今週の読書は、一般向けといいつつもほぼ学術書に近い経済書、あるいは、トンデモ本に見えながらも至極まっとうな経済書、加えて、食に関する新書を2冊の計6冊、めずらしく、岩波書店が2冊入っていて、以下の通りです。

まず、チャールズ・マンスキー『マンスキー データ分析と意思決定理論』(ダイヤモンド社) です。著者は、米国ノースウェスタン大学の研究者であり、部分識別と呼ばれる計量経済学の新手法を打ち出したエコノミストです。もう70歳を超えていますが、あと10年長生きするとノーベル経済学賞が回ってくるかもしれません。監訳者はマンスキー教授の下で学位を取得しているようです。英語の原題は Public Policy in an Uncertain World であり、2013年の出版です。本書は冒頭で、英語で本を書くということが述べられており、「英語で書く」ということは、インプリシットに「数式の展開はしない」ということなんだろうと私は受け止めています。本書は、その意味で、著者自身は研究者に向けた学術書ではなく、広く一般読者を意識した専門書内視鏡洋書を目指したつもりなのでしょうが、その意図は失敗しています。かなり学術書に近いと覚悟するべきです。少なくとも、それなりのレベルの大学の経済学部教授である私にすら難しいです。部分識別について議論を展開しているわけではありませんから、計量経済学の基礎的な知識は不要ですが、かなり論理的な議論について行くことを要求されます。ですから、経済学の基礎知識もさることながら、本格ミステリを読みこなすような論理性があった方がいいです。ということで、前置きが長くなりましたが、不確実な情報の下で、いかにして選択をするか、ということがメインテーマとなります。理論という語と同じ意味で使われている仮定+データから結論が導かれる、という議論から始まり、データが不足する場合に強い仮定をおいて、かなり強引に結論が導き出されるリスクを認識させられます。例えば、悉皆調査ならざるサンプル調査の統計などについても、本体は信頼区間をおいた区間推計が基本なのですが、ピンポイントで点推計をしている、といった批判であり、極めてごもっともです。従って、弱い仮定を置けば信頼区間次第では結論のレンジが大きくなり、逆に、信頼性の低い強い仮定を置けば結論はピンポイントに近くレンジは狭くなります。判りやすいので統計に例えれば、日本のGDPは約500兆円、といわれますが、かなり強い仮定をおいて点推計しているわけです。もしも、弱い仮定を置けば、例えば、100兆円から1000兆円の間、なんて結論が出る可能性もあります。でも、レンジが広すぎると政策決定をはじめとする何らかの選択をする際の参考にすらならない場合もあるわけです。もちろん、決定を下す際の評価関数についても、ベンサム的な期待厚生基準、厚生の最小値の中で一番マシな選択をするマキシミン基準、後悔が一番少ない選択をするミニマックス・リグレット基準の3つを仮定します。その上で、さまざまな実務上の選択を論じています。死刑の犯罪抑制効果、新薬の承認プロセス、税率と労働供給、犯罪者のプロファイリング、などなどです。いくつかの結論で印象的だったのは、ノーベル経済学賞も出て開発経済学でもてはやされているランダム化比較試験(RCT)の結論は希望的観測にしか過ぎない、とか、合理的期待の仮定は信頼できない、とかがあります。私が気にかかったのは、ノースウェスタン大学のからほど近いシカゴ大学の研究者が提唱したルーカス批判について、まったく触れられていない点です。合理的期待が成り立たないとすれば、何らかの政策変更で意思決定が違ったものになる可能性は許容されているのでしょうが、その点は私にはやや疑問でした。

次に、西野智彦『日銀漂流』(岩波書店) です。著者は、時事通信やTBSテレビに所属したジャーナリストです。本書の年代的なスコープは、1998年の日銀の独立を少しさかのぼってその法制準備を進めていた1990年代半ばから始まります。その法制準備の段階も、私のような国家公務員として政府内部で働いていた官庁エコノミストですら知り得ないような事実まであって、それなりに興味深いんですが、やっぱり、日銀総裁の年代記で語られている日銀金融政策の裏側のようなストーリーだと思います。特に、独立した直後の速水総裁や現在の黒田総裁の前に白川総裁のような大外れを輩出した日銀内部の思考パターンや行動パターンがよく取材されていて、私のような門外漢にも理解できるようになっています。私は基本的に学習院大学ご出身の方の岩田副総裁、歴代の審議委員でいえば原田さんや現役の片岡くんなどと同じリフレ派だろうと思うんですが、さすがに、ここまで5年の総裁任期を超えてもまったく2%の物価目標にかすりもしないんですから、リフレ派の金融政策一本足打法には何らかの理論的あるいは実務的な欠陥があるのだろうと考えざるを得ません。