批判していますし、そのもとで経済がイノベーションに基づく成長に適さない、というのも事実だろうと思いますが、忘れてならないのは Gill and Kharas 的な中所得の罠、Middle Income Trap の可能性です。この点についてはまったく言及がなく、少し物足りない気もしないでもないんですが、結論として、中国の経済停滞は短期的で循環的なものではなく、中長期的で構造的な要因、すなわち、集権国家によるイノベーションの可能性の低下を原因としている可能性が高いという点については私も強く同意します。

次に、山口謠司『日本語を作った男』(集英社) です。著者は中国や日本を専門とする文献研究者で、タイトルの男性は尾張藩士の子弟に生まれ、東京大学教授を務め、本書でいう日本語=標準語の確立に貢献した上田万年です。小説家円地文子の父であり、教え子に広辞苑の編集で著名な新村出のほか、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいます。ということで、本書では「万年」の漢字を当てていますが、当時の人ですので「萬年」が正しいのではないかと思いつつ読み進みます。日本では高校くらいから、いわゆる国語は現代国語と古文と漢文に分かれ、明治期から戦前まではいわゆる文語体というものがあり、口語体と区別されていました。とても不思議なことに、私の理解する範囲で、英語やスペイン語では古い表現こそあれ、文語体と口語体の区別はありません。この言文一致を進めたの1人が上田万年です。現在では、いわゆる旧字体のカナ文字である「ゐ」や「ゑ」はすでに使われていませんが、上田万年が追及したように、言葉で話す通りに書くというまでには至っていません。例えば、上田万年が主張したように「を」の使用をヤメにして「お」で統一するとか、「おにいちゃん」ではなく「おにーちゃん」と長音記号を多用するとかです。ただ、くだけた書き文字では、例えば、このブログでも私は「ビミュー」と書いたりしますが、学術論文ではそうしません。当たり前です。すなわち、本書では上田万年に着目してその業績や主張を展開しているんですが、逆に、一部の主張が現在に至るまで実現されていないのはどうしてなのかも知りたい気がします。という意味で、かなり強い物足りなさを感じてしまいます。森鴎外が上田万年のライバルとして、日本語の新たな展開に反対しまくって、性格が悪いのはここまで強調する必要もないことで、むしろ、上田万年の主張がどうして実現されなかったのか、森鴎外のせいなのか、などに触れて欲しかった気がします。また、本書でも軽く触れられていますが、1985年にNHKでもドラマ化された井上ひさしの『國語元年』もその昔に楽しく視聴した記憶があります。

次に、齋藤孝『日本人は何を考えてきたのか』(祥伝社) です。著者は人気の明治大学の先生です。いろんなシリーズの本を出版していると思います。本書では、礼賛でも自虐でもなく、自分の国の正しい姿を知るという目的で、古事記から始まって、仏教、禅、武士道、京都学派哲学、などなど、1300年に及ぶ日本思想のポイントが、著者のシリーズ本に例えれば、「ざっくり」と理解できるようになっています。第1章では、日本人とは日本語を母語とすると定義し、古事記から日本人の考え方を説き起こし、第2章では日本人の宗教的なバランス感覚を議論し、特に、最近ここ何年かのハロウィーンの取り込みに、日本人的なバランス感覚を見出しています。第3章では西洋と対比する中で、西田幾多郎などの哲学の京都学派の思想から日本人の考えを考察し、最後の第4章では柳田國男の民俗学などから、ものの決まり方としてコンセンサス的な決まり方で責任があいまいになる日本方式について、リーダーシップ型で責任の所在が明らかな方法と対比させ、天皇の外戚として関白を務めた藤原氏のシステムからの成り立ちを示唆しています。なかなかおもしろい考えかもしれません。そして、最後に、論語に立ち返ると主張しています。論語そのものは中国由来であることは言を待ちませんが、そこに日本人の考え方の原型を見出しているわけです。私は論語というよりも、論語の日本的な解釈なんではないかと受け止めていますが、本家本元の中国では社会主義の下で論語の扱い、というか、解釈がどうなっているのか知りませんので、中国的な論語の解釈と日本的な解釈の違いなどがどうなっているのか、専門外の私には何ともいえません。でも、直感的に本書でいう「論語」は、日本的な解釈の下の論語ではないかと考えています。それほど詳しいわけではないので、あくまで直感です。

次に、森正人『戦争と広告』(角川書店) です。著者は研究者であり、ナショナリズム研究の一環として本書を出版したようです。表紙の雰囲気からも判る通り、いわゆる15年戦争における戦意高揚のプロパガンダを扱っています。基本的な分析の視点はマクルーハンのようです。対象は「写真週報」と「アサヒグラフ」が多かった気がします。私が読んだ範囲では第3章まではヒタスラプロパガンダ材料を並べて解説するだけで、もちろん、貴重な資料なんでしょうが、研究者でなくても高校の文化祭の展示くらいで出来そうな気もします。ハッキリいってレベルの低さを痛感します。少なくとも、「大本営発表」といえば、現代では誇張ないしは虚偽の発表に近い受け止め方をされていますが、本書ではプロパガンダの内容の解説に終止しており、受け止めた国民の側の反応というものは皆無です。内容の分析すらなく、私の直感では、戦争初期の戦果などはある程度は真実に近いものの、末期には誇張ないし虚偽に近くなるわけですから、たとえ情報統制が敷かれていたとしても、国民の側で何らかの反応があったんではないかと想像するものの、そういった分析はまったくなされていません。本書でも『ビルマの竪琴』にほとんど現地人が登場しない点を批判的に取り上げていますが、本書でプロパガンダを受け止めた国民の登場はなく、私はとても物足りなく感じました。戦争というのはある種の集団ヒステリーに近いと私は考えていて、およそ経済的な合理性というのは無視されるのが通例なんですが、21世紀の現時点から当時を振り返るのは、そういった合理性がどこまで無視されたのか、あるいは、無視しない人がどのように反応したのか、といった点も知りたい気がします。また、戦争当時のプロパガンダから、最終章では一気に21世紀に飛びますが、50年余りの間の変化についてもトレースして欲しい気がします。やや残念な1冊でした。

