今週の読書は経済書のほかに新書4冊も含めて計6冊
今週の読書は以下の通りです。
まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)では、古典派ないし新古典派への回帰を図るネオリベな経済理論を強く批判しています。井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)は、メタバースの基本を解説しつつ、メタバースで供給・消費されるデジタル財からなる経済について解説を試みています。中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)では、いわゆる空想的社会主義のサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人の思想や実践に焦点を当てています。牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)は、ナチスをはじめとする全体主義の恐怖を取り上げています。鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)は、徳川期から昭和期1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展史を地形にも注目しつつ跡付けています。辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)は、終戦直後の過酷なシベリアでの捕虜収容所で未来への希望を失わなかった山本一等兵の物語です。
ということで、今年の新刊書読書は今週の6冊を含めて計17冊になります。
どうでもいいことながら、最近、ミステリを読んでいない気がします。ようやく、図書館の予約の順番が回ってきましたので、新刊ではないながらディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)を借りることができました。映画化もされ、話題になったミステリですので、早速、読んでみたいと思っています。
まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)です。著者は、フランスのエコノミストであり、レギュラシオン理論の第1人者でもあります。フランス語の現代は Une discipline sans réflexivité peut-elle être une science? であり、2021年の出版です。フランス語の現代を直訳すれば「再帰的反省なき学問は科学たり得るのか?」という意味だと思います。キーワードは「再帰的反省」であり、フランス語では "réflexivité" あるいは、英語にすれば "reflexivity" ということですから、英語の "recursivity" や "recursion" ではありません。訳注(p.15)では「研究対象に対する研究主体を客観的に反省すること」とされています。ただ、こういった議論は別にして、本書では20世紀終わりころから、そして、典型的には2008年のリーマン証券破綻からの金融危機、さらに、2020年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにより混乱まで、レギュラシオン学派ならざる主流派経済学、特に、新自由主義=ネオリベな実物的景気循環理論(リアル・ビジネス・サイクル=RBC理論)の破綻について論じています。もちろん、その解決策がレギュラシオン理論、ということになります。ボワイエ教授の考えでは、本書に限らず他の著作などでも、理論は歴史の娘であって合理性の娘ではない、という点が強調されます。ケインジアンないしニュー・ケインジアンの経済理論を「ミクロ的基礎づけ」の観点から批判し、古典派ないし新古典派への回帰を図る経済理論を強く批判しています。特に、私が強く同意するのは経済学の数学化に関する第5章から第6章の議論であり、何度か私も主張しているように、エコノミストが用いている経済学のモデルは現実に合わせて修正されるのではなく、逆に、モデルに適合するように政策的に現実の経済社会が古典派の世界に近づけられている危惧が本書でも指摘されています。もちろん、どうしてエコノミストがそのようなインセンティブを持つかといえば、エコノミストのヒエラルキーがあるわけで、私のように上昇志向を持たない例外は別にして、トップ・ジャーナルへの掲載を志向すれば、いろいろと制約条件が重なるわけです。経済学が専門職業化し、さらに学問分野が細分化され、個々のエコノミストの視野狭窄が始まると、経済学が現実の経済社会の問題を解決する能力が低下しかねない、というのはその通りで、現実に生じていいるといえます。そして、経済学をもとから考え直すべき基礎は歴史である、と著者は強く主張します。私はこの点にも合意します。経済学があらぬ方向に向かってしまった今となっては、さまざまな観点からの経済学の再生めいたアクションが必要なのかもしれません。
