鉱工業生産指数(IIP)と雇用統計と消費者物価指数(CPI)の今後の動向やいかに?
今週の読書は、以下の通り、経済書や話題のアナン前国連事務総長の回顧録『介入のとき』など計8冊です。単なる印象論ですが、岩波書店の本が多かったような気がします。8冊というのはややオーバーペースなんですが、今日の朝から自転車でいくつか図書館を回ったところ、来週はもっと読みそうな予感もありますし、今週の8冊については新書が3冊含まれていて、実際のボリュームとしてはそれほどでもなかった気がします。
まず、中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』(ダイヤモンド社) です。著者は教育経済学と医療政策学のそれぞれの研究者です。本書では著者が位置付けている通り、教育と医療のそれぞれの政策効果を分析すべく因果推論に関する入門の入門となる議論を展開しています。なお、私の方でさらに付け加えると、因果推論とは相関関係と因果関係を見分けて区別する学問分野です。とても平易な語り口で判りやすく議論を展開しつつ、ランダム化比較試験、自然実験、差の差分析、操作変数法、回帰不連続デザイン、プロペンシティ・スコアなどのマッチング法、最後に、回帰分析、と、ひと通りの方法論を概観しています。確かに、経済学などでは因果推論が不十分な場合も少なくなく、そこは割り切って、グランジャー因果で時系列的な先行性でもって判断する場合すらあります。すなわち、時間的に先行していれば原因であり、後に起これば結果である、という単純な推論です。しかし、天気予報が実際の天気の原因ではあり得ないように、時間的な推移だけでは原因と結果を特定することはムリです。ただ、私も開発経済学などでランダム化比較実験などの論文を見たりもしますが、因果推論も万能ではないことは知っておくべきです。少なくとも、経済学的な用語でいえば、マイクロな部分均衡論ですから、マクロの一般均衡を単純化しており、回り回って因果関係が不定に終わる、あるいは、逆転する場合もあり得ることは忘れるべきではありません。また、本書の著者の専門分野は教育と医療という典型的に情報の非対称性により市場による資源配分が失敗する分野ですが、電力やガスなどの公益事業や交通についても自然独占という形で市場が失敗する場合もあり、いずれも政策的な介入が必要なケースであり、でも、果たして、「マネーボール」的な経済合理性、というか、採算性だけで政策を判断すべきかどうかという根本問題も考慮すべきです。採算は赤字だが必要な政策である可能性があり、赤字で採算が悪いことを理由に政策を切り捨てるべきかどうかは議論がある得るかもしれません。まあ、これだけ財政リソースが不足しているんですから、少なくとも優先順位付けには何らかの情報は必要である点は認めますが、採算性が政策評価の中心かどうか、私には疑問が残ります。最後に、直観的なみんなの意見は案外と正しい場合も少なくないことは、専門家を称していても謙虚に受け止めるべきです。
次に、キャス・サンスティーン『選択しないという選択』(勁草書房) です。著者は米国ハーバード大学の法学研究者ですが、セイラー教授らと行動経済学・実験経済学の研究もしているようです。本書の英語の原題は Choosing Not to Choose であり、邦訳タイトルはほぼそのままです。2015年の出版です。ということで、セイラー教授らの提唱するナッジを中心とするリバタリアン・パターナリズムの行動経済学・実験経済学に関する本であり、特にデフォルト・ルールの重要性、その固着性を中心とした議論を展開しています。デフォルトの設定はもちろん重要であり、すべてを自由選択に任せるよりも、何らかの意味で道徳的というか、規範的な選択が可能になると私も同意します。しかし、批判的な見方も忘れるべきではありません。本書でも、冬季の暖房の設定温度を1度下げるだけだとそのデフォルトが受入れられる場合が多く、エネルギー消費を減少させることができるが、2度下げるとデフォルト設定から変更する場合が多くなって効果が大きく減ずる、との実験結果が示されている通り、デフォルト・ルールの設定そのものが重要となります。特に、臓器提供の意思の表明、貯蓄額の決定などはそうです。