今週は、いろいろあって、時間的な余裕があり、テキストや学術書をはじめとする経済書など、小説まで含めて、以下の8冊を読んでしまいました。来週はもう少しペースダウンし、その先、3月になればもっと読書は絞り込んでいきたいと考えています。
まず、大垣昌夫・田中沙織『行動経済学』(有斐閣) です。2014年の初版に続いて、増補改訂版ということで新版としての出版です。著者のうち大垣教授は慶應義塾大学経済学部の、まさに、行動経済学の研究者であり、田中女史はニューロエコノミクスの専門家のようです。ということで、大学の学部後期の学生を大将にした行動経済学のテキストです。もちろん、大学や大学院のレベルによっては、大学院修士課程でも使えそうな気がします。どうでもいいことながら、私が地方大学の経済学部に出向していた折には、「経済財政白書」を学部3~4年生向けの副読本に指定していたんですが、教員によっては大学院修士課程や博士前期課程のテキストとして用いている場合もあると指摘された記憶があります。行動経済学に戻って、本書では、行動経済学について合理的な経済人を前提としない経済学、のように定義していますが、本書の著者も認めているように、合理的と経済人は同義反復であり、循環的な定義である気もします。まあ、それな目をつぶるとしても、合理的でない経済活動、あるいは、それを現実の実験で確かめる経済学ですから、かなりの程度に確率的な経済行動を前提とする点は、本書で何ら明記されていませんが忘れるべきではありません。本書では、支払い意志を表すWTPと放棄する代償価格を表すWTAの概念から始めて、もちろん、アレのパラドックス、ツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論、セイラーの心理会計、時間割引の指数性と双極性などに議論を進めつつ、プロスペクト理論の参照点の決まり方やシフトの可能性などについての疑問点も明らかにしています。そして、行動経済学の応用分野として幸福の経済学に言及しているんですが、私の常々の主張として、主観的な幸福度は経済政策の目標とすべきではないと、改めて強調しておきたいと思います。本書でもニューロエコノミクスの観点から、幸福度と脳内分泌物質、よく覚えていないんですが、ドーパミンとか、セロトニンとか、オキシトシンとか、の関係が分析されていますが、主観的な幸福度が経済政策の目標になってしまうと、こういった脳内分泌物を促進する薬物を配布するのが経済政策の目標になりかねません。ですから、この観点から主観的な幸福度を政策目標とするにはまだ議論が成熟していないと私は考えます。もう1点、本書の著者の1人はニューロエコノミクスの専門家なんですが、選択理論や幸福度の脳内反応を考える必要がどこまであるかについて、私はまだ疑問が大きいと感じています。別の表現をすれば、脳内活動がブラックボックスのままでも選択理論や幸福度を分析できるんではないか、と私は考えています。まあ、科学者の常として、可能な範囲ですべてを明らかにしたい、という欲求は理解しますが、神の視点は場合によりけりであって、人間の視点からはブラックボックスのままでも十分な分析に耐える場合が少なくないと私は達観しています。
次に、佐々田博教『農業保護政策の起源』(勁草書房) です。著者は北海道大学の政治学の研究者です。タイトル通りに、明治以来の農業政策を振り返り、現在のような農業保護政策の起源を探っています。その「起源」という場合、著者は明示していませんが、私には2種類の「起源」を探求している気がしています。すなわち、歴史上の起源と農業保護政策の依って立つ理論上の起源、すなわち、本書の用語でいえば、合理的選択論か構造主義制度論か、ということになります。本書では理論上の「起源」というか、根拠については前者の合理的選択論は、役所の直接的なグリップによる政策を実行していないことを論拠に否定的な見方を示しています。そして、本書のスコープは第2時世界大戦までで、そこで少し前までの食料乖離制度が確立した、ということになっていますが、基本的に、第6章でも明らかにしているように、戦前と戦後は連続説に近い見方が示されています。