その意味で、浜田先生がシムズ教授のペーパーに触発されて財政政策の有効性について宗旨替えしたのも理解できなくもありません。ただ、ここで明らかにされている中で重要なのは、速水総裁や白川総裁、あるいは、総裁の席になかった時の福井副総裁などについて、思考の中心が国民生活や金融政策の影響などではなく、あくまで日銀の独立性、特に大蔵省・財務省からの独立を勝ち取ることであって、国民生活や経済的な影響をそっちのけにする形で、いわば、権力闘争中心史観がまかり通っていた点は背筋が寒くなります。私は竹中平蔵教授については、その経済学的な主張はまったく理解できませんが、少なくとも、中央銀行の金融政策について、目的な政府で決めて、政策手段の独立性である、という点については、100%同意します。インフレ・ターゲットかどうかはともかくとして、物価安定を目標としている金融政策は国民生活や企業の経済活動に多大なる影響を及ぼすわけであり、民意から独立することは考えられません。そして、我が国では間接民主制を取っているわけで、少なくとも国権の最高機関である国会の意志から外れることはあり得ません。そして、まったく同じ意味で、執行機関である内閣の意思と中央銀行の目標がズレてることはあってはなりません。それを集団的に組織目標としている、というか、していた日銀という組織を恐ろしく思います。私は現在の菅内閣はまったくどうしよもなく無能で方向性が大きく間違っていると思いますし、もっと左派リベラルな経済政策に親近感を持つエコノミストですが、かつての民主党政権のころの記憶がまだ強く残っていて、左派政権が成立すると中央銀行の独立性を踏み違えて、旧来的な「日銀思考」の残るスタッフが、またまた「独立性」を錦の御旗に国民生活をどん底に陥れるような速水総裁・白川総裁のころの金融政策が復活する恐れが強いと懸念しています。その意味で、黒田総裁の次は雨宮総裁を待望しています。

次に、田村秀男『脱中国、消費税減税で日本再興』(ワニブックス) です。著者は、日本経済新聞や産経新聞で活躍したジャーナリストです。ややキワモノ的な体裁の本なんですが、エコノミストの目から見て、本書の主張は、少なくとも、経済学的にはほぼほぼ正しいと思います。もちろん、中国との外交的な関係とか、政治体制的な主張は別にすれば、ということですが、経済や財政に関する主張は決してキワモノではありません。その本書の主張を考えると、まず第1に、日本経済の復活は政治に課せられた大きな責務であり、財政均衡なんて財務官僚のお題目を打破して、緊縮財政を放棄して積極財政を展開してデフレを脱却するのが重要な政治課題であり、経済学的にサポートするのがエコノミストの仕事ダルというのは、まったくその通りと私も考えます。財務官僚がいかなる意図を持って緊縮財政の推進を図っているのか、私にはまったく不明でありDNAに組み込まれている、としか考えられないんですが、経済学的には、少なくとも現在の日本経済の現状を考えれば、ほとんど意味のない主張と私は考えています。ただ、その理由は個人貯蓄が十分あるから、という本書の主張とは少しズレがありますが、緊縮財政を主張する意見などと比べれば、十分許容範囲といえます。消費税が天下の悪税であり、現在のコロナ禍の中で、税率引下げや、場合によっては、一時的に廃止する経済政策も選択肢というのもその通りです。英独をはじめとして、時限的措置も含めれば、先進国で消費成立を引き下げた例はめずらしくもありません。ただ、エコノミストとして、日本がここまでストックとしての公的債務残高を積み上げてきたにもかかわらず、それでもデフレから脱却できず、低成長を続けているのはどうしてなのか、というパズルは解いておきたい気がしますが、それでも、財政支出拡大によりデフレを脱却し、成長軌道を取り戻すことは十分可能だという議論はその通りだと思います。本書の議論で疑問あるのは、中国に関係する部分です。中国が世界的なコロナ・ショックの震源地であったにもかかわらず、涼しい顔でマスク外交やワクチン外交で途上国に攻勢をかけているのは事実でしょうし、天然資源などを狙った19世紀的な帝国主義的野心もある可能性は否定しません。米中の貿易戦争が圧倒的に中国の不利に作用しているのもその通りだと思います。ただ、地政学的なリスクという観点からすれば、どこまで中国がエゲツないことを考えているのか、という点では私には情報がありません。脱中国という日本の路線についても、対米従属からの脱却という観点からは、少し活用してみたい気がするのも確かです。まあ、そういった中国関連の見方は別にして、日本経済のデフレからの脱却、賃金上昇を通じた成長への回帰、などなど、決して見過ごすことのできない議論が本書では展開されています。

