今週の読書は直木賞受賞の佐藤正午『月の満ち欠け』ほか計7冊!
今週もまたまたオーバーペースで、やや読み過ぎた気がします。話題の経済書もありますが、今週の読書の目玉は何といっても直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』です。私は村上春樹の好きなハルキストですが、最近の小説ではダントツだった気がします。以下の7冊です。
まず、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋) です。著者はオランダ人のジャーナリストであり、広告収入にまったく頼らない「デ・コレスポンデント」の創立メンバーの1人だそうです。2014年に出されたオランダ語の原書は自費出版に近かったらしいんですが、アマゾンの自費出版サービスで英語に訳されると、今年2017年には世界20か国での出版が決まったといいます。英語のタイトルは Utopia for Realist となっています。ということで、本書の邦訳の副題は『AIとの競争に勝つベーシックインカムと1日3時間労働』となっていますが、決してAIやロボットとの競争だけを視野にしているわけではなく、特に格差についてその解消を目指していると考えるべきです。英国の有名なスピーナムランド制をはじめとして、カナダやインドなどで実施され、社会実験レベルのものまで含めたベーシック・インカムの効果に関する文献をひも解き、ベーシック・インカムが決して勤労を阻害したり、怠惰を招いたり、といった事実は観察されず、むしろ、貧困や格差の是正に役立っている点を強調しつつ、その上で、産業革命期から1980年代まで一貫して減少を示した労働時間が上昇に転じ、しかし、そういった中でも労働生産性は上昇を続けている、という事実を説得力ある方法で示しています。また、ありきたりな国民総幸福量、ブータンの例を引きつつ、こういった幸福度指標については明確に否定しています。ケインズの週15時間労働の予言にも触れつつ、正統派の経済学に基づいた方法でベーシック・インカムの利点を展開し、同時に、本書の終盤では国境を開放して自由な個人の行き来を推奨しています。決して、グローバル化を格差の原因として排除する議論には与していません。これも、正統派の経済学に立脚した議論といえます。ラッダイト運動の歴史に言及しつつ、AIとの競争には勝てないことを明言し、その意味では「敗北主義」っぽく見えなくもないんですが、私から見ればリアリストなんだろうと思えます。マルクス・エンゲルスのような左派経済学者に加えて、ケインズなどの正統派エコノミスト、さらに、ハイエクやフリードマンなどの右派まで幅広く引用して、左右両派のどちらからも支持されているベーシック・インカムの利点を浮き彫りにしています。AIによる職の代替可能性からベーシック・インカムが議論されることが多いんですが、あくまで私の信頼厚い左派からする議論かもしれませんが、格差是正まで含めて幅広い議論に資する良書だと思います。
次に、大湾秀雄『日本の人事を科学する』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大社研教授であり、専門分野は労働経済学や人事制度などであると私は認識しています。私は景気循環や開発経済などの中でも、マクロ経済を専門分野とするエコノミストであり、労働経済学とか、人的資源管理論とかのマイクロな分野は専門外なんですが、本書でも紹介される初歩的なミンサー型の賃金関数は推計して研究成果として取りまとめたことがあります。ということで、タイトルから勝手に想像して、マイクロな人事制度、すなわち、人事評価やそれに基づく人事異動による個々の労働者・雇用者の配置、さらに、評価に基づく職階とそれに連動する賃金水準の決定に関する議論を期待していたんですが、私の期待は裏切られました。わずかに関連するテーマは第4章の人事採用、それに、中間管理職の貢献の計測に関する議論だけでした。まあ、そうなんでしょうね。今話題の女性活躍推進、働き方改革、高齢化対応などのほか、定着率の向上などの人的資源管理に関するトピックが中心で、その前提として統計的・計量的な分析手法に関する簡単な解説などがあります。本書冒頭では、人事についてはいわゆるPDCAが回っていないと断言されており、人事に集まるデータを統計的・計量的に分析することにより、人事の過大に対応しようと試みています。ただ、先月8月26日付けの読書感想文で取り上げた山口一男『働き方の男女不平等』についても同じことを書きましたが、個々人の能力や生産性、あるいは、家庭環境などもひっくるめて人事で評価し最適な人事配置を行うことは、現在のシステムでは不可能と私は考えています。