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2024年8月31日 (土)

今週の読書は経済書のほかホラーもあって計7冊

今週の読書感想文は以下の通り、久しぶりに読んだ経済書をはじめ計7冊です。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って先週までに計22冊、そして、8月最後に今週7冊をポストし、合わせて215冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、染井為人『悪い夏』も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしていますが、新刊書ではないと思いますので、本日の読書感想文には含めていません。

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まず、松尾匡『反緊縮社会主義論』(あけび書房)を読みました。著者は、私の同僚、すなわち、立命館大学経済学部の研究者です。本書は、基本的に、著者の主張に対する批判への再反論という形を取っており、はしがきにもある通り、書き下ろされている第7章と第8章を別にすれば、何らかの形で公表されたものを収録しています。ただし、私のように職場の同僚として著者のnoteのサイトをメーリングリストにしたがってプッシュ型配信を受けていたり、あるいは、学術雑誌をていねいに読んでいたりする人は極めて例外的でしょうから、まあ、初めて接する読者が多いのだろうと想像しています。私は官庁エコノミスト出身ですし、まさに、主流派の政府公認の経済学をもってお仕事してきたキャリアがほとんどですので、本書で展開されている経済学や経済学以外の部分をどこまで理解できたかはいささか自信がありません。というか、少なくとも、出版社のサイトに示されている目次でいって、第5章とその先はほぼチンプンカンプンです。まず、ワルラスの定義によれば、経済学は純粋経済学・応用経済学・社会経済学に分かれて、本書で展開されている経済学は社会経済学といえます。所有や税・財政、また富の分配に関する経済学です。同時に、正確ではないかもしれませんが、社会経済学とはかなりマルクス主義経済学に近い、あるいは、ほぼ同一の経済学を指す場合もあります。ということで、はなはだ不十分ながら、50年ほど前に大学で接したマルクス主義経済学に基づいて、私なりに少し考えたいと思います。すなわち、全体として私自身も支持できる経済学だと思うのですが、2点だけ指摘しておきます。まず、歴史観については、本書のタイトル通りにポスト資本主義を展望し、その上で、本書が標榜する社会主義を考えるのであれば、唯物史観が中心に据えられなければなりません。私自身は主流派エコノミストの端くれながら、素朴な理解として唯物史観的に生産力、すなわち、生産性ではなく、生産物の量は歴史的に一貫して増加していく、と考えています。そして、主流派経済学と折合いをつければ、生産力の増大とともに商品が希少性を減じて、いきなり最終形になだれ込むと、商品価格が限界的にゼロになって、各個人がフリーに商品を得ることが出来るのが共産主義社会だと考えています。その段階で「国家が死滅する」かどうかは私には難しくて判りません。もちろん、「晩期マルクス」の研究により脱成長論が地球環境との関係で注目されているのは理解していますが、私は疑問を感じています。その点からして、本書は長期の唯物史観ではなく、やや短期の視点に偏重しているきらいがあるような気がしないでもありません。ただ、景気循環の中で需要がより重要な要因であり、構造改革のように供給を重視するのは決して望ましい結果をもたらさない、という点は大いに賛同します。もうひとつは、民主的な参加と選択にもっと重点を置いてほしい気がします。冒頭の何章かで「リスク・決定・責任」のリンケージが強調されています。その通りだと思います。私は公務員だったころには、とても素直に、というか、半ば建前として、最後に国民は正しい選択をする、と信じていました。あるいは、信じているフリをしていました。でも、最近の自民党総裁選の報道を見ても、大きな失望しか感じません。たぶん、国民はまた正しい選択から目をそらされている、あるいは、そう仕向けられているような気がします。少し前までは、メディアと野党、加えて、ナショナルセンターとしての連合をはじめとする労働組合の劣化が原因だと考えていましたが、ひょっとしたら、国民のレベルそのものがそんなものかもしれないと感じ始めています。ただ、民主的な選択をする基礎として格差や不平等の是正は絶対に必要ですし、それも含めて、極めてラディカルな民主的な改革、情報操作などに惑わされることなく、ホントに国民が正しい選択を出来るような基礎が必要です。民主主義の大改革とは、学生によく説明する時には、「花咲舞のように考えて行動すること」だと私はいっています。すなわち、例の「忖度」をしたり、組織の論理とかに惑わされることなく、自分の信ずるところ、正義、あるいは、良心にのみ従って参加し、議論し、決定する、ということです。こういった民主主義の徹底というのは、おそらく、社会主義に先立つ資本主義の枠内での大改革であり、それがなければ、国民は社会主義を選択しないのではないか、という気がします。そして、教育の大きな目的のひとつは、特に高等教育は、そういった民主的な参加・議論・選択・決定のできる学生を社会人として輩出することなのだと思っています。

