今週の読書は経済書中心に計7冊!
今週は話題の経済書『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』をはじめ、経済書中心に小説まで含めて計7冊、以下の通りです。
まず、玄田有史[編]『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(慶應義塾大学出版会) です。編者は東大社研で進めている希望学のプロジェクトなどで著名なんですが、本書は本来の専門分野である労働経済学に戻って、タイトル出て維持されているパズルの解明に当たっています。22人の精鋭エコノミストを中心に16本の論文を集めた論文集であり、従来のように、非正規雇用の増加、労働分配率の低下、生産性の低下についてはトートロジーの部分もあるとして排し、ミクロ経済学、マクロ経済学、行動経済学に基づく理論分析、実証分析、ケース・スタディなどのアプローチから議論を進めており、出版社からも明らかな通り、一般教養書ではなく学術書であると理解すべきです。でも、16章もあるんですから、それなりに一般向けの論文もあります。私は労働経済、特にマイクロな労働経済は専門がいながら、一昨年2015年5月にミンサー型の賃金関数を賃金センサスの個票から推計した論文を発表すた折に、それなりに賃金や労働経済について勉強しましたので、何となく読み進みましたが、それなりの基礎的な理解は必要かもしれません。各論文には、7つの観点からのマーカ、すなわち、需給、行動、制度、規制、正規、能開、年齢の7つのポイントのどれに相当するかを明記しています。労働・雇用の賃金を含めて、価格の伸縮性により需給が調整されるとする古典派経済学はもとより、不況期の賃金の下方硬直性を論じたケインズ経済学でも、現在の日本における好況期の賃金の情報硬直性、なんて考えもしなかったと思いますが、この難題に回答を試みています。基本的に、トートロジーの部分も少なくありませんが、本書の結論として有力な仮説は、バブル経済崩壊後の日本経済の停滞に中で企業が体力を消耗し、内部労働市場で雇用者をOJTにより育成することが出来なくなり、外部労働市場で派遣労働者などを受け入れていくうちに、非正規職員の比率を高める結果となり、本書では構造バイアスと称しているシンプソン効果により、正規も非正規もともに賃金が上昇しつつも、非正規のウェイトが高まるためにマクロの賃金は低下を続ける、ということのようです。ただ、本書では触れられていない続きがあって、おそらく低賃金の非正規を雇用するうちにマクロでデスキリングが生じている可能性が高いと考えるべきです。そして、安価な労働力が熟練を崩壊して生産性を低下させ、さらに悪い方向でのスパイラルが起こる瀬戸際なのかもしれません。私は半分くらいしか同意できません。おそらく、開発経済学のルイス転換点について論じた第7章の議論が私にはもっともしっくり来ていて、要するに、まだ完全雇用に達しておらず、労働のスラックは残っている、というのが正解なんだろうと考えています。また、第15章で論じているように、我が国では女性のパート労働者などの非正規雇用はそもそも低賃金労働と位置づけられてきた社会的な背景も見逃せないんだろうという気がします。現在までのところ、今年読んだ経済書の中ではマイベストかもしれません。
次に、寺田知太・上田恵陶奈・岸浩稔・森井愛子『誰が日本の労働力を支えるのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のグループであり、テーマは労働力不足への対応、さらには人工知能(AI)の活用による人的労働力の代替まで視野に入れています。特に、後者については英国オックスフォード大学のオズボーン准教授らの研究成果も取り入れて、日本におけるAIによる代替確率が49%との試算結果を明らかにsており、2016年1月7日付けでこのブログでも取り上げています。ということで、本書では人手不足の日本経済にあって、海外からの移民、というか、「移民」という言葉は本書では慎重に避けているんですが、外国人労働力の受入れについては、日本の労働・雇用事情が必ずしも外国人労働者に魅力的ではない、と指摘して少しネガティブな見方を示しています。すなわち、長時間労働と賃金の低さがネックになるとの見方です。そうかもしれませんが、途上国からの単純労働の受入れに経済界が意欲を見せているのは不気味な気もします。ですから、外国人労働力ではなくデジタル労働力の活用に目が向くということになります。しかし、本書ではAIに主眼を置いており、いわゆるロボットについては、それほど注目していません。