夏休みに経済学的な合理性について考える!!!
明後日の土曜日の恒例にしている読書感想文で詳細に紹介しますが、スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』上下(草思社)を読んでいます。現時点ではまだ読み終わっていません。ピンカー教授はよく知られたように米国ハーバード大学の心理学の大家であり、おそらく、世界でもっとも著名かつ影響力ある心理学者の1人といえます。そのような著名な心理学者に私ごときが言及できる範囲で、今日のところはせいぜい、経済学的な合理性について考えておきたいと思います。
ということで、私の考える経済学的な合理性の重要なポイントは損得勘定=コスト-ベネフィットと無差別性です。広く知られているように、経済学は損得について考えるのが得意であり、特に後者の得をするために有益な学問分野であるとみなされています。エコノミストの中にはこのような見方を否定する人もいますが、私は経済学とは損得の考えを基礎にしている部分があると考えています。ですから、米国シカゴ大学的、あるいは、もっといえばベッカー教授的なコスト-ベネフィットを考えるのはムリなことではありません。すなわち、一例を示せば、駐車場の料金と駐車違反をして支払う反則金の期待値の間の裁定行為ともいえます。駐車料金が3,000円で、駐車違反の反則金は5,000円ながら、駐車違反が露見する確率が½だとすれば、法律違反をものともせずに違法駐車に走るのが合理的と、すべてではないとしても何人かのエコノミストは考えるわけです。もちろん、違法性の認識はあるわけですので、すべての犯罪、あるいは、違法行為に関して損得を考えるというわけではありません。私の場合だけかもしれませんが、深夜の道路で車が来ない際の信号無視とかで、他の人に迷惑をかけないという範囲で、ある意味、軽微な違法行為に限定されるのではないか、と考えています。窃盗で他の人の財産権を侵害したり、ましてや、殺人で他の人の生存を抹消し基本的人権を否定するのはもっての外であることはいうまでもありません。ですから、深夜の自動車の来ない交差点における信号無視に戻ると、違法行為が発覚しないという確率を仮に100%とすれば、交通法規を遵守するという満足感から得られる効用と早く目的地に着けるという効用を比較した上で、信号無視をするかどうかを判断するのが合理的、と考えることになります。露見する確率が100%でないなら、露見した場合のマイナスの効用と確率も考慮すべきですが、ここでは簡便のために無視しておきます。このエコノミスト的な合理性の観点からすれば、決して信号無視をしない優良な歩行者は、おそらく、時間の節約よりも法律遵守に大きな効用を見出しているのだろうと見なされます。
もうひとつのキーポイントは無差別性です。その昔、ある研究所に勤務していて忘年会でビンゴがあったのですが、配布されたビンゴカードをビンゴが始まる前に交換したところ、不正行為であるとの意見を持つ人がいました。ビンゴが始まる前のビンゴカードはどれも無差別で、すなわち、無差別とは同じ確率でビンゴになるわけで、ですからゲームが始まる前にカードを交換することは何ら問題がない、と私は考えるのですが、そうでないとみなす人もいるわけで、私は理解できませんでした。もちろん、ゲームが始まって数字がひとつでも明らかになると、例外的なケース、すなわち、どちらのビンゴカードも同じ場所の同じ数字が開くとか、逆に、どちらのカードにもまったくない数字が出る、とかの例外的なケースを別にすれば、この事前の無差別性は消滅します。つまり、ゲームが始まる前はカードがどれも無差別であるがゆえに、ランダムに配布されるわけです。事後に無差別性が消滅する逆のケースとして、ピンカー教授の『人はどこまで合理的か』は確率のトピックとしてモンティ・ホール問題を冒頭においていますが、ゲームが始まって司会者=モンティがゲストに選ばれなかった方のドアのひとつを開くと、残りのドアはゲストが選んだドアも含めて無差別ではなくなります。この残された2枚のドアを無差別であると誤解する人も、その昔はいたりしたわけです。ですから、どの段階まで部差別なままで、どの段階から無差別でなくなるのか、についても重要です。
最後に、合理性とはやや関係が薄いのですが、ピンカー教授の『人はどこまで合理的か』上巻最後の第5章でベイズ推論について秀逸な解説を見かけました。私が取り上げたいと思うのはサングラスの例です。すなわち、私が移り住んだ地方圏ではほとんどサングラスをかけている人を見かけません。サングラスの普及率が低いわけで、この理由について、つい先日、「サングラスをかけていると目が不自由だと誤解されるから」という意見を聞き及びました。ホントかどうか知りませんが、タモリあたりからの類推なのだとの主張でした。ベイズ的な確率計算やそれに基づくベイズ推論の詳細はいくらでも解説書があるでしょうから省略するとして、極々簡単にいえば、新型コロナウィルス感染症(COVI D-19)のパンデミック初期に強調されたPCR検査の軽視に関する検査結果の偽陽性率の高さの議論と同じです。すなわち、パンデミックとはいえ、初期段階で感染者が少ないと、検査結果が陽性でも偽陽性である確率が高くなるわけです。例えば、WikiPediaのベイズ推計のサイトでは、検査をした場合、感染者の99%が陽性となり、非感染者の95%が陰性となる検査であっても、検査対象者の0.1%しか実際の感染者がいない場合、検査結果が陽性であった人が偽陽性である確率は実に98.1%に上る、という計算例を示しています。ですから、こういったベイズ推計・推論を考える際に、私が決定的に重要だと思うのは、ピンカー教授も指摘しているように基準率の概念です。検査例でいえば0.1%の感染者の割合です。そもそも、そういった事象が社会全体でどれだけの確率で観察されるのか、という基準率を無視すれば、ベイズ推論からかけ離れた結論を得てしまうことになります。私からすれば、この基準率というのがかなり「常識」に近い概念といえます。やや乱暴なお話ですが、単なる数値例ということでいえば、サングラスの着用と目の障害の関係を検査結果の陽性と実際の感染に置き換えれば、ごく簡単に理解できます。サングラスを着用していても目が不自由でなければ偽陽性、というわけです。先ほどの数値例でいえば、目の不自由な人がサングラスをする確率が99%、目が不自由でない人がサングラスをしない確率が95%、そして、目の不自由な人は0.1%、という数値例では、サングラスをしていても目が不自由でない確率は98.1%、ということになります。特に、私のように自転車で走っているライダーが目が不自由なケースはまれではないか、という気がします。でも、こういった基準率を念頭に置かずに推論・推計している人が多い、特に地方圏には多い、ということなのかもしれません。私自身は、地方圏では別の理由でサングラスが普及していない可能性も充分あるような気がしますが、それは別の話題となります。
今週前半には前期の成績のインプットを終え、かなり本格的に夏休みに入りました。特に、今日の祝日から来週前半のお盆は、我が大学では教員だけでなく事務職員も夏休みを取る人が多いと聞き及んでいます。お盆を終えたら、年1本だけ書く紀要論文のため研究にもいそしみたいと思います。
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