今週の読書感想文は教育に関する学術書をはじめとして計7冊、以下の通りです。
まず、経済協力開発機構(OECD)[編著]『教育の経済価値』(明石書店)は先進国が加盟する国際機関が人的資本形成に重要な役割を果たす教育について分析しています。中西啓喜『教育政策をめぐるエビデンス』(勁草書房)は、教育学の観点から少規模学級による学力格差是正効果などの定量的な分析を試みています。万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)は、第170回直木賞受賞作品であり、8月の猛暑の京都の御所グラウンドにおける草野球のリーグ戦に参加した不思議な選手についてのストーリーです。東野圭吾『魔女と過ごした七日間』(角川書店)は、ラプラスの魔女こと羽原円華が知り合った中学生の父親が殺された殺人事件の謎の解明に挑みます。伊藤宣広『ケインズ』(岩波新書)は、戦間期におけるケインズの活動について、対ドイツ賠償問題と英国の金本位制復帰に焦点を当てて議論しています。阿部恭子『高学歴難民』(講談社現代新書)は、博士課程に進んだり海外留学を経験して、高学歴でありながら低所得に甘んじている「難民」について実例を引きつつ考察しています。西村京太郎『石北本線 殺人の記憶』(文春文庫)では、何と、20年間の人工睡眠から目覚めた主人公がバブル期の北海道経済界で注目されていた若手財界人殺害の事件に遭遇します。
ということで、今年の新刊書読書は1月に21冊、2月第2週までに11冊の後、今週ポストする7冊を合わせて39冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
まず、経済協力開発機構(OECD)[編著]『教育の経済価値』(明石書店)を読みました。著者は、いわずと知れたパリに本部を置く国際機関であり、日本や欧米をはじめとする先進国が加盟しています。慶應義塾大学の赤林教授が監訳者となっていて、巻末の解説を書いています。かなり学術書に近いのですが、一般の教育関係者やビジネスパーソンにも十分有用な内容です。本書は5章構成となっていて、経済的に人的資本が重要であることを第1章で論じた後、第2章では経済に限定せずに、教育が広範な社会的な成果をもたらす点を指摘し、そして、第3章から第5章は学校教育の実践編となり、財政や予算配分などについて分析しています。私も大学の教員ながら、学校運営についてはシロートですし、ましてや学校財政や予算運営については大した見識があるわけではありませんから、主として、第1章と第2章を中心にレビューしておきたいと思います。まず、本書ではなぜかほとんど言及がないのですが、経済学的には生産関数という理論があり、生産要素、すなわち、資本ストックと労働をインプットして付加価値が生み出される、と考えます。この付加価値の一定期間の合計がGDPなわけで、GDPの伸び率を成長率というわけです。そして、本書でも言及あるように、資本ストックはともかく、もうひとつの生産要素である労働についてはシカゴ大学のベッカー教授の人体資本理論が教育を考える際の経済学の中心となります。人的資本は知識や経験をはじめとするスキルの限定的なストックであるとみなされていました。これはすなわち短期的な成長への寄与を中心に考えられていたことを意味します。しかし、ローマー教授などの内生的成長理論あたりから、人的資本はイノベーションへの貢献や普及を通じて長期的な成長にも寄与する部分が大きいと考えられるようになっています。日本でも「教育は国家100年の大計」といわれるように、人的資本形成に長期的な視点は欠かせません。ただ、2020年以降のコロナ禍の中で財政制約が厳しくなるとともに、目の前の命を救う医療や社会保障に比較して、教育に割り当てられる予算を見直す必要が生じたことも事実です。その上、コロナの前から格差問題がクローズアップされており、教育が経済的な格差にどのような影響を及ぼしてきているのか、といった分析も不可欠になっています。おそらく、教育にはスキル向上を通じた人的資本蓄積に寄与するのはもちろん、それ以上に、経済学的には外部性が大きいという特徴があります。例えば、感染症のパンデミックのケースを考えても、議論の絶えないマスク着用やワクチン接種の問題を差し置いても、衛生状態や栄養摂取の改善などについては、それなりの教育を受けて意識の高い人間が増加すれば、かなりの程度に解決される可能性があります。統計的なエビデンスは必ずしも十分には示せませんが、私の直感では明らかに学歴と喫煙習慣は逆相関しています。また、これも議論が分かれるかもしれませんが、2016年の英国のEU離脱の国民投票では、学歴とremainは正の相関があったと報告されています。加えて、本書では、メンタルヘルスの問題なども教育水準の向上とともに改善される可能性があると示唆しています。ただ、他方で、教育については普遍性と先進性の間にトレードオフがあるのも事実です。日本でいうところの「読み書き算盤」といった基礎的なスキルは義務教育で国民の多くが普遍的に身につける必要がある一方で、高等教育をどこまで普及させるべきかの観点は議論が分かれます。
