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2020年10月 4日 (日)

先週の読書は行動経済学の経済書をはじめとして計4冊!!!

昨日に、米国雇用統計が割り込んで、読書感想文がいつもの土曜日ではなく、今日の日曜日になりました。前回に続いて、またまた、行動経済学のナッジに関する経済書や私がかつて統計局で担当していた家計調査に関する統計書など、以下の通りの計4冊です。新書も入っています。なお、今週半ばに、綾辻行人の『Another 2001』が発売になって、私も久しぶりの長編なので買って読もうと考えていたのですが、悲しくも、1割引の生協には「そうは問屋が卸さない」ようで、生協で買うのは諦めてしまいました。

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まず、那須耕介・橋本努[編著]『ナッジ!?』(勁草書房) です。チャプターごとの著者や編者は、大学の法律の研究者が多いように見受けました。というのも、基本的に、本書はサンスティーン教授についての訓詁学に近いような批判的解釈を中心としており、その大元のサンスティーン教授が法学者なのですから、そうなのかな、という気がします。ホモ・エコノミカスてきな合理的判断と行動を限定的に否定して、ナッジによるリバタリアン・パターナリズムについての学術書です。いろいろな見方が示されていて、チャプターごとの著者で必ずしも整然と統一的見解があるようでもないと考えるべきですが、当然ながら、ナッジについては肯定的な見方が多くなっています。私は行動経済学はともかく、ナッジに関してはやや疑問が大きいと考えています。理由は、前回の読書感想文との重複を気にせず展開すると、第1に、一般論として、ナッジで解決ないし効率解に近づくことが出来るのはそれほど重要な経済社会問題ではないような気がします。もちろん、喫煙や肥満が重要でないというと反論がありえますが、政府の役割はもう少し違うような気がする、というよりも、ややアサッテの角度から反論が出て来る恐れがあります。例えば、大昔のフリードマン教授の『選択の自由』で大きな政府を攻撃していますが、私の記憶ながら、政府の役人がおもちゃのピストルを撃って安全性を確かめるような仕事をしていていいのか、という大きな政府批判がありました。喫煙や肥満はともかく、個別の問題に対するナッジによる政府の個人生活への介入は、右派から同様の批判を招く可能性があります。政府の経済政策は、貧困や不平等の是正、雇用の最大化、景気循環の平準化、公共財の提供、物価の安定、途上国の開発援助、などなど、もっと大きな問題に取り組むべきではないか、という批判にはどのように考えればいいのでしょうか。第2に、これは特殊日本だけかもしれませんが、政府に対する信頼感が低く、政府のナッジに対する批判は避けられません。典型的には増税に対する国民の考えがかなり先進国の中でも、日本は際立って否定的である点は考慮してナッジが設計されるべきです。私は何度かシンガポールを訪れた経験があり、シンガポール国民の政府に対する信頼感と日本では大きな差があると実感した記憶があります。しかも、日本国民は「お上」意識があって、ガバナビリティが高いだけに、かえって厄介ともいえるかもしれません。第3に、法学者や経済学者がナッジについて考えるよりも、販売促進部のマーケターや宣伝部のスタッフの方が肌で実感する部分の方が確度が高そうな気がします。肥満防止た喫煙率の低下を目指した政府のナッジよりも、むしろ、例えば、個別のビールの銘柄の売上増加を目指した宣伝活動の方がうまくやれそうな気がするのは、私だけなんでしょうか。

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次に、佐藤朋彦『家計簿と統計』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、総務省統計局を定年体感したOBで、実は、私とも同時期に統計局にいて面識があります。基本は、公務員OBのお仕事に関した本ですから、出版社から受ける学術書というイメージではありません。書名から明らかな通り、家計簿に基づいて作成されている家計調査に関する、まあ、ありきたりな表現ながら、ちょっとしたネタ本です。1920年の岩野教授の「東京ニ於ケル20職工家計調査」や1926年の「大正15年家計調査」などに始まった家計調査の歴史をひもといて、第3章から第5章までの小ネタの披露が本書の真髄なのだと私は受け止めています。私が担当課長だったころから、こういった小ネタの取りまとめは行われており、総務省統計局のサイトを探したところ、今でも、家計簿からみたファミリーライフを冊子で発行しているほか、家計ミニトピックスを毎月pdfのメモで出しています。ただ、さすがに、本書ほどのボリュームはありませんから、本書ではこういった統計局の無料の広報資料よりかなり充実した内容となっています。私が統計局で家計調査を担当していたのはもう10年近く前ですから、かなり忘れている部分もあって、とても興味深く拝読しました。高齢者でスポーツクラブ使用料が高い伸びを見せたり、長崎ではタクシー代支出が多いん、なんてのはまったく知りませんでした。加えて、若年層で新聞が購入されなくなっている、など、実感として感じることが出来るいろんな購買活動について、定量的な統計で把握することが出来ます。特に、ランドセルの購入時期が年々早くなっている、という点については、2才違いの倅を持つ身として実感しました。2003年9月にジャカルタから帰国して、1年生の上の倅のためにランドセルを買いに走りましたが、9月というタイミングでは世間でランドセルを取り扱っていませんでしたので、老舗の百貨店で在庫を確認して買い求めた記憶があります。ということで、もとてもいい本だという基本を踏まえつつ、著者ほどの見識あるなら、という観点から、2点だけ改善点を上げておくと、第1に、家計調査は日時で把握できるのは確かですが、その実例が半夏生でタコの購入が増えるというのは、いかにもマイナーな印象です。先ほどの家計ミニトピックスの中には、一応、半夏生のタコもあるんですが、それよりも、バレンタインデーのチョコレートとか、節分の恵方巻、といったいい例があるので明らかに見劣りします。第2に、最後の付録のe-statの使い方の解説はいかにも冗長で、ヤメといた方がよかった気がします。むしろ、apiを使ったデータ取得の方がずっと有益であったのではないか、と思わざるを得ません。ただ、繰り返しになりますが、慶應義塾大学出版会から出ているものの、決して学術書ではなく、一般読者でも興味深く読め、全体としてとても有益ないい本であることは当然です。

