今週の読書は経済書をはじめとして計7冊!!!
今週の読書は、いつもの通りに、経済書をはじめとした計7冊です。ただ、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの8作品のうちの3作を読みました。なお、本日すでに自転車で近隣図書館を回り終えており、来週も数冊の読書になる予定です。
まず、丸山俊一・NHK「欲望の資本主義」制作班『欲望の資本主義 3』(東洋経済) です。NHK特集で放送された内容の書籍化で、タイトルから明白なように、第3巻となります。私は今までの2冊も読んだ記憶がありますが、2冊目がやや物足りなかったので、この3冊目を読むかどうか迷っていたんですが、のーねる経済学賞を授賞したティロル教授とか、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』で話題になったハラリ教授らの名前がありましたので、図書館で借りて読んでみました。5人の有識者へのインタビュー結果を中心に構成されているんですが、さすがに、3人目のティロル教授、4人目のハラリ教授、そして、5人目のガブリエル教授のパートは読みごたえがありました。最初の起業家ギャロウェイ氏のパートでは、インタビュアーが悪いんでしょうが、「GAFAの究極の目的は何か」という趣旨の質問があり、冒頭でガックリ来てしまいました。企業活動をする限りは、持てる経営資源を活用して利潤を最大化するのが企業の活動目的に決まっています。それとも、GAFAの目的は「世界征服」といった趣旨の回答を引き出せるとでもインタビュアーは思っていたんでしょうか。加えて、GAFAなどによるイノベーションが雇用の減少をもたらすというのは、必ずしも真実ではありません。コストダウンを目的にしたイノベーションしか念頭にないので、こういった珍問答になったんでしょうが、新商品の開発や新しい流通経路の開発など、生産を増加させ雇用も増えるようなイノベーションは歴史上いっぱいありました。また、第2章ではビットコインに続く仮想通貨の開発者ホスキンソン氏へのインタビューなんですが、資本主義は短期的な視野に陥りがち、といった発言が示されている一方で、第3章のティロル教授は市場が常に待機主義であるわけではないと主張して、まったく株主配当を行わないアマゾンのような例を出したりしています。ティロル教授は同時に仮想通貨について大いに否定的な論調を展開していたりもします。第4章のハラリ教授は、仕事を守るのではなく、人々に所得というか、収入を保証する、例えば、ベーシックインカムのような制度の重要性を指摘しています。最後の第5章のガブリエル教授は、人々を支配しているのはAIやロボットといったハードあるいはソフトな機械ではなく、そのバックに控えている人間だと喝破しています。などなど、決して、系統的な見方を得るのではないのかもしれませんが、ひとつひとつの見方や考え方に、私はとても強い刺激を得ることができました。NHKの放送はまったく見ていませんが、本書でもかなりの程度にその雰囲気は得られるのではないか、という気がします。
次に、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』(東洋経済) です。著者はオーストリア生まれで、ウィーン大学で古代史のテーマで博士号を取得して、現在は米国スタンフォード大学の歴史学研究者です。本書は先週土曜日の日経新聞の書評欄で取り上げられていましたが、その時点で私はすでに新宿区立図書館から借りていたりしました。なお、英語の原題は The Great Leveler であり、2017年の出版です。ということで、本書では、一般に私のようなマルクス主義歴史学を知る者が原始共産制と呼ぶ石器時代から時代を下って、生産力の向上とともに剰余生産物ができるに従って不平等が生じた歴史をひも解く、というか、不平等が生じつつも解消された要因について分析を加えています。すなわち、7部構成の本書なんですが、第1部で不平等の概略史を跡付けた後、不平等を解消する社会現象を「騎士」と名付け、4つの騎士を、第2部で戦争、第3部で革命、第4部で崩壊、第5部で疫病、として取り上げ、最後の方の第6部と第7部では四騎士に代わる平等化の手立てを、最後の第7部で平等と不平等の未来について分析しています。本書で「騎士」と名付けている戦争、革命、崩壊、疫病については、直感的に、社会秩序を大きく揺るがせますので、いわゆる弱肉強食のパワー・ポリティクスの世界に入りそうな気がしないでもないんですが、確かに、考えてみると戦争で例に挙げられている我が日本の第2次世界対戦の記憶にしても、平等化が進んでいるのは歴史的事実のようです。本書でいうところの「総動員体制」に従って、人間としての生存に必要な部分を上回る余剰を戦争遂行のために国家が強権でもって召し上げるんですから、原始共産制に近づくのかもしれないと私は考えたりしました。ただ、他方で、本書でもソ連の共産革命に付随して、特に北欧各国で累進課税が導入された点を強調していますし、昔のソ連にしても現在の中国にしても、本来のマルクス主義的な社会主義や共産主義からはほど遠いんですが、理念としての平等の旗を下ろすことはありませんし、その影響を受けた改良主義的な社会民主主義でも平等化がひとつの政策目標として追求されていることは紛れもない事実です。