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2024年4月27日 (土)

今週の読書は経済書2冊をはじめ計7冊

今週の読書感想文は以下の通りの7冊です。
まず、ダイアン・コイル『経済学オンチのための現代経済学講義』(筑摩書房)では、さまざまな経済学やエコノミストへの批判を取り上げ、先行きの展望などを示そうと試みています。辻正次・松崎太亮[編著]『ポストコロナ時代のイノベーション創出』(中央経済社)は、日本企業でイノベーションをもたらす条件を考察しています。荒木あかね『ちぎれた鎖と光の切れ端』(講談社)は、九州の孤島での殺人事件を大阪の連続殺人をリンクさせた謎解きです。貴志祐介『秋雨物語』と『梅雨物語』(角川書店)は、雨にまつわるホラー短編を収録しています。鮎川潤『腐敗する「法の番人」』(平凡社新書)は、警察、検察、法務省、裁判所などの社会統制機関における腐敗を広く明らかにしています。魚住和晃『日本書道史新論』(ちくま新書)は、特に平安期の三跡、中でも小野道風に至る書道史に新説を吹き込んでいます。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って先週までに19冊をレビューし、今週ポストする7冊を合わせて103冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお、大学の図書館で目についたので、別途、島谷宗宏『一度は作ってみたい極みの京料理50』(光文社)も読みました。というか、写真を眺めました。これは2014年出版で新刊書ではないので、このブログでは取り上げませんが、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。来週はゴールデンウィークに入りますので、ひょっとしたら読書から少し離れた活動に精を出すかもしれません。

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まず、ダイアン・コイル『経済学オンチのための現代経済学講義』(筑摩書房)を読みました。著者は、『インディペンデント』紙の経済記者などを務めた経験もあるエコノミストであり、現在は英国ケンブリッジ大学の研究者です。英語の原題は Cogs and Monsters であり、Cogs とは歯車の歯の部分を意味しています。2021年の出版です。本書は10年余り前にはやった2008年のリーマン・ショックからの金融危機と Great Recession とも呼ばれる景気後退への反省、ないし、言い訳である第1章 経済学者の公的責任 から始まって、以下各章タイトルは、第2章 部外者としての経済学者、第3章 ホモ・エコノミクス、AI、ネズミ、人間、第4章 歯車とモンスターは本書のタイトル章であり、第5章 変化するテクノロジー、変化する経済、第6章 21世紀の経済政策、となっていて、さまざまな経済学やエコノミストへの批判を取り上げ、先行きの展望などを示そうと試みています。とはいいつつ、第1章の前のはじめにでは、エコノミストが形成する経済学界を批判しています。すなわち、女性比率がとても小さく、議論する際に極度に攻撃的な態度を取るエコノミストが少なくない、などです。なお、ついでながら、私のように博士号を持たない実務家エコノミストへの差別については言及ありません。まず、エコノミストの態度に関しては、私の従来からの主張とほぼ同じで、経済学が社会との相互作用がある学問領域であるだけに、経済社会を理解するだけでなく、経済社会に何らかの変化や修正をもたらそうとする要素について考えています。私はもうひとつ価値判断についても言及が欲しかった気がします。例えば、宇宙物理学では、宇宙の真理を解明したとしても天体の運行に影響を及ぼそうとすることはありませんし、満月が新月よりも好ましいと考える根拠を提供するものではありません。しかし、経済学は完全競争市場が厚生経済学定理からもっとも効率的な資源配分をもたらすので、市場原理主義的に規制を緩和して市場競争を活性化しようとしたりして、アサッテの方向でこれを適用してネオリベな政策を実行したりしようとしますし、所得が高い方が好ましいと考えたりもします。ただ、本書では、的確に経済学やエコノミストへの批判に反論もしています。すなわち、合理的な個人を前提にしている、貨幣価値で計測できないものを無視している、現実ではなくモデルを優先する、といったやや古臭いタイプの経済学に対する批判です。そういったアサッテの批判に反論しつつ、エコノミストの公的責任をpp.104-05で5点に要約しています。これらの中で、私は4点目と5点目が特に重要であり、研究資金を提供してくれる特定の企業や利益団体に肩入れした研究は、その旨を明確にするとか、エコノミストと一般市民とのコミュニケーションの改善とかです。そのうえで、経済学の将来の方向性を指し示そうと試みています。そのあたりは読んでいただくのがベストですが、章タイトルから軽く想像される通り、AIやデジタル技術の活用といった新たな経済学の発展方向を示したり、GDPに代わる指標に必要とされるアプローチを考えたりしています。第5章のタイトルそのままですが、テクノロジーが変化すれば、経済学も変化するわけです。最後の第6章では、本書執筆時点の2020年のコロナ禍で、政府の経済への介入がかなりパワフルである印象が取り上げられています。最後に、本書の主張の中で私が強く同意する点は、経済学の研究において、特に、マクロ経済学の研究においては因果性の解明は決して重きを置くべきではない、という点です。逆に、やや同意しかねる点は、GDPという経済指標は確かに時間を経てやや old-fashon になったかもしれませんが、本書の著者を含めて多くのエコノミストが見逃しているのは、雇用との相関が極めて強い点であり、国民生活上の雇用あるいは失業について厚生の観点からどう考えるかをもっと活発に議論した方がいいと私は考えています。社会保障が充実した福祉国家においては、失業の負の厚生や不効用はケインズ卿が考えた1930年当時ほど大きくないので、雇用との連動性高いGDPは見直すべき、というのは私は一貫した考えだと思いますが、そういった議論は見かけません。どうなっているのでしょうか?