ドローンと自動運転くらいのものです。その上で、第5章で確実な5つのメガトレンドを指摘し、最初のメガトレンドとして、日本人アルバイトを大量に雇用するビジネス・モデルが困難になる点を取り上げます。本書では明示的ではありませんが、まさに、デフレ期に適したビジネス・モデルといえます。さらに、小売・物流・ヘルスケアでは雇用の経済条件の悪さから若年層の選別に遭遇して人手の確保が難しくなる可能性も第2のメガトレンドとして主張しています。そして、第5章ではこれら3業種の今後のビジネス・モデルについて、いくつかのシナリオを提示するとともに、最後の第6章ではAIに仕事を代替されるタイプとそうでないタイプの職業をいくつか上げて、人材育成の今後の方向などについて論じています。かなり先の時代に関する議論であり、どこまで本書の議論が該当するかどうか、私には何ともいえませんが、ある程度の方向は当たらないまでも、かすっているような気がします。最後に、どうでもいいことながら、巻末の職業別の代替可能性の推計結果の表を見ると、エコノミストの代替確率は0.4%でした。私はもうすぐ定年を迎えますからほとんど関係はないと受け止めているものの、何となく目が行ってしまいました。
次に、イェスパー・コール『本当は世界がうらやむ最強の日本経済』(プレジデント社) です。著者はドイツ出身ながら、日本在住30年で在京の外資系証券会社などのエコノミストを務めた後、現在では、世界で運用資産残高630億ドルを超えるウィズダムツリーの日本における最高経営責任者(CEO)をしています。ということで、エコノミスト・アナリスト系の分析を本書では展開しています。本書はタイトルから明らかな通り、日本経済の現状を強く肯定するものであり、巷に広がる悲観的な見方を強烈に排しています。5章構成から成り、日本経済について、日本企業について、政府財政について、米国のトランプ政権成立による日本への影響、東京オリンピック。パラリンピックを含めた近未来の日本像について、をそれぞれ取り上げており、タイトルに見られる論調を展開しています。基本的なラインとして、私も同意する部分が多いんですが、順不同で3点だけ特徴的な議論を取り上げておきたいと思います。第1に、日本の財政が破たんする確率がとても低いのはもはやエコノミストの間で広く認識が共有されているような気がします。本書でも同じ論調です。逆に、財政破綻について議論したがるのは、もはやためにする議論としか思えません。第2に、本書ではデフレについて、現状を受け入れるとの論調を展開しているように見えます。しかし、第1章p.34では「賃金以上に物価が急上昇しているアメリカと比べたら、ずっとハッピー」というように、あくまで賃上げとの見合いで考えるべきという視点は私なんかと共通しています。第3に、第2章では日本企業の内部留保について、かなり強硬な意見を展開していて、すなわち、カギカッコの意味が不明ながら「規制強化」によって内部留保を無理やり使わせる政策を提唱しています。私の見方と大いに共通するものを感じます。こういったタイトルですから、眉に唾つけて読む読者が多そうな気もしますが、虚心坦懐にメディアの批判論調を念頭に、というか、座右に置きつつ、本書を読み比べて対応させつつ日本経済や日本企業の現状について自分なりに考えを巡らせるのもいいんではないでしょうか。いずれにせよ、こういった非主流派的な経済の見方を声高に主張する著者、というか、書籍もあっていいような気がします。すべてを鵜呑みにするにはややリスキーですが、メディアや主流派的な経済の見方を頭に置きつつ、セカンド・オピニオン的に読む本かもしれません。
次に、李智雄『故事成語で読み解く中国経済』(日経BP社) です。著者は在京の外資系金融機関に勤務するエコノミストであり、韓国生まれです。その上で、この中国経済に関する本を書いているわけですから、東アジア限定ながら、かなりの国際人ということも出来るかもしれません。まあ、タイトルに見られる通り、中国の、というか、漢字圏の故事成語を各章の冒頭に置いて、それに関連する形で中国経済の解説を進めている点を別にしても、とても興味深いのは、中国経済に関して開発経済学的な見方をしている点です。本書の最初の何章かでは、吉川教授の『高度成長 日本を変えた6000日』を盛んに引用し、中国経済とルイス転換点についての言及もあり、私の専門分野に近い見方をしていると感じました。私が役所の同僚と昨年取りまとめたペーパーは、日本の高度成長期に関する研究だったんですが、単に日本経済の発展過程を明らかにするだけでなく、新興国や途上国の政府当局や民間企業のビジネスパーソンに対しても利益をもたらし、先進国を目指すキャッチアップに資するものを目指していました。