それから、タイトルの反証である選択の要求ですが、ここは法学者であってエコノミストではないのでいくつかの視点が抜けています。すなわち、逆選択により選択しないことを許さないという場合がありえます。我が国の国民皆保険・皆年金はまさにそういった思想で設計されています。まあ、それほどうまく運営されているとはいい難いんですが、そういった逆選択の考えから選択しないことが許されない場合があることは理解すべきです。ただ、著者がインプリシットに表明している通り、もはやニュートラルな選択というのはあり得ないのかもしれません。その点は私の頭にはなかったので勉強になりました。また、どこにあったのかはチェックしませんでしたが、プライバシーは個人レベルでは重要かもしれませんが、政府や国家のレベルでは有害無益である、といった趣旨の断定的な判断が記されていました。目から鱗が落ちた気がします。
次に、山口敬之『総理』(幻冬舎) です。著者は本書の出版直前までTBSの報道記者をしていたジャーナリストです。同じ著者と同じ出版社で、本書の続編ともいえる『暗闘』もすでに出版されています。私はまだ読んでいません。本書は安倍総理についての取材結果を取りまとめたノンフィクションです。一部に、「政権の提灯持ち」とも受け止められているようですが、国家公務員である私の見方は差し控えますので、各個人が実際に読んで判断いただきたいと思います。ということで、本書は5章構成であり、最初で著者がTBS記者として第1次安倍内閣の総理辞任をスクープした自慢話から始まり、自民党の野党時代の総裁選への安倍現総理の出馬、総理大臣就任後の消費税率引き上げに関する財務省との確執、対米関係を中心とする外交への取組み、野田聖子議員の挑戦を受けそうになった自民党総裁選を振り返っての宰相論から成っています。まず、メディアの常として時の権力に対する距離感について、やや私の実感としては近い気もします。ただ、著者なりに権力に近いリスクと遠いリスクを勘案してのことなんでしょう。結果的に、権力に近いので提灯持ちになったり、権力から遠いところで批判を繰り返したりといった距離感と権力に対する態度の相関関係については、私も必ずしも関係ないという気はします。たっだ、最後の章で安倍総理に対して総裁選への立候補を目指した野田聖子議員や、彼女をバックアップしていた古賀議員に対する著者の見方がかなり偏っている印象は受けました。本書はあくまで政治記者のルポであり、私のような専門外のエコノミストには評価は難しいんですが、現在の安倍政権に対する支持の傾向はハッキリしていると受け止めました。私のようなランクの低い国家公務員からはうかがい知れないような政権トップの動向について、よく取りまとめられているような気がします。ただ、すべてがリポートされているわけではない、すなわち、書かれていないこともありそうな気がするのは私だけではないと思います。
次に、コフィ・アナン『介入のとき』上下(岩波書店) です。ご存じの通り、著者は2007年から2期10年に渡って国連事務総長を務めています。初めて国連スタッフから登用された事務総長であり、アフリカ人の黒人としても最初の国連事務総長であり、2011年に国連がノーベル平和賞を授賞された際の事務総長でもあります。本書の英語の原題は Interventions であり、邦訳タイトルはほぼ直訳といえます。2012年の出版であり、邦訳まで5年のギャップがありますが、中身はそれほど賞味期限を過ぎている感じはありません。ということで、軽く自分自身の生い立ちや父親のパーソナル・ヒストリーから始めて、事務総長就任の直前の国連でのポストであったPKO局長としての活動から事務総長としての紛争解決や武力を持っての介入などについての回顧録です。上巻のソマリア、ルワンダ、旧ユーゴ、東ティモール(インドネシア)、ダルフール(南スーダン)などは専門外の私でも手に汗握る迫力を感じました。なお、下巻冒頭の国連ミレニアム開発目標(MDGs)がもっとも私の専門に近いんですが、人権尊重とともに温かみのある国連活動を感じることが出来ました。解説にもある通り、国連とは独立した意思を持たない集合的な政治体であり、一定の哲学的ともいえる理念に基づいた団体です。事務総長とはその極めてビミョーなバランスの上に成立した国連の舵取りを行う高度に政治的かつ軍事的な存在であると私は想像しています。