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次に、辻正次・松崎太亮[編著]『ポストコロナ時代のイノベーション創出』(中央経済社)を読みました。編著者は、2人とも神戸国際大学の研究者です。各チャプターの執筆者も神戸国際大学の研究者が多くを占めています。ということで、本書ではさまざまなイノベーション創出に関して、必要な条件にどういったものがあり、また、当然、日本の研究者なわけですので、日本型のイノベーションにはどういったものがあるのか、といった観点から、いろいろな分野におけるイノベーション、特に、イノベーションのプロセスに着目した研究成果を収録しています。最終章ではタイトル通りにコロナとイノベーションの関係を探っています。まず、イノベーションにもいくつかのタイプがあり、まず、日本型企業の特徴として高度成長期から終身ないし長期雇用、年功賃金、企業内組合などが上げられています。そして、本書で強調しているのは、最初の技術的なブレイクスルーはともかく、最終的には最終需要者、特に消費者に商品として購入されて使用されねばならない、という点です。工学技術的にどれほどものすごい発見・発明であっても、経済的に商品やサービスとして市場に投入され、購入されることによって評価されなければならない、という考え方です。NHKで再開された「新プロジェクトX」に通ずるものがある気がします。もちろん、イノベーションに先立つ研究開発R&Dの段階も視野に収めて、日本型イノベーションではメインバンクが出資・貸付を行い、政府も重要な役割を果たす、といった特徴を指摘しています。同時に、市場への投入という観点からは、いかに工学的・技術的に新規性あったとしても市場で評価されなければ経済学的・経済的に意味がないわけで、その意味で、日本型イノベーションとは消費者の使い勝手も含めた改善であって、単なる「モノマネ」ではない、と主張しています。また、イノベーションの分類に即していえば、新しい商品を創出するプロダクト・イノベーションに加えて、生産過程などの改良としてプロセス・イノベーションも評価されるべき、ということになります。こういった観点から、イノベーションのさまざまな面を考えていて、特に、私に印象的だったのはICTやデジタルを活用することにより、イノベーションになにか変化がもたらされるのか、あるいは、スピードが加速されるのか、という点でした。イノベーションを客観的に計測するハードデータを得るのは難しいので、企業に対するアンケート調査に基づくマインドのソフトデータを利用した数量分析もいくつか実施されており、ICTの活用によりR&Dの自律性が高まり、スピードアップが図られている、という結果が示されています。それはそうなんだろうという気がします。同時に、ソーシャル・メディアSNSを活用して、ユーザーと協働するイノベーションが促進される点も分析されています。その昔、イノベーションにはユーザーは大きな役割を果たすことはなく、例えば、フォードの表現を借りれば、「顧客のニーズはもっと早い馬をくれ、ということだ」というのがあって、新規の技術的なブレークスルーは消費者からもたらされるわけではない、という点が強調されていましたが、まったく新規商品を開発する場合も含めて、特に日本的な使い勝手の改良であればソーシャル・メディアにおけるユーザーの意見を取り込んだイノベーションも可能性として十分ありえると考えられます。最終章では人的接触の機会が大きく減少したコロナ・パンデミックにおいても、従来からのオープン・イノベーションは引き続き有効であった、と結論しています。ただ、最後の最後に、こういった経営学的なイノベーションに関する研究に対して私が従来から疑問を持っているのは再現性です。ホントに、本書で分析されたようなイノベーション促進手法を企業が活用すれば、今後もイノベーションは進むのでしょうか。それとも、こういった研究は後づけで過去の事例を分析しただけで、将来に対するインプリケーションはそれほどないと考えるべきなのでしょうか。もしも、後者であれば、イノベーション研究が歴史学と同じなのでしょうか。

