今週は、まさに定年退職直前で仕事があろうハズもなく、時間的な余裕がたっぷりありましたし、そろそろ官庁エコノミストではなくなることから、経済に限定せずに幅広い読書に努めたこともあり、いろいろと古典的なミステリなんぞも読んで、以下の通りの計9冊です。
まず、国友直人・山本拓[編]『統計と日本社会』(東京大学出版会) です。編者や著者は経済統計の研究者や専門家であり、第Ⅲ部の公的統計改革では官庁統計担当感やその経験者などの実務家も執筆に加わっています。ということで、今国会での大きなトピックとして、厚生労働省作成で賃金動向などを調べている毎月勤労統計の不正問題がありますが、とても皮肉なことに、不正問題に相応して統計の重要性がクローズアップされています。私も総務省統計局に出向して消費統計の担当課長を務めた経験がありますし、その何台かあtの高2が本書第11章の執筆に当たったりしていますが、統計が着実にそのマニュアルに基づいて公表されている際には、注目はされても問題にはならないものですが、やや不思議な動きを示して、さらに、それが統計作成上の不正に基づく可能性があれば、今回のような大問題になるわけです。役所の仕事はある麺でそういった部分があり、着実かつ堅実の遂行されているのが当然であって、問題がある方がおかしい、ということなんでしょう。ただし、インフラとしての統計については、中等教育から高等教育にかけて統計が生徒や学生にリテラシーを高めるべく教えられ、政府統計を担う組織や職員が必要に応じて整備される、等々の前提がキチンと整えられないと機能するわけはありません。ITCHING技術の進歩により、ハードウェアはムーアの法則に従った指数関数的な伸びを示し、ソフトウェアについてもそれに従った進歩を遂げている現在、教育現場での若い世代のリテラシーの涵養や、公的部門たる政府や業界団体などでそれにふさわしい体制整備が行われていないと、データをプロセスした結果たる統計の作成や利用が進むハズもありません。私はその意味で、身近な地方公共団体における統計主事の必置義務が、行政改革の一環として廃止された1989年(だと思うんですが、やや自信がありません)の制度改革の影響は無視できないと思いますが、残念ながら、それに言及した分析は本書では示されていません。また、公的統計に限らず、マーケティングにおけるデータにしても、本書で指摘されているようなビッグデータの高解像度、高頻度、多様性豊かなデータの利用が限られたインターネット企業にしか出来ない事実も、独占との関係においてもどこまで許容すべきか、との議論も興味あるところです。Googleのチーフエコノミストに転じたハル・ヴァリアン教授がマッキンゼイ・クォータリーで「今後10年でセクシーな職業は統計家である」と発言したのは2009年で、私が統計局に出向していたのは2010~13年の3年弱ですが、そのころは、まだ統計の重要性については萌芽的な認識しかありませんでしたが、統計偽装問題を経て、統計の我が国における重要性が改めて認識された現在、本書の指摘はもっと国民各層に共有されて然るべきではないか、と私は考えています。
次に、末廣昭・田島俊雄・丸川知雄[編]『中国・新興国ネクサス』(東京大学出版会) です。著者・編者は東大社研のグループではないかと私は想像しています。改革開放路線を取ってからの中国の経済発展はめざましく、GDPで測った経済規模ではすでに我が国を凌駕し、購買力平価ベースでは米国を上回っている可能性すらあります。その中国が共産主義というイデオロギーではなく、経済、特に貿易や投資という実利の世界で新興国や途上国とのリンケージを強めていて、米国の世界的な覇権を揺るがしかねない、という認識が広まっています。ただ、19世紀的なパクス・ブリタニカや20世紀のパクス・アメリカーナと違って、中国は世界の政治経済の秩序、特に自由と民主主義と多様性を許容する世界秩序の擁護者ではなく、自国、あるいは、中国共産党の利益のためであるという点は忘れるべきではありません。本書ではそこまで明確に指摘しているわけではなく、ほのかに示唆しているだけですが、本書冒頭でツキディディスの罠として、新興リーダーたる中国が旧来リーダーである米国に対抗して戦争になる可能性を指摘しているのは、ややミスリーディングです。一昔前の我が国と同じで、現在の中国は、経済的な利益の追求はしても、政治的あるいは軍事的な覇権を求めているとは私にはとても思えません。ですから、本書でも視点は経済面に集中し、貿易と投資による新興国や途上国と中国との関係を明らかにしようと試みています。ですから、本書でも指摘しているように、アイケンベリーのように米国の構築してきた世界的な制度的秩序が継続するという見方とイアン・ブレマーのようにGゼロという多極化世界が現出するか、という2つの見方は相反するのではなく、経済的にはブレマーの見方が成り立つ一方で、政治外交・軍事的にはアイケンベリーに軍配が上がると考えるべきです。