今週の読書は経済書に小説や新書を合わせて計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ベンジャミン・ホー『信頼の経済学』(慶應義塾大学出版会)は、経済の基盤をなす信頼についてゲーム論を援用しつつ分析しています。池井戸潤『ハヤブサ消防団』(集英社)は、父親の郷里の田舎に移住したミステリ作家の周囲で起こる事件の謎を解き明かすミステリです。宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)は、大津に住む女子中学生・高校生を主人公に「滋賀愛」あふれる小説です。安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新書)は、双子研究の成果も踏まえて教育よりも遺伝が強力である点を明らかにしています。島田裕巳『帝国と宗教』(講談社現代新書)は、世界的な帝国における宗教の役割を歴史的に明らかにしています。最後に、加納朋子『二百十番館にようこそ』(文春文庫)は、ニートの若者が遺産相続した保養所のある離島に送り込まれて、移住してくる仲間を探して生活を成り立たせます。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~8月に76冊の後、今週ポストする6冊を入れて9月には28冊を読み、今年の新刊書の読書は合わせて148冊となります。
なお、新刊書読書ではありませんが、50年近く前に出版された堺屋太一『団塊の世代』を読んでいます。Facebookでシェアしてあります。
まず、ベンジャミン・ホー『信頼の経済学』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、米国ヴァッサー大学の研究者であり、専門は行動経済学だそうです。どうでもいいことながら、私はヴァッサー大学といえば米国東海岸のアイビー・リーグにも相当するくらいの名門女子大学といわれるセヴン・シスターズの一角だと思っていたのですが、とうの大昔から共学化されているようです。英語の原題は Why Trust Matters であり、2021年の出版です。ということで、本書は出版社からして基本的に学術書なのですが、著者は行動経済学の専門とはいえゲーム理論をもって信頼の経済学を展開していますので、それほど難しい内容ではありません。私はゲーム理論やマイクロな経済学はまったくの専門外なのですが、読んでいて十分に理解できました。ただ、最近の全米経済研究所(NBER)のワーキングペーパーとして私が読んだ "Mistrust, Misperception, and Misunderstanding: Imperfect Information and Conflict Dynamics" で取り上げられているような国際関係の分析に用いられる one-shot security dilemma/spiral model などではなく、個人の意思決定、すなわち、ミクロ経済学の理論で行動や選択を主眼にしています。ですので、最初に生物学的な基礎として、オキシトシンといった脳内分泌物質のお話から始まります。私の苦手な分野です。ただ、貨幣が市場取引において一般的な受容性を持つ点とか、信頼の重要性は経済学でも重要ですから、そういった分析は本書でも十分なされています。私の場合、基本的に、信頼という個人的、あるいは、集団的な認識の問題ではなく、経済学においては情報の問題として分析されるべきだと考えています。この情報本質論については、本書では実にサラッとしか言及されていません。ミクロ経済学にせよ、マクロ経済学にせよ、経済学で考える経済主体は個人ないし家計と企業と政府が国内経済主体となり、海外経済主体も開放経済では考えます。身近な個人、親戚とか大学の同級生とかについては情報が十分あるので高い信頼を置いて少額であればお金を貸したりするわけですが、見知らぬ個人には気軽にお金を貸せないわけです。また、ほぼ常にホームバイアスがあって、国産食品は情報量が豊富で安心安全という信頼感がある一方で、情報が不足しがちな輸入食品は国産食品に安心安全の点で及ばなかったりするわけです。そして、これは本書で指摘している点ですが、取引における情報が大きく偏って非対称であれば市場取引そのものが成立しないケースもあるわけです。