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2019年6月15日 (土)

今週の読書はリチャード・クー『「追われる国」の経済学』ほか経済書中心に計5冊!

このところ、少しずつペースダウンに成功しつつあり、今週は経済書中心に以下の5冊です。リチャード・クー『「追われる国」の経済学』は久々に読みごたえある本格的な経済書でした。なお、今日の土曜日が雨ですので自転車に乗れず、まだ徒歩圏内の図書館しか行けていないんですが、やっぱり、数冊の読書になりそうな予感です。明日の日曜日に近隣図書館を自転車で回りたいと予定しています。うまくいけば小説も読めるかもしれません。

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まず、リチャード・クー『「追われる国」の経済学』(東洋経済) です。英語の原題は The Other Half of Macroeconomics であり、2018年の出版です。この原題の趣旨は後ほどもう一度取り上げます。著者はご存じの通り野村総研のエコノミストであり、世界的にも影響力があると考えられています。これも広く知られたバランシシート不況の主張を本書ではさらに拡大し、「追われる国」あるいは、被追国になれば、サマーズ的な secular stagnation 長期停滞論やインフレ率が上昇せずデフレ的な経済状況が継続することや、金融政策が量的緩和までやっても効果ないことや、はては、1930年代にナチズムやファシズムが台頭した要因までが明らかにされる、というカンジです。なお、出版社の東洋経済のオンライン・サイトには「追われる国」で金融政策が効かない根本理由に関する解説記事がありますので、この読書感想文ととともに参考になるかもしれません。ということで、著者が前々から指摘しているバランスシート不況は、資金の出し手がありながら有望な投資プロジェクトがなく、資金の取り手がいないために貯蓄過剰となり、金融政策の効果が大きく殺がれる、もしくは、ほぼ無効になる、という状況を指しており、本書で何度も繰り返して振り返る p.35 の図1-3の3と4の状態を指します。ここで英語の原題に戻りますが、この図1-3の左側の1と2が主流派経済学の対象とするモデルであり、右側の3と4が The Other Half of Macroeconomics なわけです。そして、その最上級なのが追われる国、被追国であり、労働が生存部門から資本家部門に移動して、ルイス転換点(LTP)を超えて、本書でいうところの黄金期、我が国でいえば、1950~60年代の高度成長期を終了した段階に達すると、国内で投資に対する資金需要が低下するとともに、途上国や新興国といった海外投資が国内投資よりも高リターンになる、というのが被追国で、こうなると、国内投資はますます実行されなくなり、海外投資に資金が流れ、金融政策でいくら金利を下げても、量的緩和をしても、国内での投資が過小となり、逆から見ると、国内貯蓄が過剰となります。貯蓄投資バランスは事後的に必ず一致してゼロとなりますから、民間部門が過剰貯蓄であれば、残る海外部門か政府部門がこの貯蓄を吸収して投資をせねばなりません。海外部門は世界各国で相殺すればでネットでゼロになるわけですから、政府支出で民間部門の過剰貯蓄を吸収せねばいつまでも長期停滞が続くわけですから、先進各国が金融政策に頼っている現状は間違いであり、財政政策で停滞を脱しなければならない、というのが本書のエッセンスです。本書では、それを別の角度から見て、従来の伝統的経済学で暗黙の前提とされている企業部門の利潤最大化ではなく、企業部門が負債返済に最大のプライオリティを置く経済とか、あるいは、中央銀行が最後の貸し手になるをもじって、政府が最後の借り手になる、とかの印象的な表現をいろいろなところで用いています。それなりに、判りやすい表現とか理屈ではないかと思います。私の実感、というか、定型化された事実を矛盾なく表現できるモデルが提示されている印象です。少なくとも、私のような左派の財政支出拡大を主張するエコノミストには、とても受け入れられやすい本書の主張なんですが、おそらく、右派の財政均衡論者には不満が残る点があるんではなかろうかという気がします。というのは、財政支出拡大による収支均衡からの逸脱や政府財政破綻の可能性について、本書は何の論点も提示していません。最近のMMTはもちろん、ケインズ的な長期に我々はみんな死んでいる、といった言い訳もせず、ひたすら無視しています。ある意味で、見上げた態度かもしれません。私はこれで正解だと受け止めているんですが、右派エコノミストの中には難癖をつけたりする人がいるかもしれません。最後に、どうでもいいことながら、開発経済学を専門分野のひとつとする私にとって、ルイス転換点(LTP)がここまで何度も頻出する経済書は久し振り、というか、開発経済学の専門書を別にすれば、初めてかもしれません。第3章では1ページあたり平均3回くらいLTPというのが出てくるような印象です。それなりに感激しました。

