今週の読書は意外と経済書が少なく、教養書や専門書が多くなっています。期待の若手作家による純文学の小説を含めて、以下の通りの計7冊です。
まず、吉岡桂子『人民元の興亡』(小学館) です。著者は朝日新聞のジャーナリストです。ですから、エコノミストの視点とは違って、かなりマイクロな視点からのルポルタージュと考えるべきです。もちろん、中央銀行関係者や経済学者などへの取材を通じてマクロな視点も確保していますが、少なくとも本書のアドバンテージはマイクロな視点であり、それをクロニクルにつなぎ合わせた人民元の歴史的な推移ということになろうかという気がします。ですから、マクロな金融政策的な視点、成長の加速やインフレの抑制といったトピックはほとんど本書では現れません。もっとも、通貨政策というか、為替政策についてはかなりの程度に政治の延長であり、場合によっては外交や安全保障ともリンクします。ジョージアの米ドルへのペッグなどは典型でしょう。そして、確信はありませんが、私の読後の感想として、本書の著者の意図も中国の通貨である人民元を通じて、中国という国丸ごと、あるいは、その市場をしている中国共産党の過去からの歴史と今後の方向性を考えるひとつのキーワードにしているような気もします。でも、この読み方にはそう大きな自信があるわけではありません。でも、そういった視点で本書を読み解くのも一案だという気がします。その他、歴史的な事実も含めて、いくつかの井戸端会議的に使えるトピックも散見されます。例えば、円や元やドルは「丸い」という意味であると本書にはありますが、実は、ポンドも含めて、これらの通貨単位は重さの単位でもあります。金なり銀なりの貴金属の本位金属の一定の重さをもって通貨単位としている場合が多いからです。また、通貨の記号については、ユーロの€は人工的に作ったものですが、英国のポンド£はともかく、米国のドル$の記号は中南米などでも使われています。私が大使館勤務をしていたころの1990年代前半のチリでも通貨単位ペソに対して$の記号を使っていました。また、東アジアについては、韓国ウォン₩は別として、本書でも指摘されている通り、日本円と人民元は同じ記号¥を使います。コンピュータ用語では、$をダラマークと呼ぶのに対して、¥はエンサインと呼びならわします。私はよく違いが判っていませんでした。でも、こういった記号まで含めて外交や安全保障と少なからぬリンクがありそうな気もします。
次に、アニー・ジェイコブセン『ペンタゴンの頭脳』(太田出版) です。著者はジャーナリストであり、同じ出版社から邦訳がすでに2冊出ていて、2012年の『エリア51』と2015年の『ナチ科学者を獲得せよ!』です。前者については、私は読んだ記憶があります。日記を確認すると2012年7月に読んでいます。でも、なぜか、このブログの読書感想文ではアップしてありません。それはともかく、本書の英語の原題は Pentagon's Brain であり、2015年の出版です。邦訳タイトルはそのまま直訳だったりします。ということで、本書は第2次大戦後の水爆開発競争から始まります。そうです。我が国の第5福竜丸が被爆したビキニ環礁での水爆実験です。そういった戦後の米ソを中心とする冷戦構造の中で、1957年にいわゆるスプートニク・ショックの激震が走ります。人工衛星であり、何と、我が国を代表する小説家のひとりでもある村上春樹にも『スプートニクの恋人』をいう作品があったりします。本題に戻って、このスプートニク・ショックを一つの契機として、当時のアイゼンハワー大統領により設立されたのが高等研究計画局ARPAであり、その後、国防のDを頭に加えて、現在のDARPAになっています。潤沢な予算を得て、しかも、極秘裏に国防関係の研究を進める組織であり、本書では、ベトナム戦争、1980年代の特にレーガン政権期のスターウォーズ計画、1990年代の湾岸戦争、2001年9月11日のテロからの対テロ戦争、などなど、それぞれの時期を追って時系列的に米国の戦争や国防技術の発展を支えたDARPAの役割について、公開資料やインタビューなどで知り得る限りに詳しく追っています。