先週の読書はほとんど経済書がなく計7冊!
通常の読書感想文をアップする土曜日に、昨日の場合は米国雇用統計が割って入り、読書感想文が日曜日にずれたこともあって、計7冊とやや多くなってしまいました。ただ、極めてめずらしいことに、経済書がなく、小説もほとんどなく、教養書や専門書が大部分でした。来週は大きくペースダウンする予定です。
まず、セザー・ ヒダルゴ『情報と秩序』(早川書房) です。著者はチリ生まれのヒスパニック系で、博士号は物理学で取得し、経済複雑制指標のデータの提供などもしています。マサチューセッツ工科大学(MIT)の准教授だそうです。英語の原題は Why Information Grows? であり、2015年の出版です。非常にユニークなのは、情報の定義であり、物理的な原子の配列と考えているようです。ですから、宇宙の中の幾つかのポケット、例えばこの地球では新しい物質が次々と作り出されて、本書の著者の意味で情報が成長しているわけです。あるいは、情報が増加しているといってもいいようなきもします。ただ、この定義は明示的に本書に現れるわけではありません。というのも、少なくとも私が考える上で2点の大きな弱点があるからです。第1に、原子の配列という意味で情報という言葉を使う例として高級車を上げていて、高級車でなくても普通の自動車でいいんですが、厳密な意味で、同じ原子の配列を持つ物質というのはありえません。例えば、白いプリウスと紺色のプリウスは、私達は同じカテゴリの自動車と認識するんですが、原子の配列は明らかに異なります。第2に、生物、特に動物の場合の生死観から見て疑問があります。すなわち、生きている人間と死んだ後の人間は色違いの自動車よりも原子の配列が近いような気がしますが、生死の境で大きな差を感じるのは私だけでしょうか。ですから、本書でも著者自身が認めているところですが、情報の成長や低下とエントロピーの増加や減少が、同じ方向を向いている場合と異なる場合がありえます。本書の論旨からすれば大きな弱点といわざるを得ません。ただ、著者が経済成長の本質を問うている点は、エコノミストとして、というか、開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、やや目から鱗が落ちる気がしました。情報は均一に分布しているわけではなく、個人、企業、国家といった知識やノウハウの集積の単位のインタラクティブな関係の中でネットワークを形成し、その中でどのような位置にあるのかを分析すれば、それぞれのレベルで経済の動態を記述できるはず、というのは、その通りだと思います。もっとも、極めて複雑怪奇なモデルになりそうな気もします。でも、それが解ければ経済発展の謎、景気循環や成長の原動力なども解明できるはずです。でも、それが実際にはできていないのが現実かもしれません。最後に、参考まで、特に後半で経済を扱う際に、「計算能力」という言葉が頻出しますが、「情報処理能力」と置き換えていいんでしょうか、ダメなんでしょうか。やや気にかかります。
次に、マイケル・オースリン『アジアの終わり』(徳間書店) です。著者は、ご本人によるあとがきによれば、歴史学者ということで、大学の教員の経験もある一方で、現在は保守系シンクタンクの日本部長だそうです。英語の原題は The End of the Asian Century となっており、2016年の出版です。1993年、私は南米にて外交官をしていましたが、世銀から『東アジアの奇跡』 East Asia Miracle が出版され、それに対して、クルーグマン教授が反論したりしていましたが、本書は東アジアに限定せず、「インド太平洋地域」なる広い定義のアジアの終わりを宣言しています。すなわち、本書の著者本人ではないんですが、p.29 でアジアのリスクマップで5つのリスク領域を示し、その後、経済改革、人口動態、政治革命、政治共同体、戦争の抑止のそれぞれでアジアがいかに失敗しているかを、これでもかというくらいに実例を上げつつ論じています。