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2018年10月 7日 (日)

先週の読書は重厚な経済書や甲子園グラウンドキーパーの著書など計7冊!

先週は、いつも位のペースで読書した気もしますが、感想文の冒頭に取り上げるティロール教授の『良き社会のための経済学』がやたらとボリュームがあり、通常の四六判よりも大判である上にページ数も600ページを超えていて、それだけで2冊分くらいに相当していたような気がします。今週も数冊をすでにいくつかの図書館から借り受けています。

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まず、ジャン・ティロール『良き社会のための経済学』(日本経済新聞出版社) です。著者は、フランスの経済学者であり、2014年のノーベル経済学賞受賞者です。私は産業構造などのマイクロな分野がご専門と理解しているんですが、このクラスになれば金融をはじめとするマクロ経済学の分野での貢献も少なくありません。特に、バブルについてはかなり独特な見方を示しており、典型的には、p.340からのあたりになるんではないかと思います。私も地方大学に出向していた際の紀要論文で取り上げたことがあります。明治はしておらず、仮想通貨でややごまかしている気味はあるのもの、著者のバブルの眼目は貨幣 fiat money であろうと私は考えていますただ、それを突き詰めて考えれば、金本位制のような本来価値のある何かでなければ貨幣になりえず、バブルでしかない、というのは、私にはやや違和感あります。本書は経済に関する幅広い入門書という位置づけですが、例えば、大学新入の経済学の初学者ではやや苦しい気がします。少し経済についての見識あるビジネスマン向けか、という気もします。ただ、どういう経済学を背景にしているか、といえば、もちろん、かなりスタンダードで標準的な経済学、ということもできるんですが、左派を標榜する私のようなエコノミストからすれば、財政均衡、とまではいわないものの、増税や歳出削減などによる財政再建を目指した財政政策とか、あくまで市場による資源配分の効率性を前提にしていたりと、やや右派的な経済学であることは確かです。そのあたりは、リベラルなクルーグマン教授やスティグリッツ教授の議論とは少し経路が違う点は読み取って欲しい気もします。

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次に、金沢健児『阪神園芸 甲子園の神整備』(毎日新聞出版) です。著者は、まさに、阪神園芸甲子園施設部長の職にあり、甲子園球場整備グラウンドキーパーの責任者です。本書冒頭にもありますが、昨年10月のセリーグのクライマックスシリーズの阪神と横浜の泥んこの中での試合が記憶にまだ残っていて、甲子園球場の整備に注目が集まったところです。その甲子園で水はけがいい、というのは、球場のマウンドを頂点とする勾配の問題であると著者は指摘しています。要するに、マウンドからの勾配が均等であって、どこにも水が溜まらない、ということらしいです。種を明かせばそういうことかという気もしますが、我が阪神タイガーズのホームグラウンドであるだけでなく、高校野球の聖地としても、歴史も、収容人数も、注目度も、何から何まで野球のスタジアムとしては日本一の甲子園球場ならではのエピソードが満載です。著者が50歳そこそこですから、あまりに古いタイガースの選手、例えば藤村富美男とか、村山実とか、はエピソードに出てきませんが、投手では能見投手、走塁では引退した赤星選手のグラウンド整備に関するエピソードが語られていて、守備としては、「弘法筆を選ばず」よろしく鳥谷遊撃手は何の注文もつけない、というのが「グラウンドは選べないでしょ」という発言とともに引かれています。歴代阪神選手としてもっとも多くのヒットを放つとともに、神守備の遊撃手であり、歴代阪神選手の中でも私がもっとも敬愛するひとりである鳥谷選手らしい気がしました。いずれにせよ、阪神ファンであるなら、あるいは、高校野球ファンも、ぜひとも手に取って読んでおくべき本ではなかろうかという気がします。