私のようなエコノミストの目から見て奇異に感じたのは、本書の議論はもっぱら政策決定過程だけに着目していて、そのバックグラウンド、すなわち、農業政策に関していえば、食料需給やその価格、あるいは、輸出入と貿易収支などです。私の直感では、戦前は「糸を売って米を買う」貿易でしたし、戦後の現在まで「車を売って油を買う」貿易です。ですから、貿易による輸出入は見逃してはならない視点ですし、需給に従い価格の動きも忘れるべきではありません。わずかにそれに目が届いているのが第4章冒頭の米価に関する部分です。そして、結論としては、小農主義と協同主義が結合して、徳川期までほぼ自給自足だった農業ないし農村に資本主義の波が押し寄せ、農業ないし農村が搾取され疲弊していることから、優秀な軍人の調達にも絡めて、農業ないし農村における資本主義を改造しようという試みではなかったか、との議論を展開しています。しかし、本書でもさすがに何度も繰り返されている通り、農村の疲弊の大きな要因のひとつであった不在地主による寄生的な地主制度については、一向に農政としては手がつけられず、結局、敗戦とGHQによる農地改革を待たねばならなかったわけですから、大きな視点が見逃されている気がします。そして、農政に限らず、例えば、間接金融とメインバンク制とか、長期雇用と年功賃金とかの労働慣行、などは戦後の高度成長期に取り入れられ確立された制度ないし慣行であって、戦前まではバリバリの直接金融でしたし、雇用システムは解雇が容易な現在の米国に近かったようですから、農政についても戦後の鉄の三角形、すなわち、与党=自民党vs農林省vs農協という三すくみの構図が出来上がったのも、本書のスコープ外の戦技高度成長期なんではないか、という気がしないでもありません。
次に、久保田進彦・澁谷覚『そのクチコミは効くのか』(有斐閣) です。著者は青山学院大学と学習院大学のマーケティング論の研究者です。コンパクトながら、本書はほぼほぼ完全な学術書と考えるべきで、科研費ではないものの、研究と出版の助成を受けています。特に、クチコミの中でも、伝統的なフェイス・ツー・フェイスの伝達ではなく、インターネットの掲示板やSNSなどを介した情報の拡散に焦点を当てており、架空のオンライン英会話レッスンのクチコミを設定して、実験を行った結果得られたデータを解析しています。何分、実際の市場に投入されるサービスを基にしたマーケティングに関する実験ですので、モデルの設定がとても判りやすく、Rhatで1.1かつトレースプロットにドリフトの非定常性が見られないことをもって収束とするなど、常識的な分析を行っています。まあ、当然といえば当然です。分析結果も常識的であり、従来から確認されている正負のバランス効果、すなわち、多数意見に同調しやすく、自らの意見が多数派であることを確認できればその態度が強化されるという点は確認され、次いで、プラットフォーム効果、すなわち、クチコミは広告よりも信頼度が高く、また、プロモーション型のプラットフォームよりもソーシャルなプラットフォームの方に信頼感を覚える、というのも当然です。この研究のオリジナルな点は、疑念効果を確認できたことだと著者は主張しています。すなわち、100%肯定的なクチコミに比較して、50%肯定的なクチコミは、むしろ、否定的なクチコミを抑えて、あるいは、隠しているのではないか、という疑念を起こさせる、という仮説であり、それが実証されています。とても興味深い点です。コマーシャルなどでは、対象となる商品ないしサービスが何らかの、あるいは、絶大なる効果があった、という体験消費者のクチコミを伴う場合、例えば、オンラインECサイトのレビューなどで、否定的なクチコミが交じると、実はもっと否定的な口コミがあって、隠されているんではないか、という疑念を生じる可能性です。しかも、この疑念効果は教育程度の高い人ほど生じやすい、とも分析されています。そうかもしれません。最後に、定量分析ならぬ私の実感ながら、我が国のマーケティング、というか、宣伝広告はまだ未熟な面があり、典型的にはその昔の「霊感商法」的に消費者の恐怖、とまでいわないにしても、何らかの不都合な意識を呼び覚まして売りつけようと試みる場合が、いまだに散見されます。特に健康関係では、血圧が高いとか、コレステロールがどうとか、何らかの消費者の持つ不都合な点を改善するような効果を持つ商品やサービスを宣伝広告することが少なくないように実感します。クチコミを含めて、何らかのネガティブな状態を回避するためではなく、ポジな広告宣伝を私は求めたいと思います。
