先週の読書は統計の学術書をはじめ計6冊!!!
先週の読書は、スティグリッツ-セン委員会リポートの後継となる統計の専門書をはじめとして計6冊です。そろそろ、本格的な夏休みが始まりますので、読書計画も考えていたりします。
まず、ジョセフ E. スティグリッツ & ジャン=ポール・フィトゥシ & マルティーヌ・デュラン[編著]『GDPを超える幸福の経済学』(明石書店) です。編著者の3人はスティグリッツ教授はノーベル経済学賞受賞者であり、米国を代表するエコノミストの1人ですし、フィトゥシ教授もフランスを代表するエコノミストの1人です。デュラン氏はOECDの統計局長です。本書は、当時のフランスのサルコジ大統領が主導したスティグリッツ-セン委員会の後継グループの研究成果を取りまとめています。英語の原題は For Good Measures: Advancing Research on Well-being Metrics beyond GDP であり、2018年の出版です。英語の全文リポートも Initiative for Policy Dialogue のサイトにアップされています。日本語タイトルは「幸福の経済学』と要約されていますが、その計測についての議論を収録しています。ですから、かなり議論は専門的かつ技術的なものとなっています。その道の専門家でないと読み解くのは難しいかもしれません。いずれにせよ、私のようなマクロ経済ないしマクロ経済の応用分野を専門とするエコノミストにとって、もっとも重要な指標のひとつはGDPであることは確かです。しかしながら、そのGDPは開発が始まってから100年近くが経過しており、そもそも、戦後直後からそれなりの批判あったことも確かです。私の直観からいえば、GDPは製造業を付加価値を生み出す中心的なセクターとする経済指標であり、ペティ-クラークの法則が示す通り、第1次産業から第2次産業、そして、第2次産業から第3次産業へと付加価値生産や雇用が重心を移す中で、どこまで経済の進歩を計測するに耐えられるか、という点からは疑問が出されています。本書でも、第1に、教育や医療などの市場を経由しない社会的取引、第2に、付加価値生産というフローにとどまらないストックの考慮、特に、げんざいのSNA統計でも把握されている生産資本だけでなく人的資本や自然資本の計測、第3に、平均や中央値で捉えるだけではなく分布の重視、といった観点から統計を研究した成果となっています。加えて、GDPなどの経済統計はあくまでひとつの数値として結果が示されますが、そういった従来的な統計値ではなく、幸福度などにおけるダッシュボードの採用の可能性なども議論しています。その上で、邦訳タイトルにあるように、幸福指標を考慮し、経済的安定性や不安定性、さらに、SDGsに整合的な経済的持続可能性の考慮などなど、新たな経済統計の進むべき方向が示されています。実は、私のシェアリング・エコノミーに関する研究成果も幅広い意味では、こういった研究の一環なんですが、はなはだ研究水準に不満が残り、分野も限定されている、というのは今後の課題としておきます。
次に、日本経済新聞社[編]『NEO ECONOMY』(日本経済新聞出版) です。上の表紙画像にも見られるように、PHISICAL→INTANGIBLE とあり、有形資産から無形資産へ、あるいは、もっと俗な表現をすれば、ハードからソフトへ、という経済社会の変化をいろいろとデータを織り交ぜながら解き明かしています。書籍として面白い試みと感じたのは、本書冒頭でINTRODUCTIONとしてSECTION 4まで主としてグラフを並べて導入部としています。ほとんど出典がないので、私の学生なら辛めの点をつけますが、まあ、学術書ではないので、それほど気にする必要はないのかもしれません。その昔から、ペティ・クラークの法則というのを高校で教えていて、経済社会の歴史が進むにつれて、1次産業から2次産業へ、そして、2次産業から3次産業へと生産も雇用もシフトする、という経験則があります。本書ではこれを進化と捉えているようで、私も異論ありません。そして、富や付加価値に近い概念だろうと思いますが、いわゆる経済的な効用がモノというか、財ではなく、ソフトなサービスからより多く得られる経済社会に変化しているという認識です。そして、そういった経済的な効用を生み出す資本についても、機械や建物のような物的な資本から、ソフトな資本にシフトしている、というわけです。