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次に、荒木あかね『ちぎれた鎖と光の切れ端』(講談社)を読みました。作者はミステリ作家であり、前作『此の世の果ての殺人』で史上最年少で江戸川乱歩賞を受賞しています。本作品は受賞後第1作です。第1部と第2部の2部から成り、第1部では、島原湾の孤島である徒島での殺人事件の、第2部は大阪市内の殺人事件の、それぞれの謎を対象にしています。まず、第1部の徒島編では、同じ20代半ばの年齢の男女7人が徒島に渡って休暇を過ごします。コテージの管理人である久城も30歳と近い年齢です。集まった7人の中の1人である樋藤清嗣は残りの6人を殺したいほど憎んでおり、この島で全員を殺害したうえで、自分も自殺しようと計画していました。しかし、樋藤が殺害計画を始める前に殺人事件が起こります。そして、それぞれ殺人事件の第1発見者がその次の殺害対象となり、それが連鎖します。第2部では、大阪市の清掃職員である横島真莉愛が、仕事であるゴミ回収中にバラバラ死体を発見します。この真莉愛は、実は、第1部でコテージの管理人だった久城の元カノであり、第1部の樋藤が残りの6人を憎むきっかけになった樋藤の先輩と同居していたりします。しかも、真莉愛が発見した死体は、第1発見者が次々に殺害されるという連続殺人事件3番目の犠牲者でしたので、男女警察官2人新田と瀬名が警護に付きます。それでも、真莉愛は日本刀を持った男に襲われて、あわや4番目の殺人事件になりかけたりします。ということで、殺害された被害者の舌を切り取るというのは、やや猟奇的な印象ながら、謎解きはそれなりに合理性を持ってなされて事件は解決します。第1部については、携帯電話の電波が届かず、唯一の通信手段である公衆電話も切断されていて、いわゆるクローズド・サークルの本格ミステリ独特の状況での殺人事件です。しかも、第2部にも連続して第1発見者が次の犠牲者となるという意味で、この作品独特の緊張感をもたらしています。しかも、私の好きなタイプのミステリ、すなわち、名探偵が最後の最後に一気に真相を明らかにするのではなく、少しずつ少しずつ徐々に真相が明らかになるタイプのミステリです。この作品の作者のデビュー作は、小惑星が地球に衝突して地球が滅亡しかねないという無法地帯での殺人の謎解き、という特殊設定ミステリに近い作品でしたが、この作品はクローズド・サークルの1部と警察が強力な警護体制を敷く2部の構成で、それらは密接に関連しつつ謎を深めていて、前作を超える受賞後第1作と私は高く評価しています。伏線がいっぱいばらまかれていて、決してミスリードを誘うような作りにはなっていませんが、かなり複雑な構造になっていますので、その意味で、ミステリとして読み応えがあります。加えて、殺人事件の謎解きにとどまらない人間ドラマの要素も含まれており、その意味でも評価を高めている気がします。この作家さんのこれから先が楽しみです。今後の作品も追っかけたいと思います。


