今週の読書感想文はマルクス主義の本をはじめとして計7冊!!!
今週の読書は、フランス系のマルクス主義の本をはじめとして、小説や時代小説のアンソロジーの文庫本まで含めて計7冊です。純粋の経済書はないかもしれません。本日もすでに自転車に乗って図書館回りを終えており、来週の読書も数冊に上りそうです。
まず、エリック・アリエズ & マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』(作品社) です。著者は、フランスおよびイタリア出身で、ともに現在はパリを拠点とする哲学ないし社会学の研究者です。フランス語の原題は Guerres et Capital であり、2016年のながら、201415年にかけて行われたパリ第8大学の共同セミナーでの議論が基となっています。著者はおそらく2人ともマルクス主義に基づく哲学者ではないかと私は想像しています。本書のタイトルからはゾンバルトの『戦争と資本主義』が思い起こされますが、広く知られたように、ゾンバルトは戦争がユダヤ的な資本主義経済の育成や成長に寄与した歴史を解き起こしています。まあ、ナチス的な歴史書です。それに対して、というか、何というか、本書はマルクス主義の観点から戦争がいかに資本に奉仕して来たのかを解き起こしています。ですから、本書ではレーニンや毛沢東らはクラウゼビッツの『戦争論』の影響下にあるとしつつ、フーコーやドゥルーズら、特にフーコーを批判的に引きつつ、クラウゼビッツ的に「戦争は政治の延長」という議論ではなく、むしろ逆転させて、金融資本主義がグローバルな内戦を引き起こしているとか、戦争福祉(ウォーフェア)が生活福祉(ウェルフェア)を準備したとか、主張しています。難しいです。その昔の学生のころにマルクス『資本論』全3巻を読み切った私でも理解が追いつきません。特に、本源的蓄積が永遠に続くというのは、レトリカルにおかしい気もします。永遠に続くのは資本蓄積であって、本源的蓄積とは定義が異なる気もします。何よりも、本書では戦争はケインズ的な政策における完全雇用の観点からだけ見ている気がします。というのは、私の考えでは、資本主義的な生産が景気循環、というか、恐慌ないし景気後退につながる最大のポイントは需要不足あるいは過剰生産です。その過剰生産を一気に解消するのが戦争であり、本書で「過剰生産」という用語がまったく出て来ないのには違和感を覚えます。生産手段を私有しつつ剰余価値の生産のために生産を一貫して拡大する資本主義的な生産は、労働力の再生産に必要な部分を超える過剰生産につながり、恐慌でモノが売れなくなり需要が不足します。ケインズ的な解決策の前には、いわゆる帝国主義により植民地を獲得し、典型的には英国とインドの関係であり、植民地を原料の入手元であるとともに生産物の市場として「活用」いたんですが、それでは資本主義的な生産の矛盾を本質的に解消することはできず、ケンズ政策が登場して政府が需要を創出することを始め、緊縮財政を放棄して赤字財政の下で売れ残ったモノを政府が買い支えるという構図になります。しかしながら、その過剰生産がケインズ政策でも手に余る、あるいは、均衡財政に誤って固執するような政府の下で余りに大規模になれば、資本の利益となるような戦争というはなはだ労働者階級には迷惑、というか、まさに文字通り破壊的なイベントにより売れ残りの生産物を一気に解消しようという圧力が生じます。その典型がナチス政権下のドイツで観察されるわけで、そして、そうならないように、緊縮財政を放棄して政府の財政出動による需要の創出が望まれるわけです。そのあたりの資本と戦争の関係が、本書では目が行き届いていない気がして、やや片手落ちのように読んだのは私だけなんでしょうか。