米国財務長官のイエレン女史のご亭主であるアカロフ教授の研究の成果であり、ノーベル賞が授賞されています。ただ、本書では専門家に対する信頼とか、さまざまな観点から信頼の経済学を議論しています。経済社会のオンライ家、というか、デジタル化が進んで、今まで会ったこともなければ、名前も知らない個人や企業とコンタクトを取る機会も少なくない中で、スムーズな関係を築くためにも信頼関係が重要であることはいうまでもありません。ただ、直感的にあるいは経験的に思考して行動しているだけではなく、それなりの信頼に関する理論的なバックグラウンドも必要です。そういった意味も含めて、大きな国際関係などではなくもっと身近なところの信頼を考える上で、なかなかいい良書だと思います。
次に、池井戸潤『ハヤブサ消防団』(集英社)です。著者は、いうまでもなく小説家であり、『下町ロケット』で第直木賞を受賞しています。日本で一番売れている小説家の1人といっていいと思います。本書はテレビ朝日系にてドラマ化されています。もう放送は終わったにもかかわらず、交通事故で入院中に図書館の予約が回って来たようで、予約を取り直して読んでみました。ということで、まず、本書は作者の思惑は別として、私はミステリとして読みました。すなわち、作品の主人公がそもそもミステリ作家で、自然豊かな田舎に移住してきたところ、連続放火事件が発生し、さらに、死人まで出るわけですから、いわゆる名探偵という存在は明確ではないものの、動機や犯人探しなどからしてミステリと呼ぶにふさわしい気がします。少なくとも、以前の半沢直樹シリーズのような企業小説ではありませんし、「アリバイ」という言葉も登場します。そして、振り返れば、前作の『アルルカンと道化師』についても、半沢直樹シリーズながら、どうしてあの出版社をIT長者が熱心に買収したがるのか、という動機の点はミステリみたく読むことも可能であったのだろう、と今さらながらに思い返しています。本書に戻ると、亡父の故郷のハヤブサ地区にミステリ作家が移り住んで来て、地元の人の誘いで居酒屋を訪れて消防団に勧誘され入団する、というところからストーリーが始まります。そのハヤブサ地区で不審な火事が立て続けに起こるわけです。その合間に、というか、ヤクザとも関わりあるとウワサされていた問題児の青年が滝で死体で発見されたり、保険金目当てや怨恨からの放火という見方が出る中で、太陽光発電会社による土地買収や、その太陽光発電会社というのは実は新興宗教のフロント会社であったとか、いろいろと事情が入り組む中で、少しずつ事件の真相が明らかになっていきます。その意味で、最後に名探偵が一気に事件を解決するわけではなく、少しずつ真実が明らかにされるタイプのミステリで、私は評価しています。ただし、新興宗教の信者が地区の中の誰なのか、あるいは、信者でないまでも教団と関係する人物は誰なのか、といった謎も出て来て、これには私も大きく驚きました。最後に、ドラマを見逃して公開しているのは、新興宗教の教団が売りつけるロレーヌの十字架によく似た地区の名門家の家紋がどんなのであったのかをビジュアルに見ておきたかった気がします。私は、一応、カトリック国の南米チリに3年間外交官として滞在してお仕事していましたので、ロレーヌ十字は知っています。ロレーヌ十字はこの作品には明記されていたかどうか覚えていないのですが、フランス愛国の象徴で、たぶん、ハンガリー十字がロレーヌから伝わったのであろうといわれています。ですから、というか、何というか、ハンガリー十字も横2本です。なお、チリ人の中で日本でもっとも名前を知られているであろうピノチェト将軍はフランス系です。十字架に戻ると、ほかに、モラビア十字もあったと記憶しています。繰り返しになりますが、ハヤブサ地区の名門家の家紋も、したがって、横2本なのだろうと想像しています。最後の最後に、まったくこの作品とは関係ないながら、最近のドラマでは「VIVANT」を熱心に見ていました。でも、スパイ、というか、公安のお仕事はともかく、自衛隊のスパイはああなんだろうか、と思ってしまいました。