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次に、貴志祐介『秋雨物語』『梅雨物語』(角川書店)を読みました。著者は、ホラー作家、ミステリ作家です。また、私と学部まで同じ京都大学経済学部のご卒業で、年齢的には私の2年後輩に当たります。この作品は2冊ともホラーであり、収録順にあらすじを簡単に紹介すると以下の通りです。まず、『秋雨物語』の「餓鬼の田」で、タイトルの意味は作品内でも説明されていて、餓鬼道に転生した亡者が田植えをするところですが、植えているのが稲ではないために、飢えや渇きに苦しむ餓鬼には役立ちません。ギリシア神話のタンタロスの伝説と同じです。前世の報いで恋愛が成就しない男性に対して、心引かれる女性の心理を切なく描き出しています。「フーグ」は、タイトル通り、解離性遁走という米国精神学会が定義する精神疾患です。この作品では、テレポーテーションとほぼ同一とみなしていますが、作家が創作に行き詰まると瞬間移動してしまい、そのテレポーテーション先から作家と同一質量の物質が逆送されて来ます。そして、最後の転送先がとても恐怖でした。「白鳥の歌(スワン・ソング)」は、音楽とオーディオの愛好家である京都の創業者社長が、作家に幻の日系アメリカ人女性歌手の伝記の執筆を依頼します。米国の探偵に、この超絶的な歌唱能力を持つ幻の歌手の調査を依頼しますが、それが大きな悲劇をもたらします。超絶歌手が歌っていた録音が「マノン・レスコー」だったのが印象的でした。最後の「こっくりさん」は、事件を起こして自殺を望んだり、難病で余命宣告されていたりする小学生4人が、オカルト研究家の男性の指導で廃病院でこっくりさんをするのですが、これが、ロシアン・ルーレット式こっくりさんで、1人あるいはそれ以上の命の犠牲で、残された者はむしろ人生の成功を得る、というものでした。その12歳の小学生のこっくりさんの後、アラサーになった残された成功者が再びこっくりさんをする羽目になります。『梅雨物語』は、まず、「皐月闇」では、20代半ばの女性が、彼女の双子の兄が自殺する前に自費出版した句集を持って、俳句部の顧問だった恩師の中学校教師を退職した男の自宅を訪ねてきます。句集に収録されたうちの13句の解釈から、自殺の真相が導かれます。「ぼくとう奇譚」は、タイトルからして永井荷風の最高傑作といわれる小説を下敷きにしています。舞台は戦前期昭和の東京、主として銀座です。名家の跡取りで遊び人が夜ごとに黒い蝶に誘われて夢の中に現れた楼閣へ入り込むのですが、高名な修験者によれば、呪詛を受けている結果であるとのことで、段々と深みにはまっていきます。最後の「くさびら」は、「菌」という漢字1字で「くさびら」と読みます。作中に説明がありますが、滋賀県内に菌神社というのがあるそうです。しかし、小説の舞台は軽井沢で、男性の妻と子供が姿を消したころから、家の周りにキノコが群生し始めますが、キノコが見える人がいたり、見えない人がいたりと不思議な感じです。果たして、妻と子供はどこにいるのか。ということで、この作者はデビューからほぼ一貫してホラー小説を書き続けているのですが、本書もとってもできのいいホラー小説、短編集です。プロットとしては途中から最終的なオチが透けて見えるような作品も少なくないのですが、アッと驚くような結末、どんでん返しをラストに用意しているタイプのエンタメ的なホラーではなく、純文学的に表現力や用語の選び方、ストーリーのテンポなどによって読ませるタイプの小説です。なお、タイトル的に続編があるような気がしますし、すでに雑誌に連載が始まっているのかもしれません。

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次に、鮎川潤『腐敗する「法の番人」』(平凡社新書)を読みました。著者は、関西学院大学名誉教授であり、ご専門は犯罪学、刑事政策、社会問題研究となっています。本書では、米国では「法執行機関」と呼ばれる警察や検察など、本書で「社会統制機関」と総称される法の番人の腐敗を広範に取り上げています。順番に、警察に関しては、いわゆる行政機関的に人員や予算の確保のために治安が悪化しているような印象操作を行うとともに、キャリア警察官僚をはじめとした天下り先確保のための悪辣なやり方などを取り上げています。私も、今回の自民党安倍派のパーティー券収入のキックバックが明るみに出る前には、「裏金」といえば警察のことであると認識していたくらいです。パチンコやパチスロをはじめとする風俗営業については、やっぱり、表には出にくい仕組みがあるんだろうと、公務員を退職する前の官庁エコノミストをしていたころに想像していたりしました。ただ、私は、警察と暴力団との関係についても疑っていて、本書でほとんど言及されていないのは少し物足りませんでした。検察についても基本的に行政組織としての裏側は警察と同じです。警察にせよ、検察にせよ、業績評価されるとすればグッドハートの法則が成り立ってしまい、計測に不適切な要素が混じることは避けられません。法務省は、どちらかといえば、刑務所の運営から着目されています。司法試験合格の検事と他省庁ではキャリアとしの扱いを受ける国家公務員試験合格者との軋轢は、当然にあるんだろうと想像はします。私は経済職でしたので法務省ではお呼びでなかったのだろうと思いますし、私の方でも就職対象にはしていませんでしたが、少し異質な役所であるという認識はあります。裁判所については、青年法律家協会(青法協)から入っていますが、章の初めの節のタイトルが「裁判所は独立しているか」でしたので、安保条約との関係をはじめとして、裁判所が判断をしない裁判事例がいっぱいあるので、それを想像していしまいましたが、やっぱり、行政機関としての側面で予算や人員を確保するという点から入っているのは、やや失望感ありました。また、以上の警察、検察、法務省、裁判所を取り上げた4章の後の終章で司法の再生を考えるという第5章が置かれていますが、結論が物足りません。こういった社会統制機関が腐敗していることが国民生活や企業も含めた経済社会にどういった歪みをもたらしているのか、イニシャル表記しかされなかった大川原化工機事件のような個別事案だけではなく、経済社会全体に及ぼす腐敗の影響を分析して欲しかった気がします。でも、本書は本書なりに、的確に個別の事案を取り上げている点は評価します。