また、本書では何箇所かで平等化のひとつの要因として労働組合を上げています。もちろん、マルクス主義的な労働者階級の前衛ではないんでしょうが、現代経済学でも、例えば、Galí, Jordi (2011) "The Return of the Wage Phillips Curve," Journal of the European Economic Association 9(3), June 2011, pp.436-61 などにおいても、賃金上昇圧力としての労働組織率を評価していますから、労働組合と平等化は何らかの正の相関があるともいえます。ただし、本書では農地改革については否定的な評価を下しているように見えます。我が国ではその昔に、「士農工商」なる身分性がありましたが、現代においても、工業・商業と農業で平等化の方法論に少し違いがあるようです。いずれにせよ、ピケティ教授から格差や不平等のトピックが経済学のひとつの重要なテーマとなっています。注釈や索引を含めると軽く700ページを超えるボリュームですが、私のようなエコノミスト兼ヒストリアンの目から見れば、一読しておく値打ちはありそうな気がします。
次に、ローレンス・レビー『PIXAR』(文響社) です。著者は、かのスティーブ・ジョブズから招聘されてピクサーの最高財務責任者CFO兼社長室メンバーに就任してジョブズとともにピクサーで働き、後に取締役まで務めています。英語の原題は To PIXAR and Beyond であり、2016年の出版です。繰り返しになりますが、著者はアップルから追放されてピクサーのオーナーになっていた1990年代なかばのスティーブ・ジョブズから電話を受け面接に進み、スタジオを訪問して後に「トイ・ストーリー」として公開されるアニメを見て感激し、ピクサーに入社するところからお話が始まり、そのピクサーがディズニーに買収される2006年まで10年余りの期間に関するファイナンスの面からのピクサーの社史になっています。著者の転職当初は、全株式を所有し唯一の取締役であるスティーブ・ジョブズが招聘したということから、スティーブ派と目されて、クリエイターたちの一派から冷ややかな目で見られていたものの、IPOを控えてストック・オプションをクリエイターたちに配分する中で、徐々に企業としての一体感を形成し、同時に、カリスマ的な経営者であり、シリコンバレーでも抜きん出たビジョナリーのひとりであるスティーブ・ジョブズのかなり強引かつ得手勝手な要求には一切ノーといわずに、黙々とオーナーの指示に従い、財務責任者として業務を遂行していく姿を浮き彫りにしています。もちろん、著者の自伝的な要素もありますので、大きなバイアスがかかっていることとは思いますが、非公開企業の内部事情はうかがい知れません。もちろん、著者は財務からピクサーという企業を見ていますので、「トイ・ストーリー」から始まって、我が家も一家でよく見た一連の封切り映画、すなわち、「バグズ・ライフ」、「モンスターズ・インク」、「ファインディング・ニモ」などの世界的な大ヒット映画のメイキングの部分は期待すべきではありません。そして、最後はヒットを飛ばし過ぎて株価がとてつもなく高い水準まで上昇し、その高株価を維持するためにはディズニーのようにテーマパークやグッズなどの多角化を図るか、それとも、そういった多角化に成功した企業にM&Aで売却するか、の選択肢から後者の道を選んだわけです。スティーブ・ジョブズは広く知られた通り、今世紀に入ってアップルに復帰し、iPOD、iPHONE、iPADなどのヒットを飛ばし、そのままがんで亡くなっていますが、ジョブズがアップルを追放され、ネクストというコンピュータ会社を立ち上げながらもパッとせず、結局ピクサーのオーナーとしてIPOで復活してビリオネアになるという、著者以外のもうひとつのパーソナル・ヒストリーの一端にも触れることができます。本書を読んだ教訓として、やっぱり、カリスマ的な社内権力者には、すべからくイエスマンでいて、「ご無理、ごもっとも」で決して「ノー」ということなく接しなければならないということがよく判りました。そして、我と我が身を顧みて、役所には決してカリスマ的な権力者はいなくて集団で組織を運営していたのですが、私が出世できなかった原因も身に染みてよく判った気がします。