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まず、田中琢二『経済危機の100年』(東洋経済)を読みました。著者は、財務省ご出身で2019-2022年に国際通貨基金(IMF)日本代表理事を務めています。ですので、本書は、少なくとも戦後についてはIMF公式の歴史をなぞる形になっています。もちろん、1944年以前は、そもそも、国際通貨基金(IMF)が設立されていませんから、公式の歴史というのはありません。ということで、第1次世界大戦終了後の1920年くらいから直近コロナ禍くらいまでの世界経済の危機の歴史を概観しています。歴史の概観は8章までとなっていて、第9章と第10章で結論部分を構成している印象です。時代しては、第1章が第1次世界大戦から世界恐慌、第2章が第2次世界大戦終了の歳のブレトン・ウッズ体制の成立と1970年代における終焉、第3章はやや重複感あるも、1970年代の石油危機とスタグフレーション、第4章が980年代の中南米を中心とする累積債務問題、第5章がG7サミットなどを国際協調の進展と1985年のプラザ合意、第6章もメキシコのテキーラ危機とアジア通貨危機、第7章で21世紀初頭のドットコム・バブルからリーマン・ショックまで、第8章で新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックとウクライナ戦争、となっています。それほど新しい視点を提供する本ではなく、今までの常識的な経済史をなぞっているだけなのですが、それはそれで歴史書として重宝しそうな気がします。おそらく、読者に想定しているのは一般ビジネスパーソンや学生であり、私のような研究者は含まれていない気がしますし、少なくとも学術書ではありません。一般向けに判りやすいとはいえ、学術書のような厳密さはなく、少なくともタイトルにある「危機」くらいは、何を持って危機としているのかの定義くらいは欲しかった気がします。少なくとも短期の景気循環ではなく、中長期の構造的なショックを想定しているのだろうと思いますが、ショックと危機は違う気もしますし、加えて、経済の中の内生的な要因も経済外の外生的な要因もゴッチャにして議論している印象があります。もうひとつは、IMFの公式の歴史に基づいているので仕方ないのかもしれませんが、ほぼほぼ金融に関する危機で終始しています。例外は1970年代の2度に渡る石油危機くらいのもので、COVID-19パンデミックも需要ショックなのか、供給ショックなのか、十分な分析はありません。従って、金融以外の実物経済の側面はほぼほぼスコープに入っていません。ドットコム・バブルはインターネットを含むITC技術に基づいている側面も無視できないのですが、そういったITC技術の活用による生産性の向上なんかはまったく無視されています。そして、金融ショックについても重要な観点が抜け落ちています。すなわち、不良債権の問題に著者は気づいていないようです。ドットコム・バブルやCOVID-19ショックでは、それほど不良債権が発生しませんでした。他方で、我が国の1990年代初頭のバブル経済崩壊では、そもそも、不良債権についての経験も乏しく、ましてや政策対応の難しさも理解できておらず、長々とバブル崩壊後の不況局面が継続しましたし、リーマン・ショック後のGreat Recessionでは長期不況=secular stagnation論まで飛び出して話題になったのは記憶に新しいところです。私は本書は経済書としてははなはだ不満が残る内容だといわざるを得ませんが、それでも、歴史書としてはそれなりの有益性があると感じています。その意味で、手元に置いておきたい本であり、学生諸君やビジネスパーソンにはオススメです。

