今週の読書は話題の経済書をはじめとして新書も含めて計5冊!!!
今週の読書は、サンスティーン教授らの行動経済学のナッジに関する経済書をはじめとして、やっぱり、新書も含め計5冊です。久しぶりに読んだ宮部みゆきの時代小説だけは生協で買いました。ほかは京都市図書館と大学の図書館で借りています。
まず、キャス・サンスティーン + ルチア・ライシュ『データで見る行動経済学』(日経BP) です。著者のうち、サンスティーン教授は米国ハーバード大学教授であり、専門分野は法制度から行動経済学までいろいろとやっています。米国オバマ政権では行政管理予算局情報・規制問題室(OIRA)室長を務めたリベラル派の研究者です。また、ライシュ教授はコペンハーゲン・ビジネススクールの教授であり、専門は消費者政策と健康政策に関わる行動経済学的研究です。パッと見の名前だけで、クリントン政権で労働朝刊だったライシュ教授かも、と考えなくもなかったんですが、専門分野が違うようです。英語の原題はで Trusting Nudges あり、2019年の出版です。なお、阪大の大竹教授が冒頭の解説を書いています。ということで、前置きが長くなったんですが、本書の評価は分かれると思います。高い評価としては、行動経済学について独自データを取っての分析を実施している点が主になろうかという気がします。ただ、オンライン調査ですし、ほかに行動経済学のデータがないわけではありません。主として国別のデータであるというのが重要なのだろうと思います。すなわち、国別に本書第4章p.89にある15のナッジに関するデータです。もちろん、日本も含まれています。とても予算のかかった力作であることは確かです。ナッジの原則を抽出し、多くの人が合意できる内容の操作性低いナッジへの酸性が幅広く観察されています。こういった原則を定量的に確認するのは大いに意味のあることだと私は考えます・ただし、逆に低い評価となるのは、まあ、いってしまえば、単なるメタレベルの研究成果であるに過ぎない、という点です。さらに、私自身もそうですし、本書第7章で「誤解」として紹介されているように、ナッジに対する批判が大きい点です。特に、第7章で最後に挙げられているように、私はナッジというのは周辺の小さな問題しか解決できない、と常々考えています。喫煙量を減らすとか、肥満を防止するのも選択の科学としての経済学の大事な役割であることは決して否定しませんが、貧困や不平等、あわせて、途上国の開発、さらに、雇用の最大化、物価の安定、景気循環の平準化、などなど、経済学が取り組むべき課題はいっぱいあります。そういったさまざまな課題に取り組むのが経済学に必要とされた役割であると考えるエコノミストは私だけではなさそうな気がします。ついでながら、日本は国別調査結果の中で、特にナッジに対する疑問が大きい例外として「慎重型ナッジ支持国」に無理やり分類されています(p.145)。政府に対する信頼感が特に低いことが要因のひとつと指摘されています。ただし、最後に、本書のスコープには明らかに含まれませんが、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のもとでのロックダウン、あるいは、日本的な自粛のスムーズな運営のためには、ナッジの応用が求められる可能性が高まっています。本書では、何らCOVID-19に関する諸問題が含まれていませんが、今後の課題かもしれません。

次に、朴勝俊・シェイブテイル『バランスシートでゼロから分かる 財政破綻論の誤り』(青灯社) です。著者は、関西学院大学の研究者とブログやツイッターで情報発信をしている貨幣論研究者だそうです。本書では、基本的に、現代貨幣論(MMT)に近いラインで反緊縮財政の議論を展開しています。もちろん、その主眼はタイトルから理解できるように、貨幣発行権があって変動相場制を取っている主権国家が財政破綻する可能性はとても低い、ということを論証しようと試みています。それを、バランスシートの観点から議論を展開しているんですが、私は前々から指摘しているように、MMTのような議論は特に必要でもなく、従来からの主流派経済学の立場から、例えば、ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマン教授も認めているように、国債利子率が成長率を下回って、動学的効率性が喪失されている、ないし、動学的非効率に陥っている場合は、財政のサステイナビリティは何ら問題ない、と考えています。