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次に、魚住和晃『日本書道史新論』(ちくま新書)を読みました。著者は、神戸大学をすでに退職された研究者で、ご専門は日中の書道史であり、筆跡鑑定でも有名だそうです。本書はタイトル通りに、中国ではなく日本の書道史を対象としているのですが、本書でも指摘されているように、日本の書道史は人気がない、というか、ほぼ無視されているに近く、私自身としてもも中国書道史しか知らない、興味がないところです。そして、中国の書道史に関して多くの方が誤解している点は、漢字の楷書と行書と草書の歴史的関係です。すなわち、楷書が最初に成立して、その後、楷書を崩した行書が出来て、最後に草書が出来上がった、というのは歴史的には逆になります。現実には、本書でも指摘しているように、役所の公文書に用いられる隷書が成立し、その後に、実務的な要求から、早書きするために隷書が崩されて草書が成立します。現代的に表現すると、草書というのは速記体なわけで、行書や楷書よりも先に成立しています。そして、その草書をキチンとした形に整えていく中で行書が成立し、最後に楷書が出来上がりました。隋の前の北魏から隋や唐にかけての時期により精緻化され、王羲之や欧陽詢、あるいは、褚遂良などにより楷書が完成します。そして、本書でも指摘されているように、楷書の中でも、仏教界では中国の南北朝期の南朝に由来する行狎書とか、あるいは、役所の公文書に用い、したがって、中国の行政官吏登用試験として名高い科挙で使われる院体などが出来上がります。そして、こういった書体を日本は中国から丸ごと受け入れて、草書から仮名や片仮名を生み出していったわけです。本書に戻ると、まあ、聖徳太子による三経義疏の新説も見逃せないのですが、やっぱり、読ませどころは第4章のかなの成立、第5章の平安期の三筆から三跡を取り上げているあたりだと思います。これは、文字や書道が中国の影響から少しずつ離れて、日本独自の発展を遂げ始めた時期だからです。第4章では発掘された木簡に基づいて、万葉仮名から仮名文字の成立を考察し、第5章では特に三跡の中でも小野道風の書法の斬新性を王羲之と比較して論じた部分は圧巻です。小野道風の書法は、線が太めで丸みを帯び、決して角ばらず、筆脈が一貫して通じていて運筆が滑らかであるとし、さらに、字の作りとしても上部を詰め気味にして下部をゆったりと鏡餅のように末広がりに作り安定させている、といった記述は、読む人が読めば涙が出るくらいに的確に小野道風の書法を評価しています。立膝で筆を進める奇矯な小野道風の印象をお持ちの向きが少なくないと思いますが、全編300ページを越える本書の中でも、この部分を読むだけでも値打ちがあります。また、私が杉並区の大宮八幡近くの師匠のお宅で毎週練習に励んでいた時にお手本とした欧陽詢の「九成宮醴泉銘」も、当然のように、取り上げられています。ただ、本書の日本書道史は徳川期で終わっています。もしも、続編があって、明治期以降が取り上げられるのであれば、前衛書道の評価を知りたい気がします。先駆けとなった比田井天来からの書道については、私は師匠に倣ってまったく評価していません。まさに、比田井天来の言としてよく引用される「文字をよらずして、書的な線」を目指すのが前衛書道であれば、現在の石川九楊先生にもつながると考えるべきですが、それらに対して、私の師匠は「書道は文字として識別されるべきである」と考えていました。すなわち、「大」と「犬」と「太」は点のあるなし、また、どこに点を打つかによって字義が異なります。それを無視して文字ではない線を書く前衛書道は、ひょっとしたら美術であるかもしれないが、書道としては決して高く評価できない、というのが、師匠から引き継いだ私の前衛書道観です。本書の著者は、どのように評価するのでしょうか?

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