今週の読書は話題の現代貨幣理論=MMTのテキストをはじめとして計7冊!!!
今週の読書は、財政のサステイナビリティに関する話題の経済理論である現代貨幣理論(MMT)の第一人者による入門テキストをはじめとして、以下の通りの計7冊です。NHKの朝ドラと「チコチャンに叱られる!」の再放送を見終えて、これから、来週の読書に向けた図書館回りに出かける予定ですが、来週も充実の数冊に上りそうな予感です。
まず、L. ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論』(東洋経済) です。著者は、米国バード大学のマクロ経済学研究者です。米国ワシントン大学ミンスキー教授の指導の下で博士号を取得しているそうです。英語の原題は Modern Money Theory であり、2015年の出版、第2版です。話題のMMT=現代貨幣理論の第1人者による入門教科書です。私は今回は図書館で借りましたが、来年になれば研究費で買えるのではないかと期待していますので、ザッと目を通しただけ、というところです。MMTに関しては大きな誤解があり、主流派のエコノミストは、おそらく、ちゃんと理解しないままに、MMTとは無制限に国債を発行して財政、もしくは、財政赤字を膨らませる理論である、と受け止めているんではないかと思います。でも、本書を読めば、MMTもそれなりに美しく主流派経済学と同じようなモデルに立脚したマクロ経済学理論であると理解できることと私は考えます。まず、冒頭で、貨幣=moneyとは一般的、代表的な計算単位であり、通貨=currencyとは中央銀行を含む統合政府が発行するコインや紙幣、とそれぞれ定義し、通貨が貨幣になる裏付け、通貨が生み出されるプロセス、財政政策の方向、の3点を理解することが重要と私は考えます。まず、第1に、通貨が貨幣という一般的な交換手段となる裏付けについては、市場で交換価値がある、すなわち、みんなが受け取るから、という主流派経済学の貨幣論を説明にならないと強く批判し、そうではなく、すなわち、交換で何か貨幣と同じ価値あるモノを受け取れるからではなく、政府が納税の際に受け取るからである、と指摘します。これはとても建設的な意見でクリアなのではないでしょうか。第2に、通貨創造についても、銀行が帳簿に書き込むからであって、それに対する預金の裏付けはない、と指摘します。キーストロークによる貨幣創造です。ですから、私なんぞも以前は誤解していたんですが、「国債発行が国内の民間貯蓄額を越えればアブナイ」という議論を否定します。政府が国債を発行して民間経済主体の銀行口座に預金が発生するわけです。当たり前なんですが、誰かの負債はほかの誰かの資産となります。そして、第3に、自国通貨を発行する権限のある中央銀行を含む政府は支出する能力はほぼ無限にある一方で、支出する能力が無限だからといって支出を無条件に増やすべきということにはならず、インフレや、同じことながら、通貨への市場の信認などに配慮しつつ、経済政策の目標を達成するための手段と考えるべきと指摘しています。逆から見て、プライマリーバランスや公債残高のGDP比などの財政健全性に関する指標を機械的に達成しようとするのは不適切である、ということになります。ということで、さすがに、定評あるテキストらしく、背後にあるモデルが明快であり、とても説得的な内容となっています。しかしながら、最後に、間接的な関連も含めて、3点疑問を呈しておくと、第1に、国債消化についてであり、負債は逆から見て資産とはいえ、国債が札割れを起こすこともあり、その昔の幸田真音の小説のような共謀は生じないとしても、負債が必ずしも資産に転ずるわけではない可能性をどう考えるか、そうなれば、主流派的な「みんなが受け取るから国債が資産になる」という考えが復活するのか、すなわち、我が国の財政法では国債の日銀引き受けは否定されているわけで、何らかの民間金融機関、プライマリーディーラーが国債を引き受けてくれる必要があるんですが、それが実現されないほどの大量の国債発行がなされる場合をどう考えるかに不安が残ります。