もちろん、動学的に非効率なんですから問題がないわけではなく、資本が過剰に蓄積されているわけで、資本生産性が動学的に効率的な場合よりも低くなっていて、従って、資本ストックを取り崩すことによりパレート効率が取り戻せるわけですが、まあ、財政が破綻しない方が重要という価値判断も大いにあり得ます。というか、私はその方が重要ではないかと考えます。本書を私のような主流派エコノミストが読んだ際の問題点は2つあり、ひとつは財政破綻の定義が9項目上げられていますが、通常、主流派エコノミストはポンジー・ゲーム禁止条件(NPG)を定義にしそうな気がします。ただ、NPGは政府債務返済とほぼほぼ同義ですから、本書の立場からは詰まんないのかもしれません。もうひとつは、開放経済への拡張が無視されている気がします。というのは、日本はまだまだ大国ですが、小国を仮定した場合、マンデル・フレミング的なモデルでは、小国は変動相場制下では独立した金融政策を失う可能性があります。すなわち、国内金利が国際的な金融市場における金利に一致するからです。もちろん、そもそも国際的な金利なんてあるのか、という疑問は大きいです。小国の場合、どうして国内金利が国際金利水準まで上昇してしまうのかといえば、国内金利を低位に保つ、特に、成長率よりも低位に保つなら、資本逃避が生じて資本の希少性が増して、そのレンタル・プライスたる利子率が上昇するからです。国際金融のトリレンマのうちの2つまで放棄するハメになると、かなり政策運営が厳しそうな気がしますが、モデル的にはそうなります。ということで、モデルが非現実的なんではないか、という見方も成り立ちますが、理論経済学はいくつかのほかの科学と同じでモデルを基に研究する学問であることは忘れるべきではありません。もちろん、私なんぞは頭の回転が鈍くて理論は難しいので、実証経済学に重きを置く場合、適当にいろいろやってみた上で、試行錯誤が中心になったりする場合もあります。まあ、それも科学のひとつの方法論といえます。
次に、ラッデル・マックフォーター & ゲイル・ステンスタット[編]『ハイデガーと地球』(東信堂) です。著者は、本書pp.327-29に10人余り紹介されています。当然ながら、哲学や環境学の研究学が多くなっています。本書の原題は Heideggar and the Earth であり、2008年にトロント大学出版局から刊行されています。基本は、原書は英語で出版されているんですが、チャプターによってはドイツ語を英訳して収録した論文もあるようです。2008年はハイデガー生誕120年であり、その記念出版かという気もします。ということで、いくつか論点があるんですが、住まうということ(dwelling)などの視点から地球について、さらにやや牽強付会ながら地球環境についてのハイデガーの論考を考察しています。ただし、拙宅化してくれた京都市図書館には申し訳ないながら、久々に失敗読書だった気がします。ひとつは、読み終えた後、この読書感想文を書くために出版社のサイトで検索したところ、まったく同じ出版社から、まったく同じ書名で、10年前にも邦訳書が出版されています。『ハイデガーと地球』です。まあ、10年前に同じ書名の哲学書が出ていて、どうも、2008年のハイデガー生誕120年に近いわけですから、二番煎じなのか、それとも、新訳というべきなのか、いずれにせよ、10年前の本ではなかろうか、との疑問が生じます。次に、かなり難しい内容であることは確かなのですが、私にはサッパリ理解できなかったことです。私もキャリアの公務員を定年退職して、今の大学で教授職にあるわけですから、それほど知的レベルが低いとは思わないのですが、それでも、サッパリ理解できませんでした。「存-在 be-ing」と「存在 being」の違いは、判る人には判るんでしょうが、私には理解することの意味すら理解できませんでした。私の知性の限界、というか、私の知性の向かう方向とかなり角度が違うんだろう、という気がします。一般的に多くの人にオススメできる本ではありませんが、本当にしっかりと熟読して理解するようにがんばれれば、とても知的水準がアップしそうな気がしないでもありません。ほとんど理解できなかった私が何ら保証することはできませんが、ハイデガーや地球環境に強い興味があり、粘り強い読書ができる人にはオススメかもしれません。でも、一般的に多くの人は敬遠しておいた方がいいかもしれません。
