今週の読書は不平等に関する経済書など計7冊!
いろいろあって、今週の読書は、不平等に関する経済書をはじめ、話題の小説なども含めて計7冊です。今年上半期の芥川賞と直木賞が決まりましたが、私は芥川賞は今日取り上げる今村夏子『星の子』で、直木賞は柚木麻子の『BUTTER』と予想していました。候補作をまったく読まない予想でしたので、当然ながら、みごとに外しました。
まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等』(みすず書房) です。著者は、アトキンソン教授らとともに不平等研究の先頭に立つの1人であり、長らくの世銀勤務の後、現在はルクセンブルク・インカム・スタディ(LIS)の研究者を務めています。なお、私は同じ著者が邦訳については同じ出版社から出した『不平等について』も読んでおり、2013年3月23日付けの記事で取り上げています。どうでもいいことながら、前著の邦訳書の表紙にもゾウが出ていたような記憶があります。英語の原題は Global Inequality であり、ビミョーに邦訳タイトルと違っていて、グローバル化による不平等の進行についてもテーマのひとつとしています。2016年の出版です。ということで、本書の著者は、1980年代以降くらいに進行した現在の不平等化について、原因として、右派的なスキル偏重型の技術進歩についても、左派的な政策的な平等化努力の放棄についても、いずれも否定せず、さらに、勝者総取りについても、その昔の1980年代初頭のローゼン論文によるスーパースター経済、すなわち、拡張性の議論も否定せず、ひたすら淡々と現状分析を進めています。どうしてかという原因のひとつは、理論的な根拠が薄弱な経験則であるクズネッツ曲線を基に議論しているからではないか、と私は受け止めています。そして、対象としているのは、intra-nation な国内の不平等と inter-national な各国間の不平等であり、前者を階級に基づく不平等、後者を場所に基づく不平等と名付け、19世紀では前者の方が大きく、階級闘争というマルクスの主張にも一定の根拠があったが、20世紀以降、特にグローバル化が進展した20世紀後半では後者の方が圧倒的に影響力が大きくなっていると結論しています。つまり、良家に生まれるよりも先進国に生まれる方が格差の観点からは有利である、ということです。繰り返しになりますが、本書が基礎としているのはクズネッツ波形であり、大雑把に、緩やかなエコノミスト間の合意として、クズネッツ波形とは逆U字曲線として理解されており、横軸に時間または経済的豊かさを取り、縦軸に不平等の度合いを取ったカーテシアン座標において逆U字となり、資本主義の発展の前期には不平等の度合いが高まり、資本主義の後期には不平等は緩和される、というもので、1時点における多くの国のクロスセクションで実証されたり、いくつかの国のタイムシリーズで実証されたりしています。しかし、本書の著者はクズネッツ曲線を単に逆U字で終るものではなく、サイクルとして繰り返されるものと認識しており、資本主義経済に即していえば、クズネッツ波形の第1の波は平等化の進展であり、第2の波は現在のようなグローバル化による不平等化の進展、ということになります。そして、本書の最後の最後に、著者はグローバル化による利益は均等に分配されることはなく、ブローバリゼーションにより不平等化が消滅することはない、と結論しています。理論的・解析的であるより実証的であるのが本書の特徴といえます。したがって、有力な政策インプリケーションは出て来ません。それでも、現在の不平等化を理解する上で、とても参考にあるいい分析書だという気がします。ただし、右派的な機会の平等や不平等を論じた経済書ではありません。徹頭徹尾、結果の不平等を論じています。長々と書き連ねましたが、、最後のひとつ前に、英語の原題になく邦訳のサブタイトルだけに現れるエレファントカーブとは、邦訳書のp.13やp.34でお目にかかれますが、横軸に世界の所得の20分位や100分位を取り、縦軸に10年とか20年とかの間の実質所得の累積増加率を取ったグラフで、それに基づくと世界の所得分布の100分位でいうと80-90パーセンタイルのあたり、すなわち、先進国の中間層の実質所得がここ10年とか20年で伸び悩んでいて、そのあたりが米国のトランプ大統領の当選とかの現在のポピュリズムの原因のひとつである可能性が示唆されていますが、本書の主張の重点ではない気がします。なお、このエレファントカーブの実物を見たい向きは、今週木曜日7月27日付けの日経新聞の経済教室で、米国カリフォルニア大学バークレイ校のデロング教授が引用しています。ご参考まで。最後の最後に、私なんぞの読書感想文ではなく、全国紙などの書評に興味ある向きは、私が読んだ範囲で以下の通りです。7月23日付けの読売新聞でも見かけたんですがサイトが見つかりませんでした。悪しからず。