次に、井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)です。著者は、駒澤大学のエコノミストです。冒頭にタイトルとなっているメタバースの簡単な解説をした後、本書の主張はノッケから、将来の経済がスマート社会とメタバースに分岐する、というところから始まります。すなわち、どちらもAIやデジタル技術が大いに活用されるわけですが、現実社会がAIの活用などによって純粋機械経済に近づくのがスマート社会であり、後者のメタバースとは、大雑把に、仮想現実(VR)や拡張現実(AR)が進化したものであり、通貨も仮想、あるいは、暗号通貨だったり、アバターで活動して生身の人間の所在が問われないわけです。もちろん、本書は現実社会の空間がスマート化していくことはスコープ外であって、後者の仮想・拡張空間の進化型の経済活動を対象にしています。ですから、メタバースにおける経済活動は純粋デジタル経済になります。そのココロは、純粋なデジタルな財とサービスだけが供給される経済、ということになります。実体経済のスマート化が進み、デジタルでない実体あるモノやサービスはスマート社会から供給され、メタバースで供給・消費されるデジタル財は実体のあるモノやサービスではありませんから、資本財は不要で、限界費用はコピーですからゼロになり、差別化された財の供給という意味で独占的競争が支配的になります。ですから、希少性に従って市場で価格付がなされ、その価格に応じて資源配分されれば効率的、という経済学ではなくなります。限界費用がゼロで供給が無限、というか、経済学的に正しくいえば、希少性がゼロになります。私のような単純エコノミストがパッと思い付きで考えれば、資本主義社会の次に来る社会主義を飛び越して共産主義になるようなものです。ですから、本書でも真剣に資本主義がどう変わるかを第5章で議論しています。現在の企業に代わって、分散型自立組織=DAO (Decentralized Autonomous Organization)が経済活動の中心になれば、資本家/経営者/労働者といった階級分化はなくなり、デジタル通貨により銀行支配が大きく縮小する可能性が示唆されます。同時に、格差についても、明らかに、地域格差は縮小、というか、消滅の方向に向かいます。気候変動=地球温暖化も緩和される可能性が示唆されます。そして、本書の最後の結論は人類は肉体を棄てる、というものです。ここまでくると、まるっきりSFチックなものですから、眉唾で懐疑的な見方が増えそうな気もします。この結論は別としても、メタバースないしメタバース経済に関する入門書としては適切ではないか、と私は考えます。最後の最後に、人類が肉体を棄てるかどうかについて、光瀬龍の原作を基にした萩尾望都の漫画『百億の昼と千億の夜』では、A級市民はコンパートメントが供されて、実体の肉体は惰眠するだけの存在になっていたように私は記憶しています。まあ、やや記憶が不確かなのは認めます。
次に、中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)です。著者は、同志社大学の研究者であり、専門は政治学です。本書でいうところの「社会主義」は、理論とか運動場の社会主義であって、しかも、その前夜ですのでマルクス主義的な科学的社会主義ではなく、サン=シモン、オーウェン、フーリエの3人を軸とする空想的社会主義について、経済社会の時代背景などとともに振り返っています。すなわち、資本主義社会黎明期としての19世紀初頭から半ばにかけて、フランス革命後の政治的、あるいは、産業革命期に不安定だった経済社会、資本家と労働者のはなはだしい貧富の格差、貧困層の劣悪な労働・生活環境といった問題に取り組んだ理論・思想・運動としての社会主義の誕生の時期にスポットを当てています。後には、暴力革命による体制変革を目指すマルクスとエンゲルスによって空想的社会主義と名付けられ、まあ、マルクス=エンゲルスの科学的社会主義よりもやや質落ちの印象が与えられましたが、オーウェンが米国で始めた労働協同村ニューハモニーとかの実践も本書では取り上げています。ただ、空想的社会主義のその後の歴史的な発展は本書ではややスコープ外とされているようで、英国ではフェビアン協会から労働党が組織されたり、あるいは、欧州各国で革命的な共産主義ではなく改良主義的な社会民主主義の正統が政権に参加したりといった活動は本書では取り上げられていません。もちろん、マルクス=エンゲルスによる科学的社会主義が現在の共産主義につながっていることは明確なのですが、空想的社会主義が社会民主主義につながっているのかどうかは私はよく判りません。ただ、病気の治療なんかもそうですが、経済社会の問題解決に当っては対症療法というのも決して無視してはいけない、と私は考えています。例えば、人類はほぼほぼ天然痘を地球上から駆逐したといわれていますし、こういった病気の克服というのは、もちろん、ある意味での最終目標なのかもしれませんが、熱を下げたり咳を止めたり痛みを緩和したりといった対症療法も必要な場合は少なくないと考えます。また、マルクス=エンゲルス的な社会主義/共産主義がソ連東欧で失敗したわけですし、対症療法として、あるいは、空想的とはいえ、こういったサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人が果たした役割というのは決して小さくない、と私は考えています。
次に、牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)です。著者は、広島大学名誉教授で専門は政治学や政治思想史です。タイトル通りに、ハンナ・アレント女史を反全体主義という観点から取り上げています。ハンナ・アレントといえば、アイヒマン裁判の傍聴から「悪の凡庸さ」を指摘した、くらいしか情報を持たない私のような専門外のエコノミストはちゃんと認識していなかったのですが、権威主義体制と暴政(専制)と全体主義を区別して、判りやすい概念図としてpp.40-41に示してあります。暴政(専制)は1人の暴君がその他すべてを等し並に支配するのでやや判りやすくなっています。他方で、権威主義では超越的な指導者から取り巻きがヒエラルキー=階層構造を成している一方で、全体主義では指導者から同心円的な構造をなしていて階層構造を成していない、という違いがあるそうです。そして、というか、なぜなら、ハンナ・アレントが喝破したように全体主義とは運動である、と考えるべきだからです。もちろん、ハンナ・アレントの全体主義はほぼほぼナチス/ヒトラーと同じと考えるべきですが、当然ながら、イタリアのファシズムや日本の戦前体制も同様の特徴を兼ね備えています。