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次に、小峰隆夫『平成の経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は、私の先輩筋に当たる官庁エコノミストのご出身の研究者です。私は研究畑で計量経済モデルをシミュレーションしたり、学術論文を書いたり、それを学会発表したりしていたんですが、ホントの官庁エコノミストというのは「経済白書」を執筆したりするものなんだということを思い起こさせられました。でも、私はこの著者の部下として働いたこともあったりします。ということで、本書でも、その昔の「経済白書」や省庁再編後の「経済財政白書」などからの引用がいっぱいあったりします。なお、本書はこの出版社から出ている「平成3部作」の1冊であり、ほかに『平成の政治』と『平成の経営』があります。私は前者は読んだんですが、対談や鼎談を収録しているだけでした。後者は読むかどうか迷っています。経営についてはともかく、政治と経済については、一般常識として、経済はバブル経済で平成が始まって、バブルが崩壊して長期停滞の後、アベノミクスで何とか復活を遂げつつある、というのが実感で、政治については、消費税の導入で始まって自民党一党与党体制が連立になり、いろいろな連立政権が試行された後、また、非自民の政権交代もあった後、結局、現時点では自公連立政権が支配的、ということなんだろうと思います。そして、いずれにせよ、その政治経済の底流には対米従属があり、米国からの本格的な独立を志向する政権は長続きしない、というのは間違いではないように私は受け止めています。長くなりましたが、本書では、バブル経済でユーフォリアが支配的だった平成初期の経済、さらに、そこに消費税が導入され、景気拡大という自然増収による財政再建ではなく、税制の変更に立脚した財政再建が試みられたところから始まった平成の経済をコンパクトによく取りまとめています。ただ、バブル経済についてはストックの視点だけから語られていますが、私が平成元年の「経済白書』を読んでややショックだったのは、フローの面で日本経済が新たな段階に入って、景気循環は消滅したとは書かれていませんでしたが、かなりの程度に景気循環が克服されたような印象で捉えられていた点です。この平成元年の「経済白書」のフロー面の記述については本書でも注目していません。私からはやや不思議な気がします。私は定年まで経済官庁に勤務していながら、不勉強にして、いまだに経済循環を克服した経済体制を知りません。我が国がアベノミクスでかなり長期の経済回復を果たしたのは事実ですが、現時点で、景気転換局面に差しかかっている可能性を否定できるエコノミストは少ないと思いますし、遠からず、景気は転換する可能性が充分あると考えるエコノミストが多数派ではないかと受け止めています。さて、本書に戻って、私が疑問と考える分析結果が2点あり、ひとつは「実感なき経済回復・拡大」の原因を成長率が低い点に求めていることです。私は賃金上昇率が低かった点が原因ではないかと考えています。すなわち、労働分配率の低下も「実感なき」の一員と考えますし、格差の拡大ももう少しスポットを当てていいんではないかという気がします。第2に、最後の結論で、短期的な需要面の政策ではなく中長期的な構造対策に重点をくべきという考え方です。というのは、従来からの私の主張である右派と左派の違いもさることながら、現在の景気局面を完全雇用から考えるべきではない、と私は考えています。すなわち、完全雇用が達成されているのは景気ではなく、デモグラフィックな人口要因に起因するということはあまりにも明らかであり、完全雇用が達成されたからもう短期政策は不必要、というわけでもなかろうと考えています。加えて、量的な雇用だけでなく、質的な正規・非正規とか、賃金上昇がまだ始まっていないとか、完全雇用が達成された、かどうかはまだ議論あるんではないでしょうか、という気がしなくもありません。