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次に、ベン・メズリック『マンモスを再生せよ』(文藝春秋) です。著者は、ベストセラーを連発するノンフィクション・ライターであり、カジノでのカード・カウンティングを取り上げて、映画化もされた『ラス・ヴェガスをブッつぶせ!』とか、えいが「ソーシャル・ネットワーク」の原作である『facebook』などをものにしており、本書も映画化の話が進んでいるそうです。ということで、本書では、ヒトゲノム解析計画の発案者の一人ハーバード大学のジョージ・チャーチ教授を主人公に、タイトル通りに、絶滅したマンモスを再生するストーリーです。というか、より正確には、アジアゾウの遺伝子を操作してマンモスにする、ということらしいです。英語の原題である Woolly とは、毛やヒゲで「もじゃもじゃ」という意味です。絶滅した生物をDNAを解析することによって復活させる、というのは、私でなくても映画の「ジュラシックパーク」のシリーズを思い起こすだろうと思うんですが、数千万年から1億年以上前の琥珀に閉じ込められた蚊が吸った恐竜の血は宇宙からの放射線その他により決定的に琥珀になり切っていて、生物として復活させることは不可能である一方で、せいぜい2~3000年前に死んで、しかも死後に急速冷凍されたマンモスは復活させることが可能、というか、アジアゾウに遺伝子を組み込んでマンモス化することは可能だそうです。そこは私にはよく理解できません。ただ、私のようなシロートから見ると、単なる科学的な、あるいは、知的好奇心という以上に、このプロジェクトの持つ意味が理解できませんでした。途中でスアム研究所というのが紹介されていて、富裕層を顧客にしたクローン・ビジネスを展開している営利企業だそうで、実際に何をやっているのかといえば、可愛がっていたペットのイヌが死んだ後に、そのクローンを再生する、というビジネスだそうです。これなら営利企業として成り立つような価格設定にすればいいわけですから、エコノミストの私にもビジネスとして理解できます。しかし、マンモス復活に何の意味があるのか、単なる見せ物なのか、私には根本的な意味がよく理解できませんでした。

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次に、松田雄馬『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』(新潮選書) です。著者は、大学・大学院終了後にNECに就職して基礎研究に従事し、今では独立しているような経歴です。本書では、人工知能(AI)の研究の歴史とともに、人間の知覚についてもニューロンからの理解を展開しつつ、最終的にはシンギュラリティの到来、特に人間を凌駕する知性としてのAIに対する懐疑論を展開しています。本書の著者が「無限定な空間」と表現している知覚の対象は、レーニン的には無限の認識対象を人間は有限にしか認識できない、ということになるんですが、私が考えるに、AIについてはあくまでアルゴリズムに基づくデータ処理の問題であり、それを人間のような知覚や認識と同一視するのは、少し違うような気がします。著者の定義するような人間の知を超えるAIは将来ともに出来ないかもしれませんが、それは逆から見て、将来にも出来そうにないAIの存在を見越した人間の知を定義しただけ、という気もします。少なくとも、チェスや将棋や碁に関しては「勝つ」という意味で人間の知を超えたAIが誕生していることは明らかであり、それにハードウェアたるロボットの筐体を組み合わせれば、あるいは、情報処理の面でも肉体能力の点でも、人間を超える存在が出来、それが人類を滅ぼす可能性も否定できない、というのが悲観派の見方ではないでしょうか。こういった現実的な実際の存在としてのAIやその入れ物としてのロボットを考慮することなく、将棋の羽生の「ルール変更」でAIを撃退するといった、定義の問題でリアルな問題を回避できるかのような議論な私には疑問だらけです。私はこの著者の『人工知能の哲学』を読んだ記憶があるんですが、やっぱり、ピンと来なかった気がします。

