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2019年5月25日 (土)

今週の読書も話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』から小説まで計6冊!

今週も、質量ともに充実した読書でした。話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』、あるいは、生命科学などの教養書、さらに、小説では『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の辻村深月の受賞後第1作『傲慢と善良』などです。

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まず、ダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』(白水社) です。著者は、トルコはイスタンブール出身で米国ハーバード大学を本拠にしているエコノミストです。かつて、実証はされていませんが、グローバリゼーション、国家主権、民主主義の3つを同時に追求するのは難しく、どれか1つを犠牲にせざるをえない「政治的トリレンマ」の視点を提示し、トリフィンによる国際金融のトリレンマ、すなわち、固定為替相場、資本の自由な国際移動、自律的な金融政策の3つは同時には成り立たない、というのに対比させた論点でした。前著の『グローバリゼーション・パラドクス』や『エコノミクス・ルール』なんかも、ものすごく暗くて婉曲な表現で、正確を極めればこその判りにくさがあったんですが、本書では磨きがかかっている気がします。本書の英語の原題は Straight Talk on Trade であり、2018年の出版です。ということで、アダム・スミスが葬り去った重商主義が米国と中国のG2で復活しつつあるように見える現時点で、自由貿易と重商主義的な輸出振興と関税などによる輸入抑制の重商主義的な方向性を論じています。まず、著者は自由な貿易と攻勢な貿易の峻別を提示します。貿易に限らず、すべての経済活動や経済外活動も、インチキをする自由を認めるほど世間は甘くないわけで、特に、決して好ましいとは受け止められていないグループや得体の知れない外国人が、いかにもインチキのように見える方法により自分や親しい人々のグループに不利益を及ぼしているようであれば、それに一定の歯止めを要求する権利はあるように見えます。それを主張して選挙で票を集めることも可能な気がするわけです。しかし、経済意外の分野では、私はシロートながら、国内重視のナショナリストと国際重視のコスモポリタンないしインターナショナリストは相反するように見えるんですが、本書の著者は、経済分野については国内市場を整備して秩序あるものとし開放的にすることは同時に国際的な貢献にもなる、という意味で、国内重視と国際重視が経済学的には両立しうると主張します。これはマルクス主義でも同じことであり、100年ほど前には世界同時革命論のトロツキーと一国革命論のスターリンの対立があったんですが、国内で革命を成功させることにより世界革命に貢献するという意味で、国内重視と国際重視はマルクス主義では両立します。ですから、従来から、グローバリゼーションを擁護するエリートの間では、自由貿易で不利益となるグループへの補償とグローバル・ガバナンスの強化によって問題を克服しようという考え方が根強いわけですが、著者はこの考え方に対しては「手遅れ」として否定的な見方を示します。なぜかといえば、国民の間の民主的熟議を軽視し、国際機関や政府官僚などのテクノクラートに解決を委ねてしまう貿易テクノクラシーになりかねず、そうなれば、英米などに見られるように結果として、貿易に反対するポピュリズムとデマゴーグの台頭を許したと著者は考えているからです。そこで、著者はケインズを引用して、「資本主義は一国の中でのみうまく機能するものであり、国同士の経済交流は国内の社会的、経済的契約を過度に侵害しないよう規制しなければならない。」と主張し、資本主義には国家による経済運営が必要であることを強調します。私が読み終えた現段階で、著者のグローバリゼーションに対するスタンスはこれに尽きます。すなわち、各国の置かれた政治経済情勢の多様性と政策の自由裁量を求める需要を認識した緩やかなルールこそが現実的なアプローチであり、国内の民主的手続きにより市場をコントロールする大きな権限を国内権力である政府に与えれば、グローバリゼーションの効率性と正統性を高めることができる、というわけです。ただ、その場合、世界経済の動向ですから、どの国がリーダーシップを発揮するのか、が気にかかるところです。トランプ政権下の米国には私は無理そうな気がするんですが、同時に、人権の軽視や政敵の抑圧を続ける中国とロシアには、「グローバルなリーダーシップなど発揮できるはずがない」と著者は厳しい評価を下しています。かなりの範囲でこれらの貿易の政治経済学には私も同意します。以上でホントは終わりなんですが、私の興味の範囲で、本書のテーマである貿易とはやや観点が異なるものの、開発経済学的な視点で、著者は明記はせずに、ルイス的な二重経済モデルを持ち出して、ルイス的な用語を用いれば、限界生産性に対してではなく生存水準の報酬を得られる生存部門から、限界生産性に応じた報酬が得られる資本家部門に労働力が移動することにより高度成長が成し遂げられる、という意味での開発は、そろそろ終了ではないかと結論しています。アフリカでは小売やサービスで雇用が拡大しており、製造業が農業からの労働力を吸収するというルイス的な二重経済の発展的解消による高度成長は中国や東南アジアで終了し、南アジアやアフリカなどではリープフロッグ的な経済発展をする可能性を示唆しています。最後に、私の読書感想も飛びますが、経済モデルをダイナミック、というか、動学的にその時々で違うものにするのは、まあ、判らなくもないんですが、そこまでいうと、もはやモデルでも、科学でも、何でもなくなるような気がして怖いです。