次に、新田信行『よみがえる金融』(ダイヤモンド社) です。著者は、みずほ銀行常務から第一勧業信組理事長に転任した銀行マンです。第一勧業信組は、例の無担保・無保証の芸者さんローンで有名になったんですが、もともと、東京都下でもかなり規模の大きな信組ではないかと思います。著者はすでに叙勲も受けて、本書の内容はほとんど自慢話なんですが、信組であれば数百人の規模の組織ですし、本書の第一勧業信組も200人とか300人とあったような気がしますから、それくらいの規模であれば、トップがほとんどすべてのメンバーと面識があり、その意味でもトップがすべての組織となってもおかしくはありません。役所関係で想像すれば、警察署、独立行政法人などです。私は警察官ではありませんから警察署勤務の経験はありませんが、独立行政法人、その昔の特殊法人も含めて勤務経験があり、例えば、所管官庁の事務次官なんぞを経験した天下り理事長がワンマン体制を敷いていることもめずらしくないような気がします。それは別として、本書では東京ながら小規模な信組で、芸者さんローンをはじめとして事業性のローンを開拓したり、あるいは、地域の創業支援をしたりと、地域経済に密着した金融機関のいい面が取り上げられているんですが、その際、無担保無保証のローンも少なくなく、従って、「目利き」ということばがキーワードとして頻出します。この言葉に、デフレとともに「失われた20年」の原因があります。すなわち、日本経済は特別の能力を持った人材を育てることなく、また、評価することなく、ひたすら作業をマニュアル化して非正規社員に代表されるような未熟練労働を雇用してコストカットすることに企業経営の努力を傾けて来たわけです。外資系企業では日本企業の10倍、文字通りの桁違いの報酬を得ている高スキル人材も少なくない中、我が国企業では、ひたすた未熟練の低賃金雇用を進め、そして今やデスキリングを生じてしまっているわけです。本書でもインプリシットにその点を認めており、p.267では、農業がもうからないのは農業事業者に価格決定権がないからであると喝破しています。まさに、我が国の労働市場では農業生産者と同じことが起きており、高スキルの労働力にキチンと報いて高賃金を提供することなく、ひたすら低スキルの非正規労働者に高スキル労働力を切り替えやすくすることをもって「岩盤規制」と称しているわけです。さらに未熟練でさらに低賃金の労働者を雇いやすくするという意味で、現在の労働市場改革がまったく逆方向を向いていることを本書を読んで実感しました。
次に、冨島佑允『「大数の法則」がわかれば、世の中のすべてがわかる!』(ウェッジ) です。著者は、金融機関やヘッジファンドで運用を担当するなどの経歴の後、現在は生命保険会社でリスク管理などのお仕事をしているようです。生保の機関投資家としての運用については、関係ないことながら、伝統的に、セルサイドが強い日本ですから、バイサイドはややツラいかもしれません。ということで、本書のタイトルとなっている大数の法則とは、個別には、あるいは、試行が少ない場合は結果がランダムとなり予想が難しい物事も、それらが多く寄せ集まると、全体としての振る舞いは安定する、というものであり、ランダムな変動を持つ系列を集めて正規分布を当てはめる中心極限定理につながる法則です。そして、本書ではこの大数の法則から出発して、それが成り立つための独立の仮定と同一性の仮定を明らかにし、単なる確率論から始まって、投票などに左右される裁判の陪審制や民主主義までお話を拡張しています。要するに、コイントスやさいころなどのランダムで独立性が確保されており、ウェイトが微小で各試行の同一性が確保されるのであれば、大量の嗜好により理論的な確率が実践の場で観察されるということですから、本書でも後半で強調されている通り、一発勝負で大きなゲインを狙うよりも、日々の努力を積み重ねて行くという地道な努力が重要であることに気づかされます。また、本書では本格的に展開せずに軽く示唆しているだけなんですが、非常に小さな確率の差が試行を重ねることにより結果として大きな開き、とまでいわないとしても、結果に十分な影響を及ぼすことが明らかにされます。