ただ、その視点はあくまで批判的であり、DARPAの開発になる成果として、例えば、インターネットやGPSなど、平和利用されていて、世界的にも有益な結果をもたらしている研究成果には少し冷たい扱いがなされ、ベトナム戦争の枯葉剤、生物兵器の開発などなど、DARPAが担った戦争利用技術の暗黒面を強調しています。政府とある程度の緊張関係に置かれるべきジャーナリストとしては当然かもしれません。科学者においても、今週の日経新聞の経済教室で軍事研究と大学に関して論評がありましたが、日本学術会議の軍事的安全保障研究に対する結論を私は尊重すべきと考えていますし、そういった観点からも、なかなか有益な読書だった気がします。私のような専門外のエコノミストには、まるでSFの世界のような軍事技術に感じるんですが、こういった軍事技術が実用化されると怖い気もします。それにしても、550ページを超えるすごいボリュームです。
次に、塚田穂高[編著]『徹底検証日本の右傾化』(筑摩選書) です。現在の内閣による改憲への方向付けだけでなく、国民レベルでもヘイトスピーチや排外主義的な主張が拡大している気がしますが、私のように国家公務員でありながら左派を自任する人間から見て、とても憂慮すべきトレンドであると考えています。この日本の右傾化に対して、徹底検証と銘打ちながら、てんでバラバラな方向を向いた著者21人が各チャプターを担当して編集されています。結果として、包括的に現在の右傾化を分析することには失敗しているとしかいいようがないんですが、チャプターによっては見るべき主張が含まれている論考も少しだけ、ホンの少しだけあったりします。例えば、改憲の直接のターゲットは第9条だとばかり私は思っていましたが、家族にあり方の基本となる第24条も重要であるとか、あるいは、一橋大学の中北教授が自民党の右傾化の原因を探った第5章では、有権者、というか、国民が右傾化しているわけではない、と結論されている点などは、私はとても重要だと受け止めています。特に後者の中北教授のポイントは何を意味しているのかといえば、選挙で支持されているのは右傾化した主張ではなく、景気をよくする自民党の経済政策なのだということは理解しておくべきです。クリントン大統領の選挙キャンペーンのように、"It's the economy, stupid." というわけです。現時点での国民の選択は、右派=好況+改憲、あるいは、左派=不況+護憲、であると、もちろん、極端な議論ですが、こうなっているわけです。そして、国民の多くはコインの裏側が改憲であることは薄々気づいていながら、背に腹は代えられず、改憲に目をつぶって好況を目指す、あるいは、好況を実現している政党を選択しているわけです。東京新聞の大澤真幸による書評で、国民の「消極的な容認」と称されている実態が、実はこれなんだと私は認識しています。ですから、左派は改憲を阻止しようと考えるのであれば、真っ向から改憲反対を訴えるだけでなく、経済政策こそ選挙を闘う上での主戦場であることを正しく認識し、日銀にデフレ的な金融政策を許容したり、財政を引き締めたりするのではなく、現在の安倍政権が実行しているような財政金融政策を旗印に掲げて支持を集めることが必要なのです。ついでながら、本書とは何の関係もないものの、こういった観点に立っている立命館大学の松尾匡教授が『この経済政策が民主主義を救う』で展開した主張に私は全面的に賛同します。
次に、ジェニファー・ウェルシュ『歴史の逆襲』(朝日新聞出版) です。著者はカナダ出身の国際政治学者であり、現在は欧州大学院教授としてフィレンツェ在住らしいです。英語の原題は The Return of History であり、連戦終了後にフランシス・フクヤマが主導した「歴史の終わり」を念頭に置いて反論することを試みています。すなわち、「歴史の終わり」では、冷戦の終了、というか、ソ連の中央指令型の社会主義経済やそれを基礎とする共産主義の体制が終わりをつげ、世界はすべて自由民主主義の世の中になったことから、世界全体が政治体制の最終形態である自由民主主義となり、戦争やクーデター、あるいは、その基となる対立や分断は生じなくなる、と単純化して語られるわけですが、実はそうではなく、特に最近では対立的な構造で世界を分断するような動きがアチコチに見られる、という論調です。