本書を読んでいても、実力行使のできる暴力装置である軍隊とはキチンとした民主政にのもとで国民に支持された文民の統制に従わなければ厄災以外の何物でもないという事実を実感しました。その軍隊が暴走するのがもっとも懸念される自体であり、組織されていない民兵の暴走というのが私のジャカルタにいた経験から見た東チモールの悲劇だった気がします。最後に、本書の最大の魅力のひとつは、著者が極めて率直に書いている点です。「あけすけ」という言葉がありますが、本書のためにあるような気もします。ブッシュ政権下で米国の国連大使を務めたボルトン大使なんかはボロクソです。
次に、菅野俊輔『江戸の長者番付』(青春新書インテリジェンス) です。著者は江戸研究家だそうです。いろんな史料や関連書籍を当たって、江戸の、すなわち、江戸時代ではなく、あくまで江戸の長者番付やそれに派生する情報を取りまとめています。もちろん、超大金持ちだけでなく、江戸庶民の生活も浮き彫りになるようになっています。ただ、繰り返しになりますが、あくまで対象は地理的に江戸であって、京・大坂の大金持は対象外となっているのが残念です。幕府の八代将軍徳川吉宗の年間収入が1294億円だったというのは驚くべき水準ですが、他方で支出もかなりの額に上った気もします。また、第4章の江戸っ子の生活については同もぬけていて不十分なところがあり、すなわち、商家などの奉公人=勤め人については、給金が少なかったのは事実としても、大番頭などのごく高位の奉公人を別に知れば、ほとんどが住み込みで食費がかからず、衣類もいわゆるお仕着せが支給されていた点はキチンと書くべきだという気がします。下級官僚たる武士の生活がもっとも苦しかった、という点については身につまされる部分があります。なお、本書冒頭の「新板大江戸持◯長者鑑」については、以下の都立図書館のサイトで弘化3年(1846)刊の加賀文庫版を見ることが出来ます。ご参考まで。
次に、寺島実郎『シルバー・デモクラシー』(岩波新書) です。著者は三井物産の研究所の出身で、現在は多摩大学の学長のほか、コメンテータとしてテレビなどでも活躍しています。また、本書のひとつのテーマである団塊の世代の出身、1947年生まれです。しかし、なんだかとても物足りなかったのは、その昔々に著者が書いたらしい古い文章を使いまわしているだけでなく、とっても驚くくらいの上から目線の文章です。私自身はタイトルとなっているシルバー・デモクラシーによる民主主義的な決定のゆがみについて期待していたんですが、ほとんど何も触れられていません。そうではなく、団塊の世代が戦後史の中でどのような役割を果たして来たのかについて、著者のエラそうなお説が並んでいます。まあ、岩波新書から出版されるくらいですので、それなりの中身と考えるべきかもしれませんが、古い古い文章を引っ張り出してきているくらいですので、どこまで期待できるかは私には不明です。少し期待外れでした。
最後に、井田茂『系外惑星と太陽系』(岩波新書) です。著者は京都大学出身で、現在は東京工業大学の研究者です。分野は古い表現なら天文学、ということになるのかもしれません。かつての天文学の「私の視線」から見た宇宙の見方、それは、「地球中心主義」や「太陽系中心主義」とも本書では称されていますが、を排して、「天空の視点」から見たより普遍的な宇宙の見方を提唱しています。本書ではほとんど触れられていませんが、NASAの地球外知的生命体探査プロジェクトもあり、いわゆるハビタブル・ゾーンに存在する地球に似た惑星が宇宙の星の中に20%くらいはあり、中には生命体が存在している可能性もある、という普遍的な宇宙観を展開しています。特に、太陽系の中ですら、水星、金星、火星と地球以外にもサイズの似たハビタブル・ゾーンにある惑星が3つもあるわけですから、広い宇宙の中には地球や地球より少し大きいスーパー・アースに生命体がいる可能性はあります。ただし、本書では生命体探査ではなく、あくまで、太陽系外に存在する地球と似た系外惑星について論じています。誠に残念ながら、私にはそれ以上の理解ははかどりませんでした。悪しからず。
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