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次に、ティム・オライリー『WTF経済』(オライリー・ジャパン) です。著者は、オライリー・メディアの創業者CEOであり、テクノロジー系の技術書の出版には慧眼を示しています。本書の英語の原題は WTF?: What's the Future and Why It's Up to Us であり、2017年の出版です。"WTF" とは最後の翻訳者の解説によれば、感嘆表現 "What the Fuck!?" の略で、「なんじゃこりゃ?」くらいの意味であり、口語ではかなり普及しているとはいえ、結構お下品な表現のようです。ということで、本書では著者は、著者自身が深くコミットしてきたコンピューターの歴史を振り返るところから始め、もちろん、自慢話しも多く盛り込みながら、新しい技術がもたらす "WTF?" という驚きを、悪い驚きではなくよい驚きにし、そして、インターネットやオープンソースソフトウェアの展開に置おいて、著者が果たした、とご自分で考えている役割やその際に適用した考え方や手法などを、新たに出始めている人工知能=AIや大規模ネットプラットフォームにも適用することで、いい方向に向かうのではないか、という主張をしています。ビジネスの世界で大成功した著者のことですから、すでに引退した官庁エコノミストの私なんぞには及びもつきませんが、オープンソースソフトとインターネットの普及により、ウェブが共通のプラットフォームとして普及し、今度はその上で提供されるサービスが重要となり、すなわち、ウェブ2.0に進化し、加えて、利用者の多くがパソコンからスマホをはじめとするモバイルに移行するにつれて、その性質は強まってきているわけで、さらにさらにで、グーグルやフェイスブックやアマゾンはAPIを公開し、他のプレーヤーがサービスを構築するための新たなプラットフォームを提供しつつ、というか、それを足場に、そこで利用者について収集したビッグデータも排他的にビジネスに活用して収益を上げているわけです。他方で、著者も注目しているようなギグエコノミーでの労働者の働き方が、著者の主張するように未来的で望ましいものかどうかは、私には疑問です。典型例はウーバーの運転手であり、市場における力関係は往々にしてそうなんですが、一応、対等なでウィン・ウィンな取引関係の形をとっていても、おカネを出す方の要求におカネをもらうほうが従うこととなります。フリーランス的な自由な労働形態としてもてはやされ、ブラック企業における非正規雇用よりも好ましそうな響きを持ちつつも、雇用の安定性や労働の実態はどこまで評価できるものかは私には疑問です。本書ではかなり偏った視点を提供しているとしか思えません。そういった弱点、疑問点を含みつつも、近い将来のビジネスの方向性については、それなりに参考になりそうな気もします。