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次に、岡田羊祐『イノベーションと技術変化の経済学』(日本評論社) です。著者は、一橋大学の研究者であり、同時に、公正取引委員会競争政策研究センターの所長も務めています。本書はタイトル通りのイノベーションや技術論に関する大学学部レベルないし大学院博士前期課程くらいの学生・院生を対象に想定しているようです。学生か院生かはそれぞれの大学や大学院のレベルに依存するんだろうと思います。どうでもいいことながら、私が地方大学に出向していた際に、各年版の「経済財政白書」はどの段階で教えるべきか、と考えていたところ、学部3~4年生を想定する教員と大学院博士前期課程を想定する教員と両方いたりしました。本題に戻ると、本書は4部構成であり、第1部 技術変化と生産性、第2部 イノベーションと競争、第3部 イノベーションと組織、第4部 イノベーションと政策で成り立っています。特に、第3部の第8章 技術の複合的連関とシステム市場においては、最近時点でのデジタル経済の発展やGAFAなどのプラットフォーマーに情報が集中する経済における競争政策やイノベーションについて論じていて、この章だけでも大いに得るものがありそうな気がします。ということで、イノベーションや技術革新といえばシュンペーターの名が思い起こさせられますが、本書でもシュンペーターが掲げた2つの仮説、すなわち、独占的な市場ほど技術変化が起こりやすい、および、企業規模が大きいほど技術変化は効率的に遂行される、の2点を軸に議論が展開されます。独占とイノベーションの関係については、特許により事後的な独占が期待できるのであればイノベーションのインセンティブは高まる一方で、事前的に市場独占が形成されていればイノベーションの必要なく大きな利潤を上げることができることから、イノベーションのインセンティブは決して高くないとも考えられます。企業規模についても同様に、余裕資金あればイノベーションの活発化につながる一方で、十分なキャッシュフローは革新へのインセンティブを殺ぐ場合もあり得ないことではありません。本書では、こういった理論的なモデルを展開しつつ、我が国のイノベーション環境についても概観しているわけですが、私のようなシロートが見る限り、イノベーションの基となる技術開発については何らかの外部効果を伴うわけであり、その意味で、イノベーションへのリソースのインプットは過少になる可能性がありますから、何らかの公的資金の投入が必要とされる場面も想定すべきことはいうまでもありません。本書では、それなりにイノベーションについて鳥瞰的な広い視野から、かつ、包括的に学習できるように工夫されています。ただ、本書の冒頭にあるような意図のひとつである実証的な研究に対しては、少し手が伸びていないような気もします。

