今週の読書は話題の『ホモ・デウス』ほか計9冊!
今週の読書は、話題のユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』上下ほか、フォーマルな経済書は少ないものの、量だけは10冊近く読みました。天候不順につき、今日はまだ図書館には行けていないんですが、来週は量的には少しペースダウンするものの、しっかりした経済書を借りる予定です。
まず、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』上下(河出書房新社) です。著者は歴史学を専門とするヘブライ大学の研究者です。日本で2年前に邦訳本が出版された前著の『サピエンス全史』はかなり流行った記憶があり、我が家の近くの区立図書館ではまだ予約の行列が長々とできていました。私のこのブログでは2016年10月1日付けの読書感想文で取り上げていて、「ジャレド・ダイアモンド教授の『銃・病原菌・鉄』をはじめとする一連の著書に似通ったカンジで、ハッキリいって、二番煎じの感を免れません」との酷評を下している一方で、本書との関係では、人類においては「虚構」が他人との協力を可能にし、他人との絆が文明をもたらした、と結論し、その「虚構」とは国家、貨幣、企業などなど、という点を評価しています。この点は本書でも同じように引き継がれています。すなわち、主観と客観と共同主観という3つの認識方法が示されています。典型的には貨幣、経済学では管理通貨制化の貨幣 fiat money ということになります。ということで、本書の流れに戻ると、冒頭で、その昔からの飢餓・疫病・戦争による死からは現代人は解放され、技術進歩とともに不老不死が達成された暁には、人類は神性を求める、というところからお話しが始まります。私はこの前提は「神性」という言葉の定義次第だろうと考えているんですが、私が読み逃したのでなければ、本書ではその定義は示されていません。ただ、私の考えでは人類が地球の生物のトップに立ったのは事実といえます。ただし、著者のいう「虚構」ではありませんが、マルクス主義的に考えれば、疎外は忘れるべきではありません。すなわち、人類=サピエンスが地球のすべてをコントロールできるわけではない、というのと同じレベルで、集団としての人類=サピエンスの行動もコントロールできな場合があり得ます。例えば、気候変動のようなマクロの問題は個々人のマイクロな意思決定が自由かつコントロール可能でも、マクロでは制御不可能かもしれません。そのあたりは、やや私にはまだ物足りない気もしますし、加えて、意識の問題をサピエンスの特徴と考えるのは異論がありそうですが、前著よりは格段に出来がよくなった気がします。ただ、地球生物の支配者となったサピエンスが、ほかの意識を持たない動物をどう扱ってきたかについての考察が、AIがサピエンスを上回る知性となった場合に援用されているのはとても秀逸な分析です。私はこれにはかなり同意します。
次に、スコット・ギャロウェイ『the four GAFA』(東洋経済) です。著者は、連続起業家(シリアル・アントレプレナー)として著名だそうで、いくつかの大学院でMBAコースの授業も持っているらしいです。本書のタイトル通りに、デジタル時代の4巨頭である GAFA (Google、Apple、Facebook、Amazon) を対象にしているんですが、このテの本はほとんど内輪誉めも含めて、これらの業績抜群のGAFAをほめたたえ、人事制度や事業化の過程や在庫管理やなんやかやについて日本企業もGAFAのマネをすべし、という内容だと考えていたんですが、本書はそうでもありません。すなわち、サクセス・ストーリーではなく、これらのGAFAの企業活動などについてはかなり懐疑的な見方が示されています。例えば、宗教に近いような崇高なビジョンを掲げつつ、利益、特に株主に還元する利益は軽視し、法律は抜け穴を見つけては無視し、競争相手は豊富な資金で踏みつぶし、コレクションという人間の本能を刺激して売りまくり、結果として、ほとんどの人を農奴にしてしまう、などの議論を展開しています。また、本書 p.289 では、これらGAFAの共通項として、「商品の差別化」、「ビジョンへの投資」、「世界展開」、「好感度」、「垂直統合」、「AI」、「キャリアの箔付け」、「地の利」8項目を上げています。特に、経済学的には「スーパースターの経済学」や「1人勝ち経済」などと呼ばれているデジタル経済の特徴のひとつを体現する企業と考えられているようです。もちろん、GAFAにとっては酷な物言いであり、デジタル経済の特徴を生かしつつ経済学が考える合理的な利潤極大化などの経済目標に向かう活動にいそしんでいるだけなんでしょうが、少なくとも結果として、格差の拡大などをもたらしていることは事実かもしれません。GAFAをはじめとするデジタル経済で大きな力を持ちつつある企業に対する国民からの注視に役立つかもしれません。しかし、最後の方にある個人の対処方法、すなわち、大学に行く、などはほとんど役立ちそうにない印象を持ったのは私だけでしょうか。
