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2024年6月29日 (土)

今週の読書は国際開発援助を取り上げた経済書をはじめとして計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、稲田十一『「一帯一路」を検証する』(明石書店)は、国際開発援助において被先進国である中国が対外援助の乗り出したネガティブな影響について分析しています。中野剛志ほか『新自由主義と脱成長をもうやめる』(東洋経済)では、脱成長が新自由主義的な主張につながりかねない危険を背景にした議論です。長山靖生『SF少女マンガ全史』(筑摩選書)では、昭和黄金期のSF少女マンガの歴史を概観しています。三浦しをん『しんがりで寝ています』(集英社)は「BAILA」に掲載された日常生活に根ざすエッセイを収録しています。酒井順子[訳]『枕草子』上下(河出文庫)は、清少納言の古典を現在の人気女性エッセイストが読みやすい文章に現代訳しています。恒川光太郎『真夜中のたずねびと』(新潮文庫)は、社会の辺境にある微妙な主人公たちをややズレのある角度から捉えた短編集です。
ということで、今年の新刊書読書は1~5月に128冊の後、6月に入って先週までに25冊をレビューし、今週ポストする7冊を合わせて160冊となります。順次、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでもシェアする予定です。

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まず、稲田十一『「一帯一路」を検証する』(明石書店)を読みました。著者は、世銀勤務のご経験もある専修大学のエコノミストです。本書では、タイトル通りに中国の体外経済協力について分析しています。いわゆる「一帯一路=Belt and Road Initiative」構想に基づく対外援助です。本書は3部構成になっており、第1部で国際的な潮流への影響を、第2部でインフラ開発における日中の競合について、そして、第3部でアフリカ開発における中国の援助のインパクトについて、それぞれ焦点を当てています。どうして「一帯一路」を押し進める中国の対外援助を取り上げるのかというと、本書でも指摘されている通り、国際開発援助体制においては先進国が経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)を通じて国際公共財としての開発援助を実施している一方で、中国はOECD加盟国ではありませんから、当然にDACでの議論とは無関係に非DACドナーとして自国の「国益」に応じて、国際社会の協調体制とはほぼほぼ無関係な対外援助を実施しており、その問題点がここ10年余りで浮き彫りになっているからです。例えば、中国は「内政不干渉」を旗印にして民主主義の価値については無頓着ですし、ひどいケースでは内戦下の国に対して政府軍を支援するような対外援助すら実施されていたことがある、という指摘も散見します。私は30年ほど前まで在チリ大使館で経済アタッシェをしていて、開発援助の業務にも携わりましたが、少なくとも、日本はOECD/DACのメンバーですし、独裁者ピノチェト将軍が大統領職にあったころには円借款による国際開発援助は行っていませんでした。ピノチェト将軍が大統領職を退いて民政移管してから円借款を始めています。しかし、中国は主としてアジア地域なのですが、平和と民主主義、あるいは2015年以降は国連決議によるSDGsといった国際的な規範を無視した開発援助を実施しています。加えて、スリランカのハンバントタ港がもっとも有名なのですが、債務削減と引換えに港の運営権が99年間もの長期にわたって中国企業に移管されてしまいました。典型的な「債務の罠=debt trap」であると考えるべきです。こういったムチャな開発援助の供与をはじめとして、中国の援助に対する批判が強いのは、いわゆる紐付き融資でないアンタイド化が進む中で、中国の開発援助は中国企業が受注し、その上、労働者まで中国人が送り込まれるという独特の方式に根ざす部分もあります。また、こういった中国の援助により提供されたインフラの質にしても決して悪くはないものの、契約の際に疑義があったインドネシアの高速鉄道の例などもあります。すなわち、中国案は財政負担を伴わないとされていたものの、結局、建設費が膨らんで財政負担が生じるなどの不透明な契約も指摘されています。その昔は、リビジョニストなどが「日本異質論」を振りまきましたし、私自身は中国異質論には距離を置いていますが、少なくとも本書を読む限りでは、対外援助においては中国のやり方がOECD/DACのメンバーである日本をはじめとする先進国とは大きく異なるという印象を持ちました。

