« カミさんと大学の交響楽団のコンサートに行く!!! | トップページ | 青柳投手のナイスピッチングで阪神4連勝!!! »

2022年6月 4日 (土)

今週の読書は統計書をはじめとしていろいろ読んで計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、経済書やエッセイ、さらに新書まで計5冊です。
まず、佐藤正広『数字はつくられた』(東京外国語大学出版会)は、統計の歴史に関する資料集のような位置づけで読むのが適当かという気がします。ただ、著者の統計に関する専門性はそれほど高くないと感じました。、次に、坂本信雄『京都発 地位経済の再考』(八千代出版)は、タイトル通りに、京都の経済や地域振興に関してコンパクトに取りまとめられています。続いて、上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ)は、世界で活躍する日本人ピアニストのエッセイです。こういった超一流の人物のバイタリティ溢れる活動には、ただただ圧倒されるばかりです。さらに、谷頭和希『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書)は、ドンキホーテを例にして、社会学的な観点から、チェーンストアの進出が決して地方に画一性をもたらすものではない、ということを考察しています。最後に、松尾剛次『日本仏教史入門』(平凡社新書)では、仏教伝来のころや聖徳太子の古典古代から始まって、大きな活気となった鎌倉仏教の開花、江戸期の停滞を経て、明治初期の廃仏毀釈、そして現在へと我が国仏教史をコンパクトに後付ています。
最後に、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計101冊と去年に比べてちょっぴりスローペースながら、少しずつ追いついてきた気がします。何とか、年間200冊を少し超えるレベルには達するのではないかと考えています。

photo

まず、佐藤正広『数字はつくられた』(東京外国語大学出版会) です。著者は、一橋大学・東京外国語大学の研究者です。はしがきでタイトルの意味を述べていますが、「ねつ造」ではないという意味らしく、単にアイキャッチャーなのだろうと私は解釈しています。ですから、相次ぐ政府統計部局の統計改ざんとは関係ありませんし、そういった「期待」を基に読むのはNGだろうと思います。基本的に、我が国の統計史をひも解こうとしているのですが、統計に関係するグループとして5つを考えます。すなわち、統計学者、統計に関する意思決定を下す政治家、統計実務家、調査対象、統計利用者、です。これをムリヤリに2次元のカーテシアン座標に落とし込もうとします。そのあたりが第2章で取り上げられています。少なくとも、私は第5の統計利用者を第2の意思決定者と同一視するのはムリがあると考えますし、少なくともこの試みは明確に失敗していますから、これ以上考える必要はありません。むしろ、統計史としての資料集として考える方がいいと私は考えます。著者のオリジナルな主張も少なくありませんが、統計資料名を一覧にしているとか、調査票をそのまま転載している部分が「半分」は言い過ぎとしても、かなりのボリュームに上ります。その資料的な価値はあるといえます。ただ、極めて残念なのは2点あり、第1に、日本の統計の歴史であって、明治期に先進国から輸入された諸外国の統計とは何ら比較がなされていません。例えば、ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』(東京創元社)では、当時のフランスでは統計局が情報部の一部門であるかのような記述があります。日本ではどうだったのか、一考に値する歴史の一場面だという気がするのは、私だけでしょうか。第2に、日本の統計の歴史を概観するとしても、日本の統計に関する組織上の無理解が目立ちます。私も経済官庁から一時的に総務省統計局に出向していただけで、それほど詳しくもないのですが、それでも、統計局の統計と各省庁の統計の違いくらいは理解しています。すなわち、2001年の中央省庁再編まで日本では当時の「省」は業所管であり、「庁」はそうではありませんでした。今では、防衛省とか、環境省とかが、業所管でない「省」なのですが、2000年まではそうだったわけです。統計にはその当時の組織上の特色が残っていることから、業を所管している省では、その業の統計、あるいは、その省の業務に関する統計を作成しています。典型的には、経済産業省の鉱工業生産指数とか、商業販売統計とか、財務省の通関統計、厚生労働省の有効求人倍率、などで、役所の所管する業に関する統計と、役所そのものが遂行している業務に関する統計です。他方で、多くの場合は、事業所ではなく一般家計に対する調査になるのですが、所管する業や業務に関係ない社会全体を俯瞰する統計は統計局で作成しています。典型的には、国勢調査とか、消費者物価指数とかです。ということで、結論なのですが、そもそも、分析する2次元モデルに無理がある上に、諸外国との比較がなく、しかも、日本における統計組織に関する基礎知識も十分ではないようなので、結論はあってなきがごときもので、それほど参考にもなりません。最後の最後に、しかも、製本が悪くてページがバラバラになってしまいそうな雑な作りです。私は何か新聞の書評で見て読んだのですが、決してオススメしません。