例えば、テニスのラリーを取るか取らないかについて、わずかに見える1%の確率の差というのは結果に対してとても大きな差を生じさせます。ただ、本書で触れられていない大数の法則の弱点は分布にあります。大数の法則はあくまで平均値に収束するという事実を確認できるだけであり、分布でテールがファットな場合のダメージ、というか、大きな影響力を十分に評価できていない気がします。すなわち、生命保険や自動車事故に対する損害保険などであればともかく、原発に対する津波の影響については大数の法則は十分な力を発揮できません。まあ、これは大数とよべるほどの試行回数の積み重ねが出来ませんから、大数の法則とは別物、というか、本書でも取り上げられている少数の法則のカテゴリーかもしれませんが、平均値に収束するものの、分布からテールファットな事象に対する大数の法則の適用には慎重であるべき、との結論も重要かという気はします。
次に、ルチアーノ・フロリディ『第四の革命』(新曜社) です。著者はローマ生まれで、英国オックスフォード大学の研究者だそうです。専門分野は哲学や情報倫理学であり、従って、作者のはしがきで、「本書は哲学の本である」と記されています。英語の原題は The Fourth Revolution であり、邦訳タイトルはこれをそのまま直訳しているようです。本書では独特の勘弁な歴史区分を用いており、一般に先史時代と呼ばれるプレヒストリー、歴史が記録されるようになって以降のヒストリー、そして、現在のようにICTで歴史が記録されるようになったハイパーヒストリーの3区分です。ついでながら、第4の革命に先立つのは、コペルニクス革命、ダーウィン革命、フロイト革命ないし精神科学革命だそうです。そして、第4の革命は情報通信革命であることはいうまでもありません。この含意は、人類は、コペルニクス革命によって宇宙の中心ではなくなり、ダーウィン革命によって特別な種ではなくなり、フロイト革命によって自らの主人でもなくなったわけですが、現在の第4の情報革命が人類をどこに導くのか、ということです。このため、本書では第1章から第3章で時間、スペース、アイデンティティの基礎について等々と記し、その先の第4章の自己理解以降で、プライバシー、知性、エージェンシー、政治、環境、倫理をひも解いていきます。まず、細かい点ではプライバシーについて、著者はいくつかの区分を示していますが、何度かこのブログで示した通り、私はベッドルームのプライバシーと買物のプライバシーは扱いを違えるべきだと考えています。すなわち、ベッドルームのプライバシーは個人の秘密として公開を避けて守られるべきであるのに対して、買い物や雇用なアドの片側が市場である場合はプライバシーは保護されないと覚悟すべきです。そして、著者のもうひとつの独特の考えが第9章の環境に示されていて、「善の前の悪」という見方です。すなわち、先々の善を獲得するためには、いったん悪い状態に落ち込む必要がある、というものです。エコノミストとして、先行きの好調な経済のためには、現時点では大いにがまんして、痛みを伴う構造改革を実施せねばならない、という考えがいまだに一部に見受けられるのを、とても不思議に感じているんですが、まさに、こういった思考から出ているんだろうという気がします。経済学的に、いわゆる迂回生産というのがあり、現在の消費を我慢して貯蓄して資本蓄積に励み、その後の生産増につなげる、という考えはとてもプピュラーなものですが、それとのアナロジーで、痛みを伴う構造改革が持ち出されるのが、私にはとても不思議だったんですが、こういった考えが日本人以外にもあるんだと知ることができて、それはそれで参考になりました。なお、訳者あとがきで、本書をトフラー『第三の波』になぞらえているのは、余りに厚顔無恥な気がします。本書は300ページ余りから成りますが、最初の3章120ページほどが特に難解です。そこを超えられなければ途中で挫折するしかありませんが、そこをクリアできれば残りの200ページほどはすんなりと読めるんではないか、と思います。ただし、翻訳上の誤訳とタイプミスが気にかかります。私くらいのスピードで読んでいても目につくくらいですから、ていねいに読んでいる人にはかなり目障りかもしれません。