次に、中西啓喜『教育政策をめぐるエビデンス』(勁草書房)を読みました。著者は、桃山学院大学の研究者であり、専門は経済学ではなく教育社会学のようです。本書はほぼほぼ学術書と考えていいと思いますが、教育関係者にも配慮しているような気もします。例えば、経済学の学術書であれば、本書第1章の「科学的エビデンスとは何か」なんて議論はすっ飛ばしているような気がします。一般の教育関係者に配慮しているのか、それとも、教育学や教育社会学のエビデンスに対する考え方がまだこのレベルなのかは、私にはよく判りません。そして、本書では科学的エビデンスとは因果関係のことであると見なしています。いつも、私の主張のように、時系列分析の観点からは因果関係とともに相関見解も十分重要だと私は考えているのですが、そこは経済学との違いなのかもしれません。ただ、教育学や教育社会学と経済学で共通する観点、すなわち、実証的な分析と規範的な分析についてはキチンと押さえられています。例えば、本書でも少人数学級の有効性について分析をしているのですが、少人数学級が学習到達度の観点から有効であるかどうかと少人数学級を普及させるべきかどうか、の点は異なる観点から考えられるべき、ということです。経済学も同じで、例えば、財政支出拡大が成長に寄与るるかどうかは実証的に分析できますが、それでは、財政支出を拡大してまで成長を加速させるべきかどうかは別問題です。こういった実証と規範を考えた上で、いくつかの教育に関する論点をフォーマルな定量分析で実証的に明らかにしようと試みています。結論をいくつか抽出すると、まず、少規模学級による学力格差是正効果は小さいものの、その効果は本書では認められています。私のやや古い認識によると、週人数教育は学習到達度にはそれほど有効ではない、というのがこの世界の常識だったような気がしますが、学習到達度ではなく学力格差に着目すると効果あるという結論です。私自身としては一定の留保はつけておきたいと思います。大学のゼミナールが典型なのですが、少人数教育を尊ぶ考えについて、私自身は疑問を持っています。少人数教育ではそれだけ学習に対する圧力、まさに日本的な「圧力」、教師から、あるいは同じ生徒や学生間のプレッシャーがあるので学力への効果があると考えられますが、勉強するしないはそんなことで決まるものではありませんし、とくに、上級校になるに従って学校での学習の比率よりも家庭、というか、自分自身で学習すべき比率が高まりますから、私自身は少人数教育の効果には疑問を持っています。私の直感では、小学校の教員は少人数学級に好意的で、大学の教員はそうでもなさそうな気がします。しおれは、学校での学習と自分自身でやる学習の比率の差であろうと私は考えています。ただ、2点注意すべきなのは、まず、少人数学級ほど教員の負担が小さいことは事実だろうと思います。ですから、本書の分析結果のように、教師のサイドからすれば職務多忙の解消と学級規模の縮小が求められています。そして、従来からの定量分析結果に示されているように、学級規模を縮小させて15~20人くらいを境に学習効果が高まるのは事実だろうとおもいます。ギャクニ、コロナ禍の中で学級規模を40人から35人にしたくらいではほとんど効果はない可能性があると認識すべきです。そして、本書の分析結果として興味深かったのは、日本国民の間では、従来から教育は私的な活動であって、教育の便益は個人に帰属する可能性が高いことから、私的に費用を負担すべきものという感覚が先進各国と比べても高かったと私は認識しているのですが、その意識はかなり変化してきており、公的な支出をより増加させる機運が高まっている、との分析結果が示されています。よく主張される点ですが、日本位の先進国で高等教育機関である大学の無償化が進んでいないのは米国を別にすれば日本くらい、というのがあります。私自身は、大学学費がここまで高いのは雇用慣行の年功賃金が関係していると考えています。