だからこそ、役所ほど典型的ではないとしても、大手企業などでは入社年次で管理されて来たわけであり、別の言葉でいえば、横並びで人事管理され、特に、大卒総合職の場合はゼネラリストとして、会社や役所などの組織にメンバーシップ参加し、無限定に指定された役割をこなす、という人事制度がまかり通って来たわけです。しかし、他方で、本書の p.237 で指摘されている通り、ゾクセイ、ニーズキャリアなどが大きく多様化し、単純な相対比較が難しくなった現時点で、どのような人事評価制度の下で評価を下し、各個人の適性や能力や生産性やその他の属性に従って、職階を上らせたり、あるいは、下らせたり、また、どういった役割でどの職場に配置するか、の労働力の最適配置論を考え直すべき時期に来ている気がします。もちろん、マイクロな人的資源管理論から派生して、マクロの経済社会全体の生産性やその生産性に基づくマクロ経済の成長や、さらにさらに、で、人口問題の緩和・解消などまで視野に収めた議論は華々しくていいんですが、人的資源管理論の本来の役割である個々人の処遇のあり方をすっ飛ばして、いきなりマクロの議論をしても合成の誤謬を生じるだけのような気がします。従って、もう20年近くも前の邦訳出版ですが、ラジアー教授の『人事と組織の経済学』などと比べるとかなり見劣りします。もっとも、比較対象の相手のレベルが違い過ぎるかもしれません。ただ、人事部局に集まるデータをもっと活用した方がいい、という点については一般論としては大賛成なのですが、実際のデータ管理の運用は困難がつきまとうような気もします。すなわち、役所の人事部門などは「身内に甘い」との指摘を受けることがあったりするんですが、人事に関するデータや各種情報が人事部局には集まるわけで、それをどう使うかは考えどころです。「身内に甘い」といわれても従業員を守る姿勢を貫くのか、それとも、次は誰をリストラ対象としようか、という視点で活用するのか、人事としての情報活用の方向性も考えどころかもしれません。
次に、ロバート H. フランク『成功する人は偶然を味方にする』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国コーネル大学ジョンソンスクール経済学教授であり、長らくニューヨーク・タイムズ紙で経済コラムを執筆しています。本書の英語の原題は Success and Luck であり、2016年の出版です。私もそうですが、うまく行けば自分の努力や能力を要因として上げ、逆に失敗すれば運が悪かったとか、他人の責任にする、というとても立派な人格的な傾向がある人は少なくありません。現在および少し前の阪神の監督について私の評価が芳しくないのはそういったところで、試合後の感想で、打たれた投手について「あそこは抑えて欲しかった」とか、打てなかった打者に対して「あそこは打って欲しかった」とかいう監督は私は決して評価しません。逆に、選手起用に関する監督自身の責任をアッサリと認めると潔さなんぞを感じます。同様に、本書では成功したケースでもご本人の能力や努力だけではなく、運の要素がかなりあることを認めつつ、失敗したケースでも成功のケースとの差は紙一重であり、運の要素で失敗に終わるケースが少なくない、という点を明らかにしています。同時に、政府などの公的部門が個人の効用や企業の生産活動に対して補完的なインフラを提供している点も強調しており、例えば、スピードの出る高級車を買っても道路が凸凹ではスピードを出してのドライブができないわけで、これらの点を総合して、成功した高所得者から累進的にガッポリと税金を取るべきである、と主張しています。そして、エコノミストの目から見てとても特徴的なのは、累進消費税を提唱している点です。私は不勉強にして知りませんでしたが、第2次大戦中にフリードマン教授も戦費調達の観点からその導入を提唱していたらしく、現在の我が国の消費税のように財サービスの購入時に税抜き価格に上乗せして消費者が業者に支払って、そのために、益税が出来たりする制度ではなく、収入と支出と貯蓄のバランスから支出額を算定して、それに対して累進的に課税するというシステムのようです。いずれにせよ、成功と不成功の間の差は大きくなく、しかも、現在のような勝者総取り方式で、小さな努力の差に対して大きな格差が生じかねない経済社会では、何らかの格差是正策が求められるのは当然です。最後に、成功と不成功を分ける要因として能力や努力ではなく、本書のように運を強調し過ぎると、努力しようとする意欲を阻害する可能性がありますが、現在の日本のように努力し過ぎて過労死したりするような社会では、もっとゆったり構えるというか、私は少しくらい努力を推奨しない意見があってもいいような気もします。ダメですかね?
