今週の読書は経済書2冊をはじめ計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、田中隆之『金融政策の大転換』(慶應義塾大学出版会)は、実務的な側面を取り入れた解説を試みており、量的緩和はテイパリングしつつ長期金利を低位に誘導するという金融政策の可能性を探っています。ワルラス『社会経済学研究』(日本経済評論社)は、社会的富の理論を解き明かす純粋経済学、富の生産の理論を明らかにする応用経済学に続いて、所有権や税をはじめとして富の分配を研究する社会経済学について論じています。西原一幸『楷書の秘密』(勉誠社)は、字体規範あるいは正字体としての楷書の歴史を後づけるとともに楷書の秘密に迫っています。毛内拡『「頭がいい」とはどういうことか』(ちくま新書)は、脳科学の専門家が記憶力などの狭い意味だけでなく、体のスムーズな動きまで含めた脳の働きについて考えています。今野真二『日本語と漢字』(岩波新書)は、正書法のない日本語という言語が漢字とどう取り組んで来たのかについて『万葉集』や『平家物語』などから考えています。最後に、辻村深月ほか『時ひらく』(文春文庫)では、三越創業350年にちなんで、三越に関する短編を収録したアンソロジーです。
ということで、今年の新刊書読書は1~5月に128冊の後、6月に入って先週に6冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて140冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお、2019年の出版ですから新刊書読書ではないので、本日の読書感想文には含めませんでしたが、別途、平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)も読みました。軽く想像される通り、毛内拡『「頭がいい」とはどういうことか』(ちくま新書)の読書にインスパイアされて読んでみました。すでに、AmazonとFacebookでレビューしておきました。
次に、田中隆之『金融政策の大転換』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、長銀ご出身で現在は専修大学の研究者です。本書は、出版社からして学術書と考えるべきなのでしょうが、それほどハードルは高くないと思います。おそらく、経済学部生でなくても大学生レベルの基礎知識があれば読みこなせると思いますし、一般ビジネスパーソンでも十分な理解が可能だろうと思います。タイトルは物々しいのですが、金融政策に関する解説と考えて差し支えありません。ただし、出版時期が昨年2023年11月ですので、日銀が異次元緩和を終了する前のタイミングでしたので、実践的な日銀金融政策のホントの転換が盛り込まれておらず、しかも、本書の結論との関係でいえば、足元で長期金利が1%を超える勢いで上昇している点も考慮されていません。やや不運な時期の出版だったといえるかもしれません。ということで、冒頭第1章では伝統的な短期金利を操作目標とする金融政策について、歴史的な観点も含めた解説を置き、続いて、それに対して非伝統的な金融政策の様々な手段とメカニズムを解説しています。大量の資金供給、資産購入、フォワードガイダンス、対象分野を想定した貸出を誘導するタイプの資金供給、そして、マイナス金利です。コロナショックとその後の「新常態」=ニューノーマルを概観し、最後に、日銀の異次元緩和の特種性(「特殊性」ではなく、「特種性」という用語を使っています)と今後の方向性を議論しています。とてもよく取りまとめられています。学術書っぽくないのは、ひとつには、モデルではなく実務的な側面を取り入れた解説をしていることです。私が大学の授業で強調するのは、経済学は物理学などと同じで、観察される現実を対象にしつつも、分析を行うのはモデルである、という点です。しかし本書では、モデルではなく「ロジック」で議論を進めています。私は違和感を覚えましたが、確かに、そういった議論の進め方の方が判りやすい可能性はあります。それはともかく、コロナショックを経て、金融緩和局面を終えつつある現時点での先進各国の金融政策の実情を、本書では金融政策の新常態=ニューノーマルとして、「超過準備保有型金融政策」と考えています。超過準備があるということは量的緩和からの脱却がまだなされていないという意味だと考えるべきです。非伝統的金融政策についての評価は、私もかなりの程度に同意します。他国の中央銀行はともかく、日銀が実施した大量の資産購入による量的緩和は物価上昇=デフレ脱却にも、景気浮揚にも効果がかなり小さかった、と考えるべきです。