第2に、私はリフレ派のように中央銀行が本書で政府の役割を果たすのも経済理論的には同じだと考えていて、例えば、「日銀はトマトケチャップを買ってでも通貨供給を増やすべき」と発言したとされるバーナンキ教授も同じではないかと思っていて、そうすればリフレ派とMMT派の違いはかなり小さく、MMT派が市場を無視する形で主権国家が財政を用いて強権的に購買力を行使するのと、中央銀行が市場の合理性を前提に通貨の購買力を行使して貨幣を供給するのと、は大きな違いではなく、実質的には差はなくなるような気がしないでもありません。最後の第3点目で、本書とは直接の関係ないながら、特に現在の日本で財政赤字がここまでサステイナブルなのは、動学的効率性が失われているからではないか、と私は考えています。動学的効率性の議論はかなり難しくて、長崎大学に出向した際に紀要論文で取りまとめた「財政の持続可能性に関する考察」においてすら回避したくらいで、このブログで論ずるにはあまりにもムリがありますが、MMT的な財政のサステイナビリティと動学的効率性が失われている時の財政のサステイナビリティが、どこまで違って、どこまで同じ概念なのか、理論的にはかなり気にかかります。ということで、ついつい長くなり、私には私なりの疑問はあるものの、実践的には、このテキストがどこまで中央銀行を含む政府の中で信任を得られるか、ということなのかもしれません。ケインズ政策が米国のニューディール政策に取り入れられるのに大きなタイムラグはありませんでしたが、政府を定年退職した我が身としてはとても気がかりです。なお、最後になりましたが、ひとびとの経済政策研究会のサイトに、とても参考になる解説メモが関西学院大学の朴教授によりアップされています。以下の通りです。ご参考まで。ただ、このメモを取りまとめた時点では、朴教授はMMT論者ではないと明記しています。お忘れなく。
次に、ヤニス・ヴァルファキス『わたしたちを救う経済学』(ele-king books) です。著者は、ギリシアの債務問題が発覚した後の急伸左派連合(シリザ)のツィプラス政権下で財務大臣を務めたギリシア出身のエコノミストであり、反緊縮など、かなりの程度に私と考えを同じくしています。立命館大学の松尾教授が巻末に解説を記しています。なお、バルファキスなのか、ヴァルファキスなのか、は、私はギリシア語を理解しませんが、このブログでも今年2019年月日に『黒い匣』の、また、同じく月日に『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の、それぞれの読書感想文を取り上げています。ということで、本書は基本的には、『黒い匣』と同じテーマ、すなわち、ギリシアの財政破綻とその後処理に焦点を当てています。『黒い匣』では、もちろん、対外的な交渉はあるものの、基本的に、当時のギリシア国内や政権内部にスポットを当てていたのに対し、本書では歴史的にかなり前にさかのぼるとともに地理的にも欧州延滞を視野に入れ、ユーロ圏の通貨同盟が成立する歴史をひも解いています。その上で、『黒い匣』と同じように、ギリシア国民の医療費や年金よりも、公務員給与よりも、欧州各国の銀行への債務返済に対してもっとも高い優先順位を付与するブラッセルのEU官僚やドイツ政府高官などを批判しています。特に、歴史的に通貨連合の設計段階までさかのぼっています、というか、第2次大戦末期のブレトン・ウッズ体制までさかのぼっていますので、何が問題であって、結局のところ、「強い者はやりたい放題、弱い者は耐えるのみ」という結果を招いたのかを解明しようと試みています。一言でいえば、ユーロによる通貨統合は民主的な制御を持たない金本位制の復活であったと私は考えています。トリフィンのトリレンマから、国際金融上では固定為替相場と自由な資本移動と独立した金融政策の3つは同時には成立できません。