次に、笹原和俊『フェイクニュースを科学する』(同人選書) です。著者は名古屋大学の研究者で、専門分野は計算社会学だそうです。タイトル通りに、コンパクトなファイクニュースの拡散に関する入門書となっています。おそらく、伝統的な新聞やテレビ・ラジオなどのメディアには、従来はとても少なかったと考えられるフェイクニュースについて、特に、インターネット上に出回る虚偽情報を騙そうとする意図の強弱によって分類したりしつつ、虚偽情報と一般的な科学情報の拡散の確率密度関数を時間とともに積分したりと、分析手法を展開し、さらに、最終的にはそのフェイクニュースへの対応方法について、メディアリテラシーやファクトチェックによる対抗手段なども議論しています。基本は、私の知る限り、ダンカン・ワッツ教授などの「スモール・ワールド」的なマーケティング手法を政治的なものも含む形で応用させたんだろうという気がしますが、もちろん、伝統的な人は見たいものしか見ないバイアスとか、確証バイアスとか、ネット上の虚偽情報とは関係なく、昔からの人間の心理学上のバイアスはもちろんある一方で、特にネット上で加速・増幅されるチェンバーエコーやフィルターバブルなどのお馴染みの現象も取り上げられています。すなわち、こういったフェイクニュースが広がる現象を、情報の生産者と消費者がさまざまな利害関係の中で、デジタルテクノロジーによって複雑につながりあったネットワーク、つまり、情報生態系(Information Ecosystem)の問題として捉え、その仕組みについて紐解いています。これら中で、私がやや怖いと感じたのは、事実よりも虚偽情報の拡散の方が早く、広く、深い、という実証的な結果です。SNSから得られるビッグデータを用いて、いわゆるビッグファイブの神経症的傾向、外向性、開放性、調和性、誠実性が会う程度予測される、というのは私の理解の範囲だったような気がしますが、本書の著者が指摘するように、ボットや人工知能を逆に国家が悪用して民主主義が破壊される可能性までは想像していませんでした。情報が過多となり、情報折もむしろ人間のアテンションの方が希少になるアテンション・エコノミーがこれから先進むと考えられる中で、消費における購買活動は企業に操作され、投票などの政治的な参加行為も国家に左右されるとなれば、我々一般ピープルは何を根拠に行動すればいいのでしょうか。とても、ブラックな将来が待っているとは思いませんが、本書では何ら言及されていませんでしたが、単に情報に操られるだけではなく、主体的な判断を下すために、いわゆる「健全な常識」というものの重要性を改めて感じました。
次に、マーク・フォーサイズ『酔っぱらいの歴史』(青土社) です。著者は、ジャーナリストないしライターという感じの経歴です。上の表紙画像に見られる通り、英語の原題も A Short History of Drunke であり、日本語タイトルはほぼほぼ直訳で、2017年の出版です。有史以前の酔っぱらいから始まって、インドを除く世界の古代文明、すなわち、メソポタミア、エジプト、中国における飲酒と酔っ払い、もちろん、古典古代のギリシアやローマにおける饗宴、さらに、中性的な暗黒時代を経て近代にいたり、米国の禁酒法までの酔っぱらいや飲酒の歴史を概観しています。歴史的にはワインやエールのような醸造酒から始まって、ブランデーやウィスキーのような蒸留酒、もちろん、忘れてならないのはジンとウォッカですが、お酒の種類も豊富に取り上げられています。ただ、西洋中心史観であるのは否めず、登用についてはインドはスッポリと抜け落ちていますし、中国も古代文明のころの飲酒だけで、日本や日本酒は見向きもされていません。イスラムの飲酒については、そもそも飲酒が禁止されるまでの経緯を簡単にあとづけた後、飲酒が禁止されてからのさまざまな抜け道を示したりしています。