まったく同じ観点といえます。いくつか、中国経済の解説の中で著者の見方も示されており、2020年ころまでには中国の成長率は大いに鈍化し4%くらいに落ち込む、という見方も私はその通りだろうという気がしています。本書でも引用されている米国ピッツバーグ大学のロースキー教授の論文の指摘をまつまでもなく、中国の統計の不正確さは定評のあるところですが、本書ではそれらの統計をひとつひとつ解説しています。特に、最終の第17章は著者のいう通り、通して読むより辞書的に読んだ方が適当なのかもしれません。それから、どうでもいいことながら、中国経済統計の季節調整が不十分なのは、本書で指摘するように、データ系列のサンプル数が足りない、というよりも、旧暦に従った春節がまったく不規則だからだと私は認識しています。クリスマスはいつでも12月ですが、中華圏の春節は1月になったり、2月に来たりします。この不規則性により、日本経済もかなりの影響を受けているわけで、何とかして欲しい気もしますが、どうにもならないんでしょうね。
次に、ドン・タプスコット&アレックス・タプスコット『ブロックチェーン・レボリューション』(ダイヤモンド社) です。著者は新しいテクノロジー関連の専門家、というか、企業家らしく、あとがきや謝辞を見ている限り、親子ではなかろうかという印象を持っています。英語の原題は Blockchain Revolution であり、2016年の出版です。邦訳のタイトルはそのままで、どちらが先かは私には判りませんが、野口教授の『ブロックチェーン革命』が今年になって出版されており、このブログでは先月4月15日付けの読書感想文で取り上げています。ということで、要するにブロックチェーンに関する解説書なんですが、技術的な側面の解説はほとんどなく、経済社会、企業経営から始まって、民主主義や芸術まで幅広い分野での活用による大きな影響力を論じています。私はブロックチェーンとはデジタルな記録台帳であり、典型的には金融、特に、ビットコインに応用されていて、それなりにいわゆるフィンテックに活用されうる技術である、としか認識していませんでしたが、ここまで大きな風呂敷を広げている議論も新鮮な気がします。本書の読後に私がパッと思いつくだけでも、順不同に、交通、インフラ、エネルギー、水資源、農業、災害予測、医療・ヘルスケア、保険、土地台帳などの書類管理、ビル管理、製造・メンテナンス、小売業、スマートホーム、などなど、幅広い活用が期待されているようです。ただ、悲しいかな、私の知識は本書には遠く及ばず、理解がはかどりませんでした。以下、私の理解の限りで、インターネットが幅広い応用可能性を示し、センサー技術の進歩とともに、いわゆるIoTが進行して、あらゆるモノがネットに接続するようになった中で、かつては匿名の世界と考えられていたインターネットも、ほぼほぼプライバシーのない世界となっています。例えば、どこかの建物の写真をSNSにアップしたりしたら、アッという間に特定されかねません。そういった中で、インターネットに欠けているのがセキュリティであり、信頼できるプロトコルを提供するのがブロックチェーンといえます。分散処理されているために特定のサーバに依存することなく、パブリックに公開されていながら高度なセキュリティで保護されている、という一見背反する存在のデータベースといえます。高度なセキュリティ、というか、プルーフ・オブ・ワークの壁があって、とてつもなく大きなコストをかけないと偽造が出来ない、という方が正しいかもしれません。こういったデータベースがあって金融に応用されたりすると、銀行などの金融仲介機能が不要になって、従来の銀行利用者同士、すなわち、資金の提供者と利用者が直接に結びつくことが可能になり、ビットコインのような仮想通貨が広範に流通するようになれば、中央銀行の業務が空洞化する可能性もある、という意味で、現在の国家体制に対する大きなチャレンジになる可能性まで秘めているわけです。テクノロジー的には私の理解を超えていますが、金融をはじめとして経済社会に広く応用されれば、ある意味で、世界がひっくり返る可能性もありますので、エコノミストとしても目が離せません。