金本位制下では独立の金融政策を放棄して、また、戦後のブレトン・ウッズ体制下の固定為替相場制では独立の金融政策もしくは自由な資本移動を犠牲にして、それぞれ国際金融市場を機能させてきたわけですが、欧州を除く日米では現在は固定為替相場を放棄しています。しかし、欧州のユーロ圏では独立した金融政策を放棄して固定為替相場、というか、通貨連合を運営しているわけで、そのリンクのもっとも弱い環であるギリシアが切れた、と著者も私も考えています。ギリシアに続くのはPIGSと総称されたアイルランドやスペイン・イタリアなどですが、なぜか、ギリシアに過重な負担を生ぜしめたのはEU官僚とドイツ政府高官が、いわば、後続の破綻可能性ある国への見せしめとする意図を持っていたというのは、私は否定しようもないと受け止めています。本書で著者は、欧州統合や通貨連合に反対しているのではなく、そういった経済政策が国民それぞれの民主主義に従って運営されることを主張しているわけです。その点は間違えないようにしないといけません。ケインズの「平和の経済的帰結」が何度か言及されていますが、ギリシアのツィプラス政権がトロイカの軍門に下った後、ギリシアのナチ政党である「黄金の夜明け」が議席を伸ばしたとまで書いています。正しく国民生活に資する経済政策が実行されない限り、民主主義が何らかの危険にさらされる可能性があることは、国民ひとりひとりが十分に自覚すべきです。
次に、野村総合研究所・松下東子・林裕之・日戸浩之『日本の消費者は何を考えているのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のコンサルであり、3年おきに野村総研が実施している「生活者1万人アンケート」からわかる日本人の価値観、人間関係、就労スタイルなどを基に、世代別の消費行動などをひも解こうと試みています。今回の基礎となる調査は2018年に全国15歳以上80歳未満を対象に実施されており、2018年11月8日付けでニュースリリースが明らかにされています。本書では、世代的には、かの有名な独特のパターンを形成している団塊世代(1946~50年生まれ)から始まって、私なんぞが含まれるポスト団塊世代(1951~59年生まれ)、大学を卒業したころにバブルを経験するバブル世代(1960~70年生まれ)、団塊世代の子供達から成る団塊ジュニア世代(1971~75年生まれ)、さらにその後に生まれたポスト団塊ジュニア世代(1976~82年生まれ)、バブルを知らないさとり世代(1983~94年生まれ)、我が家の子供達が属するデジタルネイティブ世代(1995~2003年生まれ)に分割しています。第1章では、スマートフォンの普及などにより家族が「個」化していき、家族団欒が消失して消費が文字通りの「個人消費」となって行きつつある我が国の消費や文化を見据えて、第2章では世代別に価値観などを分析し、団塊世代や私のようなポスト団塊世代では日本に伝統的・支配的だった価値観が変容しつつあり、また、我が家の子供たちのデジタルネイティブ世代では競争よりも協調を重視し、全国展開しているブランドへの信頼感高い、などとの結論が示されており、さすがに、私の実感とも一致していたりします。また、最後の第3章では「二極化」と総称していますが、要するに、一見して相反する消費の現状を4つの局面から把握しようと試みています。すなわち、利便性消費 vs. プレミアム消費、デジタル情報志向 vs. 従来型マス情報志向、ネット通販 vs. リアル店舗、つながり志向 vs. ひとり志向、となっています。それぞれに興味深いところなんですが、3番目と4番めについては、時系列的に、ネット通販⇒リアル店舗、また、つながり志向⇒ひとり志向、という流れで私は理解しており、特に、ネット通販で大手筆頭を占めるアマゾンがリアルの店舗を、しかも、レジなどのない先進的なリアル店舗を始めたというニュースは多くの人が接しているんではないでしょうか。