本書の副題は『世界の知性が挑む経済の謎』となっていて、問題は、そういった経済活動を計測する不法がまだ確立しておらず、従って、先週の読書感想文で取り上げた『EBPMの経済学』のように、エビデンスがまだ得られていませんので、政策対応も出来かねている、という現状に対して世界の知性が挑んでいる、ということなのだろうと思います。我が国の統計では、ほぼほぼGDP統計中心に公的統計が整備される方向で進められていますが、本書で議論されているように、現在、いっそう大きな経済的な効用を生み出すようになったソフトな生産物とその生産手段たるソフトな資本をどう計測するか、については、まだ手を付けられてすらいません。というか、私も官庁エコノミストだったころに、あくまで部分的ながら、シェアリング・エコノミーの計測を試みましたが、おそらく、本書で議論しているようなソフトな経済的効用については、GDPとは異なる概念で計測するべきと考えています。それを幸福度と呼ぶかどうかはまた別のお話ですが、少なくとも、こういった経済社会の歴史的な方向に、例えば、労働条件や物価などの面から少なからぬ異論や異議が出るであろうことも確かです。私も疑問は大いに持っていますし、おそらく、現在の先進国に蔓延しているネオリベラルな経済理論や政策では対応、というか、制御できかねる部分が多々あろうという気はします。おそらく、キチンと限界生産性に従った価格付けがなされ、財貨やサービスの希少性が減じて行くに従って、今のように企業の利益が増加するだけでなく、賃金上昇はいうまでもなく国民生活全般の豊かさにつなげることの出来る経済理論と政策が求められているのであろうと私は受け止めています。私の同僚の中には、それを本来の社会主義、あるいは、共産主義と呼ぶ人もいそうな気がします。
次に、斎藤恭一『大学教授が、「研究だけ」していると思ったら、大間違いだ!』(イースト・プレス) です。著者は、千葉大学工学部の化学系の教授を定年退職した研究者です。本書のタイトルから明らかな通り、通常、大学教授とは研究と教育に携わるんですが、それに加えて、主として、受験者集めを目的とする広報活動と大学運営、というか、経営も含めた4つの活動について、ほぼほぼ著者の経験から解き明かそうと試みています。私も基本的に著者の同業者ですから、内情はそれなりに理解します。ただ、現在の私学では新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の影響もあって、対面授業がほとんどなく、リモート授業が圧倒的ですし、10年ほど前にも私は大学教授をやっていた際には出向教員ということで、学部や大学の広報や運営にはほぼほぼ携わらなかったものですから、かなり新鮮な部分が多かった気がします。私は広報活動というのはカギカッコ付きの「営業」だと考えているんですが、確かに、10年ほど前は私が出向していた長崎大学経済学部の前期入試の受験倍率が2倍に近づいて、もっと倍率をあげないと優秀な学生を取れない、という危機的な状況を見た記憶もあります。ただ、本書の著者も国立大学教員ですし、決して国立大学だけではなく、現在は私学も政府からの助成金がかなりの割合を占めていますから、公務員と同じように「親方日の丸」というのは国立大学も私学もほぼほぼ共通しています。でも、少なくとも、著者が受験生集めの「営業」に精を出して、いわゆる拡大均衡の方向に持って行こうとしている姿はとても好感が持てました。学生の質を確保するために入試倍率を上げようとすれば、入学定員を削減するという方向もあるからです。その昔の文部科学大臣で、大学、あるいは、大学生の希少性を維持しようと、新規の大学や学部の設立に待ったをかけようと試みた政治家がいましたが、それはそれで希少性を維持できるとしても、本書の著者とは逆の縮小均衡の方向です。なお、どうでもいいことながら、私は経済学部の大学教員ですので、それほどの不人気学科ではないような気もしますが、少人数教育の演習=ゼミの学生募集では大いに苦戦しており、不人気ゼミの教員ですから、それなりに共感するところはありました。
