今週の読書は大分岐論争を考える経済書をはじめとして計6冊
今週の読書感想文は以下の通り計6冊です。
まず、パトリック・カール・オブライエン『「大分岐論争」とは何か』(ミネルヴァ書房)は、ポメランツに由来する大分岐について中国などのアジアと産業革命が始まった西欧との比較をし大きな差がなかったと結論しています。岡本好貴『帆船軍艦の殺人』(東京創元社)は、2023年の第33回鮎川哲也賞受賞作品であり、18世紀末の英国の帆船軍艦であるハルバート号で起こった殺人の謎を解くミステリです。天祢涼『陽だまりに至る病』(文藝春秋)は、仲田蛍の活躍する社会派ミステリの第3作であり、小学5年生の思春期直前の少女に仲田が寄り添って殺人事件も意外な解決を見ます。門井慶喜『東京、はじまる』(文春文庫)は、近代都市東京に建築で貢献し日本銀行本店や東京駅を建てた辰野金吾の一代記です。米澤穂信ほか『禁断の罠』(文春文庫)は、辻村深月ほか『神様の罠』に続く出版であり、ミステリ短編7作品を収録したアンソロジーです。最後に、東海林さだお『大盛り! さだおの丸かじり とりあえず麺で』(文春文庫)は、43巻1514篇に及ぶ丸かじりシリーズから麺に関するエッセイを集めて収録しています。ちゃんぽんが取り上げられていないのが残念です。
ということで、今年の新刊書読書は1~2月に46冊の後、3月に入って先週までに19冊、今週ポストする6冊を合わせて71冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
まず、パトリック・カール・オブライエン『「大分岐論争」とは何か』(ミネルヴァ書房)を読みました。著者は、もう引退していますが、ロンドン・スクール・オブ・エコノミー(LSE)で長らく教鞭をとった経済史の研究者です。なお、邦訳は京都産業大学の玉木俊明教授が当たっています。私の尊敬する経済史研究者です。なお、英語の原題は The Economies of Imperial China and Western Europe であり、2020年の出版です。出版社から見て、かなり学術書に近いのですが、純粋な経済学の学術書、という表現はヘンなのですが、理論経済学で数式がいっぱい出てくるような学術書ではありませんから、歴史に興味ある多くの方々が楽しんで読めるのではないかと期待しています。「大分岐」=Great Divergence とは、2000年に出版されたポメランツの著書に由来します。従来からの見方では、18世紀の産業革命が西欧で始まる前に、すでに、西欧と中国やインドなどのアジアはかなり生産力や生活水準、もちろん、その基礎となる科学技術などで遅れを取っていた、とする西欧中心の歴史観が転換され、グローバル・ヒストリーなどの観点からも、産業革命の前夜に西欧とアジアのさは大きくなかった、とする歴史観です。私はその点は疑いないものと見なしています。多くの歴史家もそうだろうと思います。本書では、独特の表現なのか、あるいは、ヒストリアンには共通した用語なのか、私は知りませんが、産業革命によって有機経済から無期経済に転換した、としています。そして、産業革命がどうして西欧、中でもイングランドで始まったか、については、本書では、p.127に結論があります。石炭の発見と中国のスタートが早かったために、逆に、豊かな天然資源が失われ、慣性によりマルサス的な問題に対して科学技術を活用した解決を取らなかった、という2点を上げています。通常、グローバル・エコノミー以前の主流派経済史では制度学派が主要な論点を提供していて、所有権の確立により科学技術を体化した資本ストックの導入が進んだ、ということになっています。ノース教授がこういった経済史理論でノーベル経済学賞を受賞したのは1993年です。でも、2000年のポメランツ教授の『大分岐』からいろいろと議論が盛り上げっていますが、私は、誠に残念ながら、本書の観点も十分な説得力を持つには至っていない気がします。明らかに、現時点で、欧米が経済的なパワーでアジアに優位に立っているのは産業革命を早くに開始したからです。でも、どうして、中国やインドや日本ではなくイングランドで産業革命が始まったのかの謎は、本書でもまだ十分に解明されていない、と私は考えています。ついでながら、私の勤務校のサイトでも同じ問いを立てていて、答えは「答えはいまだに解き明かされていません。」と結論しています。はい。私もそう思います。