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次に、中野剛志ほか『新自由主義と脱成長をもうやめる』(東洋経済)を読みました。著者は、経済産業省ご勤務のエコノミスト、ほかに、評論家・作家、また、九州大学の政治学者、京都大学の経済思想史研究者であり、私には解説能力ありませんが、「令和の新教養」研究会(第1期)メンバーだそうです。この研究会で議論した結果を明らかにした東洋経済オンラインの「令和の新教養」などをもとに書籍化しています。ですので、必ずしも経済書という内容でなく、経済思想の背景に迫るという目的の方に重点が置かれている気もします。本書は3部構成であり、第Ⅰ部で岸田内閣発足直後に掲げられた成長と分配の好循環が可能化を取り上げ、第Ⅱ部で自由の旗手アメリカの行く末を考え、第Ⅲ部でコロナ禍以後の国家と世界を見通しています。ナショナリズムやリベラルといった思想史的な部分は私の専門外ですので、タイトルに即して、私が期待した経済に関する部分を中心に考えたいと思います。まず、新自由主義ですが、経済分野における政府の役割を小さくし、市場の役割を大きくするというのが旗印であり、市場における価格メカニズムによる資源配分がもっとも効率的である、という厚生経済学の第1定理に基づいています。でも、同時に、第2定理により、消費者の選好が局所非飽和性を満たし、かつ、選好の凸性などの条件が満たされれば、当初条件で政府が適切な所得分配を行えば任意のパレート効率的な資源配分を達成させることができる、というのもあります。いずれにせよ、一般的な理解通りに、市場による資源配分は政府による所得分配によって補完されねばならないのですが、後者の政府による所得分配をまったく無視しているのが新自由主義だと私は単純に理解しています。ですから、米国のレーガン政権期、英国のサッチャー内閣期、日本の小泉内閣期には格差が大きく拡大したわけです。その不平等の拡大により、私は個人の基本的人権の保証や自由の行使すら難しい場面が生じかねないので、新自由主義による格差拡大を政府が是正すべき局面に来ている、と考えています。そして、別のトピックとして脱成長があります。これは、地球環境の重視、あるいは、気候変動の緩和から発生していると私は見なしています。すなわち、人新世に入って産業革命の達成とともに、GDPの成長と環境負荷の増大が爆発的に生じ、人類の生存のために環境を保全する必要があり、今後ともGDPの成長に環境負荷の増大が連動するのであれば、GDP成長の方を諦めねばならない、というものです。日本では東大社研の斉藤准教授などが論客として有名ではないかと思います。私はこの脱成長については、GDPと環境負荷の連動性を遮断しデカップリングを可能とする技術的なブレークスルーが、今後可能ではなかろうか、と思っています。ただ、タイミングとして環境破壊のティッピング・ポイントまでに可能かどうかについては、いささか自信がありません。ですから、本書のタイトルの新自由主義と脱成長はかなり異質なものであり、その思想史的な背景としてナショナリズムやリベラリズムを基にごっちゃに論じるのが適当かどうか、はなはだ疑問です。ただ、本書を読んで、脱成長は経済成長を否定しているように見えながら、突き詰めていえば、新自由主義を正当化する議論につながりかねない、という意識は読み取れました。ただ、私の頭の回転が鈍いせいで、どうしてそうなるのかは十分に理解できたとは思えません。だれか、教えて下さい。