欧米先進国で幅広く観察されるポピュリズムの台頭、特に米国におけるトランプ政権の誕生、加えて、ISをはじめとする武装勢力による虐殺の横行やそれを避けるための大量難民の発生、さらに、冷戦への回帰を思わせるような大国ロシアの登場と周辺国への軍事介入、そして、最後は経済的な不平等の形で国内経済における国民の分断を取り上げています。もちろん、背景となる歴史観にはフクヤマと同じヘーゲル的な弁証法があるんだと思います。ですから、氷河期に対しる間氷期と同じような見方で、現在は一時的に分断が止揚されているだけである、との考えも随所にうかがわれます。中国の歴史みたいです。統一されては分裂し、また統一する、という繰り返しの中国史と同じで、分断されては一体化し、また分断が進む、という中で、フクヤマの指摘した「歴史の終わり」は一時的なステージに過ぎない、との主張のようです。ウーン、判らなくもないし、歴史は終わっていないという点については、私も同じヘーゲル的な弁証法に基づく歴史発展の立場を支持しますので、当然といえば当然なんですが、やや物足りない著作です。細かいことをいえば、例えば、ISなどの大量虐殺について、中世的な虐殺にまでさかのぼらなくても、20世紀のナチスのユダヤ人ホロコーストの蛮行があります。ナチスについて、まったく触れられていないのは理解できません。そして、何よりも私が物足りなく感じたのは、歴史は終わっていない点はいいとして、歴史の逆襲=returnとは人類にとっては進歩なのか、それとも、中世へ逆戻りするような逆行なのか、著者の評価はどうなのだろうか、という疑問です。私が読んだ実感では、ポピュリズムの台頭とか、ISによる蛮行とか、おそらく、著者の考えは、これらは後者の中世に逆戻りしかねない歴史の逆行であり、それを超克して進歩の方向を目指すべきである、というものではないか、と勝手ながら想像しているんですが、ホントにそうでしょうか。歴史が逆襲するとすれば、その歴史の逆襲は歴史の進む方向の逆回転なのでしょうか、それとも、それはそれとして歴史の進歩の方向に位置づけるべきなのでしょうか。そういった議論も欲しかった気がします。今週読んだ本の中で、もっとも印象的だったんですが、それだけに、感想文を長々と書き連ねた一方で、物足りなさも感じてしまいました。
次に、山田邦紀『軍が警察に勝った日』(現代書館) です。著者はジャーナリストで、本書では1933年6月半ばの正午前に、大阪は天六の交差点で信号無視をした軍服姿の兵隊を警察官が交番に連れ込んで暴行した、というゴー・ストップ事件を掘り下げています。昭和に入って軍隊が幅を利かせるようになった一方で、軍に対しては必ずしも協力的ではない京都や大阪などの関西圏で起こった事件ですが、双方折り合わずに、半年近くも収拾に時間がかかった上に、詳細は非公表ながら全面的に軍の面目で終息しています。すでに中国大陸で戦端が開かれた戦時体制ながら、まだ対米開戦は先の話といった時期に、警察と軍の対立が全面的に軍が有利な状況で終息したわけですので、我が国が戦前の軍国主義化のプロセスの中で、ひとつのターニング・ポイントになった可能性があります。ただ、歴史に興味ある読書子でなければ、この事件は知らない人がほとんどではないかと私は想像しています。もはや100年近い昔の事件ですから、いかに敏腕ジャーナリストとはいえ、当事者はもちろん、目撃者などの関係者にインタビューすることはほぼほぼ不可能となっており、文字記録に当たることにより事件を再現しています。そして、本書でも著者が明記しているように、この事件は軍と警察の双方が声明を出してはメディアが報道するという形で進み、それなりに参照すべき情報は少なくなかった気もします。他方で、引用部分が多過ぎるという印象を持つ読者もいるかもしれません。読んでいて、軍人に違法行為は警察ではなく憲兵が取り締まる、というシステムへの理解が進まないながら、警官も軍人も決して一般庶民から尊敬されているわけではなく、むしろ、エラそうにする煙たい存在と見なされていただろうことが伺えますし、警察ですら軍に対しては「モノ申す」ことが段々と難しくなっていく戦時統制国家の走りのような世相も垣間見えます。なかなか興味深い昭和戦前の歴史書かもしれません。