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次に、藤森毅『教師増員論』(新日本出版社)を読みました。著者は、日本共産党文教委員会の責任者です。本書は、教員の重労働と人員不足の原因を探り、その対応策について議論しています。というか、その解決策・対応策は本書のタイトルそのままであり、教師を増員することでしかありえません。本書ではまず、歴史的にもっとも重要である1958年の「義務標準法」に関して、当時の雑誌に掲載された文部省職員の解説文から説き起こし、小学校では1日4コマを標準としていた事実を突き止めます。それが、なし崩し的に事実上1日6コマになって行く経緯が解き明かされています。実は、個人的な事情ながら、私が役所の定年退職後に採用された現在の勤務校では、大学の教員の持ちコマは週5コマを標準とする、という点が公募文書に明記されていました。はい、ハッキリいって、まったく守られていません。今年2023年3月の定年退職の後で特任教員としてお仕事を継続していますが、特任教員は週4コマが標準となっているものの、私はこの春学期は6コマ持っていました。10月からの秋学期でも5コマあります。初等中等教育の学校だけでなく、高等教育の大学でも教員は過剰な授業負担に苦しんでいるわけです。本書でも指摘しているように、ほかの行政分野であれば予算がなければ仕事にならないケースが少なくないのは明らかです。例えば、道路を敷設するとすれば工事費が必要なわけで、予算措置なければ道路はできません。しかし、教育現場はそういうムリが通りかねない素地がある点は理解すべきです。デジタル教育でタブレットを使う、ということになれば、タブレットを購入する予算は必要ですが、それ以外は現場の教員の努力以外の何物でもありません。生徒や学生のために理数系の教育の充実を図る、なんてのは、予算措置が皆無でも現場の教員の負担により達成すべき目標になってしまいかねないわけです。その上、現状でも教師の負担が限界に達していることは明らかです。では、どうするかというと、業務を減らすか、教師を増やすかどちらかしかないのは誰もが理解していると思います。現在の行政では、例えば、部活を外部委託するなどの業務負担の軽減を眼目として、あくまで教師の増員は認めないような姿勢と私は受け止めていますが、本書では、まさにタイトル通りに教師を増員すべきと指摘しています。例えば、部活については、単なるレクリエーション活動であって、生徒の気晴らしでしかないのであれば、外部委託もあり得るかもしれません。しかし、教育の一環である限りは教師が責任を持って進めるべきです。私が見ても、日本は教師はもとより、公務員も少なく、そのため、外部委託で大儲けしている企業がいっぱいあります。東京五輪なんかでも電通やパソナといった企業に丸投げしてカギカッコ付きの「ビジネスチャンス」を創出し、賄賂の可能性まで開拓しているのは広く報じられているところです。ですから、私も本書の指摘には大賛成であり、学校業務を減らす方向の解決策を志向するのではなく、教師を増員すべきだと考えます。外部委託で大儲けする機会を一部企業にもたらし、しかも、そこから政治献金やパーティー券の販売へといった還流を期待するのではなく、学生や生徒・児童の身になって考えれば、教育の質を維持するためにも、本書が指摘するように、教師の増員という結論が得られて当然だと思います。

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次に、楠谷佑『案山子の村の殺人』(東京創元社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、クイーンや法月綸太郎・有栖川有栖よろしく、本作の中にも名前が出現します。しかも、これまた、クイーンや岡嶋二人などと同じで執筆担当とプロット担当の2人による分業体制を取っています。いとこの同い年で、しかも、同じ大学の同級生という執筆担当の宇月理久とプロット担当の篠倉真舟が主人公となります。特に、前者が本作のワトソン役で視点を提供します。この大学生作家のペンネームが楠谷佑なわけです。田舎の村を舞台にした執筆の取材のために、この2人のもうひとりの大学の同級生である秀島旅路に誘われて、奥秩父の宵待村、というか、秩父市宵待地区に出かけます。秀島旅路の実家がそこで地区唯一の旅館を経営しています。時期としては、大学の後期試験を終えた冬の終わりです。そこで殺人事件が起こるわけです。なお、タイトルにある案山子については、この宵待地区が専業の案山子製作者もいるほどの案山子で有名な地区であり、アチコチに案山子がいるとともに、特に、1件目の殺人事件で一定の役割を果たすことに由来します。1件目の殺人事件は、ボウガンから放たれた矢による殺人です。豪雪地帯ではないものの、雪が降って宵待地区は秩父警察の到着が大幅に遅れ、一時的にクローズド・サークルとなります。ただ、次の2件目の殺人事件のあたりで警察が到着します。加えて、1件目の殺人事件の現場はいわゆる雪密室となっていて、足跡から犯人を特定するどころか、殺害犯人が現場にどのように接近・離脱したのかも謎となります。続いて、2件目の殺人事件では、お忍びでやって来ていた秩父出身の有名シンガーソングライターが刺殺されます。この2件の殺人事件を大学生2人のミステリ作家、というか、ハッキリいえば、プロット担当の篠倉真舟が解明する、というわけです。そして、この作品が奮っているのは、いわゆる「読者への挑戦状」があることです。しかも、何と2回に渡って「読者への挑戦状」があったりします。もちろん、誰が犯人なのかの whodunnit に加えて、雪密室の howdunnit、さらに、動機の解明という意味での whydunnit などなど、いくつかの謎の解明が必要となります。はい。頭の回転の鈍い私にはサッパリ謎は解けませんでした。でも、実に実に、王道ミステリといえます。「読者への挑戦状」だけでなく、謎解きもとても論理的でていねいです。ただ、難をいえば、連続殺人事件とはいいつつも、たった2件だけで終わってしまう点です。3件目、4件目の殺人事件があった方が大がかりで読者受けはしそうな気もしますが、それは今後に期待するべきなのかもしれません。いずれにせよ、ミステリファンであれば押さえておきたいところで、かなりオススメです。