次に、今村夏子『星の子』(朝日新聞出版) です。作者は売出し中の純文学の小説家です。私も『こちらあみ子』『あひる』の2冊を読んでいて、『あひる』の読書感想文は今月7月1日付けでこのブログに収録しています。なお、前作の『あひる』とこの作品はともに芥川賞候補作でしたが受賞は逃しています。ということで、この作品では出生直後から病弱だった主人公を救いたい一心でうさん臭い宗教団体が出している「金星のめぐみ」という特殊な水を使い、たまたま、なんでしょうが、主人公がすっかり健康になったことから、両親がこの宗教にのめり込んで行きます。主人公の姉はこれに反発して高校1年生の時に家出して行方不明となり、主人公の叔父も姉の協力により「金星のめぐみ」を公園の水道水に入れ替えたり、あるいは、本作の最終段階で中学3年生の主人公が高校に上がったら叔父の家に引き取る心づもりを明かしたりと、宗教にのめり込む両親とそうではない家族や親族との葛藤もあります。父親が定職を離れたり、引っ越すたびに小さい家になったり、両親の服装などがみすぼらしくなったりと、いかにも新興宗教らしく信者がお金を巻き上げられている様子も示唆されています。そして、主人公の学校生活とともに、どう見ても異質な宗教の力を軽々と描き出す作者の筆力、表現力に脱帽します。そして、最後は宗教団体の研修所のようなところで親子3人で流れ星を見続けて物語は終わります。純文学ですから、エンタメ小説と違って落ちはありません。落ちはないんですが、この作者に共通するポイントとして、子どもが純粋であるがゆえに、実は社会性ある大人とのズレを感じさせ、悪意とまでは呼ばないとしても、一種の居心地の悪さ、不安定さを感じさせる小説でした。この作者の持ち味かもしれません。私のようなパッパッと読み飛ばす読み方ではなく、行間を読み込める読者には、短い物語ながら、より実り多い作品ではないかと感じさせるものがありました。なお、どうでもいいことながら、その昔に私が京都大学に進学する前に、父親が学生生活の注意として上げた3点を思い出してしまいました。実は、上の倅が大学生になる前に同じことを私から倅に伝えた記憶があります。すなわち、第1に、宗教の勧誘は相手にせず、我が家は有り難い一向宗(浄土真宗)の門徒であること、第2に、マルチ商法には手を出さないこと、第3に、学生運動には加わらないこと、です。だたし、京都の家らしく、第3の点については、自分自身の良心に問うて確信があるのであれば、何らかの政治運動に身を投じるのは妨げない、ということでした。最後の最後に本題に戻って、この作品の著者は、そのうちに芥川賞を受賞する、と私は本気で信じています。とても楽しみです。
次に、瀧羽麻子『左京区桃栗坂上ル』(小学館) です。少し前に同じ作者の『松ノ内家の居候』を取り上げましたが、我が母校の京都大学の後輩であり、しかも経済学部の卒業生です。不勉強な私の知る限りでは、京都大学経済学部出身の小説家は、この作品の作者とホラーやミステリの売れっ子作家の貴志祐介しか読んだ記憶がないことについてはすでに書いた通りです。ということで、左京区シリーズ、というか、左京区3部作の完結編です。本書の最終第6章を読めば、明らかに、作者は本書をもって左京区シリーズを終了する意図であることが理解できると思います。例の学生寮トリオの龍彦、山根、と来て、本書では安藤を主人公としており、このトリオをはじめとして、最終第6章で周辺登場人物も含めてその後の彼らの行く末を取りまとめています。後は、スピンオフ作品が出るかもしれませんが、明らかに、作者の意図としては左京区シリーズ、あるいは、左京区3部作は終了しました。前作の、というか、第1作の『左京区七夕通東入ル』では龍彦と花の出会いを、第2作の『左京区恋月橋渡ル』では山根の悲恋を、そして、この作品では学生寮トリオで残った安藤の幼なじみ、というか、正しくは、安藤の妹の幼なじみとの再会と大学生活と恋愛、さらに結婚・出産までを跡付けています。龍彦が大阪出身、山根が神戸出身、そして、本書の主人公である安藤が奈良出身でしたが、私は中学高校と奈良まで通っていて、大学が京都大学ですから奈良と京都にはなじみ深く、安藤を主人公とするこの3作目の左京区シリーズ、左京区3部作の3作目を特に楽しみにしていました。加えて、関西弁の中でも京都弁と奈良弁と大阪弁と神戸ことばと、微妙に使い分ける作者の筆力も大したものです。ただ、惜しむらくは、小説としてはさほどの水準ではありません。人物キャラもそれほどクッキリというわけでもありませんし、プロットもとてもありきたりです。ハッキリいって、京都大学出身の作者による京都大学と思しき大学を舞台にした青春小説、というジャンルでなければ、私も読まなかったんではないか、という気がしますし、恋愛小説というジャンルには独特のモノがあり、かなりの人気ジャンルだと思いますが、私は恋愛小説である、というだけでは必ずしも評価しません。