まあ、中国における経済停滞や海洋進出や環境破壊、北朝鮮の軍事的挑発行為、インドとパキスタンの核開発競争、などなど、アジアが決して未来を切り開く地域であるばかりではなくlそれなりに、経済的な不安定や政治的な脅威をもたらすようになった事実はその通りかという気がします。そして、その大元の原因は民主主義の未成熟にあるという見方については、私も大いに同意します。なお、本書では韓国が成熟した民主主義国と見なされているようですが、大統領の政権交代とともに全色の大統領がここまでバッシングされる現状は、民主主義としてまだまだ未成熟な面が残されていると私自身は考えていますので、ご参考まで。ただ、私の見方ですが、西欧や米加を意味する北米については、成熟した民主主義国であって、世界の中でも安定した政治経済を要している点はいうまでもなく、日本についてもご同様なんですが、残されたアフリカ、中南米と比較してアジアが政治経済の安定性についてひどく見劣りがするかといえば、私はそんなことはないと考えています。一例として、米国が世界の警察官という国際公共財を提供できなくなって、もっとも大きな影響を被るのはアジアよりもむしろ中南米ではないか、という気もします。もちろん、アフリカに比較してアジアが政治や経済の安定性で劣っているとも思われません。という意味で、ややバランスを失した内容ではないか、という気もします。
次に、山本一成『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(ダイヤモンド社) です。著者は、佐藤天彦名人を連破した現在最強の将棋プログラムであるポナンザの作者です。そして、本書は、その開発にまつわるエピソードとともに、機械学習、深層学習、強化学習などについて、極めてわかりやすく解説しています。その上で、「知能とは何か」、また、「知性とは何か」といった問いに対して明確な回答を示す意欲作でもあります。加えて、グーグル・グループが開発したアルファ碁についても、巻末の対談で簡単に取り上げて解説をしています。なお、著者は将棋についてはアマチュア5段だそうで、肝滅のアルファ碁に関しての対談では囲碁についても造詣の深いところを示しています。ということで、知能とは探索と評価であると指摘しており、人工知能についても当然ご同様です。その昔の博覧強記という表現をそのままスケールアップしているような気がします。ただ、コンピュータにおいては評価関数は明示する必要があり、人間の場合はおそらくかなりの程度に経験に裏打ちされた直感なんだろうという気がします。それにしても、人工知能の学習能力というのは恐るべきものであり、将棋ソフトの場合はディープラーニングを使っておらずとも、機械学習だけでこのレベルに達するわけですし、シンギュラリティが噂されている2045年には指数関数的な能力向上によって、どのような世界が広がっているのか、私はとても楽しみですが、その前に人間としての寿命が尽きる可能性があります。とはいえ、プロの将棋や囲碁の棋士に生じていることが、比較的高級な職業の一般人にも生じる可能性が本書でも極めて暗示的に提示されています。例えば、医師、弁護士、会計士、教師などです。私のようなキャリアの公務員も人工知能(AI)に取って代わられる可能性もあるかもしれません。ともかく、難しい理論的実践的なテーマながら、著者が自分自身で納得したエピソードだけをわかりやすく取り上げており、逆から見て、専門家の目には部分的にしても不正確な表現もあったりするのかもしれませんが、私のようなシロートにはとても判りやすかったです。ポナンザやアルファ碁だけでなく、幅広いAI一般についても理解が進んだ気がします。巻末の対談で若手の囲碁のプロ棋士が、将来はバーチャル・リアリティ(VR)を駆使してアルファ碁に囲碁を教えてもらえそうで、とても楽しみ、みたいな発言をしています。人によっては反発しそうなフレーズですが、私は大いに同感です。ともかく、この本を読むと、AIやコンピュータと人類の将来の共存に楽観的な味方ができるようになり、明るい期待がもてそうな気がしてくるのは少し不思議な気がします。