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次に、長山靖生『SF少女マンガ全史』(筑摩選書)を読みました。著者は、歯学部をご卒業の後、歯学博士号まで取得していますので、歯医者さんではないかと思いますが、その一方で、本書のテーマであるマンガなどのサブカルも含めた幅広い評論活動もしているようです。ということで、私も自分でも何を思ったのか、朝日新聞の書評で見かけた本が、大学の図書館の新刊書コーナーに置いてあったものですから、ついつい借りて読んでみました。何が書いてあるかは明らかであり、昭和期のSF少女マンガの歴史が書いてあるわけです。本書の冒頭で未指摘しているように、戦後1960年前後に、マンガ雑誌が発刊され始めます。1959年に『少年マガジン』と『少年サンデー』、1962年に『少女フレンド』、1963年に『マーガレット』などです。私は決して裕福な家に生まれ育ったわけではないので、こういった分厚な週刊マンガ雑誌を買ってもらえるわけではなく、したがって、ストイックにも大きな興味を示しませんでした。でも、その当時の少年少女らしく、決してマンガが嫌いであったわけではありません。本書では、第1章でSF少女マンガの歴史を概観し、第2章では山岸凉子先生や倉多江美、佐藤史生、水樹和佳を、第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子を、第4章では萩尾望都先生だけを取り上げた後、最終の第5章でややマイナーな岡田史子、内田善美、高野文子などなどを取り上げています。私の主観で「先生」をつけたり、敬称略でいったりしているのはご勘弁ください。本書冒頭では、マンガ専門誌『ぱふ』1982年3月号に掲載されたSFマンガの読者投票の結果を転載しています。第1位は萩尾望都先生の『スター・レッド』、第2位も萩尾望都先生の『11人いる!』+『東の地平 西の永遠』、第3位が水樹和佳『樹魔・伝説』、第4位も萩尾望都先生『百億の昼と千億の夜』、第5位高橋留美子『うる星やつら』となっています。少々飛ばして、第7位が竹宮恵子の『地球(テラ)へ...』、同率第9位に山岸凉子先生の『日出処の天子』が入っています。うち、私が読んでいるのは『百億の昼と千億の夜』と『日出処の天子』だけなのですが、本書でも強調されている通り、このランキングは決してSF少女マンガに限定しているわけではなく、少年少女を問わずオールタイムでのSFマンガを対象にした読者投票なのですが、実に少女マンガが第5位まで、まあ、『うる星やつら』は本書では取り上げられていませんから、SFかどうかは議論あるかもしれませんが、それも含めて1位から5位までは少女マンガが占めているわけです。オールタイムのSFマンガといえば、当然に『鉄腕アトム』が入るものと私は想像していましたが、トップテンにすらありません。私が小学校に入るころ、マンガというよりもアニメだったのかもしれませんが、悪者に殺された主人公の人格と記憶を再現したロボットが活躍する『エイトマン』、正太郎くんがリモコンで操る『鉄人28号』、主人公が乗る流星号が印象的だった『スーパージェッター』といったところが、SF少年マンガだった気がします。少なくとも、『うる星やつら』よりはSFだったと思います。しつこいですが、『うる星やつら』がSFならば、「ポケモン」もSFだという気がします。まったく、ブックレビューになっていませんが、ご興味ある方は限られると思います。でも、一読をオススメします。

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次に、三浦しをん『しんがりで寝ています』(集英社)を読みました。著者は、小説家、直木賞作家ですが、エッセイも数多く書いています。本書は、コロナ前の2019年6月号から約4年分の雑誌「BAILA」での連載に、書き下ろしを加えた全55編のエッセイを収録しています。同じ出版社が出している『のっけから失礼します』の続編となります。作者と同年代のエッセイストの酒井順子のエッセイが、性的な内容を含めたものを別にすれば、優等生が書いたような極めてよく下調べが行き届いているのに比べて、三浦しをんのエッセイは一部の例外を別にしてほとんど取材もへったくれもなく、日常生活の観察から生まれたもので、本書冒頭でも「十年一日の日常エッセイ」とか、「いくらなんでもアホすぎる一冊に仕上がってしまった」と書いているくらいです。酒井順子のエッセイにはほとんど家族は登場しませんが、三浦しをんのエッセイには父母や弟まで登場します。ちなみに、父親は『古事記』研究で有名な三浦佑之教授です。ということで、エッセイの中身は読んでいただくしかないのですが、三浦しをんの愛する対象に本書から新たにポケモンが加わっています。映画『名探偵ピカチュウ』を見て、すっかりポケモン、というか、ピカチュウの虜になったようです。いろいろとポケモングッズを買ったことも明らかにされています。私も「かわいいは無敵」という言葉を思い出してさいまいました。ポケモンのストーリー自体は、もう引退したさとしがピカチュウなどとともに旅をしてバトルを繰り返す、というもので、私はゲームとしては、というか、ボードゲームとしてカードを使ったポケモンカードゲームはやりますが、ニンテンドーのゲーム機によるポケモンゲームはやりません。ですので、バトルは無関係に、もっぱらかわいいポケモンの画像を鑑賞したり、グッスを集めたりしています。さるがに、本書で取り上げられている名探偵バージョンのピカチュウは大昔のものとなりましたが、最近では船乗りさん、というか、キャプテンピカチュウをアレンジしたグッズはいくつか買い求めています。私の居住する県内にはポケモンセンターがないので、京都に出た機会に四条烏丸近くのポケモンセンターを見たりしています。本書に戻って、もちろん、ポケモン以外にもEXILE系の音楽コンサートの模様、両親をはじめとする家族との交流、さらに、お仕事の編集者との関係や友人らとのお付き合いなどなど、日常生活や軽くお仕事に関係するエッセイなど、肩のこらないおバカなエッセイで満載です。でも、この作者の確かな表現力には感心します。暇つぶしにはうってつけです。