基本的には、そういった井戸端会議でのトピック的な内容がギッシリと詰まっています。例えば、ギリシアの饗宴は名目的なホスト役は置くものの、参加者がそれぞれに平等だったが、ローマの饗宴はハッキリと順序序列が定められており、酒や食べ物にも差があった、とか、英国の名誉革命において君主がオランダから輸入されるとともにジンもオランダから英国に入ったとか、などなどです。また、著者は明記していませんが、私の理解によれば、エールにホップを入れてビールにするのは、ちょうど時代背景などから、肉に香辛料をふりかけるようなものだと実感していまいました。米国における禁酒法の制定・施行は、飲酒に対する嫌悪感からではなく、サルーンにおける男性中心主義的な飲酒慣行や家庭内暴力などに対して反旗を翻していたのである、といわれれば、そうかもしれないと感じてしまいました。私自身はそれほど酒飲みではありませんが、それなりに飲酒の楽しさも知っているつもりですので、とても話題性豊かな読書だった気がします。
次に、A.R.ホックシールド『壁の向こうの住人たち』(岩波書店) です。著者は、カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレー校の名誉教授であり、フェミニズム社会学を専門としてます。ファーストネームがイニシャルだけなので判りにくいんですが、女性です。そして、ついてながら、UCバークレイは少し前の我が母校の京都大学のように、米国の中でもリベラル左派の研究者が多く集結する大学である、と目されています。本書でも、右寄りの人から「ヒッピーの大学ね」といった発言を受けたりしています。ということで、英語の原題は Strangers in Their Own Land であり、2016年の出版です。フィールドワークに5年ほどかけているようですので、2016年の大統領選でトランプ大統領が当選したこととは直接の関係はないのではなかろうかと私は推測していますが、随所にトランプ大統領の当選と関連付けた記述が見られます。やや、便乗商法の匂いがするかもしれません。ですから、トランプ大統領の当選の基盤となったのは、中西部のいわゆるラストベルトなんですが、本書のフィールドワークの舞台はディープサウスのルイジアナ州です。まあ、それでも、いくつか米国にける右派の台頭に関しては妥当な分析結果も多く示されており、例えば、左右の分極化は左派がもっと左に行ったのではなく、右派がもっと右に行った結果であるとされています。私もそのとおりと考えます。現在では「オルタナ右翼」ないしオルト・ライトという用語が確立していますが、そのオルト・ライトの源流を探ろうとしています。そして、オルト・ライトの人々は、リベラルよりもむしろ、学歴が低く、従って、所得も低く、あるいは、シングル・マザーも多く、ゆえに、社会保障をより必要としていて政府の援助を求めて当然なのにもかかわらず、それでも大きなsウィフに反対するというパラドックスが存在すると指摘し、その背景のディープストーリーを探ろうと試みます。ひとつには、左派の上から目線で軽蔑されていると感じた右派の人々が、右翼的なラジオのパーソナリティや教会の聖職者に親近感を覚えたりするルートを上げています。自分たちはお行儀よく列に並んで順番を待っているにもかかわらず、オバマ大統領や左派リベラルの人たちは移民や黒人や女性が列に割り込むように仕向けている、と感じているのかもしれない、と著者は主張します。繰り返しになりますが、トランプ大統領当選の直接の要因を探ろうとした調査分析ではありませんが、南部を中心とするオルト・ライトのバックグラウンドを知るための詳細なルポルタージュとして評価されるべき書だと私は思います。何といっても、直接選挙なんですから。
