今週の読書は大いに積み上がって9冊!
今週の読書はもう少しで10冊の大台に乗りかねない9冊でした。3連休で月曜日が休みだった上に、週半ばで年休消化のためにお休みして、かなり時間的な余裕があり、加えて、ブックレットや新書などの薄くてすぐに読み終わる本が3冊もあった点が大量読書につながった気がします。来週は図書館の予約次第ではありますが、もっとペースダウンしたいと強く希望しています。でも、来週も年休消化を試みようかと考えています。
まず、ジョセフ E. スティグリッツ『ユーロから始まる世界経済の大崩壊』(徳間書店) です。著者はノーベル経済学賞も受賞した著名なエコノミストであるとともに、世銀のチーフエコノミストを務めたこともあり、研究者としてだけでなく実務家の面も有しています。本書の英語の原題はズバリ The EURO であり、今年2016年の出版です。欧州の経済的な停滞が続き、ギリシアのソブリン危機はまだ解決に至らず大幅な景気後退を招き、英国のEU離脱、いわゆるBREXITが国民投票によって決着した後、今年の年央からはドイツ銀行をはじめとする大陸欧州の銀行の健全性が疑問視され、もう欧州は何が起こるか判りません。加えて、来年2017年はフランス大統領選挙、ドイツ総選挙があり、欧州分裂とユーロ瓦解が一気に進む可能性も指摘されていたりします。スティグリッツ教授はユーロ・システムの致命的欠陥を指摘し、歪んだ通貨制度の末路と改革への道を示そうと試みています。細かくて私の理解がはかどらないいくつかのポイントを別にして、ユーロ圏最大の問題は独立した金融政策が運営できないと指摘しています。かつての金本位制と同じ問題です。独立した金融政策が可能であれば、金利と為替の2つの政策手段により、米国の連邦準備制度理事会(FED)と同じように、完全雇用と物価安定の2つの政策目標が達成されるとスティグリッツ教授は考えているようです。私は1985年のプラザ合意以降の円高局面にもかかわらず、まったく我が国の貿易黒字・経常黒字が減らず、米国の体外赤字も縮小しなかった経験から、かなりの弾力性ペシミストになったんですが、為替の力も現在の我が国を見ていると無視できないような気がします。いくつか、頭の回転の鈍い私には理解できなかったポイントもありますが、左派リベラルの経済的な思考を理解する上でも必読の書だという気がします。ここ数年の著書を読んでいると、スティグリッツ教授は、ちょうど50年前くらいのガルブレイス教授に近い存在になったような気がします。
次に、トーマス H. ダベンポート/ジュリア・カービー『AI時代の勝者と敗者』(日経BP社) です。著者はコンサルタントから研究までこなす男性と編集者の女性の2人で、英語の原題は Only Humans Need Apply、すなわち、カプランの『人間さまお断り』 No Humans Need Apply の逆というわけです。カプランの著書の方は私は図書館予約がまだ巡って来ず、未読のままなんですが、人工知能AIに対して受容の高い姿勢、というか、AIの積極的なビジネス利用の方向を示しており、かなりあからさまにAIの軍事利用まで許容しているとして本書では批判しています。他方、本書では、AIについては拡張的な利用に努め、逆に、本書では「自動化」と称しているんですが、私の用語に従えば、人間労働の代替的な使用を目指す使い方を批判しています。そして、代替的なAI利用を廃して、拡張的な利用に基づく5種類の仕事を示しています。すなわち、自動システムの上を行くステップ・アップ、マシンにはできないステップ・アサイド、ビジネスと技術をつなぐステップ・イン、自動化されることのないステップ・ナロウリー、新システムを生み出すステップ・フォワード、です。このうち、ステップ・アップとステップ・インとステップ・フォワードが少し入り組んでいる印象なんですが、ステップ・インがAIシステムの設計や構築に携わる上級管理職、ステップ・インは企業や組織の自動システムへのニーズとシステムの出来ることを把握してそのギャップを埋めたり、新たなシステム開発をするエンジニア、ステップ・フォワードはコーディングを行うプログラマ、といったのが私の理解です。そして、ステップ・アサイドは自動化されにくい分野の仕事、例えば、非認知能力や非計算能力を必要とする職業です。このひとつにベビー・シッターがあると私は認識しているんですが、まさに、ドラえもんはベビ・シッターの役目をするロボットであり、とても先進的な科学技術の産物であるといえます。