次に、宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)です。著者は、小説家なんでしょうが、私は不勉強にして、この作品が初読でした。私は出身からして京都本はフィクションもノンフィクションも年間何冊か読むのですが、現住地である滋賀本は初めて読むのではないかと思います。まあ、有名な琵琶湖が舞台になった小説であれば、万城目学『偉大なる、しゅららぼん』とかは読んでいます。ほかにもありそうです。それはともかく、作者は私の後輩であり、経済学部ではありませんが、京都大学のOGです。当然、滋賀県在住です。主人公は成瀬あかりであり、この作品の中で女子中学生から女子高生に成長します。大津市内のにおの浜から膳所駅に向かうときめき坂野マンションに両親と住んでいます。また、全部ではないものの、語り手はあかりと同じマンションに住む幼馴染みの島崎みゆきであり、みゆきは「成瀬あかり史」の大部分を間近で見てきたという自負でもって、成瀬あかりを見守るのが自分の務めだと考えていたりします。そうです、この作品を読めば理解できると思いますが、「成瀬あかり史」を残すのは人類に対する重要な責務と島崎まゆみは考えていて、私もまったく同感です。ただ、誠に残念ながら、島崎みゆきは成瀬あかりとは違う高校に進学し、さらに、父親のお仕事の都合で高校を卒業したら東京に引越すことが決定しているようです。主人公の成瀬あかりは、県内トップ校である膳所高校に進学し、本書では高校進学当初は東大を目指していて、東京まで出向いてオープン・キャンパスのイベントに出席したりしていたのですが、最終的には京都大学志望で落ち着いています。私も小説を読んで余りに感動して、レビューの順番がとっちらかっていますが、収録されているのは強く関連する短編6話です。短編タイトルは、「ありがとう西武大津店」、「膳所から来ました」、「階段は走らない」、「線がつながる」、「レッツゴーミシガン」、「ときめき江州音頭」となります。冒頭の短編では、コロナ禍の中で閉店する西武大津店を地元テレビ局が毎夕中継することになり、その中継に映るために出かける成瀬あかり、そして、時々くっついて行く島崎まゆみ、しかし、テレビ局スタッフからは完全無視されながら、地元民のお客さんの記憶に残る、というストーリーです。ほかに、2話目では漫才コンビの登竜門であるM-1に成瀬あかりが島崎まゆみとともに挑戦したりします。3話は飛ばして、4話では違う高校に進学した島崎まゆみに代わって同じ膳所高校の同級生である大貫かえでの視点からストーリーが進み、東大のオープン・キャンパスに参加します。第5話では、膳所高校の競技かるた部、というか、膳所高校では「部」ではなく「班」と呼ぶのですが、競技かるたの全国大会が滋賀県で開催され、広島代表の男子高校生の視点からストーリーが進み、成瀬あかりがこの広島の男子高校生を外輪船ミシガンで接待したりします。最終話では、成瀬あかりの普段の生活の一端が明らかにされ、地元の夏祭りにM-1に挑戦した島崎まゆみとともに司会として参画したりします。ほかにも、メインのテーマではないですが、ひと月に1センチ伸びるといわれる髪の毛の伸び方を実測するために坊主頭にしてみたり、200歳まで生きるといい出したり、まあ、要するに、成瀬あかりは、決して羽目を外すことなくお行儀よくて、学校の成績も東大を目指すくらいですのでトップクラスなのですが、通常の感覚からすれば、やや変人、変わり者、という印象が得られるかもしれません。言葉も関西弁ではありませんから、川上未映子や綿矢りさの小説のようなテンポいい会話は出てきません。でも、私の目には極めて合理的な行動・思考に基づいているのだと見えます。ですから、繰り返しになりますが、学校の成績は飛び抜けて優秀です。私が読んだ範囲で、ほかの小説で成瀬あかりと同じようなキャラを探すとすれば、今野敏「隠蔽捜査」シリーズの竜崎伸也がやや近いか、あるいは、竜崎伸也をもっと極端に合理的にしたような存在が成瀬あかりか、という気がします。最後に、成瀬あかりは作者と同じ、というか、私とも同じ京都大学に進学することが想定されます。ぜひ、私が滋賀県民である間に続編を読みたいと思います。強く思います。