そのうえで、本書の指摘するように、経済的には中国の台頭により米国一極集中ではなく多極化した経済構造になりつつありますが、中国の貿易は一昔前の我が国と同じで水平分業的な構造となっており、途上国や他の新興国からエネルギーや原材料を中国が輸入し、逆に、中国からは工業製品を輸出する、という貿易構造が形成されています。さらに、投資面でもアジアインフラ投資銀行(AIIB)などをテコとして、途上国や新興国のインフラを整備するために、中国の「2つの過剰」、すなわち、貿易黒字の裏側で積み上がっている外貨準備の過剰、そして、共産主義に基づく計画経済が解消を目指した生産過剰、特に鉄鋼やセメントなどのインフラ整備に用いられる素材の生産過剰を解消するための新興国・途上国とのリンケージを中国が築こうとしている可能性を忘れるべきではありません。
次に、ゲアリー・スミス『データは騙る』(早川書房) です。著者は米国カリフォルニア州のポモナ・カレッジの研究者で専門は経済統計学のようです。英語の原題は上の表紙画像にも見られるように Standard Deviations であり、直訳すれば標準偏差ですから、データの散らばりの度合いということになります。2014年の出版です。ということで、最近の国会論戦では厚生労働省の毎月勤労統計の改ざんが頻繁に取り上げられており、アベノミクスの成果として統計を改ざんして賃金が上昇したように見えかけたのではないか、との質疑をよく見かけました。私も統計局の消費統計担当課長として3年近く出向していましたが、統計に問題がないとはいいませんが、悪質な改ざん、意図的なごまかしはなかったと断言できます。ただ、本書では、そういった意図的なごまかしの手法についていくつか取り上げ、さらに、データ情報の誤った解釈に基づく誤った結論の導出に警鐘を鳴らしています。繰り返しになりますが、著者のご専門である経済分野とともに、スポーツや医療のデータも豊富に実例として引用し、身近で判りやすい例がいっぱいです。特に、本書冒頭で強調されている通り、何らかのパターンを見出してしまう傾向には注意が必要です。コイントスでオモテが出続けているので、次もオモテだろうと考える順張りの発想も成り立てば、そろそろウラが出るとする逆張りの発想も飛び出します。しかし、ホントのところはランダムにオモテウラが出ているのであって、コイントスには決してパターンなどは存在しない、という正解を忘れている場合が多いのは確かです。そして、理論なきデータとデータなき理論の両方は危ういと指摘し、データから理論モデルを組み立てる重要性を論じています。つまるところ、科学と言うんは自然科学にせよ、社会科学にせよ、先週取り上げた『FACTFULNESS』ではないんですが、ファクトたる事実を観察して、それらに共通するパターンを見つけ出し、その理論モデルの適合性を追加データで検証する、というのがもっとも基本となるわけですから、何らかのパターンの想定は必要なんですが、そのパターンに無理やりに合致するデータを集めようというのは統計の改ざんにつながりかねない思考という気もします。パターン化の誤謬のほかにも、交絡因子や生存バイアスなどなど、陥りやすいデータの見方の失敗例を数多く取り上げています。ただ、データ分析の専門家に意図的にデータをミスリードするように見せられたら、それを見破るのはそう簡単ではないと実感しました。
次に、三浦信孝・福井憲彦[編著]『フランス革命と明治維新』(白水社) です。編著者は東大西洋史学科系統の研究者であり、本書は昨年2018年が明治維新150年であったことを記念して開催されたシンポジウムの発表論文を取りまとめたものです。そのシンポジウムにおいては、明治維新とフランス革命を対比させる試みがなされ、フランスからも研究者を招聘しています。ということで、明治維新を考える際に常にトピックとなるのは、明治維新がブルジョワ革命であって、権力が新興の産業ブルジョワジーに移行したため、社会主義革命が次のステップとする労農派の立場を正しいと考えるのか、それとも、明治維新は封建制の払拭に失敗した不徹底なブルジョワ革命であって、社会主義革命に先立って民主主義革命が必要であり、それに引き続いて社会主義革命が起こる、とする二段階革命説に立つ講座派を正しいと見るか、です。本書では明確に前者の労農派の立場に立っています。一方、何度かこのブログでも書きましたが、寄生地主制の広範な残存やそれがための戦後GHQによる農地改革の実行などに見られるように、私は講座派の見解を支持しています。ですから、かなり根本的な部分で、本書と私は明治維新に対する見方が違っています。それを前提としつつも、まずまず、明治維新とフランス革命に関する対比はよくなされている気がします。