次に、澤田瞳子『月人壮士』と、薬丸岳『蒼色の大地』と、そして、乾ルカ『コイコワレ』(中央公論新社) です。この3作品は、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトを構成しています。この3作品については、『月人壮士』が奈良時代、特に聖武天皇にスポットを当てており、時代が下って、『蒼色の大地』は明治期、『コイコワレ』は太平洋戦争末期、をそれぞれ舞台にしています。もちろん、この3作品だけでなく、私はまだ読んでいませんが、原始時代の大森兄弟「ウナノハテノガタ』、中世や戦国時代からの武士の時代の天野純希『もののふの国』、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』に収録された昭和後期の「シーソーモンスター」と近未来の「スピンモンスター」、平成の朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』、未来の吉田篤弘『天使も怪物も眠る夜』と、1号から10号までに連載された8人の作家による作品がラインナップされています。まだ決めてはいませんが、私は伊坂幸太郎『シーソーモンスター』は読んでおきたいと考えています。この「螺旋」プロジェクトの特徴は、出版社のサイトにあるように、ルール1として「海族」と「山族」の2つの種族の対立構造を描き、ルール2としてすべての作品に同じ「隠れキャラクター」を登場させ、ルール3として任意で登場させられる共通アイテムが複数ある、ということのようで、ルール1は単純で読めば判ります。例えば、古典古代を舞台にした『月人壮士』では天皇家が「山族」であり、天皇を外戚として支える藤原氏が「海族」となります。明示的に何度も出て来ます。そして、3番目は複雑過ぎて8作のうちの3作品しか読んでいない現段階では私には不明ながら、カタツムリとラムネを念頭に置いています。ただ、奈良時代にラムネもないだろうとは思っています。そして、その中間のルール2の「隠れキャラ」については、オッドアイの人物なのではないか、と思い始めています。オッドアイ、すなわち、左右で目の色が違う、という意味です。少なくとも、『蒼色の大地』と『コイコワレ』には碧眼の青い目の日本人が登場するんですが、『月人壮士』については私が読み飛ばしたとも思えず、出て来ませんでした。というような読書の楽しみもアリではないかと思います。簡単にあらすじだけ紹介しておくと、『月人壮士』では聖武天皇、というか、上皇が亡くなった際の後継天皇に関する遺勅がったんではないか、とに命じられて継麻呂と道鏡がいろんな関係者にインタビューします。それがモノローグで展開され、聖武天皇の実像や「山」の天皇家と「海」の藤原氏の確執、もちろん、天皇後継に関する陰謀などが明らかにされます。『蒼色の大地』は明治期の海軍と海賊で、海軍には耳の大きい山族、そして、海賊には目の青い海族と別れます。『コイコワレ』は戦争末期に宮城県に集団疎開した小学6年生の碧眼の「海」の少女と、それを忌み嫌う現地の「山」の少女の確執、さらに、「海」の少女のお守りに関するストーリーです。読んだ3作の中では、『蒼色の大地』について、作者の薬丸岳については何作か読んでいたりしますので、もっとも期待していたんですが、逆に、期待外れに終わった気がします。
最後に、今井良『内閣情報調査室』(幻冬舎新書) です。著者は、NHKから民放テレビ局に移籍したジャーナリストです。タイトル通りに、我が国のインテリジェンス組織である内閣情報調査室に関するルポです。さらに、内閣情報調査室とともに、というか、あるいは、三つ巴を形成している公安警察と公安調査庁も含めて、スパイたちのインテリジェンス活動を明らかにしようと試みています。よくいわれるように、我が国は「スパイ天国」であって、冷戦期などは各国スパイが暗躍していたらしいんですが、本書でも指摘されているように、特定秘密保護法によりスパイのインテリジェンスからは普通の国になったのかもしれません。でも、私も在外公館で経済情報の収集に当たっていましたが、わざわざスパイが暗躍して秘密裏に情報を収集することもなく、新聞や雑誌、可能な範囲でテレビも含めて、いわゆるマスメディアから一般に広く公表されている情報だけでも、少なくとも経済情報の場合は、チリという遠隔の地でそれほどの情報がなかったこともあり、公開情報でほとんど間に合っていたような気もします。経済情報であれば、マクロ経済の統計情報も豊富に公表されています。ただ、テロを含む安全保障や治安維持上の情報となれば、経済情報とは違うんだろうということも理解は出来ます。それから、情報公開上の考え方なんですが、報道の元ネタとなる政府からの情報に関しては、ジャーナリストのサイドでは公開の方に針が振れるのに対して、私も経験がありますが、政府に勤務する公務員のサイドからすれば秘匿の方向に意識が傾くのも、まあ、ポジショントークのようなもので、立場によって考え方にビミョーな差が出ることは、ある意味で、当然と考えるべきです。どうでもいいことながら、本書のタイトルである内閣情報調査室は略して「内調」というのが、本書でもしばしば出てくるんですが、私が若かりし官庁エコノミストだったころ、私からすれば「内調」とは当時の経済企画庁の内国調査課を意味していました。官庁再編前のことながら、その昔の「経済白書」の担当セクションです。私自身は研究所の所属が長く、「個人的見解」の但し書きをつけて自分の名前で研究成果を出していたりしたんですが、政府や個別の役所の名前でリポートを取りまとめる白書担当部局などが、官庁エコノミストのポジションだった時代かもしれません。繰り返しになりますが、本書とは何の関係もない思い出話でした。
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