次に、宮部みゆき『きたきた捕物帖』(PHP研究所) です。時代小説のミステリ仕立てで、短編4話というか、連作長編4章という見方もできます。私が聞き及んだウワサでは、これから先もシリーズ化されるようです。ということで、主人公は北一という岡っ引き千吉親分の手下で、千吉親分の本業である文庫の振り売りをしています。しかし、いきなり冒頭で千吉親分がふぐに当たって亡くなってしまいます。その後、千吉親分おおかみさん松葉や貸家や長屋の差配人の富勘こと勘右衛門らとともに、広い意味での事件を解決していきます。そして、第3話では湯屋の長命湯の釜焚きの喜多次とペアを組んで事件解決に当たるようになります。北一と喜多次でタイトルの「きたきた」の2人となるわけです。インドネシア語のジャラン=道とジャランジャラン=旅行を思い出してしまいました。なお、主要登場人物としては、北一、喜多次、松葉、富勘に加えて、旗本椿山家別邸である欅屋敷の用人を務める青海新兵衛という侍も、なかなか見事な脇役です。人物投函図を出版社のサイトから引用すると以下の通りです。
4章それぞれのあらすじを簡単に記しておくと、第1章ふぐと福笑いでは、福笑いの祟りを盲目の松葉が見事に解決します。第2章双六神隠しでは、子供3人が拾ったすごろくで遊んだことから神隠しにあったように行方不明になった謎を北一が解き明かします。第3章だんまり用心棒では、喜多次が長命湯の釜焚きとして登場し、男女の色恋の仲裁役になった富勘が道楽息子にお灸をすえたものの、意趣返しでさらわれた富勘をきたきた2人で助け出します。第4章冥土の花嫁では、なんと、盲目の松葉が謎を解決して大活躍します。この4章だけ人死にが出ます。なお、宮部作品の過去の本からのお楽しみがあるようで、主人公の北一が千吉親分の死後に住むようになる富勘長屋は、『桜ほうさら』の主人公である笙之介が住んでいたのと同じ長屋ですし、『<完本> 初ものがたり』で登場した「謎の稲荷寿司屋」の正体が明らかになります。もっとも、後者の『<完本> 初ものがたり』は私はまだ読んでいません。ということで、この新シリーズの先行きも楽しみなんですが、ぼんくらシリーズはどうなったんでしょうか。私はコチラも楽しみに待っています。
最後に、隈研吾・清野由美『変われ!東京』(集英社新書) です。著者は、建築家であり、東大教授をついこの3月いっぱいで退任された研究者です。東京オリンピックのメイン競技場の設計者としても人口に膾炙しています。その隈教授とジャーナリストの対談集です。本書の前に、同じ集英社新書で同じ著者2人の対談集で『新・都市論TOKYO』と『新・ムラ論TOKYO』という本が公刊されているようですが、私は不勉強にして読んでいません。ということで、著者、というか、主として隈教授は、都心の超高層オフィスビル群を「オオバコ」と称し、郊外の住宅を「ハコ」と読んでいます。ここから、東京の建築というのはは人々が通勤という形で「オオバコ」と「ハコの間を往き来することとなり、それが東京に関する都市建築論の基礎となるっています。ただ、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のためテレワークが普及し始め、「オオバコ」は不要な建築になりつつあります。隈教授がかかわりを持った建築として、シェアハウス、トレイラー、吉祥寺の焼鳥屋、バラック、木賃アパートなどの「ハコ」を、どうも、著者2人で見て歩いての対談が繰り広げられています。サライーマンと昔の武士との対比、というか、何らかの連続性については、私はよく理解できませんでした。まあ、しょうがないんですが、すべてが東京中心で、COVID-19の感染拡大の前に東京を逃げ出して、故郷の関西に移り住んだ私なんぞは、それなりに理解できなくもないものの、根っから東京をよく知らない、という人には少し不親切な東京論のような気もします。もちろん、東京も少子高齢化とともに小規模化するんでしょうが、地方はさらに東京を上回って小規模化、あるいは、ひどい場合には消滅する可能性もあるんですから、何事も、東京中心となるようです。東京ならざる地方に住むカギカッコ付きの「田舎者の僻み」かもしれません。
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