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次に、ギデオン・ラックマン『イースタニゼーション』(日本経済新聞出版社) です。著者は、 Financial Times を中心に活動しているジャーナリストです。英語の原題もそのまま EASTERNIZATION であり、2016年の出版なんですが、あとがきには2018年ころのお話が出てきたりします。というのも、邦訳は2018年11月にアメリカで刊行されたペーパーバック版に基づいているからだそうです。本書は、必ずしも経済のトピックではなく、外交やその延長としての軍事・安全保障などにおける東洋、特に中国とインドの台頭について分析を加えています。タイトルはかなり面妖で、ウェスタニゼーションが東洋の国々の西洋化であったのは明らかで、例えば、イスとテーブルの生活や着物を捨てて洋服を着たり、といったことで、はなはだしくは、我が国の鹿鳴館のような活動もあったりしたわけですが、現時点で、西洋の国が東洋の生活様式を取り入れているようなことは私はあまり聞き及びません。まあ、体重コントロールのために日本食が流行ったり、座禅を組んでマインドフルネスな仏教を感じたり、といったくらいのことはあるかもしれませんが、経済社会の中での東洋化が欧米で進んでいるとはとても思えませんので、あまりいいタイトルではなさそうな気がします。まず、アジアや東洋というと、当然に、日本もそのカテゴリーに入るわけで、特に1980年代後半、プラザ合意以降我が国のバブル経済期には、日本経済に着目する動きもありましたが、本書では我が国は明確に台頭するアジアの代表にはなりえないと否定されています。その最大の眼目は人口や市場規模です。日本は人口では中国やインドと1桁違うわけですし、市場規模としても決して大きくないと見なされているわけです。そのうえで、特に、アジアへのピボットを目論んだ米国の第1期オバマ政権の動向、クリントン国務長官やその側近ブレーンなどの取材に基づく米国や欧州のアジア志向を分析しています。もちろん、その先鞭として天然門事件以降の中国の対外開放路線に基づく経済発展、さらに、今世紀の習近平政権からの大国化の路線を跡付けています。とても興味深かったのは、pp.70-71で展開されている習近平政権の中国の互いに関連する3つの思想性で、被害者意識に根ざしたナショナリズム、米国に肉薄する国力への自信の増大、内政の安定と欧州の潜在的な破壊的役割への憂慮、だそうです。私には4点に見えるんですが、最初の「被害者意識」は我が国にだけ向けられているように見えるのは私だけでしょうか。19世紀の英国とのアヘン戦争なんて、メチャクチャえげつないものだったように思え、更にその結果として香港の割譲まであったんですが、英国に対しては、我が国に対するほどの被害者意識は持っていないように私には見受けられるんですが、いかがなもんでしょうか。むしろ、私の単なる印象論ですが、インドの方が英国に対してよくない感情を持っていそうな気がします。それはそうとして、本書でも何度か出てくるトゥキディデスの罠は避けることができるんでしょうか?

