今週の読書はやや主流派を外れた経済書など計4冊!!!
今週の読書は、経済書が2冊と私の好きな時代小説、さらに、大ハズレの新書を1冊の計4冊です。なお、4冊のうち、時代小説の『高瀬庄左衛門御留書』は今朝の朝日新聞朝刊の書評欄で取り上げられていました。先週は財政均衡学派の主流派ど真ん中の経済書を読みましたが、今週は、かなり主流派から外れて、ノーベル賞エコノミストのセン教授を政治理論から解明しようと試みた思想書に加えて、まったく非主流派そのもののレギュラシオン学派の経済書を読みました。リフレ派のエコノミストの新書も読みましたが、やや品のない内容でガッカリさせられました。今年に入ってからの書読書は、ブログで取り上げた新刊書だけで、1~3月期に56冊、4~5月で36冊、6月には入ってから今日取り上げる4冊の計96冊になります。今年上半期で100冊に達するんではないかと思います。ですから、Facebookなどでシェアしている旧刊書を除いた新刊書だけで年200冊ペースと予想、目標ではなく、あくまで予想していますが、そのラインに乗っている気がします。強くします。
まず、ローレンス・ハミルトン『アマルティア・センの思想』(みすず書房) です。著者は、南アフリカにあるウィットワーテルスランド大学の研究者であり、専門は政治理論です。英語の原題は Amartya Sen であり、2019年の出版です。本書はほぼ学術書のレベルに達していると考えるべきです。ですから、一般のビジネスパーソン向けかどうかは議論の余地があります。十分な覚悟を持って読み始めることを私はオススメします。ということで、本書の対象となっているセン教授はノーベル経済学賞を受賞したインド出身のエコノミストですが、本書ではいくつかの視点、すなわち、章別に選択、ケイパビリティ、自由、正義、デモクラシーの観点から政治理論としてその思想が分析の俎上に上っています。ですから、開発、基金、ジェンダーといったセン教授特有の話題は個別の章として扱われるのではなく、各章のテーマに横断的な要素として取り込まれてしまっています。私も経済学を専門とする身で、開発にはそれなりの見方を持っていますので、やや残念ではあります。もちろん、経済学の観点からも政治理論の観点からも、セン教授のケイパビリティ理論は最重要な構成要素であることに変わりはありません。ただ、飢饉の問題については、もう少し重点を置いて欲しかった気がします。というのは、昨年からの新型コロナウィルス感染症(COVID-19)ショックで、去年の今ごろ、知り合いのエコノミストから提言取りまとめの参考にするといわれて素案を見せてもらったところ、食料生産の不足についての項目が入っていて、私は少しびっくりした経験があるからです。セン教授は飢饉について、食料不足の観点からではなく、本書の序章にもある通り、食料(入手あるいはアクセス)への権原=エンタイトルメントの不足、と捉えており、食糧生産不足がCOVID-19で生じる恐れはヤメにしておいた方がよく、せいぜいはフードロスの削減強化の方がいいんじゃない、と回答した記憶があります。加えて、自由についてはアクティブな正義の危険性とパッシブな正義については、まだしも私の理解の範囲でしたが、正義の問題をセン教授のコンテクストで考えると、どうしてもエコノミスト的には格差の是正に行き着きます。それは、セン教授の大きな枠組みの中では英国とインドの格差というものを想像させるからです。それをケイパビリティの観点から論じつのがセン教授の正義論だと私は考えていましたが、政治理論の専門家の分析によれば、実に広い正義があるものだと感心してしまいました。最後のデモクラシーにしても、本書でいうところのリアリストや、もっといえば、ラディカルなリアリストから見れば、セン教授のデモクラシーはやや理想主義的で実践力に欠ける、という見方も成り立つとはいえ、そういった純粋なデモクラシー、公共理性を表に立てる包容力の高いデモクラシーを、分断が進んだ現代の政治体制の中で実化することは、あながち、非現実的ともいえないように私は考えています。