次に、藤原洋『全産業「デジタル化」時代の日本創生戦略』(PHP研究所) です。著者は、大学を卒業した後、日本IBM、日立エンジニアリング、アスキー、ベル通信研究所などでコンピュータ・ネットワークの研究開発に従事し、1996年に株式会社インターネット総合研究所を設立して現時点でも代表を務めていますが、私は専門外なのでビジネスの実態はよく知りません。本書では、現時点で想定可能な範囲で2030年を見通し、現在進行中のAIとIoTと5Gの活用により第4次産業革命が進み、我が国経済が大きく成長して2030年にGDP1,000兆円達するという楽観的なシナリオを提示しています。どうでもいいことながら、先週取り上げたニッセイ基礎研の「中期経済見通し」では予測期間最終年2028年度で680兆円弱の名目GDPを予測しています。それから、日本経済が長らく停滞して来たのは、私のようなリフレ派エコノミストが考える金融政策の失敗に起因するのではなく、政府が規制や保護で旧態依然とした産業構造を維持してきたため、アマゾンに典型的に見られるように外来種によって日本市場が席巻されたためである、と結論しています。まあ、そうよ移動が起こりにくくした政策動向は確かに私もあると考えていますので、判らないでもありません。話を元に戻して、本書では、具体的に、情報通信、流通、農業、金融・保険、医療・福祉などの産業分野において、ビジネス実態や企業がどう変わるか、何をすべきか、政府の規制緩和の動向、などをわかりやすく解説しています。第3章の企業のAIに関する取り組みなどは、専門外の私でも知っているいくつかの企業活動が取り上げられており、特に目新しさはない一方で、現時点における幅広いサーベイ、というか、極めて大雑把な産業や企業活動の概観が得られると思います。加えて、GAFAの企業活動を見るにつけ、第4次産業革命は早くも勝負が決まった、と考える必要は何らなく、これからが勝負なので、日本企業にも目いっぱいチャンスがある、というのは私も同感です。金融のFINTECHはやや怪しいですが、物流や医療介護などは我が国企業にとって得意分野ではなかろうか、という気は確かにします。
次に、ジェイムズ・グリック『タイムトラベル』(柏書房) です。著者は、よく判らないながら、どうもサイエンスライターのようなカンジで私は受け止めました。英語の原題も Time Travel そのもので、2016年の出版です。本書は、タイトル通りに、「タイムトラベル」をキーワードにしつつも、立体的で可視的な3次元空間と違って、目に見えない4次元目の時間について歴史的な考察を巡らせたエッセイです。ですから、第1章はタイムマシンから始まります。マシンものなしでタイムスリップする場合とか、その昔の米国のTV番組だった「タイムトンネル」のような構造物を別にすれば、私の貧困なる発想と想像力では、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のデロリアンか、ドラえもんのいかだのようなタイムマシンしか思い浮かびません。そして、時間を行き交いする以上、タイム・パラドックスも避けて通れません。これも発想と想像力貧困にして、極めて上手にタイム・パラドックスを処理した映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の例と、ホラー作家ですからディストピア的な仕上がりになるのは仕方ないスティーヴン・キングの『11/23/63』が印象に残っています。ということで、長々とした前置きを終えて、本書では歴史的に時間を考えていますが、近代的な時間感覚を一般大衆が持ち始めたのは、20世紀に入るころからであると本書の著者は指摘しています。そこにほどなく、相対性理論に基づく宇宙の時間をアインシュタインが持ち込み、宇宙というものを4次元時空連続体のモデルで計算できることを示したわけです。最後に、本書で指摘ないし取り上げている興味深い点を2つ上げると、タイムトラベルで標的にされやすいのはヒトラーらしいです。おそらく、近代以降でもっとも忌み嫌われている人物の1人であり、ヒトラーがこの世に生を受けなければ、もっといい世界が展開していたのではないか、と思わせるのかもしれません。そして、タイムトラベルを取り扱った日本の小説としては、民話レベルの「浦島太郎」を別にすれば、唯一、村上春樹の『1Q84』に言及がなされています。ここまで海外でも有名なんですから、早くノーベル文学賞を取って欲しいものです。