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次に、リチャード・ハリス『生命科学クライシス』(白揚社) です。著者は科学ジャーナリストです。英語の原題は Rigor Mortis であり、直訳すれば「死後硬直」です。2017年の出版です。サブタイトルを見る限り新薬開発にフォーカスしているように見えますが、メインタイトル通りに生命科学全般を対象にしているように私には読めました。ということで、創薬をはじめとする新しい医療のイノベーションが進まない現状について警告を発しようと試みています。いろんな論点があるんですが、本書で取り上げられている順に私なりに解釈すると、まず、新訳や新たな医療技術について、その有効性をテストする際の方法の不適切さが強調されています。統計的な検定が不適切だったり、そもそも統計的な検定を行うためのサンプル数が確保されていなかったり、かなり初歩的な無理解がありそうな気がします。本書では、ショッキングな表現ながら、これまで発表された学術論文で間違っているものが多いと指摘しています。ただ、そこまでいわれると、ホントかね、という気がしないでもありません。薬学の場合、作用機序というものを考えて、薬がどのような順序で効果を発揮するかを考えるわけですが、経済学と同じで、実は、モデルにおける因果関係というものは必ずしも明確ではありません。薬ではなく、医療行為に関してはもっとそうです。どうして、この医療行為が効くのかは判らなかったりするわけです。ですから、統計的な有意性が求められるわけで、著者はその棄却水準のp値が5%でいいのか、という点まで含めて疑問を呈しています。サンプル数を60%増やしてp値を0.5%にすべきではないか、という意見のようです。同様に、有効性のテストの再現性も問題とされています。我が国の理化学研究所のSTAP細胞のスキャンダルについても触れられています(p.209)。続いて、実験動物、多くはマウスということになるんでしょうが、マウスで有効だった薬が人間でも有効であるとは限らない、とも主張しています。最後に、研究者の評価のあり方についても批判的です。これは経済学や他の科学分野でもそうなんでしょうが、生命科学の関係では、『サイエンス』、『ネイチャー』、『セル』といったインパクトファクターが高く権威ある学術誌への査読論文で研究者が評価され、数少ないテニュアの研究者ポストを目指さざるを得ない、という意味で、現在の研究者のインセンティブ構造にも問題があると指摘しています。ごもっともです。そして、ひとつの画期的な考えとして、生命科学の進歩のペースを意図的に落とすことさえ選択肢として提示しています。これも、生命科学だけでなく、他の科学や学問分野にも当てはまる可能性があります。先日、4月13日付けの読書感想文で取り上げた豊田長康『科学立国の危機』とは真逆の主張のように見えますが、本書は本書で間違ってはいないような気がします。なぜなら、科学研究を加速するためには、本書の主張のように逆に研究をペースダウンするか、『科学立国の危機』の主張のように研究リソースを画期的に拡大するか、どちらかなのかもしれません。

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次に、ピーター・ブラネン『第6の大絶滅は起こるのか』(築地書館) です。著者は惑星科学を専門とする科学ジャーナリストであり、本書は初めての著書だそうです。英語の原題は The End of the World であり、2017年の出版です。原題の意味は、要するに、現在までの5回の絶滅に続く第6回目の絶滅が生ずれば、それは世界の、とはいわないまでも、人類が今までに到達した文明の終わりを意味する、ということなんだろうと、読後に感じています。ということで、地球が惑星として成り立ち、生命が誕生してから、いままでに5度の大絶滅が生じてきたと解明されています。それが第2章から第6章までのタイトルとなっており、順に解説されています。出版社のサイトから目次をそのままコピペすれば、オルドビス紀末の大絶滅【4億4500万年前】、デボン紀後期の大絶滅【3億7400万年前、3億5900万年前】、ペルム紀末の大絶滅【2億5200万年前】、三畳紀末の大絶滅【2億100万年前】、白亜紀末の大絶滅【6600万年前】、というわけです。最初のオルドビス紀末の大絶滅は宇宙からの殺人光線であるガンマ線バーストの放射とか、氷河湖の決壊による大洪水などが仮設として提出されています。また、宇宙からの放射線の影響はペルム紀末の大絶滅の原因ともいわれています。これらの中でも、一番最近の白亜紀の大絶滅、恐竜の絶滅が当然ながらもっとも科学的な根拠がハッキリしていそうなんですが、1980年にアルバレス父子のグループから提唱された小惑星衝突仮説で決まり、というわけでもなさそうで、インド亜大陸の火山爆発というデカントラップ説も本書では紹介されています。しかし、本書でもお供興味深いのは、過去の5回に渡る絶滅における仮説の紹介や検証ではなく、現在進行系の第6回目の絶滅が始まっているかどうか、さらに、近い将来の絶滅はどのくらいの確度で生じるか、といった将来見通しの方ではないでしょうか。例えば、恐竜が絶滅した白亜期末の大絶滅のひとつ前の三畳紀末の大絶滅の原因は地球の温暖化に起因します。ほぼほぼサンゴは絶滅したんですが、もちろん、すべてが絶滅したわけではなく、細々と生き残った種が現在まで生きながらえていたりするわけです。そして、更新世末の大絶滅【5万年前―近い将来】は進んでいるのかどうか、第1に気候の温暖化は産業革命以降に急速な勢いで進んでいることは確かですし、第2にホモサピエンスの通った後にハッキリと種の絶滅が生じていることも事実です。ただ、本書の著者は人類が滅ぼしたのは190万種のうちのたったの800種だと主張しています。そして、次の第6回目の大絶滅が何の原因で生じるにせよ、人間の寿命という観点からはかなり遠い先の話であることは確かで、その時の人間社会や文明の状況は何ともいえないながら、実際に生命が失われる絶滅というよりは、電気に依存した現代生活を見ても理解できるように、地球環境の変化は文明の喪失をもたらす可能性が高い、と主張しています。私は専門外もいいところですが、そうかもしれません。というか、違っているという主張をするだけの根拠を持ち合わせません。最後にどうでもいいことながら、私はガンプラを通じてガンダムに詳しい倅どもと違って、それほどガンダムの物語は知らないんですが、シャア・アズナブルは何度か、というか、私の知る範囲では、第2次ネオ・ジオン抗争の際に、小惑星5thルナを連邦軍本部所在地であるチベットのラサに落下させたり、あるいは、地球へのアクシズ落としを企んだりして、巨大ではあるものの、こういった爆発物でない単なる物体を地球に落としたところでどうなるものでもあるまい、とシロートなりに考えていたんですが、第6章で恐竜を絶滅させた白亜紀末の大絶滅の原因とされる小惑星の衝突の衝撃をとても念入りに記述してあって、私はそのとてつもないパワーにびっくりしてしまいました。やっぱり、シャアはえらい?