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次に、獅子吼れお『Q eND A』(角川ホラー文庫)を読みました。著者は、詳細不明でよく私には判らないのですが、取りあえず、小説家なのだろうと思います。本書はデスゲームが展開されるホラー小説であり、主としてゲームは早押しのクイズだったりします。高校生のAこと芦田叡は、気づくとデスゲームに巻き込まれていました。それが早押しのクイズであり、主催者はオラクルです。オラクルの正体はよく判らないのですが、地球外生命体で地球人よりもいっぱいいろんな能力がある、ということのようですから、まあ、ウルトラマンみたいな存在です。そのオラクルによって二十数人が集められて、無理やりデスゲームの早押しクイズに参加させられるわけです。参加者は、もともとのクイズ解答能力のほかに、オラクルにより異能が与えられます。例えば、A=Answerはクイズの答えがわかる; B=BANは指定した参加者の能力を一定時間無効にする; C=Counterは他の参加者がボタンを押す行動を予知し、その前にボタンを押すことができる; などです。そして、デスゲームですのでクイズの敗者は死にます。クイズの敗者だけでなく、異能を指摘されても死にますし、逆に、異能を指摘することに失敗しても死にます。主人公の芦田叡とその友人のほかに、クイズ王のQも参加しています。そして、極めて特殊な設定として、こういったオラクルのデスゲームから一般市民を守るために警察官が何人か参加しています。そして、警察官は人狼ゲームになぞらえて、クイズ王のQか、あるいは、A=Answerか、あるいは、その両方がオラクルによって仕込まれた「人狼」なのではないかと考えて、排除しようと試みます。まあ、ほかは村人なわけなのかもしれません。こういったルールに基づいてゲームが進められ、果たしてラストはどうなるのか、それは読んでいただくしかありません。私の頭の回転が鈍いせいか、あるいは、感性に問題があるのか、それほどの恐怖は感じませんでしたが、不可解なるものに対する違和感は大きかったです。ただ、その不可解なるもの正体がオラクルなわけで、しかも、このデスゲームのフィールドにおいてはオラクルが神の如き絶対者なわけですから、私のような根性なしは絶対者に従う羊のようなもので、抵抗する姿勢を示すような精神的に強い人なら、逆に恐怖をより強く感じるかもしれません。何かを論理的に解き明かそうと試みるのではなく、夏の夜に読むホラーとしてオススメです。