photo

次に、坂本信雄『京都発 地位経済の再考』(八千代出版) です。著者は、ノンキャリアながら、私の役所の先輩であり、京都学園大学での研究者としてご活躍でした。たぶん、私とは面識があると思います。ということで、京都学園大学は、今では、京都先端科学大学といって、亀岡市にあります。私自身は宇治市の出身なものですから、やや方向は違います。本書では、京都府や亀岡市などの経済動向や人口減少の影響、コロナと観光事業、NPO法人などによる市民活動、地方における公共サービスの行方、自治体における幸福度、などについてエコノミストや地方振興の立場からいろんな論点について議論しています。私はマクロエコノミストとして、ほぼほぼ地方振興には無関心であり、長崎大学に出向していた折には九州や長崎についてまったく見識がなくて、郷土愛に燃える長崎経済人などには辟易したものですが、さすがに自分の出身の関西に戻ってきて、それなりに地方経済には関心があります。一応、地域学会の会員でもあります。ただ、地方において将来不安があるのは財源です。日銀が政府の「子会社」であるかどうかはともかく、中央政府は国債を発行して中央銀行が市中から買い取ってくれれば、税収が不足してもインフレにさえならなければ、それなりの財源を確保することが出来ます。しかし、発券銀行を持たない地方公共団体はそうは行きません。財源を確保した上でなければ公共サービスの提供はサステイナブルではありません。ですから、本書ではスコープ外としていますが、京都市は深刻な財源不足に陥っており、2019年度決算では、いわゆる「将来負担比率」が190%を超えており、政令指定市20市の中で最悪です。ダントツといっていいかもしれません。最大の要因は京都市地下鉄です。料金がバカ高で、私も使い勝手が悪く感じていましたが、私の実感では、時間帯によっては、いわゆる「敬老パス」で無料で乗車しているお年寄りの方が多いくらいではないか、とすら見えました。加えて、小学生の虫歯治療費の全額助成とか、ムダに手厚い市民サービスが充実しています。市役所職員の給与水準が極めて高く、私は地元民ですので、府庁職員と市役所職員のご夫婦を知っているのですが、市役所の給与水準に不調職員の方がびっくりしていました。こういった支出が多くて、ムダなサービスがいっぱいですから、京都市の財政難も理解できます。段々と、脱線が激しくなってしまいましたが、ことほどさように、地方経済や地域振興には無知なもので、本書はとても参考になりました。

photo

次に、上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ) です。著者は、ピアニストです。チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門でグランプリを獲得しています。小柄な体をめいっぱい使って、躍動するようなプレー・スタイルと記憶しています。そのエッセイです。ヤマハの教室から、東京のマスタークラスに通い、パリで生活してヨーロッパを舞台に活躍しながら、本書で私は初めて知りましたが、20代半ばで、いわゆる「できちゃった婚」で結婚して女の子3人の母親となり、それでもめいっぱいピアニストとして活躍しています。実は、私もピアノを習っていた経験があります。もっとも、私の場合は大学生の大人になってから習い始め、一番熱心に弾いていたのは30代前半で、在チリ大使館に赴任した折に88鍵フルスケールの電子ピアノを日本から地球の裏側まで持って行き、現地の音大教授に習っていました。でも、今となっては、自動車の運転とピアノの演奏についてはまったく自信がなく、私自身の満足感よりも周囲の迷惑の方が大きかろうと思いますので、決して手を出すまいと決めています。でもこういったピアニストのエッセイを読むのは大好きです。また、もう30年近くも前のことながら、ワルシャワに出張する機会があり、お土産でショパンの手の石膏像にとても心動かされながらも、自制心強く買わなかったことも思い出します。やや話が脱線しましたが、いずれにせよ、私はこういった世界的に活躍している芸術家のエッセイとか、あるいは、すでに引退した米国政治家の回顧録とかを読んで強く感じつのは、そのバイタリティ、というか、エネルギー溢れる活動ぶりです。私のような凡人にはとてもかないません。凡人の悲しいところで、私なんかは何をやっても世界レベルどころか日本レベルにも達しません。最後に、どうでもいいことながら、本書で「オヤ」と思ったのは、著者の中学生くらいの折の写真が何枚か収録されているのですが、メガネをかけています。スコアを見るのに必要だったのかもしれません。私も、先生が弾いて下さるのを後ろから見るというレッスンがあって、とてもスコアが見にくかったのを記憶していたりします。そして、私が知っているレッスン仲間の高校生の女の子で、「メガネをかけるくらいなら、ピアノを諦める」といって、実際にピアノレッスンをやらなくなってしまった人がいたりします。メガネとピアノ、お年ごろの女性には、もちろん、男性にも悩ましい選択なのかもしれません。本題に戻って、本書では、さまざまな作曲家の作品についての著者の感想めいた実体験談もコラムで収録されています。ショパンがやや軽く扱われているような気がしますし、リストは取り上げられていません。でも、ロシア派のピアニストらしく、チャイコフスキーをはじめとして、私のような初心者にはとても難しそうな作曲家が並んでいます。あまりにも当たり前のことですが、大きな差を感じてしまいます。