次に、森田長太郎『経済学はどのように世界を歪めたのか』(ダイヤモンド社) です。著者は証券会社の再建アナリストであり、日本の証券会社だけでなく、欧州系勤務のご経験もあるようです。ということで、かなりムリをしてお話を拡張していますが、基本は、経済学が世界を歪めたのではなく、黒田総裁以降の日銀の金融政策が著者のお仕事を歪めた、という主張を延々としているわけで、私の目から見て、控えめにいっても、時間のムダをした読書だった気がします。私の直感ながら、同じ証券会社にお勤めの株式アナリストであれば、まったく逆の見方が示された可能性も小さくないと思わないでもありません。ただ、ご本人は、本書を上梓するほどですから、こういった批判は先刻ご承知の上で、冒頭に、批判は甘んじて受ける旨を記しておきながら、第4章冒頭では、こういった批判はいわれのないものであると、批判によっては受け入れるものと受け入れないものを選別する姿勢を示しています。ですから、リフレ派の官庁エコノミストなどを戦前の「革新官僚」になぞらえたり、リフレ派エコノミストが主催していたいちごBBSをネトウヨと並べて論じたり、果ては、デフレを錦の御旗に見立てて金融政策運営のひとつの目標にした点を批判しながら、本書ではこういった政策をポピュリズム経済政策と称することもはばからず、私はともかく多くの人から見れば同じように見えかねない戦略を取っていたりします。大昔ながら、リフレ派の官庁エコノミストであり日銀政策委員まで出世された先輩との共著による学術論文ある私にはやや不愉快に見えます。基本的に、著作ですから著者ご自身の思いを表明するわけで、それがエコーチェンバーやフィルターバブルなどに影響された確証バイアスに基づくものである可能性も否定できませんし、こういった著者のポジショントークに類する著書は、それなりの批判的な読み方をする必要もあるような気がします。ただ、金融政策の論点はいくつか肯定できるものもあり、例えば、期待に作用する政策が実績への適合的期待が主である場合には、それほどの効果なく、インフレ・ターゲティングがそれに当たる、とか、リフレ派のマネタリスト的な施策が現時点でそれほど効果を上げていない、というのはそうなんだろうと思います。ただ、インフレ・ターゲティングを採用するとハイパーインフレを招きかねない、というその昔の日銀理論は、さすがに、恥ずかしくなったのか、どこかに、ハイパーインフレになる可能性はほぼないといった旨の記述を忍び込ませていたように思います。まあ、私から見ても、黒田総裁以降の日銀金融政策、かなりの程度にリフレ派の金融政策がデフレ脱却に決して効果が大きかったわけではない、というのは事実のような気がします。ただし、これは陰鬱な科学である経済学のひとつの限界である可能性もあり、それだけにさらなる経済学の進歩を私なんぞは望むわけで、MMT=現代貨幣理論などに注目したりするわけです。リフレ的な金融政策が思ったほどの効果なかったという意味で、ある程度のコンセンサスあるとすれば、あくまで、その仮定の下で、経済学はダメだと主張したりして、まあ、極論すれば、昔の日銀理論に戻って金融機関、特に債券部門を儲かるようにしてくれ、とボヤくのか、それとも、経済学の新たな進化を期待しつつ前に進むのか、その分かれ目が来ているのかもしれません。私は圧倒的に後者の立場です、というか、自分で新たな経済理論を打ち立てる能力には欠けますので、がんばって勉強を進めるわけです。その意味で、エコノミスト的な職業への復帰を来年の大プロジェクトとして、たとえ、どんなに障害が大きくとも取り進めようとしています。風向きが変わって、その昔はタップリ公共事業で甘い汁を吸えたのに、今はサッパリだめだ、と嘆くだけでは何もできそうもない気がします。