すなわち、雇用者の賃金が若年期に生産性より低い賃金しか支給されない一方で、中年以降の子育て期に生産性を上回るので教育費が負担できてしまう、という構図があります。大学の学費を政府が無償にするのではなく、企業に負担させているわけです。もうひとつは、少なくとも1950年代生まれの私くらいまでは、国公立大学は実質的に無償に近かった、という事実があります。私の京都大学の学費は年間36,000円だったと記憶しています。この額であれば、決して私の親は高給取りではありませんでしたが、かなり無償に近い印象でした。ただ、最近時点では国立大学でも年間50万円を大きく上回る学費が必要ですし、公的支出を拡大する機運が高まっているのは、ある意味で、当然かもしれません。
次に、万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)を読みました。著者は、私の後輩の京都大学ご出身の小説家です。私はこの作者の作品はかなり大量に読んでいると自負しています。そして、この作品は、いわずと知れた第170回直木賞受賞作品です。作者の『鴨川ホルモー』のデビューから16年ぶりの京都を舞台にした青春小説です。本書は2部構成、2本立て、というか、順に短編ないし中編の「十二月の都大路上下る」と表題作の「八月の御所グラウンド」を収録しています。両者は密接にリンクしている連作なのですが、独立して読んでも十分楽しめます。ということで、前者の「十二月の都大路上下る」は全国高校駅伝で京都市内を走る県代表の女子高生が主人公です。この主人公JKは1年生なのですが、前日になって先輩の2年生JKが体調不良で交代で出場することになります。主人公JKは極度の方向音痴の上に、雪が舞う最悪のコンディションで、右に曲がるか左なのかのコースを間違えそうになるところ、よく見かける歩道を並走する人たちにコースを教えてもらいます。しかし、この野次馬の並走者が現在には決してマッチしない服装であり、駅伝翌日の買い物で主人公がそれに気づく、というストーリーです。「八月の御所グラウンド」は主人公が、いかにも京都大学を思わせる工学部の男子大学生になります。自堕落な生活を送ってきた学生なのですが、いよいよ卒業が近づいて卒論単位の条件に指導教員から、何と、夏の暑い真っ盛りの8月の御所グラウンドで開催される「たまひで杯」の野球リーグ戦に優勝するとの条件を示されます。京都の8月という極めて悪条件な天候の中で、野球をするための9人を集めるのに苦労し、中国人の大学院留学生の女性に加わってもらったりしていたのですが、とても不思議な3人組も出場することになります。そして、中国人の大学院留学生が調べたところ、確かに、大学に学籍はあったが、卒業も中退もしていない学徒出陣した学生だったことが明らかになり、さらにさらにで、あの伝説の名投手がピッチャーをしていたのではないか、と示唆されます。そして、中国人の大学院留学生は中国にいたころの経験からトトロを持ち出して、正体が明らかになるともう現れない、と主張しますが、彼らは野球に参加し続けます。はい、いい作品でした。ただ最後に、すごく最近の『ヒトコブラクダ層ゼット』あるいは、文庫化の際にタイトル変更して『ヒトコブラクダ層戦争』は別としても、私はこの作者の割合と初期の作品、特に、関西を舞台にした作品が好きです。すなわち、デビュー作の『鴨川ホルモー』、そして、『鹿男あをによし』、『偉大なる、しゅららぼん』、『プリンセス・トヨトミ』の4作です。順に、京都、奈良、滋賀(琵琶湖)、大阪を舞台にしています。これら4作品と本作品を合わせて5作のうちで、この作品『八月の御所グラウンド』が突出した大傑作、という気もしません。むしろ、5作品の中では『プリンセス・トヨトミ』が1番ではないのか、という気すらします。ですから、決してこの直木賞受賞作品をディスるつもりはありませんが、こういった一連の作品を合わせて合せ技1本で直木賞、ということなのではないか、と考える次第です。