次に、安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新書)です。著者は、慶應義塾大学の名誉教授、研究者であり、専門は行動遺伝学だそうです。実は同じ著者が、『能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ』というタイトルでブルーバックスから、本書と同じように双子研究の成果を踏まえて、より専門的な議論を展開しています。しかし、ブルーバックスの方をパラパラとめくると、私のような頭の回転の鈍い読者には難しすぎて、本書を当たってみました。ということで、ブルーバックスの方も本書も、いずれもそのタイトルは極めて議論を呼ぶ疑問点であり、私の直感からすれば、信念として、あくまで信念として、遺伝的要素よりも教育や環境の方が重要、と考えている日本国民が多いと実感しています。その意味で、私は少数派です。そして、本書の結論も少数派の私と似通っています。例えば、あくまで思考実験なのですが、ヒトとチンパンジーはDNAでは2%ほどの違いしかないといわれていますが、ヒトとチンパンジーの認知能力の差を教育で埋められると考えている読者はほとんどいないと思います。まあ、ヒトとチンパンジーの例は良くないんじゃないの、という考え方には半分くらい賛成しますが、ブルーバックスの広告には、大谷翔平と一般人の遺伝子は99.9%まで同じ、とありましたから、この0.1%の差を教育や訓練・努力で解消することがどこまで可能かは、考えて見る価値があるような気がします。ヒトとチンパンジー、あるいは、大谷翔平と一般人の比較から類推するに、遺伝的な要素というものは極めて強力に生物に作用している点は認めざるを得ないと私は考えています。本書では、繰り返しになりますが、双子研究の成果を踏まえて、さらに、実例を豊富に引いて、遺伝的な要因が極めて大きい点を強調しています。昨年の流行語に「親ガチャ」がありましたが、これは生活環境だけでなく、遺伝も含むと解釈するほうがよさそうです。そういった遺伝の要素も踏まえて、本書後半では親としてできることが何かについても考察を進めています。私は決して親としては遺伝子を子に伝えて終わり、というわけではないと考えており、遺伝子に沿った環境を整備することも重要であることはいうまでもありません。ただ、本書のタイトルに沿って考えると、教育は遺伝には勝てない、というのが本書の結論であり、私も同意します。たぶん、科学的根拠なく信念だけで、本書の結論に反対する向きは少なくないんだろうと想像します。加えて、経済社会が自由になれば遺伝的要素がより明確に発揮される場が整うことになり、権威主義的あるいは全体主義的な国家よりも民主主義体制の方が遺伝的要素が強く開放される点も忘れるべきではありません。米国の例ながら、上位の社会階層においては学力や知能に遺伝の影響が出やすく、逆は逆、という研究成果も本書では明らかにしています。ひょっとしたら、民主主義体制で自由が拡大すれば遺伝的な要因により格差が拡大する可能性すらあるわけです。ですから、エコノミストとしていえるのは、右派的な機会の平等というのは決して十分ではなく、事後的な結果についても格差を縮小する政策が必要である、ということです。しかし、他方で、本書のスコープがイながら、社会階層が低いクラスの方が結果ではなく機会の平等に賛成しがち、という研究成果もあり、悩ましいところです。
次に、島田裕巳『帝国と宗教』(講談社現代新書)です。著者は、日本女子大学の教授をしていた研究者であり、専門は宗教史です。ということで、本書では帝国の宗教を歴史的に解き明かしています。帝国の表舞台である政治や外交の裏側には宗教が控えているわけです。ということで、歴史的にはまずローマ帝国のキリスト教、中華帝国の華夷思想、儒教の易姓革命、仏教などなど、イスラム教のオスマン帝国とムガル帝国、そして、海の帝国たる米国のキリスト教、などなどとなります。まず、歴史的に帝国とは不断の領土拡大を目指すと強調し、なぜなら、技術革新などの緩慢な古代から中世においては領土を拡大して税を獲得する必要がある、と解説します。その帝国拡大の背景に宗教があるわけです。ただ、同時に、宗教には社会秩序維持の機能とその逆の秩序破壊の機能の両面があると主張し、それが帝国の興亡につながっている、ということです。まず、ローマ帝国のキリスト教については、アレクサンドロス大王の世界制覇に続いて帝国が出来なかったひとつの根拠として宗教の不在が上げられ、まず、ローマ帝国では皇帝に対する個人崇拝から宗教が始まったとし、それが4世紀末にはキリスト教がローマ帝国の国教となるわけです。中国については、基本的に、中華思想とそれに基づく朝貢貿易などを外交の基礎に置きつつ、内政では儒教思想が統治の中心に据えられました。