最後に、ステップ・ナロウリーとは自動化出来る仕事であるものの、需要が小さいことからコストが見合わなかったりする職業です。本書にはありませんが、私は直感的に、お寺や神社の建築に携わる宮大工さんを想像していしまいました。ということで、本書の内容の紹介だけでスペースを費やしてしまい、感想文がほとんどないんですが、2点だけ指摘しておくと、第1に、本書のp.24から解説されているデスキリングの問題です。本書では、仕事が簡易化すると労働者のスキルが低下する、の両方を指す言葉として「デスキリング」を紹介しています。私はこれは雇用に関してあり得るし、重要なポイントだと認識しています。すなわち、特に現状の日本の雇用について考えるに、非正規雇用として簡易というか、未熟練の雇用ばかりが増加すると、マクロで日本全体の雇用者がデスキリングされて、マクロで生産性が落ちるような懸念があります。第2に、ケインズの「孫たちの経済的可能性」(山形浩生訳はコチラ)に本書でも触れていますが、要するに、労働時間は週30時間にはなっていませんし、今後も労働時間が劇的に短縮される可能性は低そうです。これはまったく私には理解できません。ひょっとしたら、あくまで、ひょっとしたら、なんですが、マルキスト的あるいはシュンペタリアンな意味で資本主義の限界なのかもしれない、と考えないでもありません。根拠はありません。
次に、ゲルノット・ワグナー/マーティン・ワイツマン『気候変動クライシス』(東洋経済) です。著者は2人とも米国ハーバード大学の研究者なんですが、専門分野が違っていて、ワグナー教授は環境工学、ワインツマン教授は経済学です。英語の原題は Climate Shock であり、昨年2015年に出版されています。地球温暖化をはじめとして気候変動のショックを解説し、その対策を考察しています。その昔にゴア元副大統領が『不都合な真実』 An Inconvenient Truth を出版しましたが、印象としてはかなり似通っています。ハーバード大学の研究者だからといって、それほど論理的というか、学術的な仕上がりになっているわけではありません。いろいろな論点があるんですが、気候変動問題への対処について著者の提案は炭素税に尽きます。1トン当たり40ドルという具体的な数字も出しています。そして、私が不思議に受け止めたのは、不勉強だから知らないだけかもしれませんが、ゲオエンジニアリングに対する警戒感をにじませています。ゲオエンジニアリングとは、成層圏に硫黄ベースの微粒子を注入して太陽光を跳ね返す、というのがもっとも大規模なもので、そうでなくても、屋根を白く塗るとか、であり、ピナツボ火山が噴火した際の火山灰により太陽光が遮蔽された経験に基づくようです。誠に不勉強ながら、私はこういった議論があることすら知りませんでした。エコノミスト的な議論としては、将来に渡る気候変動ダメージの分布がファットテールであれば、現在価値に引き直す割引率をどうとってもかなり大きなダメージと認識される、とかでしたが、何といっても私の印象に残ったのは、個々人が気候変動問題に関して何らかの正しい行動を取る必要性を強調していることです。第7章で取り上げていて、「重要なのは正しい行動をするということ」(p.202)と指摘しています。先週の読書感想文で橘木先生の格差論に私が意義を申し立てたのは、格差を是正するのは正義の観点から必要、ということでしたが、まったく同様に、地球温暖化や気候変動に対応するのは、それだけではないにしても、正義の問題なんだと私は認識しています。もちろん、正義の問題だけでなく、大いに効率の問題でもあることは認めますが、サンデル教授の本にあるように、1人を助けるか5人を助けるか、といった難しい議論ではなく、地球環境問題や気候変動問題を解決するのは人類としての正義であり、正しい行いで対応する必要があると私は考えています。