少なくとも、2013年4月から始まった黒田バズーカ、というか、異次元緩和は2014年4月からの消費税率の5%から8%への引上げにより、その効果が吹っ飛んだといえます。ただ、現在まで続く公的債務の累増の基を作った前世紀末の小渕内閣や森内閣のころの財政拡大もそれほど効果あったとは考えにくいですから、官庁エコノミストとして経済政策の末端を担っていた私としては、いったいどうすればよかったのか、という疑問は残ります。その意味で、本書の最後の結論は、世上一般で議論されているような金利引上げや金融引締め一本槍ではなく、長期金利は1%程度に保ちつつ、量的緩和は終了して財政ファイナンスからは脱却する、という方向性を示しています。ただ、ティンバーゲンの定理からして、マーケット・オペレーションと金利を切り離すことが可能となるような政策手段が示されていません。昔懐かしの窓口規制でも復活させるのでしょうか。もう少し議論が深まればいいという気がします。
まず、ワルラス『社会経済学研究』(日本経済評論社)を読みました。著者は、主として19世紀に研究活動していたフランス生まれのエコノミストであり、1870年から研究の拠点はスイスのローザンヌ・アカデミー(現在のローザンヌ大学)でした。1910年に亡くなっています。本書のフランス語の原題は Études d'économie sociale であり、1936年出版の第2版を訳出しています。ワルラスについては、一般均衡理論の研究により名高く、また、一般均衡理論を含む純粋経済学の研究のほか、応用経済学と本書の課題である社会経済学の3分野の研究を進めています。理由は不明ながら、本書の邦訳者の解説で取り上げている順は、純粋経済学-社会経済学-応用経済学、なのですが、当然ながら、ワルラスご本人は純粋経済学-応用経済学-社会経済学の順で言及しています。本書冒頭第Ⅰ部の「社会の一般理論」pp.27-28にあるように、交換価値と交換についての研究、すなわち、社会的富の理論を解き明かすのが純粋経済学であり、繰り返しになりますが、経済学の一般均衡理論がこれに含まれます。そして、農業、工業、商業、信用の有利な条件、すなわち、富の生産の理論を明らかにするのが応用経済学、最後に、本書で取り上げているように、所有や税に関する研究、すなわち、富の分配を研究するのが社会経済学、ということになります。なお、本書で繰り返し表明しているように、ワルラスは自分のことを「社会主義者」であると考えています。ただ、他方で、マルクス主義的な方向性は「共産主義」と呼んで、ご自分の「社会主義」から区別しようとしているように私には見えます。ついでながら、本書の訳者からも明らかにされていますが、ワルラスは純粋経済学についてはキチンと編集された教科書を書き上げていますが、応用経済学と社会経済学については関連する論文集として出版しています。ですから、本書も第Ⅰ部の社会理想の探求、第Ⅱ部の所有、第Ⅲ部の社会理想の実現、第Ⅳ部の税、の4部構成となっていますが、中身は関連する論文や講義資料となっていて、悪く表現すれば、関連論文の寄集めです。ただ、 Selected Writings なんてタイトルで出版されている論文集も決してないわけではなく、本書についても十分価値あるものだと私は受け止めています。マルクスにはエンゲルスという優秀な同僚がいて、マルクスも『資本論』は自分自身では第1巻しか出版できなかったのですが、第2巻と第3巻はエンゲルスの編集により出版しています。ワルラスにはマルクスの場合のエンゲルスに当たる人物がいなかった、ということなのだろうと思います。加えて、ワルラス自身については、ご活躍当時の評価がそれほど高くない一因は、現在とまったく反対で、数学や数式を使いすぎる、というものでした。本書の中では、第Ⅲ部の「土地の価格および国家によるその買上げの数学理論」で長々と数式を展開していますが、当時と現在の数学のレベルの差もあって、それほど難しい数学ではありません。せいぜいが現在では高校レベルの数学と考えられます。ただし、それなりに全国レベルの知名度を誇る私の勤務校でも、高校レベルの数学を身につけている経済学部生というのは決してマジョリティではない、と私は感じています。長々と前置きを書いてしまいましたが、中身は学術書、というか、学術論文を集めた論文集ですので、読みこなすのはそれほど簡単ではありません。でも、本書の特徴的な論点をいくつか上げておくと、社会主義者と自称するだけあって、まず、土地は国有制とし各個人のスタート時点で差がつかないように配慮すべきであると主張しています。ワルラス自身はフランス革命やナポレオン帝政の後の世代なのですが、英国などで見られる土地所有の不平等にも気を配っていたようです。そして、当時の標準的な比例税ではなく累進課税を主張しているケースが見受けられ、さらに、強烈にも、労働賃金に対しては課税すべきでないという意見を表明しています。最後に、所有や分配を考えますので「社会経済学」という用語はしばしば「マルクス主義経済学」と非常に似通った、あるいは、まったく同じ意味で使われる場合があります。しかし、本書では、社会経済学はあくまで社会経済学であって、マルクス主義経済学ではありません。