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次に、宮部みゆきほか『堕ちる』澤村伊智ほか『潰える』(角川ホラー文庫)を読みました。角川ホラー文庫30周年を記念して、サブタイトルとして「最恐の書き下ろしアンソロジー」ということで編まれています。出版社によればシリーズでもう1冊あって、『慄く』というタイトルらしいのですが、なぜか、12月出版とされています。たぶん、誰か原稿が間に合わない作者がいたのではないか、と私は想像しています。間違っているかもしれません。ということで、著者と合わせて、収録されている短編を順に取り上げると次の通りです。
まず、『堕ちる』です。宮部みゆき「あなたを連れてゆく」は15年前の房総が舞台となります。小学校3年生男子である主人公が夏休みに1人で房総にある親戚の家に預けられます。そこの子であるアキラはすごい美少女で、とんでもないものが見えたりします。新名智「竜狩人に祝福を」では、物語はまるでゲームのように場合分けがなされて進行します。人間を支配する竜=ドラゴンに対抗する竜殺し=dragon slayerの活動を中心に進みますが、実は最後は実社会に戻って大事件が起こります。芦花公園「月は空洞地球は平面惑星ニビルのアヌンナキ」では、小学生が河童に出会って願いを叶えてもらうところから始まりますが、実は、地球は宇宙人の高度生命体に支配されていたりします。内藤了「函」では、一等地にありながら幽霊屋敷の建つ不動産を相続した主人公が、相続のために必要な手数料を捻出するのに、アパートを退去して敷金の返却で充当したため、その幽霊屋敷に移り住むハメになります。もちろん、幽霊屋敷の祟りはタップリあって、なかなか不動産は換金できません。三津田信三「湯の中の顔」では、作家が湯治場にやってきて、近在の農民とは明らかに異なる年配男性から怪談のような小説の基になりそうな民話のたぐいを聞き、男性の小屋を訪れると、怪異に追いかけられます。しかし、この怪異は越えられないものがありました。小池真理子「オンリー・ユー - かけがえのないあなた」では、故人の資産処分で別荘地のマンションを訪れた司法書士事務所の女性がマンション管理人室にいた管理人の後妻と連れ子に歓待されます。その後、管理人が自殺して再びそのマンションを訪れた際に、管理人家族に関してとんでもない真実を知ります。
次に、『潰える』です。澤村伊智「ココノエ南新町店の真実」では、東京多摩地区郊外にある心霊スーパーにオカルト雑誌の取材が入ります。9時の閉店後に店内を取材したところ、はい、人に害なす者がいました。阿泉来堂「ニンゲン柱」は、主人公が市役所を辞めて専業作家になったもののスランプで筆が進まず、北海道に取材に出かけたところ、有名ホラー作家といっしょに地方の行事に遭遇し、とてもサスペンスフルな展開となります。特に、ラストが怖かったです。鈴木光司「魂の飛翔」は、この著者の代表作であり、日本でもっとも有名なホラー小説のひとつである「リング」のシリーズの前日譚となります。山村貞子の腹違いの妹に当たる佐々木芳枝は光明教団の開祖となります。しかし、実験で貞子のビデオにつながる念写をしようとすると、さまざまな妨害が入ったりします。大正時代と「リング」の1990年前後を行ったり来たりします。原浩「828の1」では、主人公の母親が老人ホームで、特に意味もなく「828の1」とつぶやくようになり、その謎の解明のために菩提寺の住職などに当たりますが、強烈に死の予感がします。一穂ミチ「にえたかどうだか」では、5歳の女の子と母親が主人公なのですが、引越し先にはホームレスすれすれの格好の女性が同じ階の住人としていたり、また、親子ともに友人もできなかったのですが、たまたま、同じマンションの住民で同じ年齢の女の子と母親と親しくなります。しかし、スピーカーのような情報通の高齢女性から真実を知らされます。小野不由美「風来たりて」は、石碑のあった丘というか、塚に一戸建て5戸の住宅開発がなされます。しかし、その場所は過去には刑場があったりして祟りが感じられます。
いずれの短編ホラーも力作そろいです。この季節、私はホラーを読むことも多いのですが、海外のキングやクーンツを別にして、また、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」や「牡丹灯籠」に小泉八雲くらいまでの前近代の怪談も除いて、本邦に限定してのモダンホラー小説の中では、短編では小松左京「くだんのはは」や小林泰三「玩具修理者」、長編では小池真理子『墓地を見下ろす家』や鈴木光司『リング』とそのリリーズ、あるいは、貴志祐介『悪の教典』といったところを個人的に評価しています。幽霊や妖怪をはじめとする怪異な存在、あるいは、近代科学では解明できない超常現象、といったところも怖いのですが、私が一番怖いのは人間、それも頭のいい人間が残忍な行為に走ることです。その意味で、『悪の教典』はホントに怖いと思います。

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コメント

民主主義というのは、選ぶ民衆が賢くないと成り立ちませんが、これが難しい。目眩しのような総裁選でメディアは踊りつつありますが、今回はどうなんでしょうね。私はとても冷めた目で見ています。国防や経済は心配ですが、政権与党は痛い目に遭うべきかと思います。

投稿: kincyan | 2024年8月31日 (土) 17時41分

>kincyanさん
>
>民主主義というのは、選ぶ民衆が賢くないと成り立ちませんが、これが難しい。目眩しのような総裁選でメディアは踊りつつありますが、今回はどうなんでしょうね。私はとても冷めた目で見ています。国防や経済は心配ですが、政権与党は痛い目に遭うべきかと思います。

はい、その通りで、自民党総裁選挙は党員、というか、当所属の国会議員だけを対象にしているのですが、報道のレベルがひどいと感じています。

投稿: ポケモンおとうさん | 2024年9月 1日 (日) 13時39分

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