次に、東野圭吾『魔女と過ごした七日間』(角川書店)を読みました。著者は、日本でもっとも人気あるミステリ作家の1人ではないかと思います。この作品は「ラプラスの魔女」シリーズの長編ミステリであり、『ラプラスの魔女』の続編となります。従って、シリーズ作品を時系列的に順に並べると、『魔女の胎動』、『ラプラスの魔女』、そして本作品『魔女と過ごした七日間』となります。本作品は『ラプラスの魔女』から数年を経ていますが、このシリーズを通じて時代設定は近未来、ということになります。ですので、AIが広範に活用されていたりします。主人公は、まあ、シリーズに共通して羽原円華なわけですが、この作品では中学3年生の月沢陸真ともいえます。そして、羽原円華の「ラプラスの魔所」としての特殊な能力については特に本作品では解説なしで始まります。すなわち、羽原円華が糸のないけん玉を操るのを月沢陸真が目撃したりするわけです。羽原円華は独立行政法人数理学研究所で働いており、そこには特殊な能力を持ったエクスチェッドの解明を試みています。といったプロローグにに続いてストーリーが本格的に始まります。月沢陸真の母親は早くに亡くなっていて、その上、本書冒頭で父親の月沢克司が他殺死体となって多摩川で発見されます。父親を亡くした月沢陸真を気づかい、中学校の友人の宮前純也が家に誘い、自動車修理工場を経営する宮前純也の親も優しく接してくれたりします。月沢陸真の父親の月沢克司は警備会社に勤務していたのですが、その前には見当たり捜査員として町中を流しては指名手配犯を見つけ出す、という刑事をしていました。その月沢克司が他殺死体となって発見されたのですから、当然、警察の捜査が始まります。そして、羽原円華が「ラプラスの魔女」としてその特殊な能力を活かして闇カジノにルーレットのディーラーとして潜入したりするわけです。まあ、ミステリなのであらすじはここまでとします。本書で大きな焦点を当てられているのがDNAを活用した警察の捜査、あるいは、DNAのデータベースです。この作者の作品で、私が読んだ範囲では『プラチナデータ』と同じです。小説そのものは10年以上も前の作品ですが、時代設定は本作品と同じ近未来となります。ただ、極めて記憶容量のキャパに制限大きい私の記憶ながら、重複する、というか、同じ登場人物はいないと思います。最後に、DNAの活用に加えて、AIに対しても作者はかなり明確に否定的な態度を示していると私は受け止めました。例えば、AIによる顔認証や顔貌の識別よりも人間のプロである見当たり捜査員の優秀生を持ち上げたりしているわけです。そのあたりは、私はニュートラルなのですが、読者によっては好みが分かれるのではないかと思います。
次に、伊藤宣広『ケインズ』(岩波新書)を読みました。著者は、高崎経済大学の研究者であり、専門は現代経済思想史だそうです。本書冒頭に、ケインズ卿はマーシャル以来のケンブリッジ大学の経済学の正当なる継承者であって、断絶を認めるに近いケインズ「革命」があったかどうかは言葉の問題、と指摘しています。まあ、そうなのかもしれません。本書では、第1次世界大戦後の対独賠償の問題を中心に据えて、第2次世界大戦後のブレトン-ウッズ体制については言及がほとんどありません。ケインズについては、2022年11月に平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』をレビューして、戦間期におけるワンマンIMFとしてのケインズの活動を実に見事に捉えていただけに、ブレトン-ウッズ体制構築時の交渉のの欠落や新書という媒体のボリュームの小ささも含めて、本書はやや物足りない気がします。でも、ケインズの「平和の経済的帰結」は極めて重要かつ高名なパンフレットですし、本書でも、ケインズの的確な賠償積算の正しさをあとづけています。この点は、その後にドイツが戦後賠償の過酷さに耐えかねてナチスの独裁を許してしまったという歴史的事実でもって、圧倒的にケインズの見方の正しさが証明されている、と考えるべきです。そういった国際舞台でのケインズの活躍とともに、本書で焦点を当てているのは英国国内の経済問題におけるケインズの考え方と活動です。大きな商店は戦間期の金本位制復帰です。いろんな観点があって、英国は旧平価でもって金本位制に復帰したのは歴史的事実です。そして、我が日本も英国と同じで旧平価で金本位制に復帰しています。ただ、この範囲では同じような経済政策に見えるのですが、本書では、旧平価での金本位制復帰は、ロンドンの国際金融市場としての活力の維持、あるいは、米国ニューヨークに国際金融活動の中心が移行しないような配慮、という観点で考えられた政策です。他方で、ケインズは平価を減価させた水準での金本位制復帰、ないし、金本位制の放棄を念頭に置いていたのですが、これは、国内の経済活動、特に製造業の国際競争力の観点から主張されています。ムリにポンド高の為替レートでもって金本位制に復帰すれば、国内経済はデフレに陥り、製造業の国際競争力は低下します。そして、英国の政策決定はケインズの減価政策を取らずに、旧平価での金本位制復帰を決めたわけです。そのあたりは、私は国内均衡を重視し、現時点からの後知恵とはいえ、国内均衡の重視や国際競争力の維持という観点が、当時は、希薄であったことにやや驚きます。ただ、日本が英国と同じように旧平価で金本位制に復帰したのは、国際金融市場としてのロンドンの地位の維持という政策目標が日本にはないわけですから、単なる誤解というか、経済政策に対する無理解から生じた悲劇であった、と考えるべきです。そして、こういった経済政策に対する無理解から国民生活を苦境に陥れる政策決定は、何と、今でも行われている、と考えられる例が少なくない、と私は指摘しておきたいと思います。