次に、フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?』(草思社) です。著者は環境、科学、開発などを専門とするジャーナリストです。本書の英語の原題は The New Wild であり、昨年2015年の出版です。本書の主張はとてもクリアで、在来種を残すために外来種を駆逐するのが正しい生態系保護かどうかを強く問うています。従来は、侵入してくる外来種を「敵」とみなし、外来種を根絶して自然をもとに戻すことを大目標としていた環境保全のあり方に警鐘を鳴らしているわけです。著者がジャーナリストなものですから、膨大な生態系保護や環境保全などに関する事実関係を本書に詰め込んでおり、私のような専門外のエコノミストにはすべてを理解する能力はないんですが、少なくとも、自然の生態系とか環境とかは、決して静学的な状態にあるわけではなく動学的、すなわち、ダイナミックに変化しており、加えて、氷河期などの気候変動も変化を生じさせるひとつの要因となっている上に、大昔よりも現代ではその変化のスピードがかなり速くなっているではなかろうか、ということは理解しているつもりです。ということで、本書は外来種を単純な「悪者」に見立てるのではなく、例えば、本書冒頭では、南大西洋のアセンション島グリーン山はかつてはだか山だったが、外来種が持ち込まれてうっそうと生い茂る雲霧林を形成しているという事実から始まって、また、本書では、外来種の侵入が原因で在来種が危機に陥った、あるいは、絶滅した、と主張されている多くの例で、実は、外来種の侵入以前から環境変化が生じており、外来種は「悪者」ではない、という可能性を示しているわけです。そして同様に、いくつかなされた外来種の侵入に対する経済損失の試算に対しても疑問を呈しています。具体的には、ガラパゴス諸島に例を取るまでもなく、孤島の生態系は外来種の絶好のカモだという思い込みには根強いものがあえいますが、島嶼グループを対象にした調査では在来種に重大な影響を及ぼしたものはほんのひと握りで、ほとんどの外来種は多様性を高め生態系を豊かにしていたという事実を、著者は、オーストラリア、ヴィクトリア湖、エリー湖などの実例を丹念に検証し、思い込みとは逆に、人間が破壊した環境に外来種が入り込み、むしろ自然の回復を手助けしている例も少なくないと結論しています。人間の現状維持バイアスに基づいて、時計の針を逆回しにするような自然保護観を転換させてくれることは間違いありません。新聞などでも私の見る限り好意的な書評が少なくないような気がします。以下の通りです。
次に、スコット・リチャード・ショー『昆虫は最強の生物である』(河出書房新社) です。著者はハーバード大学に在籍していた時にウィルソン教授やグールド教授などの生物学の大先生から薫陶を受け、いまではワイオミング大学の研究者であるとともに、昆虫博物館のキュレータを務めています。要するに、世界を股にかけて昆虫を集めて回っているわけです。英語の原題は Planet of the Bugs であり、「昆虫」に限らず虫を対象としています。2014年の出版です。口絵のカラー写真も美しく、本文中にもモノクロながら、とてもワクワクするような写真を満載しています。p.176のヘラクレスオオカブトなんて、我が家の子供達がその昔にムシキングに夢中だったころに聞いた覚えがある、と思い出したりしてしまいました。ということで、本書では4-5億年の昆虫の進化の歴史を追っています。有名な三葉虫なんかも出てきます。冒頭は、いわゆるスノーボール・アースの後の「カンブリア爆発」と称される生物多様性が一気に「爆発」して、生物分類上の門が激増した時期から話が始まります。植物は別にしても、当然、水生の動物から始まり、著者独自の見解として、海岸線から陸上に進出したのは植物よりも動物の方が早かった、と主張します。このあたりはやや手前味噌な気がしないでもないんですが、我々が生物進化を考えると、これまた手前味噌で、ついつい脊椎動物ないし哺乳類中心の進化史観になってしまいますところ、著者のような昆虫好きの学者さんからすれば、本書の原題の通り、地球は虫の星であり、極めて多種多様な虫が繁栄を謳歌しているようにみえるんだろうという気がしますし、それはその通りなんだろうと思います。変態や擬態、寄生、社会性など、驚くべき形態や生態をもつ理由を示し、進化を押し進め、あらゆる生命を支える昆虫の驚異の世界を明らかにする、かつてない進化の物語といえます。最後に、後記の中で、英国の生物学者であるホールデンの言葉を引いて、生物という神の創造物の研究から、神は並外れた甲虫好きだったと指摘するなど、ユーモアのセンスにあふれ学術的にも一定の水準をクリアし、それでも一般読者に判りやすい良書といえます。