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次に、酒井順子[訳]『枕草子』上下(河出文庫)を読みました。著者は、何と申しましょうかで、清少納言なのですが、エッセイストの酒井順子が現代訳を試みています。上下合わせても600ページに満たないので、現在の製本技術からすれば上下巻にする意味がどこまであるかが疑問なのですが、コンパクトなることを尊べば分けるのも一案かという気がします。上巻は142段まで、下巻は318段まで、をそれぞれ収録しています。ということで、私は『源氏物語』については円地文子訳の現代訳を読んだのですが、『枕草子』については初めてでした。よく知られているように、『源氏物語』があはれをテーマにしたフィクションの小説であるのに対して、『枕草子』はおかしをテーマにしたノンフィクションのエッセイです。「春は曙」から始まります。エッセイというか、論評ですので、作者ご自身の価値判断に基づいて、いいものとよくないものを並べている段がいろいろとあったりします。ただ、私の直感的な印象では、好ましいものを並べているよりも、好ましくないものを並べている方が多いと感じました。不平不満が多い人物であったのか、それとも、冷笑的でシニカルな見方を示そうと試みていたのか、私は専門外ですので何ともいえません。よくいわれるように、『源氏物語』作者の紫式部が謙遜が過ぎて漢籍については無知であるかのように装っていたのに対して、清少納言は人口に膾炙した「香炉峰の雪」にもあるように、漢籍に詳しいことを隠そうともしていません。藤原行成との会話でも清少納言が漢籍を理解していることを十分に踏まえた会話が成立しています。漢字の「一」すら知らないことを装った紫式部とは違います。まあ、それだからこそ「知ったかぶり」といった評判が立ったのかもしれません。漢籍に加えて、お釈迦さまに関係する言葉も盛んに引用されています。漢籍については、当時の流行であったと推測される『白氏文集』から白楽天の漢詩が多い印象でした。訳者がとてもていねいに脚注をつけてくれているので、何らかの典籍に則った表現であることが、私のようなシロートにも容易に理解できるのが有り難い点です。こういった名文を見ていると、実は、私がかつて大学院入試で使った英文和訳の問題にあった、米国大統領のスピーチなどもそうなのですが、自分独自の言い回しや表現も重要だとは思うものの、過去の古典的な名文・名スピーチから的確に引用するということが出来るのも重要だという気がします。例えば、私のようなへっぽこなエコノミストが、インパクト・ファクターを議論するのもはばかられる大学の紀要に掲載する論文を書く際でも、2-3ページに渡って50くらいの参考文献リストを付けます。修士論文指導をしている院生には「最低でも100くらいは参考文献を読むように」といったアドバイスをすることも少なくありません。ちなみに、昨年の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability : Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?"には4ページほどに渡って70を超える参考文献をリストアップしています。小説である『源氏物語』には参考文献は不要かもしれませんが、エッセイであれば明示せずとも典籍に則った表現は必要なのであろう、という気がしました。強くしました。