次に、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(岩波書店) です。著者は、ニューヨーク生まれの文化人類学者・アクティヴィストであり、現在は英国ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの研究者です。私はこの著者の『負債論』を約4年前の2017年2月17日の読書感想文で取り上げています。英語の原題は Bullshit Job であり、2018年の出版です。ということで、やりがいがなくて、社会的にも無益ないし有害ですらある仕事を「ブルシット・ジョブ」と呼んでタイトルにしています。最終的な実用的適宜は本書のp.27で与えられています。第2章では、そのブルシット・ジョブをカテゴリー分けされていて、(1)取り巻き: だれかを偉そうにみせたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事、(2)脅し屋: 雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素をもち、そのことに意味が感じられない仕事、(3)尻ぬぐいの仕事: 組織のなかの存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事、(4)書類穴埋め人: 組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事、(5)タスクマスター: 他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシット・ジョブをつくりだす仕事、に分けていますが、いくつかの重複はあり得る、としています。その上で、マフィアの殺し屋なんかのモロに反社会的な仕事であってもブルシット・ジョブではないケースなども上げています。ということで、前半からは基本的にケーススタディになっていて、私のようなエコノミストが興味を示すスピルオーバーとか外部経済などについては6章から始まります。1月4日に東洋経済オンラインの記事「人のために働く職業ほど低賃金」な根深い理由から引用して、本書に触れた部分なんかがそうです。ただ、本書の眼目は私のように外部性から考えたり、あるいは、東洋経済オンラインのような視点で、ホントに必要とされているエッセンシャルワーカーなどの待遇を議論したり、といったことではなく、むしろ、ブルシット・ジョブに従事している労働者本人が精神的な負担となったりして、よろしくない、という観点です。そして、そういった無駄な仕事を減らすことにより、労働者の労働時間をもっと短縮できないか、というのが重要視されています。ケインズの「我が孫たちの経済的可能性」で論じられた週3日労働に近い印象です。しかし、ここで私が考えておきたいのは、確かに労働時間の短縮は望ましいとはいえ、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大のためのロックダウンなどで、改めて思い知ったのは、ブルシット・ジョブやそういったムダな仕事、あるいは、小池東京都知事が連呼したような「不要不急」のお出かけなんかで経済が支えられている、という事実です。よく、「無駄のない筋肉質の経済」なんて表現をしたりしますが、ホントに必要な財・サービスしか生産・供給しないとすれば、あるいは、労働時間が短縮できるかもしれませんが、それ以上に生活に遊びや潤いといったものがなくなりはしないか、と懸念する向きも少なくないような気がします。私もその1人です。本書の第6章にあるように、仕事の社会的価値と体化としての賃金が転倒しているのは、私も是正されるべきとは考えます。でも、COVID-19の感染拡大でやり玉に上げられたホストクラブとか、最近も国会議員のスキャンダルめいた報道で見かけた銀座のクラブでの接待とか、あるいは、ゲームもそうかもしれませんが、こういった社会的な価値に疑問があり、国民生活に大きな必要なく、なくても構わない部分も、それなりの効用を社会にもたらしているような気がするのは私だけでしょうか。