次に、ロベール・ボワイエ『パンデミックは資本主義をどう変えるか』(藤原書店) です。著者は、フランスの米州研究所のエコノミストであり、何といっても、レギュラシオン学派のリーダー的な存在の研究者です。レギュラシオン学派は第2次世界対戦後の現代社会における成長様式の危機に関する分析を主たる目標としており、手法としてはマルクス主義的な考え方が援用されているように見受けられます。もっとも、私は専門外ですのでよく判りません。よく判らないながら、おそらく、レギュラシオン学派からすれば、1970年代の石油危機の時代、2010年前後のリーマン証券破綻に続く何年か、そして、現在の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックの時代は、とても資本主義の危機の代表ではなかろうか、と私には見えます。そして、このコロナ・ショックは、本書で明確に指摘されているように、新自由主義的な経済政策の基礎を崩壊させたと私ですら考えています。まず、本書の指摘でもっとも新鮮だったのは、衛生や医療をはじめとする社会保障セクターは、ネオリベ=新自由主義的な経済政策からすれば、お荷物のコスト・セクターであり、特段の稼ぎがなく、それ故に、縮小させるべき部門だという点が、改めて見直されつつあります。例えば、ネオリベな小池知事の下での東京都では、COVID-19パンデミック進行中の2020年4月1日から都立病院の独立行政法人化が図られています。コスト・セクター縮小の動きです。同じように大阪府政でも病院の病床削減が進められています。現在も東京都や近畿の京阪神では緊急事態宣言下にありますが、本来、緊急事態宣言とは医療逼迫を防止するための措置であり、医療逼迫を防止するためには、分子の感染者数を減らすか、分母の病床数を増やすか、なのですが、後者の病床数の増加はまったくアジェンダにはなく、もっぱら感染者数の減少を目標とした施策が継続されています。ネオリベな政策の典型といえます。私の目からは、とても不思議なことに、国民は唯々諾々と中央政府や地方政府のいいなりになって、病床数の削減を進める政府の方向性には何ら反対することなく、国民サイドの問題として感染者数の増加を「我慢」という名の下に押し付けられています。その上に、オリンピック・パラリンピックのために医療リソースを差し出して、国民の健康、ひいては国民の命を犠牲にする覚悟も満点なように見えてしまいます。ついつい脱線してしまいましたが、本書に戻ると、ほかに興味深かった点として、本書独自の観点ではなく、HECのシボニー教授の主張から引用して、国民の健康維持、経済的損失の最小化、市民的自由の尊重の3つはCOVID-19パンデミック防止の際には同時には成り立たないトリレンマであると指摘しています。最後に、新しい政治経済理論の誕生についても目を開かせるものがありました。すなわち、新大陸の発見により大量の銀が流入して価格革命が生じたことから貨幣数量説が生まれたとか、まだ記憶に新しい点では、1930年代の世界大不況に対応するためにケインズ的なマクロ経済学が生まれた、とかです。COVID-19パンデミックからはどういった新しい政治経済学が生み出されるのでしょうか?
次に、砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書』(講談社) です。著者は、時代小説の新たな旗手と期待される新鋭作家です。朝日新聞の書評では、本書が2冊めであり、評者の江上剛氏は葉室麟の系譜であると示唆しています。私は初めて読みましたが、朝日新聞の書評のように、人によっては藤沢周平や葉室麟の系譜と位置づける場合もあったりするようです。ということで、主人公は郡方のしがない下級武士なんですが、50歳前後で妻に先立たれ、しかも、郡方のお役目を継いだ倅も在所回りの途次に事故で亡くしてしまいます。まあ、この倅というのが極めて優秀で、藩校での成績が優秀だったのですが、考試で次席に終わって止むなく郡方を継いでいて、倅とその妻は折り合いが悪く、倅の死後は旧家に戻されます。それでも、この義理の娘が主人公のところに絵を習いに来たりする仲です。といったように、波乱はありながらも静かに物語は進むのですが、何とも文体や表現が、いかにも時代小説っぽくですばらしいです。もちろん、私の好みなのですが、藤沢周平や葉室麟の後継者と評されるのも理解できます。作家から小説に話を戻すと、本書は2部構成になっており、わりと単純に1年目と2年目です。1年目で、ひょんなことから主人公の倅を上回って考試で主席となった英才と主人公が親しくなります。