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次に、山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館) です。著者はノンフィクション・ライターであり、私は初めてでした。ややクセのある文体で少し戸惑うかもしれませんが、読み始めればそうでもないと思います。カルピス創業者の三島雲海を中心に据え、明治期から大正・昭和の戦争の時期を経て、戦後の高度成長期までを視野に入れた長期にわたるドキュメンタリーです。表紙画像からもうかがわれる通り、カルピスのルーツは中国東北部からモンゴルあたりの遊牧騎馬民族の発酵食品だそうで、箕面の浄土真宗の寺に生まれた主人公が戦前期に大陸に渡って日本語教員をしながら、モンゴルまで足を伸ばした経歴が下敷きとなっています。ただ、企業経営者としての活動の中心となる高度成長期以降は、さすがに、著者の専門範囲外なのかどうか、「今は昔の物語」の感があります。実際に、カルピスは企業としては味の素の傘下に入り、さらにアサヒビールのグループに売られたわけですから、評価はいろいろなんだろうという気がします。ただ、本書でも紹介されているように、市その昔に「初恋の味」というキャッチフレーズで宣伝され、国民の99.7%が飲用経験ある国民的飲料ですから、誰もが何らかの思い入れがある身近な飲み物ですし、親しみを持って本書を読む人も少なくないと思います。その昔、私などはカルピスを希釈して飲むという経験を持っていますが、20歳前後の我が家の倅どもなんぞはペットボトルに入ってストレートで飲むカルピスしか知らないような気もします。その時代の移り変わりを実感できる読書であろうと思いました。

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次に、尾脇秀和『刀の明治維新』(吉川弘文館) です。著者はポスドクの歴史研究者です。本書のタイトルは刀なんですが、あとがきにもある通り、帯刀という行為についての歴史的な位置づけや世間一般の受け止めの変遷について、戦国期から江戸期を通して明治初期の廃刀令までの期間です。当然、場所的には江戸や京といった大都会が中心なんですが、都市部からやや遅れがちな地方についても目を配っています。ということで、刀といえば、江戸期の前の豊臣秀吉のもとで刀狩りが実施され、支配者たる武士階級以外から武器を取り上げたんではないかと私は認識していたんですが、本書ではきっぱりと否定されており、江戸期は農民や町人も刀を所持していたと指摘しています。その上で、人に何らかの司令を下す立場にある豪農とか神職、あるいは、大工の棟梁や鳶職などはその立場を象徴する刀を帯びていた、との事実を史料から明らかにしています。しかも、そういった支配層だけでなく、一般大衆でも旅行中や正月などの非日常の場においては帯刀していた事実を確認しています。進んで、豪商がお上に寄進したり、何らかの寄付行為などで苗字帯刀が許されたわけですから、何らかの象徴的な身分標識としての帯刀行為を浮き彫りにしています。そして、上の表紙画像にある通り、明治維新からはその帯刀という行為がガラリと意味を変じたわけで、ザンギリ頭に洋装で刀を捨てて馬に乗った文明が、ちょんまげ和装で刀にしがみついた旧弊を見下ろしているわけです。手の平を返すように、帯刀という行為が権威の象徴や身分標章から、単なる凶器の携行と貶められた、と結論しています。まあ、そうなんでしょうね。

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最後に、有栖川有栖『インド倶楽部の謎』(講談社ノベルス) です。著者はベテランの領域に入りつつある新本格派のミステリ作家であり、本書は後期の作家アリスの火村シリーズの中でも特に人気の国名シリーズ最新刊です。7人のメンバーがインド、特にその思想的背景かもしれない輪廻転生で結ばれたインド倶楽部で、前世から自分が死ぬ日まですべての運命が予言され記されてインドに伝わる「アガスティアの葉」のリーディングの後に、関係者2名が相次いで殺されます。まあ、「アガスティアの葉」というのは、著者の独創なんでしょうが、アカシック・レコードの個人版みたいな位置付けなんでしょうね。それはともかく、舞台は神戸ですので兵庫県警の樺田警部、火村を快く思っていない野上警部補、遠藤刑事などが登場します。その昔の、名探偵、みなを集めて、「さて」といい、あるいは、名探偵コナンのように「犯人はお前だ」と指差すような派手なラストの犯人指摘を含む全貌解明シーンでなく、ページ数で真ん中あたりから少しずつ事件の概要が読者にも判るように手じされ始め、タマネギの皮をむくように一歩一歩すこしずつ事件の真相に迫りつつ、それでも、最後は驚きの結末が待っています。新本格派ですから、やや動機が軽く扱われていると感じる読者もいるかも知れませんが、謎解きとしてはとても良質のミステリです。

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