次に、アナスタシア・マークス・デ・サルセド『戦争がつくった現代の食卓』(白揚社) です。作者は編集者であり、本書のために2年半を調査に費やしたフードライターでもあります。ご亭主がキューバ人、ということはラテン人であり、お姑さんも本書に登場し、私の大使館勤務時の南米生活に照らしても食生活は豊かではないか、という気がします。本書では、特に、ネイティック研究所なる米軍ご用達の軍人向けの糧食などの開発研究所をはじめ、米軍と通常の我々一般人の食卓の関係をひも解くんだろうと期待して借りてみたんですが、もっと食品学、化学や生物学などの食品に関する学問、日本でいえば女子大にあるような食物学科のような学術的な内容が中心となっています。少し脱線すると、我が国の明治期に軍と食料ということでいえば、彼の文豪森鴎外も軍医として横槍片手に参加した脚気論争があります。白米だけで十分なカロリーが摂取できる一方で、脚気は何らかの病原菌に起因すると主張する森鴎外などの陸軍一派に対して、海軍は麦飯や白米まで精製しない玄米などにより、実証的に脚気を回避した論争です。もちろん、米軍でもその昔には同じような事件があったのかもしれませんが、少なくとも本書では関係ありません。軍人に供する食品に関しては、シュンペーター的なイノベーションの観点からして、食材、調理、包装を含めた輸送、などなどのイノベーションが考えられ、一般人食卓に供される食品と共通する部分も少なくありません。例えば、食材については米国人大好きなステーキについては、Tボーン・ステーキのような骨付き肉ではなく、成形肉の利用が始まったり、調理は保存食として従来からの塩漬け、燻製、干物などに加えて、宇宙食にも応用されたフリーズ・ドライの製法が発達したり、包装についてはナポレオン戦争期に開発された缶詰に加えて、レトルト・パウチのような空気を通しにくい包装が開発されたり、輸送については、もちろん、冷蔵・冷凍での輸送が可能になったり、と軍民共通のイノベーションがさまざまに紹介されています。ただ、第12章のスーパーマーケットのツアーで紹介されているように、軍民で共通している食品は30~70%にも上る一方で、具体的にそれほど一般読者向けの楽しく理解できる例が多くありません。私は女子大に設置されている食物学科が理系だということを大学に入ってから知って、少なからぬショックを受けたんですが、そういった理系の人向けの本だという気もします。私は国際派の公務員ですから、売国出張はついつい首都のワシントンDCが多くなるんですが、倅たちへの土産にはスミソニアン博物館の宇宙食のアイスクリームを買う場合が多いです。軍ではありませんが、こういった新しい食品のイノベーションが一般家庭の食卓に並んだりするんでしょうから、そういった楽しい実例がもっと欲しかった気がして残念です。
次に、ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに』(青土社) です。訳者あとがきのよれば、著者は米国ノースカロライナ州立大学の研究者であり、専門分野は進化生物学だそうです。英語の原題は Never out of Season であり、2017年今年の出版です。邦訳タイトル通り、プランテーション栽培されるバナナの話から始まって、ジャガイモ、キャッサバ、カカオ、というか、チョコレート、コムギ、天然ゴムなどなど、企業収益性の観点から植物や生物としての多様性を損なう形でのモノカルチャー化が進み、結果として、緑の革命などのように多くの人口のための食料生産には資することとなった一方で、病原菌やネズミなども含めた病害虫の侵食には弱くなり、極めて短期間のうちに緑の農場が茶褐色になってしまう被害をもたらす可能性が高まったリスクを指摘しています。繰り返しになりますが、緑の革命により、スーパーマーケットで消費者の食料の入手は容易になった一方で、殺虫剤や除草剤などの化合物に対する依存が強まったり、灌漑の必要が高まったりしたため、農村は収穫が増加して収益が増大した一方で、種子や農業機械や肥料などの化学品を購入する必要が高まり、同時に、支出も増加するという経済モデルに組み込まれる結果となった、と著者は指摘します。まあ、私のようなエコノミストからすれば、経済学が農学を支配するようになってめでたい、と考えられなくもありませんが、他方で、完全に人為的な世界である経済と自然との共存の思想が不可欠な農学との乖離に目をつぶらねばならない必要も生じたわけです。どちらが好ましいかは基本的な世界観、人生観、哲学によります。先の『戦争がつくった現代の食卓』にもありましたが、食品工業が生み出した加工食品にもそれなりの合理性はありますし、すべての食料生産を近代資本主義的に短期的な効率性だけを優先させて行うことは問題があるとしても、農業を自然のままにして餓死する貧困層を放置するのには忍びません。ということで、人類のそのコンポーネントのひとつであるところの多様な生態系の維持と、人類そのものの生存や種の維持と、両者が矛盾なき場合は問題ないものの、両者が両立しない場合には悩ましい問題が生じる可能性があります。そういった意味で、世界観や人生観などの哲学的な見方も含めて、考えさせられる本でした。