また、つながり志向にくたびれ果てて、結局ひとりに回帰するというのも判る気がします。ボリューム的にも200ページ余りで図表もあって、2~3時間で読み切れるもので、内容的にも「ある、ある」的なものであるのは確かなんですが、世間一般で言い古されたことばかりが目立ち、特に、何か新しい発見があるのかとなれば、とても疑問です。学問的には世間一般の実感をデータで裏付けるのは、それなりに意味あるんですが、本書については、消費の最前線でマーケティングなどに携わっているビジネスパーソンには、誠に残念ながら、目新しさはほとんどなさそうな気もします。
次に、三浦しをん『のっけから失礼します』(集英社) です。著者は押しも押されもせぬ中堅の直木賞作家の三浦しをんであり、雑誌「BAILA」での連載に、それぞれの章末と最後の巻末の書き下ろし5本を加えた「構想5年!」(著者談)の超大作(?)エッセイ集に仕上がっています。ということで、相変わらず、著者ご本人も「アホエッセイ」と呼ぶおバカな内容で抱腹絶倒の1冊なんですが、自分自身の興味に引き付けて野球のトピックを、また、著者の追っかけの趣向に呼応して芸能ネタを取り上げたいと思います。まず、多数に上るエッセイの中で野球をテーマにしているのはそう多くありませんが、笑ったのは、著者の体脂肪率が首位打者並み、というので、軽く3割をクリアしているんだろうと想像できます。私自身は2割もないので、守備のいい内野手、ショートやセカンドあたりか、キャッチャーでもなければレギュラーが取れそうもありません。それにしても、阪神の鳥谷選手がどうなるのか、とても気になります。アラフォーの女性編集者が、楽天ファンでありながら、横浜に入団するプロ野球選手になる自分を完璧にシミュレーションしているというのは、驚きを越えていました。私は長らく阪神ファンですが、こういった自分のパーソナル・ヒストリーを改ざんすることはしたことがありません。もうひとつは、追っかけ関係で、BUCK-TICKのコンサートに強い情熱をもっていたのは、以前のエッセイなどから明らかだったんですが、私が読み逃していたのが原因ながら、宝塚への傾倒も並大抵のものではないと知りました。知り合いから『本屋さんで待ちあわせ』でも宝塚や明日海りおの話題があったハズ、と聞き及びました。すっかり忘れていました。それはともかく、明日海りお主演の「ポーの一族」観劇を取り上げたエッセイはもっとも印象的だったうちの1本といえます。ほかにも、EXILEファミリーへの熱い思いなどもありましたが、ソチラは私にも理解できる気がするんですが、三浦しをんだけでなく、一部の女性の宝塚への情熱は私には到底計り知れない域に達している気がします。まあ、逆に、それほどではないとしても、一部男性がひいきにするプロ野球チームへの思い入れが女性に理解できない場合があるのと同じかもしれません。同じ年ごろの女性ライター、というか、早稲田大学出身の三浦しをんに対して、立教大学出身の酒井順子のエッセイは、よく下調べが行き届いたリポートみたいなんですが、まったく違うテイストながら、私はどちらのエッセイも大好きです。
次に、瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文藝春秋) です。今年2019年本屋大賞受賞作です。先週取り上げた『ベルリンは晴れているか』が3位で、2位以下が200点台の得点に終わった中で、この作品だけは400点を越えてダントツでした。それだけに、図書館の予約の順番もなかなか回って来ませんでした。主人公は女子高校生で、この作品の中で幼稚園前からの人生を振り返りつつ、短大を卒業して20代半ばで結婚するまでのパーソナル・ヒストリーが語られます。その人生は、穏やかなものながら起伏に富んでおり、水戸優子として生まれ、その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在は森宮優子を名乗っています。