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次に、谷口将紀・宍戸常寿『デジタル・デモクラシーがやってくる!』(中央公論新社) です。著者は、ともに東大の政治学の研究者です。著者が、インタビューした結果も本書に収録されています。著者2にな決してテクノロジーの専門家ではありませんから、電子投票とかの方向に重点が置かれて、間接民主主義から直接民主主義を技術の観点から指向するという本では決してありません。もちろん、そういった方向は含みますが、それも含めて本書は3部構成となっています。すなわち、政治や民主主義に関する情報流通がデジタル化で変化するというのが第1部です。第2部では、そういった情報の流れに従って合意形成の仕組みも変わるという点が中心になり、第3部ではその意味から政治制度が従来の投票や間接民主主義からアップデートされる、という点が注目されます。ということで、冒頭の問いかけが、「政治はなぜ遅れているのか?」から始まります。一般に、日本という国は少し前まで経済は一流だが、政治は二流だといわれていて、その日本の政治について、加えて、経済や製造技術なんかと比較しての政治について、なぜシステム的に新しいものを取り入れられないのか、という問いかけです。ただ、私はエコノミストとして、今はもはや経済も二流三流に落ちてしまったような気もしますが、それはそれとして別のお話です。まず、情報の流れがデジタル化によって大きく変わっています。従来の紙媒体の本や新聞ではなく、ネットで断片的で信頼性低い情報が多くなっています。フェイクニュースなんてその典型です。ポストトゥルースも話題になりました。結局、フィルタ・バブルやエコー・チェンバーが形成されて、バランスいい情報を得にくくなっているのが現実なのでしょう。その上で、ヒューリスティックに直感勝負の決め方ではなく、熟議民主主義をどのように形成し、多くの国民が納得できる合意をどのように形成するか、これも大きな課題となっています。もちろん、最近話題の討論型世論形成についても注目しています。そして、最後に、新しい制度の模索が始まっています。電子投票による参加の幅の拡大もそうですし、間接民主主義から、国民投票のコストが低くなれば、直接民主主義も頻度高く出来る可能性があります。ただ、私自身は、直接民主主義であれば、モロに投票者の利害を反映しかねない制度になる恐れがあり、間接民主主義によって選ばれたエリートがもっと幅広い視野からいろんな決定をすべき、という考えを持っています。そして、本書では触れられていませんが、果たして投票の分岐点は過半数でいいのか、という点もあります。憲法改正などで過半数ではなく⅔を必要とするケースがいくつかありますが、過半数に基づく決定についてはもう少し柔軟に対応するべきケースがあるような気がしなくもありません。最後に、本書のおわりにで触れられているんですが、世代間公平性の確保をAIに委ねるというアイデアには、ハッとさせられるものがありました。私が間接民主主義で選ばれたエリートに託そうとしているいくつかの論点を、人間のエリートではなく、AIを活用するという観点は新鮮でした。

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最後に、桃崎有一郎『「京都」の誕生』(文春新書) です。著者は、高千穂大学の歴史研究者です。私はこの大学が、まだ、高千穂商科大学といっていたころに、すぐ近くに住んでいた記憶があり、我が家の子供達は2人ともこの大学の近くの大宮八幡宮でお宮参りをしたりしました。ということとは何の関係もなく、年1-2冊読む「京都本」です。本書では、平安京がいつ、どのようにして京都になったのかを解き明かそうと試みています。その最大の契機は平氏などの武士の台頭と、平安京の外でありながら京都に位置する周辺部の開発であったと結論しています。時代の流れとともに生産が増加するのはマルクス主義的な歴史館の当然のみかたなんですが、その豊かになった京都に盗賊が横行するようになり、検非違使では取り締まりきれなくなって、地方に下っていた武士を京都に呼び寄せたのが平安京の京都への転換のはじまりとされています。特に大きかったのは平氏の存在です。清盛は白河院の落胤とみなされ異例の出世を遂げるとともに、現在の祇園のあたりに当たる六波羅の開発を行います。また、京都南部で今は伏見区にある鳥羽の開発や西八条の開発など、平安京の中に置けないお寺の配置などで平安京が拡大して京都になった、との推論です。そうかもしれません。もともとは皇族に連なる平氏や源氏が地方に下って武士となり、その武士を治安維持のために京都に呼び寄せ、平安京周辺の開発が進むとともに、保元・平治の乱などを通じて権力が貴族から武士に移るというのはその通りな気がします。もちろん、その際に、いわゆる院政が広く行われて、何の制約も受けない勝手気ままな白河法皇なんかが京都の開発に湯水のごとくお金を使った、というのもあります。ただ、平安京から京都への変化は、そういった周辺の開発と、それに伴う現在の京都に近い平面的な広がりによると同時に、権力構造についても関係なしとはしません。すなわち、やっぱり、全国に及ぶ行政権限が貴族から武士に移行した鎌倉幕府の成立が、同時に実効的な権力のない京都成立のためには必要だった気がします。その権力のない貴族からなる京都が、室町時代という例外的な一時期を除いて、今の京都の雰囲気を作ったような気がします。平面的な広がりだけで京都を見るのではなく、中身も見る必要があるのではないでしょうか。

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