次に、佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波書店) です。ご存じ、第157回直木賞受賞の話題作です。タイトル通り、生まれ変わり、あるいは、輪廻転生の物語ですが、そのバックボーンは明らかに熱烈なる恋愛小説です。ということで、私はこの60歳超のキャリアの長い人気作家の作品については、『鳩の撃退法』くらいしか読んでいないんですが、おそらく、この『月の満ち欠け』クラスの小説は日本文壇ではそうそう出ないような気もします。それほどの大傑作といえます。私の場合、読書の中でも小説の比重はそれほど大きくなく、経済書をはじめとする教養書や専門書の方が大きな比率を占め、さらに、小説の中でも好みで時代小説やミステリが多いものですから、純文学やこういった現代ものの大衆小説はそれほど読みませんが、完全にノックアウトされました。論評の前に、まず、私は自然の摂理のひとつとして、輪廻転生や生まれ変わりはあり得る可能性を否定しません。すべての生き物が生まれ変わって輪廻転生する、なんてことを主張するつもりは毛頭ありませんが、この小説にあるような動機も含めて、何らかの強烈な思いがあれば、生まれ変わりになって生命をつなぐこともあり得ますし、生命をつなげなければ幽霊になることもあり得る、とその可能性を全否定することはしません。まあ、レアケースなんだろうとは思います。他方で、私自身はそれほど強烈な思いを持っているわけではないので、生まれ変わりや輪廻転生をしないとは思いますが、さらに積極的にこれらを否定するために、浄土真宗の信者となって念仏を唱えるわけです。なお、一般的な用語ながら、輪廻転生から抜け出すことを解脱と定義しているのは広く知られた通りです。宗教から小説に戻ると、この作品と似た小説に東野圭吾の出世作である『秘密』があります。広末涼子主演で映画化もされました。これも、特定の人物の記憶をはじめとする人格が親しい他の人物に転移する、というストーリーです。しかし、『秘密』の場合は転移された方がその思いを振り払って自立して行くのに対して、この『月の満ち欠け』は何と4代に渡って思いを遂げるために生まれ変わりを繰り返します。というか、初代を別にすれば、生まれ変わりとしてこの世に現れるのは3代と数えることも出来ます。そして、原則として、同じ名前を引き継ぎ、とうとう東京ステーションホテルに現れなかった三角くんを思い続け、ラストにはその思いを成就するわけです。加えて、生まれ変わりはこの流れだけではなく、もう1人いることが強く示唆されます。ハッキリいって、これが衝撃のラストです。また、人間でない生まれ変わりの可能性も示唆されています。映画化されたら、私はぜひとも見たいと思います。
最後に、NHKスペシャル取材班『縮小ニッポンの衝撃』(講談社現代新書) です。昨年2016年9月25日に放送された同名のNHKスペシャルの取材結果です。タイトルからして、いかにも人口減少の問題点に着目しているように思ったんですが、どうも、原因が人口減少とは言い切れず、ハッキリしない現状の問題点もひっくるめて、地方の衰退全般を取り上げているように感じられ、やや焦点がボケているように受け止めました。日本創成会議が取りまとめて中公新書で出版された消滅可能性都市の中に東京23区で唯一登場した豊島区への取材から始まって、財政再生団体に指定された北海道の夕張市、夕張市がやや極端な例であるとして、一部の地方公共団体にて行政サービスの提供が放棄された例として、島根県雲南市、浜田市、京都府京丹後市などの取材の結果が明らかにされ、こういった行政サービスの提供停止は、決して一部の例外的な地方だけの問題ではなく、タイムスパンの長さは別にして、日本全体の問題に拡大しかねない、とのトーンで取りまとめています。注目の本であり、図書館の予約からかなり待たされましたが、どうも私には気になる点があります。繰り返しになりますが、人口減少だけでなく、あらゆる社会的な日本の問題点を、かなり恣意的な取材により極端な例を持ち出して誇張しているような気がしてなりません。京都出身で、長らく東京で公務員をしてきた私ですので、かなりバイアスのかかった見方しかできませんが、それでも、人口問題も含めて社会的に、あるいは、経済的には市場にて、政策の必要なく解決できる問題も少なくありません。おそらく、人口減少問題も政策の手当なしで反転する可能性が十分あると私は考えますが、問題は時間的な余裕です。人口減少が反転するにはとてつもなく長期を要し、その期間をもっと短縮するために有効な政策がある、という点については私も合意します。本書のタイトルの問題意識では人口を増加させれば解決できるような、誤った印象を持たされかねませんが、人口だけでなく、もっと根源的な問題があることを明らかにすべきではなかろうかという気がします。
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