でも、「父親が3人、母親が2人いる。 家族の形態は、17年間で7回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。」とうそぶき、家族関係をそれとなく心配する高校の担任教師に対して、ご本人はひょうひょうと軽やかに、愛ある継親とともに、そして、友人に囲まれながら人生を過ごします。まあ、現実にはありそうもないストーリですので、小説になるんだろうと私は考えています。ということで、本書の隠し味になっているピアノについて、この感想文で語りたいと思います。主人公の母親が死んだあと、実の父親が再婚しながら海外勤務のために離婚し継母との日本での生活を選択した主人公なんですが、この2人目の母親がキーポイントとなり、何と、主人公にピアノを習わせるためにお金持ちの不動産会社社長と再婚し、さらに離婚の後、東大での一流会社勤務のエリートが親として最適と判断して再婚して主人公の人生を託します。主人公も期待に応えてピアノを習い、そのピアノが縁となって結婚相手と結ばれ、その結婚式でこの作品を締めくくります。まあ、ここまで出来た継母に恵まれることは極めて稀なわけで、その継母がピアノに愛着を持って調律すら自分でするようなお金持ちと再婚し、最後に、継子を託すに足るエリートと再婚するなんて、あり得ないんですが、この最後の継父が主人公の結婚相手をなかなか認めてくれないというのも、とてもひねったラストだという気がします。もちろん、とてもひねりにひねったストーリー、というか、プロットをを構成し、それをサラリと記述する表現力は認めるものの、ここまで不自然なプロットが進行していく必然性が大きく欠けている気がします。時系列的にそうなった、という流れのバックグラウンドにあるきっかけでもいいですし、何かの必然性、特に、継母の考えや心理状態なんかはもっと深く掘り下げられていいんではないかと思います。私の独特の考えなのかもしれないものの、我々通常の一般ピープルの普通の生活に比べたノーマルよりも、良からぬ方向やアブノーマルなものについては、殺人事件が起こるミステリが典型ですが、それほど詳細な叙述を必要としない一方で、ノーマルよりもさらにきれいで美しく、とても良い方向が示される場合は、なぜ7日を詳細に裏付ける必要があります。残念ながら、作者にはそのプロット構成力ないのか、それとも、私に読解力ないのか、その流れを読み取れませんでした。ですから、私は感情移入することが難しく、「アっ、そう。そうなんだね。」としか感じられず、別のストーリーもあり得るという意味で、実に、小説の舞台を離れた客席から観客としてしか小説を読めませんでした。ハラハラ、ドキドキ感がまったくないわけです。でも、そういった読み方がいいという向きも少なくないんだろうという気もします。小説の好きずきかもしれません。
次に、日本文藝家協会[編]『ベスト・エッセイ 2019』(光村図書出版) です。収録作品は、50音順に、彬子女王「俵のネズミ」、朝井まかて「何を喜び,何を悲しんでいるのか」、浅田次郎「わが勲の無きがごと」、東浩紀「ソクラテスとポピュリズム」、足立倫行「大海原のオアシス」、荒井裕樹「『わかりやすさ』への苛立ち」、五木寛之「『先生』から『センセー』まで」、伊藤亜紗「トカゲとキツツキ」、井上章一「国境をこえなかった招福の狸」、宇多喜代子「金子兜太さんを悼む」、内田樹「歳月について」、内田洋子「本に連れられて」、王谷晶「ここがどん底」、岡本啓「モーニング」、長田暁二「ホームソング優しく新しく」、小山内恵美子「湯たんぽ,ふたつ」、落合恵子「伸びたTシャツ」、小野正嗣「書店という文芸共和国」、角田光代「律儀な桜」、華雪「民―字と眼差し」、桂歌蔵「師匠,最期の一言『ハゲだっつうの,あいつ』」、角野栄子「アンデルセンさん」、金澤誠「高畑勲監督を悼む」、岸政彦「猫は人生」、岸本佐知子「お婆さんのパン」、北大路公子「裏の街」、くぼたのぞみ「電車のなかの七面相」、黒井千次「七時までに」、「共働きだった両親の料理」鴻上尚史、小暮夕紀子「K子さんには言えない夏の庭」、齋藤孝「孤独を楽しみ孤立を避ける50歳からの社交術」、酒井順子「郵便」、さだまさし「飛梅・詩島・伊能忠敬」、佐藤究「ニューヨークのボートの下」、佐藤賢一「上野の守り神」、沢木耕太郎「ゴールはどこ?」