次に、ベルトラン・ピカール(まえがき) & セドリック・カルル/エリック・デュセール/トマ・オルティーズ(監修)『エネルギーの愉快な発明史』(河出書房新社) です。著者のリストは本書の巻末に収録されていて、上の表紙画像に見える人名は基本的に監修者なんですが、多くの監修者と著者はフランスでご活躍の方々ではないかと想像されます。というのは、参考資料がほぼほぼすべてフランス語文献だからです。フランス語の原題は Rétrofurtur であり、2018年の出版です。本書で取り上げられている発明は、エネルギーに関するものが主ではあるんですが、必ずしもエネルギーに限定されることなく、幅広く収録されています。ですから、共通するのは、「エネルギー」というくくりではなく、むしろ、一部の例外を除いて、「実用化ないし量産化されずに終わった」という点ではないかと思います。そういう観点から邦訳タイトルも選ばれているような気がします。なお、オリジナルの原書にあるエピソードに加えて、邦訳書では日本独自の発明のエピソードを数例加えているようです。屋井先蔵の世界初の乾電池とか、こたつの最盛期、とかです。1780年のラヴォワジエの足温器から始まって、時代を下りつつ、いろんな発明品が紹介されています。その合いの手に、電気飛行機や特許などの特定のエピソードに関するエッセイがはさまれています。いくつかのエネルギーに関する発明品で強調されているのは、部屋やその空気を温めるのではなく、人を温めることによる効率化です。日本の例として付け加えられたこたつなどは典型で、ほかにもいくつか見かけました。これは私も合意できる点ではないかと思います。本書冒頭のラヴォワジエの足温器がそうですし、実用化されたゆえに本書に収録されていない発明品の中にも、使い捨てカイロなどもそうではないかという気がします。1970年代にはいわゆる石油危機が2度に渡って発生し、エネルギーをはじめとする相対価格が大きく変化し、特に、最近では地球温暖化防止との関係で、化石燃料に対する再生エネルギーの優位性が考慮されたりする中で、本書に収録された発明品は経済学的にコスト・ベネフィットがよろしくなかったか、あるいは、工学的に技術が及ばなかったか、のどちらかの要因で実用化・量産化されなかったものが多いのではないかと考えられますが、将来的な相対価格の変化や技術進歩により、あるいは、あくまであるいは、なんですが、本書に収録された技術にブレイクスルーが生じる可能性がないとはいえません。まあ、たぶん、そんなものはないとは思うんですが、エネルギーやエネルギーに限定されずとも、幅広く技術に関する温故知新を求めるのは決して悪いことではないんではないか、という気がします。
次に、リチャード C. フランシス『家畜化という進化』(白揚社) です。著者は、米国にて生物学の博士号を取得し、研究者の経験もあるサイエンス・ライターです。英語の原題は Domesticated であり、2015年の出版です。家畜やペットとして、ヒトはオオカミをイヌに進化させ、イノシシをブタに進化させたわけですが、ダーウィン的な進化論でも自然選択=natural selectionとともに、人為選択=artificial selectionという用語があるのかどうか知りませんが、本書では頻出します。そして、イヌなどのように動物の方からヒトに近づいて食べ残しをエサとして得て、ペットも含む概念として家畜化するケースもあれば、トナカイやラクダのように狩人が生け捕りした動物をヒトが飼い始めるケースもあるようです。ということで、本書では章別に家畜化された動物を取り上げています。最初の章は、やや日本人には奇異に映るキツネから始まって、最後はヒトそのもので終わっています。家畜化は体形や形状などの見た目や機能よりも、先に従順化という性格的な変化から生じるとされ、その意味で、幼児期に特徴的な性質などが成体になっても維持されるペドモルフォーシスは、私の理解ではネオテニーの一種なんですが、広く見られると本書では指摘します。他方で、本書のスコープの外ではあるものの、ヒトが家畜化に成功せず、結局、絶滅してしまった、もしくは、ヒトが絶滅させた動物も少なくないわけで、家畜化というのは動物がヒトに屈服したわけでも何でもなく、進化のあり得る形として生き残り戦略のひとつとも考えられます。家畜化の要因として、性格的な従順さももちろん重要なんでしょうが、齧歯類のモルモットに見られるように、見た目も重要そうな気がします。