次に、酒井敏ほか『京大変人講座』と『もっと!京大変人講座』(三笠書房) です。よく私には判らないんですが、京都大学が一般市民向けの公開講座のような形で「変人講座」という講演会を開催しているようで、その講演録のようなものではないかと思います。その講座を主宰している酒井先生は一昨年だと記憶していますが、集英社新書で『京大的アホがなぜ必要か』という本も書いています。京大は我が母校であり、当然のように東大と比較される唯一の存在と考えていいと思いますが、もちろん、本書にもあるように、そもそもの成り立ちが東大と京大で異なっていて、東大はまさに政府機関の職員=公務員の養成学校であり、京大はその東大的なものは極めて少なくなっています。反骨自由の精神といったもので、私のようにキャリア国家公務員になる卒業生は決して多くありません。でも、私の知る限りでも、京大だけでなく東大にも変人はいっぱいいます。もちろん、「変人」の定義にもよるわけですが、京大の変人講座に登場する研究者だけで見れば、むしろ、東大の方が変人は多そうな気すらします。繰り返しになりますが、「変人」の定義によります。普通、自分の所属する極めて狭い世界ではOKかもしれないものの、いわゆる世間一般とはズレのある人物ではないか、と私は考えており、霞が関の官庁街にはいっぱいいましたし、東大や京大に限らず大学をはじめとする研究機関にもいっぱいいます。どうしてかというと、それ以外の世界を知らないからです。例えば、もう亡くなった私の京大の恩師は、オギャーと生まれて18歳で高校を卒業して京大に入学し、その後、大学院、京大の教員、もちろん最後は教授になり、その間、持ち回りのように経済学部長まで務めましたが、逆に、卒業生の多くが就職するようなサラリーマンの世界はまったく知らなかったんではないか、という気がします。ですから、テレビのワイドショーで、芸能人やスポーツ界から引退したコメンテータがサラリーマンの、例えば、非正規雇用なんてどこまで理解しているかは疑問だと私は考えていましたが、実は、私のように社会人採用から大学教員になった例外は別にして、多くの大学教授もサラリーマンはやったことがなく、最低賃金やホワイトカラー・エグゼンプションなんて、議論できるだけの素地があるのか、という疑問すらあります。とまでいうと極端ですが、別の観点からは、世間一般と同じ見方・考え方をしている人たちだけで世間が構成されているというのも、私は恐ろしいいお話だと考えます。一応、多様性という観点から、無害な変人は許容されるべきである、というのが私の考えです。
最後に、小林雅一『仕事の未来』(講談社現代新書) です。著者は、技術系の研究所の研究者であり、ITやライフ・サイエンスなどの専門家だそうです。サブタイトルを見ても理解できるように、「仕事」という切り口からまったく異質な2つの観点を提示しようと試みていて、私は成功しているかどうかは疑問です。ひとつは仕事をやる上で、AIやロボットの果たす役割、ないし、人間労働との代替の可能性です。GAFAのうちのGoogleとAmazonを特に取材して、必ずしもテレワークが順調に行っていない点や創業者の個性とも照らし合わせながら、従業員ないし経営層が協調的か、あるいは、論争的か、といった視点からの経営の質的な見方を打ち出しています。もうひとつは、日本でもUberEatsの自転車を見かけるようになりましたが、ギグワーカーのお仕事が雇用者ではなく独立した自営業者として行われているために何の雇用の保護も受けられない、などの働き方の問題です。昨年2019年10月にローゼンブラット『ウーバーランド』の読書感想文を取り上げましたが、まさにその観点からの批判的な検討がなされています。どちらの観点も重要ですが、私自身はAIやロボットによる人間労働の置換については、著者ほど楽観的には見ていません。典型的には、マルクス主義的な疎外が重大化し、まさに、物神化=フェティシズムの果てまで行ってしまう可能性が十分あると恐れています。まったく同様に、現在のようなネオリベ的な経済政策の下で、企業向けには各種の優遇策を打ち出しながら、そこで働く雇用者には生産性向上などに向けた「自己責任」を強調するわけですので、企業に雇用されないギグワーカーがいっそうの「自己責任」を課されることは間違いなく、かつて、派遣社員やその他の形態の非正規雇用を「新しい働き方」であるかのごとくに推し進めようとした反省を、このギグワーカーには応用すべきと考えています。
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