、ジェーン・スー「呪文の使いどき」、砂連尾理「ノムラの鍵ハモ」、朱川湊人「サバイバル正月」、周防柳「山椒魚の味」、杉江松恋「『好き』が世界との勝負だった頃」、瀬戸内寂聴「創造と老年」、高木正勝「音楽が生まれる」、高橋源一郎「寝る前に読む本,目覚めるために読む本」、高山羽根子「ウインター・ハズ・カム」、滝沢秀一「憧れのSという街」、千早茜「夏の夜の講談」、ドリアン助川「私たちの心包んだ人の世の華」、鳥居「過去は変えられる」、鳥飼玖美子「職業と肩書き」、永田紅「『ごちゃごちゃ』にこそ」、橋本幸士「無限の可能性」、林真理子「西郷どんの親戚」、原摩利彦「フィールドレコーディング」、広瀬浩二郎「手は口ほどに物を言う」、深緑野分「猫の鳴き声」、藤井光「翻訳の楽しみ 満ちる教室」、藤沢周「五月雨」、藤代泉「継ぐということ」、星野概念「静かな分岐点」、細見和之「ジョン・レノンとプルードン」、穂村弘「禁断のラーメン」、マーサ・ナカムラ「校舎内の異界について」、万城目学「さよなら立て看」、町田康「捨てられた魂に花を」、三浦しをん「『夢中』ということ」、村田沙耶香「日本語の外の世界」、群ようこ「方向音痴ばば」、森下典子「無駄なく,シンプルに。『日日是好日』の心」、山極寿一「AI社会 新たな世界観を」、行定勲「人間の奥深さ 演じた凄み」、吉田篤弘「身の程」、吉田憲司「仮面の来訪者」、若竹千佐子「玄冬小説の書き手を目指す」、若松英輔「本当の幸せ」、綿矢りさ「まっさーじ放浪記」となっています。収録順はこれと異なりますので、念のため。ということで、もちろん、作家やエッセイスト、あるいは、研究者などの書くことを主たるビジネス、あるいは、ビジネスのひとつにしている人が多いんですが、皇族方から、俳優さんなどの芸能人を含めて幅広い執筆陣となっています。昨年を中心に、いろんな世相や世の中の動きを把握することが出来そうです。掲載媒体を見ていて感じたんですが、京都出身だからかもしれないものの、全国紙の朝日新聞や日経新聞と張り合って、京都新聞掲載のエッセイの収録がとても多い気がします。毎日新聞や読売新聞よりも京都新聞の方がよっぽど収録数が多い気がします。何か、理由があるのでしょうか?
最後に、日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』(徳間文庫) です。文庫本で大きな活字ながら、700ページに達するボリュームです。私にして読了するには丸1日近くかかります。ということで、収録作品は作者の50音順に配されており、青崎有吾「時計にまつわるいくつかの嘘」、朝井リョウ「どうしても生きてる 七分二十四秒めへ」、朝倉かすみ「たんす、おべんと、クリスマス」、朝倉宏景「代打、あたし。」、小川哲「魔術師」、呉勝浩「素敵な圧迫」、小池真理子「喪中の客」、小島環「ヨイコのリズム」、佐藤究「スマイルヘッズ」、嶋津輝「一等賞」、清水杜氏彦「エリアD」、高橋文樹「pとqには気をつけて」、長岡弘樹「傷跡の行方」、帚木蓬生「胎を堕ろす」、平山夢明「円周率と狂帽子」、藤田宜永「銀輪の秋」、皆川博子「牧神の午後あるいは陥穽と振り子」、米澤穂信「守株」となっています。作者に関しては、大ベテランといえば聞こえはいいものの、要するにお年寄りから若手まで、バラエティに富んでいれば、作品もミステリや大衆的な落ちのある作品から、純文学、ファンタジー、ホラーにSF、さらにドキュメンタリータッチと幅広く収録しています。平成最後の昨年の傑作そろいを収録したアンソロジーに仕上がっています。
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