次に、上杉聰『日本会議とは何か』(合同ブックレット) です。著者はどういう人かよく判らないんですが、少なくとも改憲に賛成したり、日本会議を支持するサイドではなさそうです。ということで、またまた日本会議の研究本です。いくつかの同種の本を共通して、日本会議の改憲志向に警戒感を露わにし、その宗教的な組織に対して嫌悪感を隠そうとはしていません。元号法制化の運動の成功が日本会議結成のきっかけという点も共通しています。ただ、私の目から鱗が落ちたのは、安倍内閣で推し進めた18歳選挙権なんですが、これは世界で徴兵制をしいている国の多くが18歳で兵役義務を課しているから、というのが理由だと本書では指摘しています。まったく私は知りませんでした。ただ、私も官庁街に勤務するキャリアの国家公務員ですから、国会議事堂や総理大臣官邸の近くを通ることもあり、日比谷公園から国会へのデモ行進の通り道にも我がオフィスは面しており、少なくとも私の観察する限りで、いわゆる左派はかなり年齢のいった団塊の世代などが中心であるのに対して、いわゆる右派の方が年齢的にはグッと若いのは実感しています。ただし、私は大久保通りに面した統計局に勤務した経験もありますが、幸か不幸か、いわゆるヘイト・スピーチのデモを目撃したことはありませんから、ヘイト・スピーチをするようなネトウヨ的な人々がどんな年齢層なのかは実感がありません。それから、例の教科書問題などでも、右派的な教科書を採用する自治体が大阪府に多いらしく、特に東大阪に最大の日本会議の支部があると本書で明らかにしています。私は中学高校と6年間の長きに渡って奈良に通った経験があり、菊水会の本部が奈良にあるのは知っていますし、改憲に賛成している維新の会が大阪で根強い支持を得ているという情報にも接しています。東大阪あたりにも友人が何人かいて、高校時代の同級生のうちフェイスブックでつながっているうちの1人は布施の近くの出身だったように記憶しているんですが、東大阪がそういう地域だったとは知りませんでした。18歳選挙権と東大阪情報以外は、特に目新しい点はなかったかもしれません。
次に、今野敏『去就』(新潮社) です。今週の読書で唯一の小説、フィクションです。人気作家の隠蔽捜査シリーズ第6弾です。警視庁大森所長の竜崎と警視庁刑事部長の伊丹を主人公とするシリーズです。私はこのシリーズはすべて読んでいると思っていたんですが、改めて調べるとシリーズ5.5の短編集『自覚』は読んでいませんでした。2014年の出版で、今の時点では多くの図書館で借りられるようですので、そのうちに読んでおきたいと思います。ということで、昨今の犯罪で注目されるストーカー事件になぞらえた作品です。すなわち、竜崎が署長を務める大森署管内で女性の連れ去り事件が発生し、さらに、その関係者が死体で発見されるという殺人事件が勃発します。同時進行形で、竜崎の家庭でも娘と婚約者の間がギクシャクして、婚約者が娘に対してストーカーまがいの行動に出たりと、私的な騒動も発生してしまいます。殺人事件から立てこもり事件に進んだ件に関しては、ストーカーによる犯行が濃厚になる中、捜査の過程で竜崎は新任の上役である方面本部長と対立してしまいます。キャリアで刑事畑の竜崎に対して、新任の方面本部長はノンキャリで警備畑と、いかにもありそうな設定なんですが、指揮命令系統に関して問題が発生し、上の表紙画像にある通り、またまた、竜崎が監察にかけられ処分か懲罰人事か、というピンチも最後に発生したりして、予想不能の事態が公私に続発してしまいます。なかなかスピード感があって、いつもの通り、一気に読ませるんですが、竜崎については相変わらずの合理主義者で、虚礼やムダを廃した態度で自らの信念を貫いて、まあ、一面では警察官らしからぬ捜査に臨みます。大森署の戸高刑事も相変わらずの傍若無人振りを発揮しつつ、実力を発揮して大きな手柄を立てたりもします。逆に、この作品では警視庁刑事部長である伊丹の登場する場面があまりなく、刑事畑vs警備畑の対立の中で、当然ながら刑事部長として前者の立場を強調したりするだけで、熱心に現場に臨場する割りには、捜査の方には特に存在感を示せずに終わったんではないかという気もします。なお、ミステリですから詳しくは書きませんが、作品中で竜崎をはじめとする登場人物たちが指摘したりもするところ、この隠蔽操作シリーズ第2弾の『果断』と同じ立てこもりで、犯人側と被害者側がホントはどうなっているのかがキーポイントになります。少しジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムのシリーズとは違いますが、それなりのどんでん返しのツイストの作品です。また、私の勝手な観点ですが、竜崎署長と第2方面本部の野間崎管理官との人間関係がシリーズ1作ごとに改善していく、というか、野間崎が竜崎の味方になって行くのが面白く読めます。