次に、牧久『昭和解体』(講談社) です。著者は日経新聞社会部記者を務めたジャーナリストであり、本書は国鉄の分割・民営化を歴史的に跡付けたリポートです。というよりは、私が読んだ印象では国鉄解体ではなく、国労解体に近い受け止めを持ちました。マルセイと称された生産性向上運動の裏側で大っぴらに進んだ組合潰しの動きから始まって、最後は国労が支えた総評の解散や社会党の事実上の消滅まで、いかに国鉄と時の政権が国労を解体すべく戦略的に動いたかがよく理解できるかと思います。ただ、企業として経済活動を効率的に遂行する経営体として、当時の30万人を超える国鉄組織が巨大に過ぎたのは事実かもしれません。そして、本書で国体護持派と称されている国鉄内部の当時の経営層が、鈴木政権から中曽根政権に引き継がれた臨調の結論に際して、民営化を許容しつつ分割に反対するという方向違いの戦略を持ったのも、何となく判る気もする一方で、やはり、作戦ミスだったように受け止めています。同時に、本書で3人組と称される改革派も、やっぱり、国労潰しというか、いわゆる労使協調路線ではない労働組合に対する極めて不寛容な姿勢をうかがい知ることができました。国鉄は国民に必要不可欠な運輸サービスを提供する一方で、親方日の丸と称された非効率な業務遂行がなされ、組合が人事などの事実上の経営まで踏み込んだ組織運営に介入するなど、不都合な事実がたくさんあったことも事実で、当然の帰結のひとつとして大きな累積赤字を計上することから改革が始まっています。ただ、本書の指摘はいくつかうなずける点も少なくないながら、批判的に読むべきは現在の時点からの視点で書かれている点は留意すべきです。およそ、日本経済全体の生産性がそれほど高くなく、まだマルサス的な過剰人口や貧困を懸念すべき発展段階にあった日本経済の当時の実情について考慮することなく、現時点からの視点で当時の国鉄を批判することは決して正当性を持ち得ません。そしてもうひとつ、本書に通底する労働組合潰しの考えが、現在の賃金の上がらない社会をもたらした可能性についても忘れるべきではありません。例えば、Galí "The Return of the Wage Phillips Curve" においては、明確に労働組合の存在や活動が賃金上昇へのプラスの作用を前提しています。国鉄改革という名目で労働組合の活動を抑制する経済社会を作ったのであれば、賃上げを犠牲にするという結果をもたらした可能性もあります。キチンと検証しているわけではありませんが、決してフリーランチは存在しないわけで、何を犠牲にして何を取ったのかは考えておくべきではないでしょうか?
次に、ウルリッヒ・ベック『変態する世界』(岩波書店) です。著者はドイツ人の社会学者であり、ミュンヘン大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどの研究者を務めていました。2015年1月に亡くなっています。本書は共同研究者だった奥さまが編集の上出版されています。私は何となく、マルクスが残したメモから『資本論』第2-3巻を編集したエンゲルスのことを思い出してしまいました。ということで、書き出しが「世界の蝶番が外れてしまっている」であり、以前にはまったく考えられなかったよう、とんでもない出来事が起こり、資本主義の成功、というか、社会主義の大失敗により、副次的効果の蓄積が世界を旧来の通念では理解不能なものに変えてしまい、もはや変動ではなく変態が起こっている、として、リスクや不平等、コスモポリタニズムなどの観点から世界を読み解き、それらから生成する新しい21世紀の世界像を確立すべく試みています。その試みが成功したとは私は受け止めていませんが、それなりに面白い試みかもしれません。もっとも、変化ではなく変態であるというのは、社会科学者らしい定義のない言葉遊びですし、国家を飛び越えてコスモポリタン的な世界をそのまま国家の枠を超えて把握しようというのは、例えば、経済における多国籍企業の活動の解明のような趣きもあり、エコノミストでも理解できる範囲かもしれません。ただ、決定的に私が違和感を覚えたのは、歴史観の欠如です。