そして、これも秩序の維持と破壊の両面を持っていて、後者が易姓革命に当たるのはいうまでもありません。中国の帝国の中でも征服王朝というのがいくつかあり、典型的にはモンゴル民族の元がそうで、中華民国成立直前の清も漢民族ではありません。元については、モンゴル人という遊牧民に由来することから、寺院のような建物を立てて崇拝の中心にすることはなく、宗教的には寛容と見なされる一方で、白蓮教徒の乱で滅亡するわけです。イスラム教については、いわゆる聖と俗の区別がなく、聖職者という存在がありません。それがオスマン帝国やサラセン帝国やムガル帝国の基礎となっていたわけです。私が宗教について従来からとても不思議に思っていた点のひとつが、キリスト教における異端の迫害や極端には魔女狩りなどの強烈な宗教的行為です。これは統治の手段として利用するのであれば、これくらいに強烈な方法も必要なのかもしれない、というふうに私は受け取りました。最後に、立論はかなりいい加減で、恣意的ですらあります。おもしろおかしい歴史書として、私のようにヒマ潰しのために読むのであればともかく、真面目な批判に耐える本ではありません。ハッキリいって、新書としてはレベルが低いです。中国の宗教に関しては特にそうです。
最後に、加納朋子『二百十番館にようこそ』(文春文庫)です。著者は、日常の謎を解き明かすストーリーが得意なミステリ作家です。殺人事件が出てこないなど、ノックスの十戒では許容されないかもしれませんが、本書でも謎解きめいたストーリー構成となっています。ということで、就活に失敗し、オンラインゲームに熱中して「ネトゲ廃人」となった主人公が、とうとう親からも見放され、叔父が遺産相続で残した離島の社員研修施設だか、保養所だかに放り出されて、オンラインゲーム仲間などといっしょに生活する、流行りの言葉でいえばシェアハウスする、というのがストーリーです。ハッキリいって、有川浩の『フリーター、家を買う。』の二番煎じ小説であることは明らかで、タイトルの210は日本的に「ニート」とも読める、ということで主人公が名付けます。高齢者ばかりの離島に、まず、呼び寄せる、というか、やって来るのはオンラインゲームの知り合いではなく、ひどいマザコンでこれも親から見放されつつある東大卒の気弱な青年です。この青年に主人公はオンラインゲームを教えこみます。そして、次の移住者は産婦人科医に嫌気が差した元医者の青年です。そして、最後には筋肉隆々のマッチョな体型の体育会系の青年が加わります。そして、最後には、『フリーター、家を買う。』とまったく同じ結末で、主人公はそれなりに安定した収入のある職業に就くことになります。周囲の高齢者との交流がうまく出来すぎていて、東京から滋賀県に引越した私が少し悩まされているような田舎っぽい閉鎖性というものが微塵もなく、小説らしい作為的非現実的な「作り」を感じます。主人公の次に島に来た東大での青年がどうして母親に送り込まれて来たのか、については軽い日常的な謎という作者得意の謎解きの要素が含まれていますが、ミステリというにはそれらしくない気がします。こういった出来過ぎのストーリー展開は、おそらく、好きな読者もいるのでしょうが、私には少し馴染めませんでした。ただし、お約束通りのハッピーエンドですので、小中学生向きにはいいんではないか、でも、私のようなひねくれた高齢者にはどうだろうか、という気がします。
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コメント
「帝国と宗教」は面白そうな題名ですが、イマイチとの評価ですね。かなり広くて深い政治と宗教に関する学識がないと、少し本を読んだ人を納得させるのは難しいと思います。岩波新書なら少しは読んでみたいと思いますが。
投稿: kincyan | 2023年9月23日 (土) 22時01分
>kincyanさん
>
>「帝国と宗教」は面白そうな題名ですが、イマイチとの評価ですね。かなり広くて深い政治と宗教に関する学識がないと、少し本を読んだ人を納得させるのは難しいと思います。岩波新書なら少しは読んでみたいと思いますが。
はい。宗教学的な見地から、帝国の維持拡大のための宗教の役割といったものが強調されています。ただ、強調されすぎていて、やや牽強付会で「やり過ぎ」という部分が大きい気がします。
投稿: ポケモンおとうさん | 2023年9月23日 (土) 23時08分