次に、西原一幸『楷書の秘密』(勉誠社)を読みました。著者は、金城学院大学の名誉教授であり、ご専門は中国や日本の古代辞書だそうです。大学の図書館の新刊書コーナーに本書が置いてあり、私の興味範囲のタイトルで、しかも、1ページ目をチラリと見ると、私の書道のお師匠が口癖のように前衛書道を批判していた「大と犬と太」の一角の点の有無や位置の違いによる字としての区別が明記してあったので、ついつい借りてしまいました。それなりに面白い読書でした。5万字を超える数を誇る漢字が1300年に渡って一角の違いを保ち続けている点を強調し、正字体としての楷書の秘密を解き明かそうと試みています。まず、本書では日本の漢字は特に考えられていません。すなわち、漢字発祥の地である中国での漢字の中の楷書だけが考察の対象となっています。ですので、後述の通り、最後の結論は私は承服しかねます。それを別にすれば、本書冒頭の楷書の定義なのですが、どうしても行書や草書と比較して余りに明らかなので私も見逃していましたが、本書によれば、三節構造を取り、横線が右肩上がりであること、の2点だそうです。最初の三節構造というのは、「筆を下ろす、線を伸ばす、筆を止める」という明確な3つの節目があることを指します。そういえば、行書や草書は滑らかに丸みを帯びた運筆となります。しかし、これだけでは隷書と区別がつかないので第2の右上がりの横線が持ち出されます。隷書の横線は水平です。楷書の成立は隋唐の直前の六朝や北魏に求められ、日本における研究としては『干禄字書』を中心として異字体研究があります。しかし、1970年代以降、『正名要録』が発見され、『顔氏字様』や『S.388字様』などの研究が進められます。まあ、このあたりは研究史ですので私も軽く読み飛ばしています。私が知る限り、4世紀の王羲之やその末子である王献之まで遡らずとも、楷書の成立期である隋唐期は北魏の欧陽詢から褚遂良などのやや細身の楷書が中心であった、という点です。ですから、というか、何というか、私はお師匠の元に毎週土曜に通って、さして上達もしないながら、延々と欧陽詢の『九成宮醴泉銘』を練習し続けたわけです。しかし、本書では『顔氏字様』に見られるように、顔真卿の楷書、すなわち、やや太身の楷書こそが主流、という結論となっています。しかし、いずれにせよ、漢字は欧米のアルファベットなどに比べて、画数が多くて極めて複雑であることから、正体のほかに、俗体や世字、あるいは、通体などがいっぱいあることは明らかで、余りに正体に固執すると一般向けには判りにくくなり、逆に、通俗体にて記すと不正確になる、というトレードオフがあることは明らかです。唐代の玄宗時代末期の安史の乱から唐朝は傾いて、さまざまな場面で緩みを生じますが、字体規範という考え方も徐々に衰退します。しかし、最後の結論には私は異議を呈したいと思います。すなわち、本書に従えば、現代の楷書と考えるべきは中国の簡体字であると結論しています。これも、私のお師匠によれば、当然ながら漢字は表音文字ではなく表意文字であり、その文字の持つ意味を考慮しながら簡略化すべきであるところ、現在の中国が進めている漢字の簡略化は意味ではなく書き方を容易にするという観点が重きをなしていて、それでいいのか、ということになります。簡体字が現代の楷書である、とする本書の見解よりも、字の意味を考慮すべきというお師匠の考えに私は賛同しています。強く賛同します。
次に、毛内拡『「頭がいい」とはどういうことか』(ちくま新書)を読みました。著者は、お茶の水大学の研究者です。冒頭のお断りにあるように、本書は頭がよくなるための、あるいは、頭がいい子を育てるためのハウツー本ではありません。脳科学、すなわち、脳の働きから「頭がいい」とはどういうことかを解明しようと試みています。まず、「頭がいい」ということを知性と結びつけて考えることを本書では否定しています。というか、軽く想像されるように、偏差値の高い大学、例えば、東大の入試に合格できる事をもって頭がいいというのとは否定されています。いわゆる「ギフテッド」を持ち出して、知性を学力などの認知能力だけでなく、非認知能力をはじめとする脳の持久力に求めています。