次に、村田沙耶香『消滅世界』(河出書房新社) です。私はこの作者の作品は初めて読みました。舞台は100年先の日本か、あるいは、パラレル・ワールドといっていいのか、いずれにせよ、世界大戦で男性が出征したため人工授精の技術が飛躍的に発達し、通常の性交渉で妊娠と子作りをするのではなく、原則として人工授精で妊娠し、結婚はこの妊娠のために精子と卵子を提供する男女、すなわち、夫婦の間に成立する一方で、夫婦はともに別の異性あるいは同性の恋人を持ち、夫婦間の性交渉は近親相姦として忌み嫌われる、という世界を舞台にしています。他方、家族とは性交渉ない夫婦とそのDNAを引き継ぐ子供から構成されます。ただし、これは通常の世界の話であって、これをもっと突き詰めて行き着いた先が千葉県の実験都市が展開され、楽園(エデン)システムと呼ばれています。そこでは、妊娠も子育ても集団的に行われて、誰が誰の親で、子供で、というのがわからなくなって社会的な妊娠出産、子育てが行われ、男性も成功率は極めて低いものの人口子宮で妊娠したりします。その千葉に主人公夫婦がある企みを持って潜行しますが、主人公の女性の蹴っこない手であった男性が楽園(エデン)システムに取り込まれてしまいます。私の直感としては、伊藤計劃の『ハーモニー』の影響が色濃く見いだされるんですが、ラストはかなり異なります。主人公は実は通常の性交渉で生まれて来ており、母親との関係が大注目です。ネタバレは控えておきますが、『ハーモニー』のように、ある意味で、無色のSFではなく、ややディストピア小説なんだろうと受け止めています。

次に、一色さゆり『神の値段』(宝島社) です。今年2016年2月27日付けの読書感想文のブログで取り上げた城山真一『ブラック・ヴィーナス 投資の女神』とともに、昨年度の宝島社「このミス大賞」の大賞受賞作品です。美術品にからむミステリであり、正体を隠した覆面画家とその画家の作品を行ってに扱うプライマリーのギャラリスト、そして、その画家雨の作品を収集するコレクターなどの登場人物の中、ギャラリストのアシスタントが主人公となってストーリー・テリングします。謎自体はそれほどでもなく、同時に、作品に登場する人物がものすごく少ないので、犯人は限られてすぐにネタバレしてしまうんですが、最後の10ページほどで主人公が一気に殺人犯相手に真相をしゃべり切るのも、構成上ややツラい気がします。まあ、その他にも順不同で何点か指摘すると、第1に、この21世紀のご時世に、しかも、30-40年ほど前に面識ある人も少なくない画家が完全に覆面状態を維持できるとするのもムリがありますし、第2に、メールで指示された作法で出来上がった作品にサインするだけで、その画家の作品とするのは、トイレの便座にサインしたデュシャンの例を持ち出して言い訳してもムリがありますし、第3に、オークションで一気にあそこまで値が競り上がるのもムリがありますし、第4に、CD-Rで犯人に不利な証拠が送られて来るのは決定的にムリがありそうな気がします。謎解きのミステリではなく、美術品に関係するサスペンス、なのかもしれませんが、そうであれば、この作者の目標は原田マハなのかもしれません。

最後に、おおたとしまさ『男子御三家』(中公新書ラクレ) です。著者は麻布高校出身で、育児や教育に関する著書も何点かあります。タイトルからも明らかなように、東京の男子単学で6年間中高一貫教育のうちでも名門校である開成、麻布、武蔵の3校を取り上げて論じています。当然ながら、褒め称えられています。誠についでながら、最後の「おわりに」で、取り上げられた男子御三家だけでなく、似たような学校文化が共通しているとして、女子御三家や灘高などとともに、我が出身高校も名前を上げられています。光栄の至りです。いろんな本で紹介されている通り、我が母校も末席に加えて、名門校といわれる中高は自由な校風で、いわゆるリベラルアーツを中心とした懐が深い、というか、ぶ厚い教育をしてくれます。もちろん、「パッと見」で目につくのは東大や京大などの名門大学への進学なんですが、決して何かを犠牲にして偏差値を取っているわけではないと私は経験から知っています。すなわち、10代のティーンと呼ばれる多感な思春期に、スポーツや恋愛といった活動を抑制して勉強を詰め込んで偏差値を得ているわけではありません。もちろん、人格形成に難があるわけでもなく、歪んだ性格の生徒が多いというわけではありません。男子単学ながら、少なくとも私の母校ではなかり派手な男女交際が暗黙に認められていた気がします。我が家の倅2人も男子単学の6年間を送っているんですが、コチラはかなり地味というか、よく言えば質実剛健かもしれません。逆に、私の出身校は軽佻浮薄なのかもしれません。いずれにせよ、我が家の倅2人はすでに大学生と高校3年生ですから、私は子供達の進学の参考というよりも、自分の青春の学校時代の物語として読んでみました。
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