例えば、対外的なプレッシャーに関してですが、明治維新は黒船来週に対応する国内政治の動向がヒートアップした結果として生じており、明らかに対外要因に基づく革命である一方で、フランス革命については国内要因に基づき、いわば、自然発生的に生じていますが、逆に、その革命の動きが対外的な軋轢を生じてナポレオンによる対外遠征の原因となっています。日本でも、明治維新後に征韓論が台頭し、西郷が政府から離れるきっかけになったことは歴史的に明らかですが、最終的には西南戦争により国内問題として処理されています。明治末期の日清戦争や日露戦争は、鎖国を廃止して対外開放を実行したという意味のほかは明治革命とは直接の関係なく、むしろ、植民地獲得のための帝国主義戦争ともいえます。加えて、日本でも徳川期の士農工商が四民平等に取って代わったわけで、いわゆる二重の意味で自由な市民が誕生しています。さらに、日本においては封建的な重層的な土地所有を地租改正により一気に一掃したわけで、その裏側で担税力ある寄生地主の存在を許したわけです。ただ、産業資本は育つ余地に乏しく、地租改正などによる税収を上げた上で、その財政的な余裕を生かして、八幡製鉄のような官営工場を設立して産業資本の育成に努めた、この土地所有における強固な寄生地主の存在と産業資本の不足が明治維新をして不徹底なブルジョワ革命ならしめた、ということなんだろうと私は考えています。本書の見方とは異なります。念の為。
次に、木畑洋一『帝国航路(エンパイアルート)を往く』(岩波書店) です。19世紀後半の明治維新を経て文明開化と呼ばれる富国強兵策を展開する明治期の日本に対して、まさに、パクス・ブリタニカと呼ばれるこの世の春を謳歌していた英国の帝国航路、すなわち、英国からフランスのマルセイユ、エジプトのスエズ、アラビア半島のアデン、インドないしセイロン、シンガポールから香港や上海に通ずる東西の交易路を紹介しています。時代的なスコープは19世紀半ばから第2次世界大戦前までとなっています。この時期、我が国からは欧米に外遊や留学に向かうエリート層が少なくなく、米国向けに太平洋を渡る場合はバツにして、欧州向けに旅立つ場合はこの帝国航路は大陸経由のシベリア鉄道ルートとともに、主要な経路となっています。ただ、NHK大河ドラマ「いだてん」でも用いられたシベリア鉄道ルートと違うのは、帝国航路ではアジア各国の港町を通る点です。ですから、この時期の大きな特徴として、帝国主義的な植民地化の機運とも考え合わせ、本書で何度も指摘しているように、文明開化された英国や欧州の人々と違って、アジアの中国人やインド人などは野蛮・未開で、肌の色が黒くて悪臭を放っているとして、かなり大きな差別感情をむき出しに見ている日本人エリートが多かったようです。そして、アジアが欧州の植民地となるのはほぼ自業自得であり、怠惰で迷信深く野蛮・未開なアジア人は土人であって、勤勉で生産性高く科学的な知見を有している文明人たる欧州に支配されるのは当然、との見方が示されています。そして、その先には、アジア解放の名の下に、欧州の支配に代わって我が国がアジアを支配するようになる道筋が暗黙のうちに想定されていたように思います。実は、今世紀初頭2000~03年に私の仕事の都合により、一家でジャカルタに滞在して帰国した折、まだ生きていた私の父親が、その昔の戦後に南方から帰国した軍人などがいわゆる「南洋ボケ」とか、「南方ボケ」といわれるような、価値観や思考パターンに少しズレを生じていたことを指摘してくれました。我が家の帰国直後に父は亡くなりましたので、父が私やカミさんを見てどのような「南洋ボケ」の判定を下したのかは不明ですが、直感的に私にも理解できるものがありました。昭和一桁の私の父でも、アジア人に対するそれなりの偏見があったのですから、本書のスコープである19世紀的な時代背景では、それなりの偏見があったのも仕方なかったのかもしれません。
次に、石平『中国人の善と悪はなぜ逆さまか』(産経新聞出版) です。現代中国における腐敗の問題から始まり、一般的社会的な贈収賄の腐敗行為は糾弾されるべきであるにもかかわらず、自分の家族が収賄していい生活を遅れるようになるのは歓迎したり自慢したりできる「全家腐」という善悪の逆転について、その真相を解き明かそうと試みています。すなわち、「宗族」という日本にはない考え方があり、家族のもう少し大きな親類縁者をさらに拡大したような同族関係で成り立つ少国家的な集団、立法や行政や司法の三権も講師しかねない集団である「宗族」について解説を加えています。私は十全に理解した自信はありませんが、血縁でつながったインナーサークルのようなものなんだろうと思います。他の「宗族」と武力抗争もすれば、その集団から科挙合格者を出して栄華を極めたりといったところです。そして、その「宗族」の外の集団に対しては徹底的に残忍になるということなんですが、それはキリスト教徒でも同じことで、殺すなかれとか盗むなかれは同じキリスト教徒の間でだけ通用する戎であり、異教徒は殺してもよいというのがキリスト教ですから、動物一般の殺生も禁じる仏教とは違います。