それは同時に、AI時代に求められる知性でもある、ということだそうです。記憶力についても、短期記憶と長期記憶があり、また、自転車や水泳などのように長らく実践していなくても、いわゆる「体が覚えている」記憶もあります。手続き記憶というそうです。一般的には頭の働きとは考えられていないようなアーティストの感受性なども考察の対象とされています。また、ニューロンはすべて働いていて、脳の10%しか使っていないというのは俗説ながら、アストロサイト=グリア細胞が脳内の異物や不要物を排除していて、これが大いに働いているかどうかで差がつく場合があるそうです。そのほかにもいろいろと勉強になる点があったのですが、読者によって勉強になりそうなポイントは違うので、後は読んでいただくしかないのですが、私の方で1点だけ強調しておきたいのは、体の動きも「頭がいい」というカテゴリーで考えるべきという本書の主張です。すなわち、本書では、プロ野球のピッチャーが自分の望む球速を自由に設定し、例えば、143キロの球速でボールを投げることが出来る、といった例を示して、総合的な結果を示して体を動かすことが出来ることを脳の働きと考えています。そうかもしれません。ただ、初心者に対するレッスンではそうはいかないわけで、ゴルフのレッスンを受けて、いきなり、「ボールをティーアップしてドライバーをスイングし、フェアウェイのセンターに250ヤード飛ばしなさい」と指示されても、それができないからレッスンに通っているのであって、それが出来るためのもっと具体的な指示が欲しい、ということになります。例えば、脇を締めるとか、ボールから目を離さずヘッドアップしないとか、などなどです。要するに、私なんぞはそれが出来ないからゴルフに関しては「頭が悪い」ということになるのでしょう。
次に、今野真二『日本語と漢字』(岩波新書)を読みました。著者は、清泉女子大学の研究者であり、ご専門は日本語学だそうです。著者によれば、言語学は、音声・音韻、語彙、統語=文法、文字・表記などの分野に分かれるそうです。このうち、語彙を考えると、日本語は50%近くが漢語からの借用だそうですが、英語も60%近くがフランス語やラテン語からの借用だそうです。ということで、本書は、日本人が感じとどのようにインタラクティブは取組みをなしてきたか、すなわち、漢字を日本語に取り入れ、日本語に反映させ、漢字を日本語に対応するものに作り変えてきたかを歴史的に後づけています。まあ、中国のメインランドにおける漢字に日本語のサイドから影響を及ぼした、という点は稀なのかもしれませんが、日本で使う漢字については一定の改変があったものと考えるべきです。特に、強調されているのは、表紙画像にも見える通り、日本語には正書法がないという観点です。決まった書き方が確立されていない、というか、今後とも確立される可能性はないものと考えるべきですから、ある意味で、混乱していて未熟な言語という見方もできます。その意味で、正書法がないというこの観点に興味を持てないと、つまらない読書になってしまう可能性があると考えられます。私が知る限りでは、正書法とは少し異なりますが、国語審議会で当用漢字を決めているのは確かなのですが、平仮名や片仮名については正書法があるとまでいうのは怪しいと思います。ちなみに、正書法とは定まった表記方法ですが、日本では、例えば、私の勤務先は「大学」と表記しても、「だいがく」と表記しても、「ダイガク」と表記してもOKです。英語であれば、"university"となるわけで、ほかの表現方法はあっても、ほかの表記方法はありません。別の表記をすると間違った綴りと見なされるわけです。前置きがとてつもなく長くなりましたが、本書では、第1章で『万葉集』、第2章で『平家物語』を取り上げた後、国学などに基づいて日本語のルネサンス期として第3章で江戸時代を取り上げます。特に、江戸期には書き言葉ではなく、話し言葉の『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』などが鎖国下で日本に入ってきます。最後の第4章で辞書に載っている漢字、ということで北魏ないし初唐に完成した楷書について取り上げています。西原一幸『楷書の秘密』と同じような議論が展開されています。じつは、私にとって謎であったのは漢字の訓読みの成立なのですが、日本語の「よむ」という行為ないし動作を「読」の字に当てたり、あるいは、ほかの訓読みの漢字をどのように選択したのかについてはほとんど取り上げられていませんでした。やや残念です。