次に、阿部恭子『高学歴難民』(講談社現代新書)を読みました。著者は、東北大学の大学院修士課程に進み、修士学位を取得した後、犯罪加害者の家族への支援組織を立ち上げて活動しています。間違えてはいけません。犯罪被害者ではなく、犯罪加害者の家族への支援です。本書では、実例に基づきつつ、ということはかなり極端な例である可能性があるわけですが、高学歴者の苦境を分析しています。本書での高学歴者難民とは、博士課程難民、法曹難民、海外留学帰国難民、にカテゴライズされ、いくつか実例を上げつつ、後半の章で家族からのヒアリングや社会構造的な解明を試みています。冒頭に強烈な例を持ってきています。すなわち、博士課程まで大学院を進みながら、結局、安定した職がなくて闇バイトで逮捕されたり、万引きを繰り返したりといった例です。繰り返しになりますが、かなり極端な例ですので、どこまで一般化して考えるかは読者の想定に委ねられている部分が大きいと私は考えます。ただ、おそらく、実例としてはあり得るのだろうと思います。また、法曹難民については、当然ながら、司法試験に合格しなかった人です。合格してしまえば何の問題もないのでしょうが、合格しなければ生活が成り立たない例はあるものと容易に想像されます。ほか、海外留学からの帰国者も含めて、私の実体験からしても、永遠に学生や院生、あるいは、資格試験挑戦者を続けて就職しない、ないし、出来ない人はいることはいます。ある意味で、高学歴難民といえるかもしれません。ただ、本書の著者のように犯罪加害者を身近に接していると、やっぱり、高学歴難民よりも低学歴であるがゆえに低所得の犯罪加害者が割合としては多いのではないか、と私は直感的に考えます。もちろん、高学歴であれば犯罪加害者になる可能性が低いと考える人が多いでしょうから、その反例を持ち出すことには意味があります。他方で、高学歴を目指すこと自体を疑問視するべきではないと私は考えます。私は高学歴そのものは否定されるべきではないと考えますが、博士課程まで終了して博士学位を取得しても、研究職への就職が容易ではないという現実があります。
最後に、西村京太郎『石北本線 殺人の記憶』(文春文庫)を読みました。著者は、我が国でももっとも多作なミステリ作家の1人です。本書も、この著者の代表作である十津川警部シリーズのトラベルミステリです。本書はややSFがかったミステリで、20年間の人口睡眠から主人公が目覚めるところからストーリーが始まります。その主人公は、父親から受け継いだ銀行経営者であり、バブル期に思い切った融資を実行して、北海道経済界の若手6人衆の1人とされながら、1990年代後半の金融危機で銀行が破綻し、背任容疑で逮捕されて実刑判決を受け、1年半を刑務所で過ごす羽目になってしまいます。そして、刑務所を出所した後、米国NASAの技術に基づく「20年の眠り」に入ったわけですが、20年後の2月に目覚めてみると時代はコロナのパンデミックに入っていたわけです。そして、主人公が目覚めるとともに、連続殺人事件が発生します。バブル期にもてはやされた北韓道の6人衆のうち、主人公を除く経済界の財界人が次々を殺されます。主人公は20年を経て現在でも忠実な女性の秘書と行動をともにし、もう1人の男性秘書がJR石北本線特急オホーツク1号で主人公から目撃されたことから、犯人の可能性があると追跡を始めます。当然、東京でも殺人が発覚し、十津川警部も捜査にあたるわけです。タイトル通りに、北海道内のJR石北本線特急オホーツクでの移動に基づくアリバイトリックがあり、また、北海道にとどまらず、東京や京都でも主人公は出向きます。ただ、最後はややモヤッとした結末です。私には殺人までする動機の強さが理解できなかったのですが、それは、読んでいただくしかありません。小説の中のキャラがそれほど際立っているわけではなく、ハッキリいえば明確ではなく、逆に、ドラマ化はしやすいんではないか、と、ついつい、どうでもよくていらないことを考えてしまいました。
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