photo

次に、谷頭和希『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書) です。著者は、早大の大学院生のようです。本書では、ドンキに代表されるチェーンストアの出店が、地域の商店街と対比される形で、地方や地域の特色を減じ画一性をもたらすのではないか、という懸念に対して、ドンキのケーススタディによって反論しようと試みています。ただ、やや私の目から見て心配なのは、第1に、そういった地方色にマイナスなのはチェーンストアではなく、マスメディアではないのか、という気がするのですが、ソチラにはスコープが向いていないようです。第2に、本書のタイトルに象徴されるようにドンペンと回遊型の商品ディスプレーに特化した議論を展開していて、何を売っているかという商品ラインナップには目が向いていません。以上が、特に第2の点がエコノミストの私の目から見てやや心配な点です。ということで、本書で注目しているドンペンは、目立つということが主たる目的なのだろうと思いますが、本書では、思い切って拡大解釈して、レヴィ-ストロースの砂時計型形象まで持ち出して、内と外とを渾然一体とする作用を強調しています。このあたりは、作者の意図とともに、私にはよく理解できません。さらに、ジャングルのような商品ディスプレーといったドンキの特徴を羅列していき、本屋さんのヴィレッジ・ヴァンガードと対比させる形で、セミ・ラティス型にしかなり得ないヴィレヴァンとセミ・ラティス型にもツリー型にもなれるドンキの違いについても解説してくれます。ここはそれなりに理解できます。ただ、その昔に、ドンキに集まったDQNについては、現時点で掘り起こすのはムリがあります。そもそも、「DQN」は差別用語ではなかったでしたっけ、という危惧もあります。こういったさまざまな対象を持ってきてドンキの特徴を浮かび上がらせようとしますが、私の目から見て、ここまでは、むしろ、チェーンストア代表たるドンキが地方に対して画一性をもたらす懸念を増加させかねない主張に見えます。そして、私から見てドンキが唯一地方に画一性を持ち込まない、と見られる根拠は、いわゆる「居抜き」による買収を主とした店舗展開です。まったく何もないグリーンフィールドから新たな店舗を展開するのではなく、居抜きで買い取ってドンキにしてしまうわけですから、ドンキになる前のお店の特徴は一定残ることになります。ただ、居抜きの店舗展開をしないチェーンストアであれば地方に画一性を持ち込むことになるので、この議論はドンキをはじめとする居抜きの店舗展開をするチェーンストアだけに成り立つわけで、やや不安を覚えます。最後に、本書の著者は、小さいころにドンキの北池袋店に行って恐竜キングで遊んだ記憶から始めています。我が家の子供達でいえば、恐竜キングの1世代前のムシキングに当たります。しかも、私は2年前に完済に引越す前まで城北地区の川越街道近くに住まいし、ドンキの練馬店とか北池袋店には、ある種の懐かしさを覚えます。その前に青山に住んでいた折にはドンキ六本木店もよく利用しました。東京住まいであれば、ちょっとした大きなチェーンストアに行くのが、日常生活を少しだけ離れた家族の楽しみのような気がします。その目的地のひとつは、確かにドンキなのかもしれません。