ただ、本書を読んでいて、私の理解が及ばなかった点は、共産党政権の成立に伴って、この「宗族」が徹底的に破壊されたにもかかわらず、人民公社の活動とともに復活を果たした、という点です。人民公社を乗っ取る形で「宗族」が復活したとされているんですが、鄧小平による人民公社解体後も「宗族」がさらに拡大しているようで、なかなか私のような凡人には理解が及びません。でもまあ、何となく中国的な前近代性を垣間見たような気もします。体制が民主的な共和制であろうと、独裁的な共産制であろうと、やや偏見が入っているかもしれませんが、中国という国の本質、あるいは中国人の本性といったものは、4000年の歴史の中でそれほど大きく違わない、ということなのかもしれません。
次に、レイフ G.W. ペーション『許されざる者』(創元推理文庫) です。著者はスウェーデンを代表するミステリ作家のひとりでありますが、何と、本書は邦訳第1作だそうです。上の表紙画像に見えるように、スウェーデン語の原題は Den Döende Detectiven であり、2010年の出版です。繰り返しになりますが、この作者の初の邦訳です。ということで、元警察庁の長官であり、凄腕の刑事だった主人公が脳こうそくで倒れた際に、その主治医からすでに時効となった事件の犯人についての示唆を受け、同じく引退した刑事仲間とともに再捜査に当たる、というストーリーです。そして、タイトルの「許されざる者」というのは、ズバリ、小児性愛者のことです。私は自他ともに認める知性派の異性にひかれる男ですので、いわゆるロリコンとはかなり遠い距離感を持っているんですが、確かに、大人の女性がいうことを聞いてくれないなどの理由で少女性愛に走る男性は少なくないような気もします。しかも、本書では被害にあった少女の父親がスウェーデンから米国に渡って大成功した大金持ちであり、小児性愛者に私的な制裁を加えている疑いありとされていて、かなり複雑なストーリー展開を示しています。さらに、私がもっとも不自然と感じるのは、すでに時効となった小児性愛犯罪の犯人の特定が、匿名のタレコミによるもので、その裏付けが超法規的なDNA鑑定ですから、やや例外的な事実判明としか思えません。ミステリとしては反則スレスレ、という気もします。でも、一枚一枚タマネギの皮をむくように真実が少しずつ明らかにされていく過程は、作者の小説家としての力量が示されていて、私ですらとても評価できるものだると理解しました。その意味で、プロットはともかく重厚なミステリ描写を楽しむことのできる読書でした。
次に、エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの冒険』(創元推理文庫) です。1934年出版本の新約です。著者は紹介の必要もないでしょう。本格ミステリの王者ともいえます。本書には、「アフリカ旅商人の冒険」、「首吊りアクロバットの冒険」、「一ペニー黒切手の冒険」、「ひげのある女の冒険」、「三人の足の悪い男の冒険」、「見えない恋人の冒険」、「チークのたばこ入れの冒険」、「双頭の犬の冒険」、「ガラスの丸天井付き時計の冒険」、「七匹の黒猫の冒険」、「いかれたお茶会の冒険」の11話が収録されています。タイトルからも伺えるように、シャーロック・ホームズの短編からの影響も強く見られ、ナポレオンの彫像に黒真珠を隠すのに対して、売れない本にめずらしくて高価な切手を隠すとか、いろいろとあります。でも、時代背景とともに、英国と米国の違いもあり、やっぱり拳銃が多用されている気がしますし、その当然の帰結として殺人事件の比率が高い気もします。チャーミングな女性も数多く登場させますし、まあ、総じてやや現代的な色彩がホームズ譚よりも強いのは当然でしょう。
最後に、G.K. チェスタトン『奇商クラブ』(創元推理文庫) です。これも1905年出版の古典的な短編集です。チェスタトンはブラウン神父シリーズでよく知られているわけですが、そのブラウン神父ものの前に出版されています。「ブラウン少佐の途轍もない冒険」、「赫々(かくかく)たる名声の傷ましき失墜」、「牧師さんがやって来た」、「恐るべき理由」、「家宅周旋人の突飛な投資」、「チャド教授の目を惹く行動」、「老婦人の風変わりな幽棲」の7話が収録されています。バジル・グラントが主人公で、その弟のルーパートとワトソン博士のような役回りで書き留めておくのはスウィンバーンです。奇商クラブのノースオーヴァーが登場する冒頭作から、以下ネタバレかもしれませんが、人に意図的に凹まされる会話応酬世話人、客が厄介払いしたい人物に対する職業的引き止め屋、樹上住宅専門のエージェント、体全体で表現する新たな言語体系の創設者、などなど風変わりなビジネスについて謎解きがなされます。
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