次に、国分良成『中国政治からみた日中関係』(岩波現代全書) です。著者は慶応大学の研究者から転じて、現在は防衛大学校長です。という経歴から、読む前にはやや日中関係に関しては中国に批判的なスタンスを想像していたんですが、私の想像が極端だったせいもあるかもしれないものの、まずまず常識的な範囲だったのではないかと思います。そこは岩波書店の刊行物ですから、ゴリゴリの右派的な内容はあり得ないのかもしれません。私にはよく判りません。従来から、私も不思議だったんですが、日中関係については、まあ、日韓関係も似たようなものかもしれませんが、メディアで取り上げられる際には、我が国の政治状況中心的な地動説、というか、要するに、私のようなシロートから見て、総理大臣や重要閣僚などが靖国参拝するかどうかで中国や韓国の態度が変わる、我が国の重要政治家の動きに対応して中国と韓国が受動的に対応する、という報道が多かったような気がする一方で、中国や韓国の国内政治情勢については、少なくとも私の接する報道においては軽視されていたような気がします。もちろん、そんなことはないわけで、国内政治の延長に外交があり、あるいは、もっといえば、平和的な外交の延長に戦争があるといった説もあるようですから、我が国の国内政治だけが日中関係や日韓関係を動かして来たわけではないことは明らかです。そういった観点から、本書では中国の国内政治から日中関係への波及を解説してくれています。特に、天安門事件後の1990年代の悪化した日中関係の中で、江沢民政権がどのような役割を果たしていたかがよく理解できた気がします。我が国と違って、政権交代がなく、トップの個人的な資質次第で独裁的な様相を呈しかねない中国の政治状況、さらに、政党間の政権を争っての政策立案がない代わりに、共産党内の派閥抗争や内部での権力闘争が重要になる中国という国との外交の難しさを感じた気がします。
最後に、今週の読書唯一の小説で、今村夏子『あひる』(書肆侃侃房) です。著者はデビュー作となる「あたらしい娘」で太宰治賞を受賞し、「こちらあみ子」と改題して他の短編とともに出版した『こちらあみ子』の著作で三島由紀夫賞を受賞し、華々しいデビューを飾ったんですが、その後少し休養期間を置き、本書が昨年出版され、さらに今年『星の子』も出版され、ともに芥川賞候補にノミネートされています。本書は河合隼雄物語賞を受賞しています。ここまで受賞やノミネート歴を上げれば、注目の若手純文学作家ということができようかと思います。なお、『こちらあみ子』はすでに文庫本も出版されており、私も読んでいます。ということで、この作品の表題作の「あひる」は、両親がのりたまという名前のあひるを貰い受けたところから物語が始まり、学校帰りの小学生があひるを見るために家に立ち寄り、主人公の弟が町に出て独立した後の寂しさを紛らわせるため、両親が過剰といえるほどに小学生達をもてなします。おやつやゲームで接待し、また、あひるの具合が悪くなるたびに新しいあひるを連れ帰ったりしていたんですが、3匹目のあひるが死んで埋めたところに通りかかった小さい子から、3匹目のあひるだったことは子供達の間でバレバレだったことが明らかになります。でも、子供達への接待を続ける両親なんですが、町に出ていった弟の奥さんに子供が出来て、一家6人で暮らし始めてめでたしめでたし、というストーリーです。純文学ですのでネタバレを避けようという気も私にはありません。この作品は芥川賞受賞を逃しましたが、小川洋子さんが強く推していたのを記憶しています。文章として表現すべき出来事があり、それを正しい言葉で表現し、淡々としていながら力強く文章がストーリーを紡ぎ出し、登場人物と出来事を正しく伝えています。それでも、読みやすくスムーズに読み進むうちに、何か違和感のようなものを、私のような平々凡々たる人生とは何かが違い、文章として書き留めた上で多くの人に伝えるに足る何かがあることが、とても適切に読み手に伝わります。まさに素晴らしい純文学の作品です。
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