いろんな条件が重なり合って読んだんだという気がします。文学作品としては、芥川賞候補に上げられた『星子の』とは比べるべきではありません。最後に、その純文学の『星の子』と違って、この作品はエンタメ小説ですから落ちがあります。どうでもいいことながら、割と最近、私が読んだフィリップ K. ディックのSF小説、たぶん、『死の迷路』か何かで、翻訳した山形浩生さんがあとがきか解説で、その昔はSF小説は落ちで分類されていた、なんて書いていたような気がしますが、SF小説に限らず、エンタメ小説は落ちがある場合が少なくありません。そして、もちろん、読書感想文で落ちを明らかにするのはルール違反です。最後の最後に、webきららのサイトにpdfファイルがアップロードされており、本書の第1章の連載時の試し読みが出来ます。ご参考まで。
最後に、マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(岩波現代文庫) です。2005年の出版ですが、最近時点で文庫化されました。朝日新聞の書評や読売新聞の書評で見かけて思い出し読んでみた次第です。作者は米国のセント・ルイス生まれで、現在は日本に定住し早大教授を務めています。ということで、そのものズバリのタイトルについていくつかの観点から論じていますが、映画に関しては石原裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」を取り上げています。「おいらはドラマー…」で始まる例の歌については、私はどこをどう聞いてもジャズには聞こえないんですが、当時の観衆はジャズに聞こえていたかもしれないと思わせるものがありました。文学については五木寛之のデビュー作「モスクワ愚連隊」を取り上げ、当時のソ連文化部の高官が、いかにもありきたりではありますが、高級な音楽であるクラシックと低俗な娯楽であるジャズを対比している様子が明らかにされます。本書では1980年代以降はジャズも「過去の音楽」になった、として、エスタブリッシュされたかのような結論を引き出していますが、実は、今でもこういった対比は消滅したわけではなく、21世紀の時点でも生き残っています。例えば、私の好きなクラシック音楽のピアニストの1人でベートーベンの名手であるフリードリヒ・グルダには、ジャズっぽい即興演奏を収録したレコードがあり、実際に1970年代にジャズに転向しようとして周囲に止められたらしい、という噂すらありますが、私の知り合いには人類の宝ともいうべきベートーベンのピアノ曲とジャズの俗っぽい娯楽作品を対比させてしゃべる男がいたりします。音楽だけでなく、ひょっとしたら、純文学を有り難がって、エンタメ小説を小馬鹿にするような人もいたりするのかもしれません。それはさて置き、本書の白眉のひとつは第5章のジャズ喫茶に関する論考です。上の表紙画像の真ん中右はしは京都のジャズ喫茶であるしあんくれーるではないかと思います。私の学生時代にはまだありましたが、もうないのかもしれません。フランス語で Champ Clair と綴り、明るい場所、あるいは、明るい田舎、という意味だったと記憶しています。河原町荒神口の府立病院の南側にあり、名前とは裏腹に暗い店内で大きなJBLのスピーカーでもって大音量のジャズを流していた記憶があります。私は東京に出て来てからも、渋谷の道玄坂を上ったあたりにあって、名をすっかり忘れたジャズ喫茶にも通った記憶がありますが、同じようなものだった気がします。本書のジャズ喫茶の掟の中に、おしゃべりはするべからず、というのがありますが、これらのクラスの大音量ではとても有益な会話は出来なかろうという気がします。私は注文はメニューを指さしていたと記憶しています。それから、最後に、ジャズメンとドラッグに関して、チャーリー・パーカーなどのコカイン中毒ほかについて記述がありますが、やや偏った印象です。確かに、ジャズメンでコカインにおぼれた人は少なくないでしょうし、バド・パウエルのようにアル中もいます。でも、ジャズに限らず、音楽家の中には感覚を研ぎ澄ますためにドラッグに手を出す人は少なくないだろうという気も同時にします。ローリング・ストーンズが長らく来日できなかった原因もドラッグです。まあ、他のミュージシャンがドラッグに手を出しているから、ジャズメンもやっていいとは思いませんが、少し配慮して欲しかった気もします。
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