次に、ヴァレリー・アファナシエフ『ピアニストは語る』(講談社現代新書) です。クラシック音楽界の鬼才ピアニストとして存在感を示しているヴァレリー・アファナシエフのインタビュー本です。対談者は音楽評論家・ライターの青澤隆明です。対談場所は、東京目白の松尾芭蕉ゆかりの日本庭園である蕉雨園で、昨年2015年にアファナシエフ来日の際に行われています。アファナシエフにはいくつか著書もあるんですが、これまでの人生と芸術を振り返った貴重な証言の書籍化なのかもしれません。ただ、ページ数の過半はソ連時代の修行期のお話を無理に聞き出したきらいがあり、冒頭にアファナシエフはソ連時代のことを話すのを嫌がっている印象なんですが、当時のソ連から西側に亡命したピアニストですから、どこまで真実なのか脚色されているのかは不明です。それよりも、p.228からわずか2ページで終っているピアノという楽器についてとか、あるいは、フルトヴェングラーやカラヤンなどの指揮者だけでなく、ほかの楽器の演奏者などについても語らせて欲しかった気がします。私もピアノをやっていたことがありますが、ピアノだけは楽器の中でも独特の立場に置かれている印象があり、例えば、ヴァイオリンなどは自分の愛器を持って運べて、コンサートなどではそれを演奏しますが、ピアノだけはそこにある楽器を演奏しなければなりません。それでも音色に演奏者の個性が出ます。クラシックではないんですが、例えば、ジャズのピアニストではチック・コリアが明らかに硬い音を出すのに対して、キース・ジャレットは柔らかい音色です。そして、チューニングは他人に任せます。『羊と鋼の森』の世界です。ですから、本書でも、曲に対するひらめきのようなものが生じる機会があって、それは練習中ではなくコンサートの演奏の場合が多い、とアファナシエフが語っているのは理解できる気がします。また、ほかの楽器では純粋にソロで演奏する機会は少ない、もちろん、少ないだけで、ヨーヨーマなどはコダーイの無伴奏曲をレコーディングしていたりしますが、ピアノは他の楽器に比べてソロの演奏がかなり多い気もします。お子さんのピアノ教室の発表会などもそうではないでしょうか。私自身もピアノに対するそれなりの思い入れはあるんですが、それを長々と書き止めるのもなんだという気がしますので、最後に、アファナシエフの演奏はベートーヴェンしか聞いたことがありません。どちらかといえば、アファナシエフよりもフリードリッヒ・グルダのベートーヴェン演奏の方が私には心地よく聞けた気がします。
最後に、辻田真佐憲『大本営発表』(幻冬舎新書) です。著者はよく判りません。著述業ということらしいです。本書はタイトル通りに、現在ではデタラメと捏造情報の代名詞となった「大本営発表」について歴史的な情報を集めています。冒頭の数字を紹介すると、大本営発表では日本軍は連合軍の戦艦を43隻沈め、空母も84隻沈めたと公表したそうですが、実際には戦艦4隻と空母11隻に過ぎなかったそうです。逆に、日本軍のダメージは戦艦8隻が3隻に、空母19隻が4隻に、それぞれ圧縮されているそうです。ただ、本書でも指摘されている通り、その当時の日本のジャーナリズムも戦果を報じれば新聞の部数が伸びるなど、単なる時局便乗ビジネスに過ぎなかったという面があり、本書では指摘されていませんが、当時の日本人のレベルがそんなもんだったという点も見逃せません。もっとも、さすがに民度の低い国民でも戦争半ば辺りから事実に気づきはじめ、さらに、戦争終盤には本土の空襲が始まりましたから、外地の前線の情報までは入手できない国民にも、目の前の空襲の被害は明らかなわけで、でたらめ情報を流す大本営もごまかしようがなかったかもしれません。ほかにも、お決まりの陸軍と海軍の対立、さらに、高松宮が大本営発表について「でたらめ」と「ねつぞう」である、などと日記に書いているとか、興味深い事実も発掘されています。また、本書で実に的確に指摘しているように、大本営がデタラメな発表を繰り返していたのは、情報の軽視、インテリジェンスの軽視であり、それは一貫して日本軍の姿勢であり、敗戦につながるひとつの要因であった点もその通りかという気がします。でも、先の戦争で米国などの連合軍に勝っていたりしたら、ベトナムなんかとは違って、我が国の場合、もっと悲惨な国になっていた可能性もあるんではないかという気もします。強くします。
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