次に、戸田学『話芸の達人』(青土社) です。著者は、テレビやラジオの番組構成、映画や落語を中心とした著述で活躍しているライターのようです。上の表紙画像に見られる通り、関西で活躍した西条凡児と浜村淳と上岡龍太郎の3人の話芸の達人を取り上げ、昭和から平成の話芸史を跡付けます。そして、結論として、この3人の話芸のバックボーンは、西条凡児には落語があり、浜村淳には浪花節があり、上岡龍太郎には講談がある、と示唆しています。3人とも生粋の大阪人ではなく、西条凡児は神戸、浜村淳と上岡龍太郎は京都の出身であるとして、やや柔らかで上品な語り口の秘密のひとつとして上げています。西条凡児については、戦前戦後の転換点で権力への反骨精神を指摘しつつ、浜村淳については文章として書き下せば標準語となる言葉に対して、いわゆる「てにをは」を強調する関西風のアクセントを付けるのが特徴と解説しています。さらに、立川談志が上岡龍太郎の頭脳と感性を絶賛したとして、その尻馬に乗るがごとく、漫画トリオでいっしょに高座に上がった横山ノックへの弔辞を長々と引用し、「井原西鶴から織田作之助にまで見られる物事を饒舌に列挙して語るという大阪文学の特徴までも垣間見えた」と称賛を惜しみません。東京で同様の話芸といえば、永六輔や小沢昭一などが上げられそうな気もしますが、関西文化圏の話芸とどこまで比較できるか、は、私には判らないものの、現在でも落語が東京と上方で分かれているように、話芸もご同様かもしれません。最後に、実は、私も話芸の要求される職業に就いていたことがあります。それは大学教員です。初等中等教育の教員であれば、かなりインタラクティブな生徒とのやり取りを含みつつ、せいぜいが1時間足らずで授業が終わりますが、大学教員の場合は、規模の大きな教室の講義ではインタラクティブな学生とのやり取りもなく、ほぼほぼ一方的に1時間半、90分間しゃべり続けなければなりません。しかも、それを半年で15回、1年通じて30回の講義として一貫性あるものとする必要があります。ハリ・ポッターのシリーズでホグワーツで魔法史を教えるビンズ先生のように淡々と退屈な授業をするのもひとつの手ですが、それなりに学生の興味を引こうとすれば、教員の方でも話芸を磨く努力が必要かもしれません。私はしゃべる方はかなり得意でしたが、それでも、十分な準備が必要でした。
次に、辻村深月『噛みあわない会話と、ある過去について』(講談社) です。ご存じ、作者は売れっ子の小説家であり、本書は『かがみの孤城』による本屋大賞受賞後の第1作でもあります。独立した短編4編を収録しています。そして、ジャンルを問われれば、私はホラー小説であると回答しそうな気がします。学生時代に異性でありながら恋愛関係にはなり得なかった男性の友人が結婚するに当たって、その婚約者=配偶者に縛られていく様子を描いた「ナベちゃんのヨメ」、小学生のころに担任ではないながら少しだけ教えた記憶がある地味でおとなしい子がアイドルになってから母校を訪問した際の気まずい思いを取り上げた「パッとしない子」、成人式の着物の写真が変化して行って、その写真に整合的な人生を送るようになる「ママ・はは」、小学生のころの同級生が学習塾産業で大成功した後にミニコミ誌からインタビューに行き厳しい質問を受ける「早穂とゆかり」から編まれています。特に、「パッとしない子」と「早穂とゆかり」はモロに相手から詰め寄られるシーンが圧倒的で、「ママ・はは」は超自然現象的に写真が変化するとともに、真面目過ぎる母親がいなくなるという意味深長なフレーズに戦慄を覚えもしました。もちろん、「ナベちゃんのヨメ」には人間らしい自分勝手さがにじみ出ています。そして、何らかの対立、というか、対決も含めて二項対立がストーリーの中心にあるわけですが、西洋的な善悪の対立ではなく、コチラが悪くて、アチラが正しい、とかの明確な対立・対決ではありません。そこは東洋的、というか、日本的なあいまいさに包まれているんですが、こういった対立・対決の構図はまたまたホラーに見えてしまいます。ある意味で、読後感はよくありませんし、その辺に転がっている日常の風景でもないんですが、普通の人が普通の人の心を傷つけるということですから、我と我が身を振り返って何らかの身につまされる思いが起こらないと、逆に、アブナいんではないか、とすら思ってしまいます。