photo

最後に、松尾剛次『日本仏教史入門』(平凡社新書) です。著者は、山形大学の名誉教授であり、専門は日本中世史、宗教社会学だそうです。本書は、タイトル通りに大陸から日本にもたらされた仏教の歴史をとてもコンパクトに取りまとめています。ということで、私は日本仏教を語る際には、自分の宗派である浄土真宗=一向宗の宗祖親鸞聖人の生きた鎌倉仏教がいつも気にかかるのですが、本書でも、最大のハイライトのひとつであり、いろんな意味で、とても常識的な日本における仏教史となっています。というか、私がほぼほぼ理解してい仏教史といえます。もちろん、私は専門外もいいところなので、勉強になった点はいくつもあります。まず、仏教伝来は末法の始まりを措定して552年であるとされ、当初は、国家鎮護の役割を持たされたというのは、中学校や高校で学ぶ通りです。まあ、疫病退散なんて、いまでも新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に対してアマビエ様を持ち出すくらいなのですから、日本の古典古代期にはそうだったんだろうと思います。そして、国家公務員と同じ官僧しかいない中で、鎌倉期には個人の救済が始まって、法然、親鸞、日蓮などが他力本願の宗派を開いたのに対して、道元と栄西が禅宗を中国から持ち込んだわけです。他力本願と自力の宗派が対比されています。ただ、浄土真宗の本願寺なんかは典型ですが、従来宗派と同じように武装し始めたのは鎌倉期から戦国の武家の世になったためであろうと私は考えています。自力・他力とも、いずれにせよ、天下国家を救うのではなく、自分という個人を救うという観点は重要であろうと私も思います。そして、本書では『歎異抄』を引いて、「ただ親鸞1人がためなり」ということを強調しています。それから、聖と俗の境目については、浄土宗と浄土真宗で少し差があり、私は在家の方から見てこの宗派2つにほとんど違いはないと考えているのですが、僧の側に違いがあります。すなわち、浄土宗の僧侶が得度して戎を守らねばならないのに対して、浄土真宗は僧侶の受戒は必要ないのではないかと思います。まあ、専門外ですから、私の理解が間違っているかもしれません。そして、徳川期には寺請制度とか檀家制度によって、典型的には仏教が大きく堕落して、現在の葬式仏教になる方向性が明らかになったわけです。ですから、私のような専門外の通俗的な理解では、その反動もあって明治期の廃仏毀釈が幅広く実行された、ということになります。ただ、本書ではその徳川期にも仏教界には一定の進歩が見られた、と指摘しています。すなわち、戒律復興運動や釈迦への回帰が志向されています。僧だけのレベルではなく、俗人にも十善戒が説かれたりしています。このあたりは、さすがに、私も知りませんでした。また、ほのかにしか知らなかった点で、隠元禅師が日本に持ち込んだのは黄檗宗という禅宗の一派だけでなく、その名の通りのインゲン豆や普茶料理などがあったとは、明示的な理解は初めてです。江戸末期から昭和期にかけての新宗教として、神道系の天理教、仏教系の創価学会が正面から取り上げられており、「個」を超える絆の重要性を本書では指摘していて、それなりの影響力が想像されます。仏教の難しい教義は最小限に止められており、さまざまな 仏教の影響力を知る上で参考になります。

|

« カミさんと大学の交響楽団のコンサートに行く!!! | トップページ | 青柳投手のナイスピッチングで阪神4連勝!!! »

コメント

いつもながら多彩な本を読んでおられますね。たくさんの本を探してきて読むというのも、一種のバイタリティではないかと思います。感想文もご自分の経験を交えて書かれるのは好ましい。一種の自己紹介ですものね。
地方の衰退も心配な事ですが、観光都市京都の財政悪化も意外でした。誰かが大鉈振るわないといけないのでしょう。

投稿: kincyan | 2022年6月 6日 (月) 17時37分

>kincyanさん
>
>いつもながら多彩な本を読んでおられますね。たくさんの本を探してきて読むというのも、一種のバイタリティではないかと思います。感想文もご自分の経験を交えて書かれるのは好ましい。一種の自己紹介ですものね。
>地方の衰退も心配な事ですが、観光都市京都の財政悪化も意外でした。誰かが大鉈振るわないといけないのでしょう。

京都は昔から学生は多いが、学生は納税しない、といわれていて、仕方ないので古都税とかで神社仏閣に課税しようと試みた時期もありました。ハテサテ、この先どうなりますことやら。京都府民でなくなったので、やや等閑視していたりします。

投稿: ポケモンおとうさん | 2022年6月 9日 (木) 16時41分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« カミさんと大学の交響楽団のコンサートに行く!!! | トップページ | 青柳投手のナイスピッチングで阪神4連勝!!! »