私は「長い物には巻かれろ」の方で、絶滅させられるよりは、食肉にされたり使役を提供したりしつつも、種として生き延びるのは重要な観点であると考えます。ただ、本書については、研究者ではなくライターだからなのかもしれませんが、科学的な見地よりも著者の見聞きした範囲のお話が多いような気もします。ネコについては、著者個人の「ネコ大好き」の愛情があふれています。そうでない読者が読んだら、ひょっとしたら嫌悪感を持つかもしれません。また、サンタクロースの乗るそりをトナカイが引くのはなぜか、といった動物、というか、家畜に関する逸話もいくつか収録しています。最後の方の章が人間の進化と社会性について割かれており、私は家畜を飼う立場の人間としての進化と社会性を期待したんですが、逆でした。むしろ、小さい子供が家畜的に育てられ、ネオテニーを呈するという意味で、人間の家畜的な面をあぶりだそうと試みています。エコノミストとして、家畜を用いれば生産性が向上するわけで、例えば、ウシを耕作に使えば農業生産物が多く収穫出来たり、ウマを使って遠くの人間との交易で生活が豊かになったり、あるいは、食肉としてヒトそのものの進化に貢献したり、はたまた、ウマやラクダが化石燃料を用いる移動手段に取って代わられたり、などなどといった家畜を使う便益のような事例の分析を期待していたんですが、少し違和感を覚えてしまいました。
次に、中島京子『夢見る帝国図書館』(文藝春秋) です。作者は、『小さいおうち』で直木賞を受賞した小説家で、私は誠に不勉強にして、この作者の作品はこの直木賞受賞作しか読んだことがありませんでした。この作品は、作家の主人公と喜和子さんという高齢女性を軸に、今世紀に入ってからの上野を舞台にしながら、明治までさかのぼって帝国図書館の歴史をひも解きつつ、歴史的事実と書物や図書館を軸にした人間模様を描き出しています。戦争の戦費に予算を食われて、一向に図書館整備が進まない歴史的事実をドキュメンタリーとして幕間にはさみつつ、特に、樋口一葉などから始まって女性作家にも目を配りつつ、明治以降の作家を主人公と喜和子さんが、あるいは、喜和子さんの愛人だった博覧強記の元大学教授などが語り合い、ストーリーは進みます。その中で、謎に包まれた喜和子さんの人生が、図書館や本、特に絵本とともに、タマネギの皮をむくように少しずつ明らかにされて行き、登場人物すべての本や図書館に対する愛情あふれる性格がきれいに浮かび上がります。私は10年ほど前に地方に単身赴任して、長崎大学経済学部の教員をしていた経験があり、その際には、レジュメを配布している教員が少なくない中で、私だけは教科書を指定して、教科書であれば定期試験の折りに持込み可能という特典を設けて、積極的に教科書を買うように学生諸君おススメしていました。誠に残念ながら、自分で書いたテキストではなかったんですが、少なくとも現時点くらいの技術動向であれば、大学のテキストは本で買った方がいい、と今でも考えています。あまり機会があるわけではありませんが、大学教員公募に応募して1次の書類審査を突破して2次の面接に進んだ際にも、同じように教科書の効用を申し述べたことがあったりもします。もちろん、この先、だいぶんとまえに百科事典が家庭から消えたように、家の中から本棚が駆逐されて本はタブレットなどで電子書籍を読む、というスタイルになれば、まあ、話は別なんでしょうが、現時点では、私のように定年退職したエコノミストが家庭の本棚に大学のころの教科書や古典書を置いておくというのは、少なくともアリだと考えています。私の大学生のころの教科書なんて、ハードカバーはいうまでもなく、箱があったりしましたし、今ではインテリアとしての役割しか果たしていない気もしますが、それでも、本を読むとはこういうことである本棚でと主張しているようなところがあります。私のような本好き、読書好き、図書館好きには、とても訴えかけて来るものが大きい小説だった気がします。