次に、バンディ・リー[編]『ドナルド・トランプの危険な兆候』(岩波書店) です。編者と各チャプターの著者の多くは精神科の医師であり、タイトル通りに、米国のトランプ大統領に関して精神科医師としてコメントを明らかにしている書物です。核ミサイルの発射ボタンに対する独占的・排他的かつ圧倒的な権能を有し、そのた、各種の巨大な権力を手中に収めた米国大統領として、広い意味での適格性では決してなく、精神科医としての見解を明らかにしています。軽く想像される通り、その結果は、ソシオパス=社会病質という診断結果から始まって、病的ナルシシズムや刹那的快楽主義者など各種の精神病質のオンパレードになっています。ということで、本書は、リフトン博士やハーマン博士などの海外でも著名な専門家を筆頭に、全米から精神科医・心理学者たちが、アイビーリーグの名門イェール大学で行われたコンファレンスで交換された意見を基に編集されています。しかし、医師が患者の病状を明らかにするのは、当然に、守秘義務違反であることは先進国で共通とは思いますが、米国の精神医学会では、加えて、ゴールドウォータールールとして、直接診断していない有名人に対して精神科医がコメントを出してはいけないという倫理規定があるそうで、それに明確に反している可能性も本書では繰り返し指摘しつつも、それでもその職業倫理規定に反してでも警告を発することが必要であり、より「大きな利益」につながる、と確信して本書は公刊されています。もちろん、臨床的にトランプ大統領を専門家として診断した精神科医はいないでしょうから、テレビなどの動画や新聞などのテキストで収録された発言などから、精神状態やひいてはかなり人格に近い部分まで推測を交えつつも断定的な結論を得ようとしています。ゴールドウォータールールとは、本書にもあるように、ジョンソン大統領との選挙戦において共和党のゴールドウォーター候補が、ソレントの冷戦下で核兵器の使用を是認する発言を繰り返したのをもって、パラノイアもしくは妄想型統合失調症の診断を下した何人かの精神科医の意見を収録した雑誌が裁判で敗訴した事件に起因します。ですから、核兵器を持っていながら使わないのは意味がないとの旨の発言をしたトランプ大統領もご同様の診断を下される可能性はあるわけです。私自身の見方としては、ゴールドウォータールールと職業倫理との関係については見識ないものの、トランプ大統領ご本人というよりも、当選者は選挙民の民度を反映するわけですから、トランプ大統領を当選させた米国国民こそ何らかの精神医の診断が必要ではないか、という気がします。
最後に、上田早夕里『破滅の王』(双葉社) です。作者は、私の好きなSF作家なんですが、イタリア料理店を舞台にした短編もありますし、この作品はで戦時下の上海を舞台に細菌兵器のドキュメンタリに近い小説に取り組んでいて、この作品は直木賞候補になったような記憶があります。ということで、1948年、上海自然科学研究所で細菌学科の研究員として働く宮本を主人公とし、陸軍の特殊工作部隊に属し大使館附武官補佐官を務める灰塚少佐をサブに、灰塚から宮本が日本総領事館に呼び出され、総領事代理の菱科とともに、重要機密文書の精査を依頼されるんですが、その内容は驚くべき内容で、R2v=キングと暗号名で呼ばれる治療法皆無の細菌兵器の詳細であり、しかも論文は、途中で始まり途中で終わる不完全なものだったうえに、ほかのパーツが他国の公館にも送付されていたりしました。宮本は治療薬の開発を任されるものの、それは自国の兵士が安全に散布できるという意味で、取りも直さず、細菌兵器を完成させるということを意味していたわけです。もちろん、背景には人道にもとる人体実験を繰り返していた満州の石井部隊があり、ご本人もこの小説に登場します。そして、実在の石井にも負けないくらいのマッド・サイエンティストが登場し、灰塚は情報を追ってベルリンまで行ったりもします。そして、ベルリンにもマッド・サイエンティストがいたりするわけです。この作者の作品では、SF小説とイタリア料理店ものしか読んだことのない私なんですが、作者の新境地かもしれません。なかなか、力の入った大作なんですが、それだけに、逆にスピード感が足りない気もしました。歴史的事実とフィクション、というか、小説の境目を意図的にぼかしている気もしますが、それはそれで、功罪相半ば、という気もします。直木賞候補作ながら、受賞に至らなかったのも理由があるのかもしれません。
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