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次に、恒川光太郎『真夜中のたずねびと』(新潮文庫)を読みました。著者は、どちらかといえば、私はホラー作家であると評価しています。それほど多くの作品を読んでいるわけではありませんが、角川ホラー文庫に収録されているデビュー作の『夜市』や『白昼夢の森の少女』は明らかにホラーです。そして、本書もややホラーがかってはいるのですが、ミステリと不条理ホラーの中間のようなテイストです。5話の短編からなる連作短編集であり、主人公は犯罪とかカルトとか異常な要素と社会の片隅や底辺に位置しています。私の趣味に合う、というか、とても共感できる世界観です。文章が極めて巧みで、情景が目に浮かぶようですし、現実からズレを生じて不気味でありながらも、何か身近な雰囲気を醸し出しています。収録順に、各短編のあらすじは以下の通りです。まず、「ずっと昔、あなたと二人で」では、災害孤児となりった少女アキが主人公です。占い師の老女に引き取られますが、老女が若いころに亡くして遺体を岩穴の奥にそのまま放置していて、その亡骸を掘り出しに行くことを要求されます。「母の肖像」では、殺人鬼の父親とそれに依存する母親の間に生まれた息子である河合一馬が主人公です。河合一馬が子供の時、父親に殺されそうになった母親を助けようとして警察に連絡し、その結果、父は警察が来るので逃亡して行方不明となり、薬物使用の罪で母は逮捕されてしまいます。河合一馬は大人になり自ら生計を立てるようになりますが、その主人公が人探し請負の女性を通して母から会いたいという連絡を受けます。「やがて夕暮れが夜に」では、あかりが16歳の高校生の時に、弟が起こした殺人事件のせいで、大学進学は当然のように諦め、それだけではなく、一家離散の憂き目にあい、加害者家族への容赦ないバッシングを避けるため山奥での生活を始めます。「さまよえる絵描きが、森へ」では、ふたたび河合一馬が登場し、旅先で知り合ったKENと名乗る、というか、ハンドルネームの男性から過去の人生を長々と打ち明けられます。すなわち、資産家の家に生まれて何不自由ない身でありながら、ひき逃げ事故を起こした後、残された母子に対する償いを考えている、といった内容で、KENを主人公としたお話に引き継がれます。最後の「真夜中の秘密」では、携帯電話の電波すら届きにくい山奥の家屋を相続してレンタル民家を経営する藤島が主人公です。ある日、死体を埋めに来た女性と出くわしてしまい、格闘の末に殺してしまったと思い、その女性の自宅まで遺体を運ぼうとするのですが、女性は死んでいたわけではなく生き返ってしまいます。藤島は自首を勧めますが、だんだんと事後共犯のような形になっていきます。繰り返しになりますが、現実から少し距離を置いた社会の辺境や底辺に位置する人々を描き出そうと試みています。しかも、通常のまっとうな生活からはみ出したような舞台設定です。でも、そのズレのある世界観というのがある意味で心地よく、とまではいわないとしても、身近な何処かにありそうな雰囲気をたたえています。でも、ある程度の読解力ないと読みこなせないおそれもあります。広く万人にオススメできる作品ではないかもしれませんが、好きな読者はめちゃくちゃに好きになる作品だという気がします。

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コメント

漫画本の読後感想は興味深く拝読。先日某大学教授と沖縄旅行に行ってきましたが、同じ年代とは言え漫画には全く興味を示されませんでした。最近は優秀な脚本は漫画世界からもでているというような話は、全く通じませんでした。我々世代では、漫画(といってもいろいろあるんですが)を評価する人は少数派のようです。

投稿: kincyan | 2024年6月30日 (日) 16時45分

>kincyanさん
>
>漫画本の読後感想は興味深く拝読。先日某大学教授と沖縄旅行に行ってきましたが、同じ年代とは言え漫画には全く興味を示されませんでした。最近は優秀な脚本は漫画世界からもでているというような話は、全く通じませんでした。我々世代では、漫画(といってもいろいろあるんですが)を評価する人は少数派のようです。

う~ん。マンガは年配世代には評価されないのですかね。もう少し上の団塊の世代が小学生高学年から中学生になるころに、例の極めて分厚なマンガ雑誌がいっぱい発刊されているのですが、その後、長い人生で忘れ去られたのかもしれません。

投稿: ポケモンおとうさん | 2024年7月 1日 (月) 16時10分

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