次に、岡本好貴『帆船軍艦の殺人』(東京創元社)を読みました。著者は、改題前のこの作品北海は死に満ちて」で2023年の第33回鮎川哲也賞を受賞してデビューしたミステリ作家です。この作品は1795年、すなわち、フランス革命直後の英国の海軍、というか、タイトル通りに帆船軍艦である戦列艦ハルバート号を舞台にしています。英国がフランスに対して長い戦いによって英国海軍が慢性的な兵士不足の状態にあり、本書の主人公である靴職人のネビルは、先輩靴職人のジョージとともに強制的に徴募され、戦列艦ハルバート号に水兵として乗り込むことになってしまいます。なかなか細々と当時の軍艦に関するトリビア知識が散りばめられて、殺人事件がすぐに起こるわけではないのですが、歴史好きな読者などにはそれはそれでいいのかもしれません。船内での食事やハンモックでのざこ寝をはじめとする水兵としての生活がいろいろと記述されています。時代的な背景もあって、現代からは考えられない艦内における階層や序列もあったりします。ただ、これらは殺人事件には直接関係ないような気がしました。しかし、さすがに、タイトル通りに、どこにも逃げ場や隠れるところのないクローズドサークルである軍艦の上で殺人事件が起こります。真っ暗な暗闇の寝室での殺人なのですが、かなり近くにいたネビルがまっ先に疑われたりします。そうこうしているうちに、船倉で次の殺人事件が、また、懲罰房でさらにその次の殺人が起こったりするわけです。士官候補生出身ではなく水兵からの叩き上げの5等海尉であるヴァーノンが船長から指名されて事件解明に当たります。最後の謎解きまでヴァーノンが事件全貌を明らかにします。もちろん、軍艦ですからフランス海軍との海戦場面もあります。のんびりと航海しているだけではありません。ミステリですので、あらすじはここまでとします。帆船に関する詳細な知識は必要ないと思うのですが、やっぱり、帆船に詳しいと謎解きには便利なのかもしれません。必要最小限、という趣旨で本書冒頭の登場人物一覧のページの後の方に帆船軍艦の構造というか、いろいろな用具の名称なども紹介されているのですが、それを読んで理解が深まる人と、私のようにサッパリ理解できずに読み飛ばすに近い読者もいそうな気がします。ただ、収集された情報から論理性を持って本格的に犯人が突き止められます。反面、動機については、犯人の供述を持ってしか明らかにされません。そのあたりをどう考えるかで少し評価が違ってくる可能性はあります。
次に、天祢涼『陽だまりに至る病』(文藝春秋)を読みました。著者は、社会はミステリ作家であり、本書は『希望が死んだ夜に』と『あの子の殺人計画』に続く神奈川県警の仲田蛍のシリーズ第3作です。一応、タイミングとしてコロナ禍の時期が含まれているのですが、決してコロナが前面に出てきているわけではありません。ということで、主人公は小学5年生の咲陽であり、コロナ禍の中で親から「困っている人がいたらなにかしてあげないと」といわれていました。そして、咲陽はクラス中で浮いた存在だった小夜子から「父親が仕事で帰ってこない」と聞き、心配して家に連れて帰って匿うことにします。というのも、小夜子は父親との2人家庭で、2人が住むアパートが咲陽の部屋から見えるくらいのご近所であり、しかも、町田のホテルで起きた女性殺人事件の犯人は、小夜子の父親でではないかと疑いを持っていたからです。ですから、小夜子を探しているという刑事が咲陽の家を訪ねてきた際も、2階の自室に匿っているにもかかわらず、「知らない」と嘘をついてしまったりします。咲陽は困っている小夜子を助けるといいながらも、警察や両親に嘘をついているという罪悪感があり、加えて、父親の経営するレストランがコロナ禍でダメージを受けていることが察せられ、今の生活を維持できずに貧乏になってしまうという恐怖感もあったりします。こういった思春期を目前に控えた少女の心理を仲田蛍が寄り添うわけです。ミステリとしては町田の女性殺人事件の謎解きが絡むのですが、とても意外な結末を迎えます。もうひとつのクライマックスは、お互いに気を使って本音をいえなかった小学5年生の咲陽と小夜子なのですが、小夜子が咲陽をどう見ているかについての爆弾発言、というか、手紙に咲陽が接して、何とも切ない気持ちになってしまいました。ただ、小夜子の父親のキャラが、やや私なんかから考えればあり得ないので、少しびっくりしました。最後に、ミステリの謎解きとしては前2作、特に『希望が死んだ夜に』に比べると大きく落ちます。コロナについてもタイミング的にその期間だから、というだけの言及程度の取り上げられ方で、いずれにぜよ、前2作からすれば大きく物足りない、と私は感じてしまいました。
次に、門井慶喜『東京、はじまる』(文春文庫)を読みました。著者は、『家康、江戸を建てる』がベストセラーとなり、『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞した作家です。本書では、近代日本を象徴する首都東京の始まり、というか、江戸の終わりと東京の始まりを建築から説き起こしています。主人公は辰野金吾です。九州の下級武士の出であり、現在の東京大学建築学科を首席で卒業して英国に留学し、建築家として数多くの近代建築を完成させてきた学者・建築家です。本書の冒頭はその英国留学からの帰国から始まります。ちょうど、鳴り物入りで建築が進められていた鹿鳴館の建築中であり、恩師のコンドルとともに建築現場を見に行ったりします。そして、前半は生い立ちから始まって、お雇い外国人のコンドルから建築学を学び、そのコンドルの母国である英国に留学したりするわけです。前半のハイライトは日銀本店の建築です。すでに、恩師のコンドルの設計が決まっていたにもかかわらず、時の総理大臣の伊藤博文や日銀総裁の前でコンドルをこき下ろす大演説をぶち上げて、自らが建築を請け負います。