この主席は藩校の助教に任じられ、江戸遊学から帰国した際に主人公と関わりを持つことになり、在所にいっしょに出かけたりします。2年目に入ってから、その在所の動きが不穏なものとなり始め、一揆とか強訴ということです。そして、主人公は強訴に巻き込まれて、藩校の助教とともに虜になってしまいます。この強訴に黒幕、というか、先導者に主人公が疑われ、詮議の場で鮮やかな謎解きを繰り広げるのが助教の腹違いの兄の目付です。推理小説でいえば名探偵と行った役どころです。そして、もちろん、最後は円満に大団円を迎えます。私の好きな典型的な時代小説というのは、江戸時代を舞台として、世襲で安泰な藩主を取り巻く家臣団が内部抗争に明け暮れ、決して身分は高くないものの武士の表芸である剣術にすぐれた製品な武士が活躍し、当然、勧善懲悪で円満なハッピーエンドで終わる、というものです。この作品の主人公も若いころは剣術の腕でならしていたようで、数少ないながら真剣で命をやり取りする場面もあります。文体や表現力、漢字の使い方はもとより、いろんな広い意味で私の好きな時代小説の要素を満たしているように感じて、とても幸福な読書でした。
最後に、田中秀臣『脱GHQ史観の経済学』(PHP新書) です。著者は、上武大学の研究者であり、日本経済思想史を専門としているようです。ご著者自身がツイッターで宣伝をしていたので、反緊縮経済学の一種であろうと考えて読んでみましたが、やや失敗でした。緊縮財政がGHQ由来であると主張し、著者ご本人はそれなりに論証しているつもりなのかもしれませんが、やや貧相な立論と判断せざるを得ません。加えて、反緊縮はいいとしても、根拠のない反共主義としか考えられないような部分も散見します。私は基本的に反緊縮なので、その部分はOKですが、思想史がご専門であれば、GHQの占領が終了したにもかかわらず、その後70年を経てなお緊縮的な財政政策、例えば、財政均衡が目指されているのか、についてのもっと踏み込んだ分析は欲しかった気がします。さらに、現在の財政運営は、というか、主としてコロナ前と考えてもいいのですが、大赤字を出している日本の財政運営は、どの観点から見て、緊縮なのか、あるいは、緊縮ではないのか、の分析ももう少していねいにしてほしい気もします。例えば、現代貨幣理論(MMT)ではインフレを指標に財政運営を判断しているようですから、まったく物価目標が達成できない現状の財政運営はデフレ的である、と判断することも可能です。というか、私なんぞは少なくともMMTのこの見方には賛成します。そして、歴史を見る上で、どうしてGHQ的な緊縮財政が続いているのかの方がより大きなパズルといえます。別の表現をすれば、確かに戦後財政はインフレ抑制の観点から均衡予算が志向されていたわけですが、デフレの状況下でもなお緊縮財政が志向されかねないのは、GHQのご威光ではなく別の観点からの要請があったのではないか、とうがかわせるに十分なものがありますが、その分析は一向になされていません。踏み込み不足とする大きな理由のひとつです。もっといえば、「GHQ由来の緊縮政策」と断じて思考停止しているようにすら見えます。さらに、別の観点から、実に適当な論証で反共主義を取り入れています。学術会議の任命拒否と従軍慰安婦の問題がそうです。学術会議については、学術会議の活動の機会費用の低さから、日本共産党やその影響下の組織の構成員が学術会議を支配するようになったと、かなり、無批判に著者ご自分の見方を披露しています。どこまでが事実なのかの検証のしようもありません。従軍慰安婦については、著者ご自身が設定した「性奴隷」であるかどうかの論証に力が注がれており、「性奴隷ではない」という結論を導いて、そこで思考停止しています。科学的な議論よりも、政府幹部によるいわゆる「ご飯論法」に近い印象すらあります。私は、従軍慰安婦が性奴隷であるかどうかよりも、もっと重要な論点があるように思えて仕方ないので大きな疑問が残りました。本書をステップに別の研究を進める意向があとがきで明らかにされていますが、私はもう読まないと思います。私から見てよく似たリフレ理論のエコノミストで、今は日銀政策委員をしている野口旭先生と本書の著者の違いがよく理解できた気がします。その点は収穫でした。
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