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最後に、辻村深月『傲慢と善良』(朝日新聞出版) です。タイトルは、いかにも、ジェーン・オースティンの代表作『高慢と偏見』 Pride and Prejudice を思い起こさせるものですが、この作家の自負を表しているのかもしれません。男女間の恋愛ないし結婚をテーマにしている点は同じです。作品の中にの明示的に言及があります。『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の第1作です。2部構成で、さらに、最後にエピローグがついてきます。婚約した男女が、結局、最後は結ばれるというハッピーエンドの恋愛小説です。しかし、結婚式の日取りまで決まっていながら、婚約者の女性が失踪します。ということで、第1部は、婚約者の女性に失踪されてしまった男性の視点から、女性の失踪の謎解きが始まります。結局、男性から見た女性は70点で、その前には100点満点の女性に逃げられて、40歳も近くなって結婚に逃げ込んだ印象です。ただ、女性がストーカーという非現実的ですぐにバレる嘘をついたのに気づかない男性も異常な気がします。第2部は失踪した女性の視点でストーリーが進みます。しかし、最後は大甘で、男性は失踪した女性を許す形になり、女性のそんな男性の包容力を受け入れます。私は決してせっかちな方ではないつもりで、私とカミさんが結婚したのも、この作品の男女と同じくらいの年齢でしたし、世代が違うので婚活という言葉もなく、婚活めいたことはしませんでしたし、見合いとかの出会いで断られた時には、全人格を否定するような断り方が不自然ではなかった時代です。加えて、今以上に結婚が男女の恋愛感情だけでなく、経済も含めた打算で決まっていた時代背景です。私は30歳を過ぎて、海外勤務のお話があり、結婚を考えないでもなかったんですが、時代はバブル経済のまっ盛りで、結局、二重の理由で結婚には至りませんでした。すなわち、バブル経済のころは十分に遊べて、結婚するまで不自由していない、という意味で、この作品の男性とよく似た恵まれた状況にありました。逆の面から見て、京大の経済学部を出て公務員なんてセンスのない職業選択に女性からは見えたわけで、「どうして証券会社に就職しなかったの?」というカンジの見方が圧倒的で、経済的な打算から公務員は結婚相手として決して上位には来なかったわけです。1994年に大使館勤務を終えて帰国すれば、バブル経済崩壊の後で学生の就職は超氷河期で、公務員の株が顕著に上昇していてびっくりした経験があります。そこで、私は結婚したわけです。ですから、上から目線の結婚だったかもしれませんし、この作品の男性のような考えは、女性の行動もいうに及ばず、とうとう私は理解できませんでした。世代が違うのでしょうから、この読書感想文は参考にはならないかもしれません。

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