次に、井出留美『食料危機』(PHP新書) です。著者は、よく判らないんですが、食品ロス問題に関するジャーナリストだそうです。ですから、いろんな専門家にインタビューしているにもかかわらず、食料危機を回避するための最大の方策が食品ロスの削減、という結論になってしまいます。まず、本書で指摘するように、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックで食糧不安や飢餓が増えたのは誰にでも理解できる事実だろうと思います。そして、食料危機は、おそらく、需要の増加か、供給の減少か、流通の停滞か、食料価格と所得の乖離か、この4つの原因で生じるわけで、第2章では冒頭で食料が公平に分配されないのが食料危機の原因と指摘しているにもかかわらず、バッタや何やで、生産減少に目が行ったり、議論がいろいろと意味不明な蛇行を見せます。1943年のベンガル器機については価格と所得の関係であるとセン教授が指摘しているのはいいとしても、食品ロスが分配の問題にどこまで関係しているのかの分析はまったく見られません。最後まで、著者の思い込みで食品ロスで終始します。だったら、タイトルをそうすればいいのに、と私は思ってしまいました。私の目から見て、食料危機はまさに分配の問題から生じており、もっとも大きな原因は資本主義の根幹である市場による資源配分が食品については非効率であるからだと考えるべきです。もちろん、食品ロスが何の影響もないと主張するつもりはありませんが、エコノミストの目から見て、最大の問題は価格だけをシグナルとして食料を市場の資源配分に任せている点にあると考えるべきです。すなわち、動学的な視点も含めて、私的な価格である市場価格と社会的な価格の乖離が食料についてはかなり大きいと考えられます。FAO駐日連絡事務所のポリォ所長が何度も「食料システムの健全性」(p.126)を主張しているにもかかわらず、それを著者は食品ロスに矮小化しているわけです。一方で、p.172で行動経済学のナッジを持ち出しているのは、直感的な理解が少し進んだためなのかもしれません。また、第4章で取り上げられている中国の「光盤運動」はまさに、社会主義的、というか、権威主義的に市場を乗り越える形で食料の分配を政府が決めているわけで、もしも、この運動が食料危機の解決に有効であると考えるなら、市場により食料の資源配分を是正する方法を考えることが必要です。ということで、繰り返しになりますが、大きなタイトルながら、あまりに食品ロスに限定、矮小化した議論で私は困り果ててしまいました。

最後に、金田章裕『和食の地理学』(平凡社新書) です。著者は、我が母校の京都大学の名誉教授の大御所であり、専門分野は歴史地理学や人文地理学だそうです。北陸のご出身で、当然ながら、京都生活も長い、ということで、私の興味範囲からしても京都周辺の食べ物についつい目が行ってしまいました。宇治茶とか、京都の漬物、すぐき菜、千枚漬け、しば漬けなどです。ただ、京野菜に関してはそれほど着目していないのが、やや不思議でした。千枚漬けの材料となる「聖護院カブ」くらいしか出てきません。京壬生菜、九条ネギ、賀茂ナス、エビイモ、堀川ごぼう、伏見とうがらし、それから、聖護院かぶとは少し違う聖護院だいこんなどなどです。私が生まれ育ったのが今も住んでいる京都南部の伏見から宇治にかけてですので、伏見のお酒と宇治のお茶についてはもう少し詳しく取り上げて欲しかった気がします。飲物ということで章を立てるくらいの扱いを勝手に希望しておきます。宇治橋通りの茶商で中村藤吉本店の写真がp.76に見えますが、何となく、あくまで、何となく、なんですが、私は上林が代表なんではないかと考えないでもありません。お茶に関しては、抹茶味のスイーツについて、飲むべきお茶として茶葉を製造しているにもかかわらず、スイーツになることを嫌っているかのごとき茶農家の意見が紹介されていて、私の目から少し鱗が落ちました。私の周囲でも、ばあさんはもちろん、私の母も季節になれば茶摘みのアルバイトにいそしんでいたのを記憶しています。小学生のころからの疑問で、本書にもあるように、お茶には日照時間が短いのがよくて、覆いをかけたりもするところ、静岡はミカンもお茶もどちらもある一方で、静岡と同じように日当たりのよさそうな和歌山にはミカンしかない、というのは不思議な気がします。宇治が近いので和歌山には地理的な不利があるのかもしれませんが、60歳を超えてもいまだに謎です。それから最後に、干し柿についてワインとのマリアージュをp.118で指摘していますが、干し柿の場合はお酒一般と合わせるのが京都の常識です。というのは、あまり正確には知りませんし科学的ではないかもしれないのですが、干し柿は悪酔いを防ぐと信じられているからです。私が大学生になって、正月の機会などに酒を飲む時、ばあさんが干し柿を持ってきて、そのように何度も繰り返したのを記憶しています。繰り返しになりますが、科学的根拠は専門外にて私にはよく判っていません。
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