経済学では経路依存性と称しますが、訳者のあとがきにあるように、国家が中心にあって、その国家の連合体である世界がその回りを回っている世界観から、世界を中心に据えて、その世界の周りを国家が回るコスモポリタン的転回も判らなくはないんですが、その言葉の由来である「コペルニクス的転回」ではもともと、太陽の周りを地球が回っているのが正しかったわけで、その真実の発見が大きな世界観の変更につながったんですが、世界と国家の関係は歴史的に見てどうだったのか、また、資本主義が成功し冷戦が終わる前はどうだったのか、一部に主権国家としてウェストファリア条約までさかのぼっていながら、そのあたりの歴史感覚の欠如が惜しまれます。どこにも明示されていませんが、変態という用語を用いているんですから、いくぶんなりとも、ヘーゲル的な弁証法的歴史観なんだろうという気がして、そこは私と同じなんだろうと暗黙のうちに前提して読み進んでいたりしました。まあ、ベック教授本人の原稿がなく、残されたメモかを編集して本書を編んでいるわけですから、当然に限界はあります。それを理解しつつ、本書を金科玉条のようにではなく、批判的に読めるレベル読書子にオススメします。
次に、ビー・ウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』(原書房) です。著者はフード・ジャーナリストというジャンルの職業があるようです。ただ、女性らしく、というか何というか、食べ物に関する作業の場であるキッチンに関する著作などもあるようです。英国出身であり、本書の英語の原題は First Bite: Hoe We Learn to Eat であり、2015年の出版です。ということで、本書の最大の主張は食べるということは、本能ではなく、ましてや文化でもなく、学習の結果だということです。もちろん、それは現時点での食の基本であり、少し前までの飢餓が広範に存在し餓死の可能性がまだあった時点あるいは場所のお話ではなく、飽食とまではいわないまでも、十分な食品が入所可能な現在の先進国におけるお話です。その昔や、あるいは、現在であっても低開発国のお話ではありません。すなわち、カロリー摂取という観点からは不足なく、むしろ、肥満や生活習慣病の方が餓死などよりもリスクが高い、というバックグラウンドでのお話です。まあ、クジラを食べるのが文化と称している日本人もいますから、そのあたりは限界があります。その上で、肥満を防止したり、塩分の摂り過ぎを回避し、ジャンクフードではなく野菜や果物を十分に摂取する基礎が学習であると主張しているわけです。第8章ではこの観点から、日本食が極めて高く評価されています。当然です。現在の大手の食品会社の極めて印象的な宣伝に接しつつ、また、食品店やスーパーマーケットの食品売り場で買い物をするにつけ、正しい食生活、というか、健康的な食生活を維持するためには、それなりの学習が必要だということは理解できると思います。欲望のままに食生活を送るのではなく、何らかの科学的な根拠に基づく食生活、食育という言葉に合致するような食生活を現代人は必要としているのかもしれません。私も50歳になってから2年ほど単身赴任生活を送りましたが、もっぱや栄養バランスは牛乳に頼っていた気がします。また、普通のスーパーマーケットよりも、また、通常のレストランよりも、大学生協はそういった健全な食生活に熱心に取り組んでいる気がしました。もっとも、この分野に詳しくないので、気がしただけかもしれません。
最後に、三浦しをんほか『短編少女』(集英社文庫) です。収録作品は順に、三浦しをん「てっぺん信号」、荻原浩「空は今日もスカイ」、道尾秀介「やさしい風の道」、中島京子「モーガン」、中田永一「宗像くんと万年筆事件」、加藤千恵「haircut17」、橋本紡「薄荷」、島本理生「きよしこの夜」、村山由佳「イエスタデイズ」となっています。アンソロジーですから、上質な短編作品を集めており、ついつい、何度も読むハメになっています。半分くらいは読んだ記憶があるような気がします。最後の作品はジャズの定番スタンダード曲なんですが、私は歌詞があるとは知りませんでした。ヘレン・メリルのアルバムが紹介されていますが、そのうちに聞いてみたい気がします。
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