そして、事務主任として高橋是清を迎えて建築を進めます。後半のハイライトは東京駅です。日銀本店が堅牢なドイツ的バロック様式であったのに対して、東京駅は英国的なクイーン・アン様式を取り入れ、「時代遅れ」という悪評にもめげずに完成に邁進します。英語の慣用句でも Queen anne is dead. という時代遅れを表す言葉あるくらいですから、アン女王様式というのは時代遅れなのかもしれません。そして、国会議事堂の建築に取りかかるも、第1次対戦直後のいわゆるスペイン風邪とよばれたインフルエンザで亡くなってしまいます。本書冒頭でも指摘されていますが、近代国家の首都である東京は「密」っであって、「疎」であってはならない、というのが出発点となっています。2020年のコロナからは三密を避けるなどと、密と疎の考えが逆転しかかっていますが、建築家として近代都市を作る基礎はそうなのだろうと私ですら同意します。実にエネルギッシュに東京を作った、そして、その裏では江戸を壊した明治期の建築家である辰野金吾の痛快な一代記です。最後に、高橋是清の存在がエコノミストとしてとても興味深く読みました。
次に、米澤穂信ほか『禁断の罠』(文春文庫)を読みました。著者6人は、ともにミステリ作家であり、本書はミステリ短編7話を収録したアンソロジーです。なお、この前作に当たるのが辻村深月ほか『神様の罠』であり、このブログでは2022年6月にレビューしています。ついでながら、さらにその前作となるのが辻村深月ほか『時の罠』なのですが、私はこれは読んでいません。ということで、6話の短編の作者とタイトルをあらすじとともに収録順に取り上げると以下の通りです。まず、新川帆立「ヤツデの一家」は、政治家を父親に持つ女性が主人公で、主人公が政治家を継ぎます。でも、継母の連れ子の兄を秘書にしたところ、双子の兄弟であったので入れ替わったのではないか、というシーンが印象的でした。結城真一郎「大代行時代」では、銀行の支店を舞台に一般職の女性が総合職の新人男性の教育係になりますが、この新人クンが質問をするのが大の苦手ときています。斜線堂有紀「妻貝朋希を誰も知らない」は、例の寿司チェーン店の迷惑動画を題材にして、タイトルに氏名がある男性の関係者をジャーナリストが入れ代わり立ち代わり取材するという形式で進みます。米澤穂信「供米」は、亡くなった詩人の親友が主人公です。亡くなった詩人の遺稿集が出版されたことをきっかけに、主人公が昔の思い出を辿っていく、というストーリーです。最後の1文に思わず感激する読者もいそうです。表現力がすばらしく、言葉の選択が抜群です。それなりに読解力を必要としますが、本書の中でも出色の作品です。中山七里「ハングマン - 雛鵜」は、逆にやや物足りなくも曖昧な作品です。復習を代行する登場人物が何人かいて、ミステリ仕立てになっています。スマホにすべての人格が詰め込まれているというのは怖い気がしましたが、事実なのかもしれません。最後に、有栖川有栖「ミステリ作家とその弟子」では、ベテランのミステリ作家が弟子に語るという形式を取っています。昔話の「桃太郎」や「ウサギとカメ」の解釈も、この作者らしく凝っていた気がします。なかなかにして豪華な執筆陣です。中山作品を別にすれば、短編ミステリとして十分な水準に達していると思います。
次に、東海林さだお『大盛り! さだおの丸かじり とりあえず麺で』(文春文庫)を読みました。著者は、漫画家、エッセイストであり、少し前に同じ作者と出版社の『パンダの丸かじり』をレビューしましたが、本書はその丸かじりシリーズから麺に関するエッセイを集めて収録しています。なお、出版社のサイトによれば、このシリーズは計43巻1514篇に上るそうです。なお、ついでながら、この丸かじりシリーズは『週刊朝日』に連載されていたエッセイ「あれも食いたいこれも食いたい」から編まれています。もちろん、私はすべてを読破しているはずもありません。ということで、表紙画像から明らかなように、まず、ラーメンから始まります。ラーメンとセットでラーメン屋のオヤジも大活躍です。振り返ってみるに、私は公務員のころに福岡に出張した際に食べたラーメンが最後のような気がします。長らくラーメンは食べていません。もちろん、ラーメン以外にもそば・うどんはいうまでもなく、冷やし中華、鍋焼きうどん、さらには、スパゲッティやビーフンまで登場しますが、なぜか、ちゃんぽんが出てきません。まあ、皿うどんは譲るとしても、私は今の勤務校のずいぶん前に長崎大学経済学部に現役で出向していた経験があり、ちゃんぽんは、たぶん、ラーメンの一種、それも、本書でラーメンの次に取り上げられているタンメンの一種だと思っているのですが、ラーメンの中にも、タンメンの中にも、独立してでも、ちゃんぽんが出現しないのはやや不思議な気がします。カップ麺が軽い扱いなのは理解するとしても、また、長崎でいえば皿うどんは譲るとしても、懐かしのちゃんぽんは、専門的なチェーン店すらあるわけですから、本書にも欲しかった気がします。この点だけは不満です。
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