次に、辻村深月ほか『時ひらく』(文春文庫)を読みました。何を思ったのか、創業350週年を迎えた老舗デパート三越にまつわる短編を集めたアンソロジーです。たぶん、表紙デザインは三越の包装紙をイメージしているような気がします。伊坂幸太郎作品だけは三越の中でも仙台店を舞台にしていますが、ほかの著者の作品はすべて日本橋本店を舞台にしています。収録順に簡単にあらすじを紹介します。まず、辻村深月「思い出エレベーター」は高校の制服の採寸に訪れた少年が主人公です。小さいころ、5歳くらいの時に、母や父の妹の叔母とともに祖父のお葬式のための服を買いに訪れた記憶が蘇ります。親子三代に渡って、結婚や出産やお葬式やと人生の節目で訪れる三越に家族の思い出が重なります。伊坂幸太郎「Have a nice day!」では、仙台店を舞台に、高校受験を控えた中学3年生の少女が主人公です。三越のライオンに他の人に見られずに跨がると夢が叶う、という伝説に従って、友人とロボットのような表情や感情の薄い担任教師と閉店間際の三越でライオンにまたがった際に、現実のものとは思えない場面を目にします。そして、10年後に三越のライオンが日本を、あるいは、世界を救います。阿川佐和子「雨あがりに」では、三越勤務経験ある継母に付き合って買い物に来た中堅遊具会社のグループリーダーの女性が主人公です。ランチの後、屋上でリモート会議に出席した後、母親が見当たらず館内放送をお願いしたところ、逆に呼び出されてしまいます。恩田陸「アニバーサリー」は、何と申しましょうかで、『熈代勝覧』絵巻の犬が主人公です。三越本店の地下道に展示してあるそうです。そして、在りし日のエリザベス女王、ダイアナ妃などの英国王室と三越の関係が語られます。ほかの短編作品にも登場するライオン像はもちろん、日本橋本テンの天女像、パイプオルガン、そして、壁のアンモナイトの化石、などなども取り上げられていて楽しく読めます。柚月麻子「七階から愛をこめて」はロシア人と日本人の両親から生まれたギタリスト/インスタグラマーの女性とバンドを組む男性が主人公です。現時点でもロシアのウクライナ侵略など十分に暗い世相なのですが、三越の食堂で昭和戦前期の女性の遺書が見つかったりします。東野圭吾「重命る」は、「かさなる」と読むようで、ガリレオのシリーズです。ですので湯川教授が主人公、草薙警部も登場します。隅田川で死体が発見された実業家男性の死にまつわる謎が解き明かされます。この死んだ男性が三越日本橋本店で訪問先に手土産を買うのですが、このアンソロジーに収録された短編の中では、もっとも三越とは縁遠いお話です。私自身は三越のない京都の生まれ育ちで、百貨店といえば京都発祥の丸物や高島屋でした。たぶん、大学を卒業して東京で就職してから初めて三越に行ったのだろうと記憶していますが、ひとつだけ三越にお世話になった思い出があります。2003年9月に一家4人で3年間過ごしたジャカルタから帰国し、その半年前の4月にジャカルタ日本人学校小学部に入学し小学1年生になっていた上の倅のためにランドセルを探したのですが、当時はどこにもありませんでした。今は夏休みとかのかなり早いタイミングで売り出されていると聞き及びますが、20年超前の当時は9月のタイミングではランドセルの入手が難しかったのです。しかし、三越、たぶん、日本橋本店ではなく銀座店ではなかったか、と記憶していますが、三越の倉庫には在庫があるといい、色は黒しか選べませんでしたが、三越ブランドのランドセルを買い求めました。ようやくランドセルを買えた時の倅のうれしそうな顔は忘れられません。三越に対してとても有り難いと感謝したものです。
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コメント
楷書は私も好きです。(きちんと美しく書けませんが)。現代中国の簡体字化は致し方がないにしても、日本人の学者が仕方がない、むしろ肯定するというのは私も違和感があります。だって、台湾は頑張っているんですもの。過去の偉大な文献を、一般人が読めなくなることを意味します。残念ですね。
投稿: kincyan | 2024年6月 9日 (日) 11時51分
>kincyanさん
>
>楷書は私も好きです。(きちんと美しく書けませんが)。現代中国の簡体字化は致し方がないにしても、日本人の学者が仕方がない、むしろ肯定するというのは私も違和感があります。だって、台湾は頑張っているんですもの。過去の偉大な文献を、一般人が読めなくなることを意味します。残念ですね。
はい。私も現在の中国の簡体字は字義を考慮せずに簡略化されていて、漢字の意味をなさない、というお師匠の意見に賛成で、せっかくの偉大な文化が壊されていくような気がしてなりません。
投稿: ポケモンおとうさん | 2024年6月 9日 (日) 17時23分