次に、山岡淳一郎『生きのびるマンション』(岩波新書) です。著者は、ノンフィクション・ライターであり、必ずしも建築や住宅を専門にしているわけではない、と私は理解しています。本書では、マンションという建物ハードとそこに住む住民の2つの「老い」を理解すべく、また、建築業界の悪しき旧弊を駆逐すべく、いろんなトピックに渡って取材結果が盛り込まれています。特に、マンションは都市部に多く立地していて、ここ10年余りの間に高層の、いわゆるタワーマンションもアチコチに竣工していますから、マンション住民は決して少なくなく、そのまま朽ち果てるマンションや人間もかなりの割合に上りそうな気がします。というのも、昔から「住宅双六」というのがあり、学校を卒業して就職して、まずは独身寮や単身者向けのアパートなどに入ります。もちろん、大学生になる際に親元を離れて、下宿やアパートに入る場合もあり、我が家の2人の倅はこの段階ではなかろうかと考えないでもありません。そして、結婚して世帯向けの社宅や賃貸マンションに入ります。私の場合、公務員で官舎が潤沢に準備されていて、さらに、私自身に海外勤務が少なくなかったこともあり、この段階が長かった気がします。そして、やや狭めの賃貸マンションから、少し広めの分譲マンションに移り、最後に、庭付きの一戸建てで人生を終える、というカンジではないでしょうか。でも、繰り返しになりますが、マンションで人生を終える人も、特に都市部では少なくありません。ただ、本書でも指摘されているように、我が国の不動産といえば上物の家建物は評価されず、土地神話がまだまだ残っているのも確かです。ですから、マンションを修理しながら長く住み続けるという発想が乏しく、デベロッパーは新築マンションを売り抜ける、というビジネス・パターンを取りがちでメンテナンスに力は入りません。そこに、悪質コンサルや施工業者がつけ込んで、リベートを上乗せした高価な工事を発注させたり、談合のような競争なしでの工事受注が広まったりすると、本書では警告しています。そういった悪例に対して、みごとにメンテナンスされ、それゆえに、中古マンションとしても価格を維持しているような優良物件も紹介されています。マンションは住まいであるとともに、個人の資産でもあり、さらに、特に大規模なマンションであれば地域に及ぼす影響力も決して無視できません。さらに、リゾート・マンションのようなマルチハビテーションの一環で、住民の本拠地になっていないマンションもあります。どのようにすれば、住まいとして、資産として、地域に一定の影響力あるプレイヤーとして、マンションをよりよくすることが出来るのか、なかなか示唆に富む新書だった気がします。
最後に、日本文藝家協会[編]『時代小説 ザ・ベスト 2019』(集英社文庫) です。昨年出版された時代小説のうちの短編11作を収録しています。収録作は、吉川永青「一生の食」、朝井まかて「春天」、安部龍太郎「津軽の信長」、米澤穂信「安寿と厨子王ファーストツアー」、佐藤巖太郎「扇の要」、中島要「夫婦千両」、矢野隆「黄泉路の村」、荒山徹「沃沮の谷」、伊東潤「大忠の男」、川越宗一「海神の子」、諸田玲子「太鼓橋雪景色」となっています。一部の例外はあるものの、かなり極端に、大御所の大ベテランと若手に二分された気がします。私の歴史小説観は、天下泰平の江戸期の武士階級を主人公に、封建制下での主君が資本制下での会社のように倒産することないことから、思う存分にお家騒動に没頭する、というものですが、もちろん、そうでない作品もいっぱい収録されています。特に米澤穂信作品は時代小説としてはとても異色です。私の好みとしては、ここ23年で新しく出現した若手作家の周防柳の作品を収録して欲しかった気がします。私は、『逢坂の六人』、『蘇我の娘の古事記』、『高天原 厩戸皇子の神話』の長編3作しか読んでいませんが、江戸期よりももっと古く、我が国の古典古代といえる飛鳥・奈良期から平安期を舞台にした時代小説に大いに注目しています。
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