他方で、本書では反ユダヤ主義や全体主義について、かなり歴史的に古くまで概観しているのはいいとしても、同時に、特に、反ユダヤ主義的行為、というか、ユダヤ人虐殺が権威主義的なパーソナリティに基づいて実行されている点は軽く扱われているような気がします。トイウノハ、アイヒマン的にユダヤ人虐殺に対して何らの人道的な痛みも感じることなく、いわば「上司からの命令に基づく業務遂行」のような形で実行している点は私はそれなりに重要な点だと考えています。のちの、ジンバルドー教授によるスタンフォード監獄実験の結果と同じで、役割を割り振られれば良心に反する行為でも実行されかねない危うさは指摘してもしすぎることはないと思います。他方で、私のようなエコノミストの目からすれば、反ユダヤ主義がナチスの残虐行為の源泉とみなされるのも、やや危うさを感じます。ケインズ卿が「平和の経済的帰結」で指摘したような過酷な賠償という要因も忘れるべきではないからです。最後に、私の読み方が浅かったからかもしれませんが、やや読後感がよくなかったのは、どこまでがハンナ・アレントの考えで、どこからが著者自身の考えかが、必ずしも判然とはしなかった気がします。一般向けのコンパクトな新書ですから、学術論文的に引用や参考文献をどこまで示すかは議論あるところですが、少なくとも、ハンナ・アレントの主張と、それを基にした著者自身の考えは、もう少し判りやすく記述してほしかった気がします。
次に、鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)(ちくま新書)です。著者は、東京都水道局ご勤務の公務員のようです。ただ、おそらくは技術者ではなく、ビジネス関係の大学のご卒業です。ということで、タイトルから明らかなのですが、近世徳川期から現代、大雑把に昭和の1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展を跡づけています。ただし、タイトルのように地形で跡づけているのは江戸期だけで、明治期以降の近現代はあまり地形には関係なく、というか、科学技術の進歩によって地形の制約が薄れた、ということなのだろうと思いますが、結果的に地形とは関係薄い東京の発展、ということになっています。お仕事柄なのかどうか、江戸期の上水道に関してはとても詳細な解説でした。でも、地形に即しているとはいえ、やや土木技術的な観点が多くて、専門外の私には判りにくかった気がします。他方で、社会科学的な観点から江戸・東京の発展史について、背景も含めて、判りやすく、かつ、多くの読者が興味を持てるように語られているわけでもないわけで、私の目から見て、やや辛い評価なのかもしれませんが、歴史書や事業史といった既存の参考文献をひもといて事実関係を羅列したに近い印象でした。まあ、私のように、浅草に使い下町から城北地区、世田谷区や杉並区といった山の手の住宅街、さらには多摩地区までいろいろと東京の中でも移り住んで、それなりの土地勘ある読者にはいいような気もしますが、それ以外の東京についての情報が少ない読者には大きな興味を持てる内容とは思えませんでした。私は年に何冊か「京都本」を読みますし、おそらく、それほど京都に土地勘ない読者にも興味を持てるように工夫されている感覚が判るのですが、本書については東京在住者の、しかも、読解力が一定の水準に達した、もしくは、マニア的な読者がターゲットなのかもしれません。でもまあ、それだけ東京や首都圏に人口が集中しているわけなので、読者も多数に上るのかもしれません。
最後に、辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)です。本書は映画のノベライズ小説です。著者は、映画の原作となった『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の作者の小説家と映画の監督です。表紙画像にあるように林民夫監督作品として、二宮和也と北川景子の主演で昨年2022年12月に封切られています。私は不勉強にして映画は見ていません。まあ、何と申しましょうかで、映画は見なくてノベライズ小説を読んでおく、というのは、『すずめの戸締まり』と同じパターンだったりします。それはさておき、まず、「ラーゲリ」とはロシア語で強制収容所を意味します。そうです。この小説は、終戦直前に中国の旧満州から一家が帰国しようとする際に、家族と離れてシベリアの強制収容所に捕虜として抑留された山本幡男一等兵の物語、というか、映画のノベライズです。以下、ストーリーを追いますので、結末までネタバレと考えられる部分を含み、この先は自己責任で読み進むことをオススメします。ということで、十分な食事や休養も与えられずに、まったく国際法や基本的人権を無視されたまま強制労働に従事させられ、栄養失調や過酷な労働で病気や怪我をした上に、十分な治療もなされずに亡くなったり、あるいは、自ら命を断ったりする収容者が続出する中で、主人公の山本幡男一等兵は未来への希望、すなわち、家族の待つ日本への帰国の希望を持ち続け、人間らしい尊厳を保ちつつ、日々を過ごします。こういった人柄が収容所の周囲の人々にも伝播し、少しずつ収容者の気持ちにも変化が見られます。しかし、山本幡男一等兵を病魔が遅い十分な治療を受けられずに亡くなります。その直前に、長い長い遺書を書くわけですが、こういった遺書は収容所では許されず没収されるリスクがあることから、宛先別、すなわち、母宛、妻宛、子供達宛に分割して周囲の友人が記憶し、待ちに待った帰国の際の船中で文書に書き残し、帰国後に遺族を探し出して遺書を届ける、というストーリーです。私は感激しながらも涙なしで読み終わりましたが、読者、あるいは、映画の鑑賞者によっては滂沱の涙を流す人がかなりいそうな気がします。たぶん、泣きたい人にはオススメでしょう。
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