次に、ジュリオ・アレーニ『大航海時代の地球見聞録』(原書房) です。著者は17世紀初頭に中国に赴任してきたキリスト教の宣教師です。イエズス会ですから、当然、カトリックなんですが、中国の方は明から清に政権交代する時期でもあります。本書はその著者による『職方外紀』の邦訳書です。約400年ほど昔の地球見聞録ですから、荒唐無稽な伝聞記も含めて、あるいは、ウンベルト・エーコの『バウドリーノ』ばりのホラ吹きというか、嘘八百も含めて、いろいろと奇怪な事実譚がつづられています。5巻まであって、アジア、ヨーロッパ、リビア(=アフリカ北部)、アメリカ、海洋の5巻構成です。当時の知識水準としては、さすがにコロンブス以降でアメリカも収録されていることから、地球が平板であるとは考えられておらず、地球は球形という認識は今と同じです。さらに、序文を寄せている中国人高級官僚、科挙に合格しているのでタイヘンな文化人と目される人物も、「世に伝わる胸に穴のあいた人や、踵が前についている人や、竜王・小人などについては、デタラメであるからのせない」と断っており、それなりの信憑性を持たせようと努力しているのは理解できますが、まあ、限界はあります。ですから、北海の浜に小人国があって、背の高さは2尺を超えないとか、100回顔を洗うと老いた顔が若返る泉とか、手がカモの足のような海人など、とても現在では信じられないような見聞録があったりします。アフリカがほとんど未知の大陸で、北アフリカをリビアとして取り出しているだけであり、また、アメリカは15世紀末に発見されてから100年ほどの段階の記述ですので、とても怪しげに受け止められていて、南米大陸最南端を「チカ」と称して、身長3メートルを超える巨人がいると記述したりしています。我が国では江戸初期の鎖国が完成したころの時代背景ですから、中国から輸入されて知識人は読んでいたらしいんですが、当時の人々もどこまで信用していたんでしょうか、あるいは、単なる面白い読み物、少なくとも現在では、当時の知的水準から見ても単なる面白い読み物、と我々は受け止めていますが、そういった扱いだったんでしょうか、とても興味があります。
最後に、江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』(角川春樹事務所) です。作者はなかなか人気の女性作家なんですが、私は不勉強にして短編集の『つめたいよるに』しか読んだことがありません。この作品は、海外のサスペンス小説にのめり込んでいて、女の出入りが激しいながら独身中年の男性を主人公とし、ドイツ在住の写真家で日本にも家を持ってよく帰国する姉、認知していて同居はしていないが読書好きという共通点がある娘とその母親とその結婚相手の男性、さらに、親戚で友人の顧問税理士などが登場します。主人公がサスペンス小説にのめり込んでいるのは、働かなくても親の遺産で生活ができるからで、姉の写真が章を取った記念で、ほとんど道楽で開いたソフトクリーム屋の従業員なども登場します。それから、「なかなか暮れない」というタトルは寿命の延びた日本人の人生にも引っかけていて、主人公が認知した娘などのごく例外を別にすれば、主人公をはじめとして中年の登場人物ばかりです。そして、主人公に生活感がまったくない分、顧問税理士が生活感をすべて背負って登場し、再婚後の結婚生活を破綻させたりする一方で、主人公とその姉などは親の遺産に支えられつつも、のんびりと暮れて行く夏の夕暮れのように、とてもゆったりとした生活を送っています。高校教師の女性が別荘を探し出したりするのも、生活感という観点からは飛び抜けている気がします。とても興味深いのは、主人公と3人のシングルマザーとの関係性です。1人目は、子どもは認知したものの、籍を入れずに別れた女性、2人目はソフトクリーム店の元従業員で、主人公は何の関係もないのに、この女性が不倫の末に産んだ男の子を認知しています。3人目は高校時代の同級生で、最近男女の仲になったファッションエディターで、大きな男の子がいたりします。主人公はそれぞれに対して、関係ない子供の認知をして生活費を渡したりして、必要がない責任まで果たそうとするが、3人の女性は主人公のその根拠ない優しさ、というか、お人好しな行動のために、逆に、理不尽、というか、淋しげな思いをしているように見えます。途中で、テレビを見るのはやさしさの表れで、周囲の人とテレビ画面を共有できるのに対して、読書は共有できない、という観点がある女性から示されますが、これらの女性たちが人生を共有して、ともに生きて行く誰かを望むのに対して、主人公はあくまで読者の態度を貫いているように見えます。しかも、それが50歳という立派な中年男性を主人公に回っているわけですので、ダラダラ続く、というか、なかなか暮れないんだろうと思います。
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