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次に、譚璐美『戦争前夜』(新潮社) です。著者は東京生まれの中国人文学者です。本書のサブタイトルは「魯迅、蔣介石の愛した日本」となっており、日本への留学経験あるこの2人の中国人文豪と軍人を通して日中関係、特に、1930年代の日中戦争前までの日中関係に光を当てようと試みています。私の目から逆に見て、徳川期の鎖国を終了して明治維新を迎え、日清戦争や日露戦争で対外的な領土拡大を成し遂げた一方で、さらに大正デモクラシーの背景をもって、日本人が中国大陸や台湾を含め、あるいは、本書ではややスコープ外ながら、東南アジアやさらに欧米まで、ひょっとしたら、21世紀の現時点よりも国際化、というか、対外進出が、いい意味か悪い意味かを別にすれば、進んでいたような印象を持ちます。日本人が外国に留学に行ったり、あるいは、魯迅と蔣介石の例のように留学生を受け入れたり、といったのはいい例のケースが多そうな気がする一方で、軍事力の背景をもって対外進出を強行した例も決して無視できない可能性があります。いずれにせよ、魯迅と蔣介石の例のように中国から留学生を受け入れていた本書の時期はほぼほぼ100年前であり、戦争や中国大陸での共産革命、さらに日中国交樹立から今世紀に入っての尖閣諸島の領有をめぐる確執などなど、さまざまな日中関係の原点が100年前にあったのかもしれません。東アジアでは一足先に開国と近代化というよりは西洋化を進めた日本に対して、中国では解放改革が遅々として進まず、日清戦争では日本に敗れ、20世紀の辛亥革命による近代国家の成立を待たねばなりませんでした。辛亥革命後も混乱が続いたのは、明治維新後の日本と対照的な気もします。もちろん、本書はそういった国内政治や、あるいは、外交・安全保障などをテーマにしているわけではありませんが、その一端はうかがい知ることができます。というのも、主たる舞台は日本では東京であり、中国大陸では上海となっていますが、中国政府のあった北京も時折登場します。また、決して既存文献の渉猟に終始することなく、何人かの関係者の末裔にインタビューするなどといった著者のアクティブな取材に基づく記述も見受けられます。もちろん、魯迅と蔣介石のたった2人だけによって広い中国を代表させるのは無理があるわけですが、ひとつの視点として大いに代表性はあるような気もします。

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最後に、尾脇秀和『壱人両名』(NHKブックス) です。著者は、神戸大学の研究院であり、専門は日本近世史です。私はこの著者の『刀の明治維新』(吉川弘文館) を読んだことがあり、昨年2018年10月7日の読書感想文で取り上げています。ということで、本書では、私のようなシロートには「士農工商」としか知らない徳川期の身分制度における方便のような事実上の抜け穴となっていた「壱人両名」の実態について、決して体系的ではないんですが、個別の史実を積み上げて、解明を試みるよいうよりは、例外的な身分制度上の取り扱いが存在した、という事実を世間に明らかにしようとしています。ノッケから、公家の正親町三条家に仕える公家侍の大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門の例を持ち出して、この2人は名前も身分も違うが、実は同一人物である、といった徳川期の身分制度の例外的な扱いを明らかにし、常識的な徳川期の身分制度しか知らないシロートの私のような読者に、例外的で決して多数に上るとは思えないながら、それまでの常識を覆すような事実を突きつけて本書は始まります。日本近世の封建制度下にあっては、氏名、服装、職業、住居などなどの個人の属性が身分によって固定化されており、しかも、おそらく戸籍上の把握や納税の便だと思うんですが、人別と支配があり、それを二重に持っていながら、実は自然人としては1人である、といった例を豊富に持ち出し、その上で、こういった「壱人両名」が建前としての制度からはみ出ていながら、実態に即する形でまかり通っていた事実を明らかにしています。ただ、融通を利かせる目的で黙認された例もあれば、ご本人の我がままのために勝手・不埒な「壱人両名」と見なされて、あるいは、もとより徳川期には違法とされていたことから、何らかの処罰を受けた例まで、いろいろと取りそろえられています。ただ、今となってはどうしようもありませんが、実印から同一人物と特定するのであれば、個別のケーススタディに終始するのではなく、例えば、特定の一村においてどのくらいの割合の「壱人両名」が存在したのかについて、何らかの統計的な把握を試みることはできなかったのか、とやや残念な気もします。徳川期の天下泰平の下で、お役に着けない貧乏御家人が内職に励んだのは有名なお話で、私が長らく勤め上げた公務員に兼職や副職が原則として認められなかったのとは大違いで、そういった内職的な役割を別に持つというノリと同じような気もします。もちろん、そもそも、御家人の内職や本書で注目している「壱人両名」の存在が歴史の大きな流れに何らかの影響を及ぼしたとは、私は決して思いませんが、歴史的な教養というか、それなりの学識ある教養人の話題を豊富にするという意味はあるような気がします。従って、本書のような歴史上の細かなネタを展開した本は私は大好きです。

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