次に、周防柳『高天原』(集英社) です。表紙画像は少し見にくいかもしれませんが「たかまのはら」とルビが振られています。作者は、すでに何本かの小説を出版していますが、私の頭の中では、我が国の古典古代の時期を舞台とする時代小説家です。私はこの作家の作品は3作目ですが、六歌仙を取り上げた『逢坂の六人』と『古事記』を口承したといわれている稗田阿礼を主人公とする『蘇我の娘の古事記』の2作を読んでいます。そして、この作品はサブタイトルにもある通り、成文化された国史を編纂する、というか、国作りの物語を口承説話などから構成しようとする厩戸皇子=聖徳太子を主人公とし、その実務に当たる船史龍にも重要な役割を振りつつ、『天皇記・国記』と呼ばれる国史編纂事業に焦点を当てた時代小説です。しかし、厩戸皇子=聖徳太子はこの小説のラストから半年後に亡くなり、さらに、編纂所が設けられていたのは蘇我馬子の屋敷の別館なんですが、その馬子も亡くなり、『天皇記・国記』は未完のままに終わります。もっとも、イザナギ・イザナミによる国作りの物語やアマテラスの天孫が降臨して天皇家の始祖となる、などの国司の骨格は厩戸皇子=聖徳太子と蘇我馬子の会話で示されており、成文化された国史の書物、というか、その当時でいえば巻物こそ完成しなかったものの、国史のあらすじはこの時代に完成していた、という設定になっています。あくまで時代小説、すなわち、フィクションですから、どこまで史実に忠実かは不問としつつも、その昔に時代的にズレがあるとはいえ、1980年から1984年にかけて『LaLa』に連載された山岸涼子の『日出処の天子』を愛読した身としては、かなりいいセン行っているような気がします。私はこの作者の古典古代を舞台とする時代小説は引き続きフォローしたいと考えています。
最後に、安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書) です。本書ではできる限り混同を避けようという意図がよく理解できるんですが、それでも右翼と保守をかなりの程度に同じ意味で使っているような気がします。私は保守とは歴史をの流れを止める、ないし、逆周りさせるものであると私は考えているのに対して、右翼とは左翼の逆であるに過ぎません。もっとも、社会主義勢力に敵対するという点では同じです。ということで、本書では、昭和初期1930年代くらいからの右翼の歴史を追いつつ、もちろん、重点はタトル通りに戦後史にあるわけですが、終戦で神国日本が敗戦したわけですから、本書のいう通り、戦前の右翼は壊滅したといえます。そして、その後の右翼は天皇を中心に据える、さらに、反共ないし防共以外は何ら共通点がないと考えるべきです。憲法に対する態度、自衛隊や軍事力に対する考え方、在日朝鮮人や他の外国人に対する排外的あるいは許容的な態度などなど、天皇と共産主義に対する考え方以外は何ら共通点はありません。しかし、その上で、本書の著者は、まるで、戦前タイプの右翼が本筋で許容的なのに対して、現在のネトウヨに代表される排外的な右翼は、本筋ではないかのような視点を提供していますが、それはかなり本質を見誤った味方だと私は考えています。左翼がプロレタリアートの前衛部隊として社会主義革命から共産主義革命を先導するのに対して、右翼とはそれを阻止することを使命としています。ですから、歴史を逆回しにする保守と同じともいえるわけです。本書のハイライトは現在の政治シーンで隠然たる影響力を持つ日本会議ではなかろうかと私は期待していたんですが、一般的な右翼に流れすぎていて、かつ、戦前的な右翼と現在のネトウヨに関するまったく本質的でない議論にとらわれていて、期待は裏切られて失望を禁じえませんでした。
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コメント
おはようございます。さすが、列挙された本の範囲が広いですね。まずは「高天原」を予約しました。最近歴史が面白くなりましたので。
投稿: kincyan | 2018年11月 5日 (月) 11時40分